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インドのサドゥーはエグい、お釈迦様もこんなだった?
インドのサドゥー(行者)がクンブメーラで 全裸で集まってる写真を見たりしたんですが エグすぎて、日本人の私はドン引きしました・・・ こういうの↓ http://blog.goo.ne.jp/tama_1980/e/22fb40420f344ce1cc1d4d5099730ca1 http://www.nomachi.com/n-essay-red2.cfm?ItemID=511&OrderID=83 http://www.youtube.com/watch?v=VjWEEaQGqc4 2000年前のブッダもまさにこんな感じだったんでしょうか? このサドゥーの中の1人が仏教を開いたんだよと言われても キツすぎて、ちょっとついていけない感じがします。。
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所、時代が変われば常識も観念も、そして感情も大きく変わることも考慮に入れて対する事が必要かと存じます。 釈尊と釈尊の時代も今の日本の常識や観念、そして感情とはずいぶんあり方現れ方も違うかと存じます。 その外装を今の私達がどう思えるか。そして溶け込んだらまた自分も変化するでしょう。 クンバ・メラは話には聞いていますが、現場での経験はありません。もっと違和感とショックを受けるでしょう。 ただご参考に、修行者は自分と究極者に自己を装わない、一糸まとわない自己ということが基本要件です。 どのようにそうなるかは、難しい。このように全裸であれば、階級も貧富も、そして知識量とかも、出身も問題になりません。 そういう自分であるための一つのすごい手法でしょうが、私にはできません。 そして精神や心理的あり方としての一糸まとわぬ裸の自分も難しい生き方です。 概念、観念、言い訳、論理化などがない自己です。 聖書でも何か裸を恥じるようになったとか、蛇が智恵へと誘惑したとありますね。 古代がそのまま存続している、素朴そのもののインドですから。 釈尊も自己を裸にする為に、全てを捨てたでしょう。或いは衣類も。 現在のソフィスケイテェドされた文明人の理解の世界ではありませんね。 URLは勉強になりました。裸で生きてきたが、長らく文化社会に生存していて結局着物をきています。 東京、荒川河川敷の河童として成長しました。
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bougainvilleaさん。 最近、といってもかれこれ一ヶ月前。あるご縁から日本仏教文化協会のご出版の“現代語.仏教聖典〈第一輯釈尊編)”を途中まで拝読しております。 十数冊禅宗の啓蒙書は中学高校で独学読書していましたが。釈尊のお話や事跡などについては初めてです。 日本仏教文化協会とは渋谷区神泉にあるようですね。非常に古い電話番号です。 この地は私が46年勤務した大学の近所でもあり、且つ、友人の事業所もありましたのでほぼ毎日歩いていました。 今も縁のあるところですが、ついぞ存じ上げませんでした。 三田に近い財団法人仏教伝道協会とも違うようですね。 宗教団体かもしれません。 法華経からのお話ですね。 ここにやはり裸体の修行者のお話が出てまいります。 釈尊を離反する方ですね。 そして釈尊の反対教宣をする。 そして自ら墓穴に向かっていく。そういう話が多くのっています。 お話や事柄は、非常に納得しております。否定や反対、そして疑問はありません。 でも一定の教説を志向し、指向しているように思えます。 だからこそ、判りやすく説得効果的なんでしょう。 しかしそういうものは一定の行や教説のなかに入った人には非常にありがたい随喜のないようだと存じます。 そういう中に入るには、一定の心理的いきさつや観念、ないしは契機があるのですね。 私も今のSelf-Realization Fellowshipという教えにかかわってきているのは、そういう契機が遭ったからであり、人生の一定のいきさつからです。 そしてこの教えの本当の意味に対面してきた(とおもうのですが)のはそういう契機や人生での心の経緯がもう作用をしなくなってきてからです。 この戴いた“現代語.仏教聖典〈第一輯釈尊編)”のご教導もその通りだとはわかりますが、中に入ってそれなりの行などをしてないものには、参考と存在です。 裸の行者に関する批判や事跡についても、なるほど。とは存じますが、だからといってそれ以上ではないのですね。 でも仏教者の方の批判の対象としてある“裸の行者”がいたということですね。 実は私達、Self-Realization Fellowshipでも、クンバ・メラに集まる行者の多くを聖なる方々とはしていませんで、多大の批判をしていながら、その中に、この聖なる機会に聖なる人も来られているし、一定の仕事をする。 とされています。 そんな聖なる人が、必ずしも裸の行者ではないことはいうまでもありません。 そして聖なる人の中には、日常を裸で居られる方もいるそうです。 しかし日本人のこの心性と感性からは、仰せのようにエグイでしょう。 だからといってそのことで、本質の内容に目をふさぐ事も妥当とはいえないと存じます。 でも普通人には、特別の事情がないなら食べやすい食事は必要でしょうね。
お礼
たびたびの回答ありがとうございます。 神泉に近いと言えば駒場ですね。Self-Realization Fellowship という団体は 知らなかったのですが、パラマハンサ・ヨーガーナンダという名前は ヨガの本で見たことがあります。 現代の日本人にはヨガの教えとお釈迦様の仏教は ヨガは健康法やフィットネス、仏教はお葬式というように 結構距離があるように思います。
ANo.5です。お礼コメント有り難う。 仰せのことは一々頷けます。 時、所が隔絶している文化や宗教は日本語にしたりして、理解し、それがそのように向こうにあるかというと、全く異質でしょうし。 仰せのミルク粥のサドゥのことも向こうではそうでしょう。それはまた私達にはあまり迫真ないですね。 でも違う(私達が受け入れられる、納得できる)サドゥもいると存じます。 日本化した装いと内容の教えは大事ですね。日本の心性と文化は貴重です。
- miko-desi
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衣装をまとうのは暑さ寒さをしのぐための実用目的以外にも、 衣装によって役割や個性を示したり、異性を惹きつけるなどの手段として 人間にとっては生活の、身の一部(パーツ化)にしてしまえる。 その衣装が所有願望の対象となったならば目的と手段が逆転しているということになるでしょう。 サドゥーさんは自分ではないものの所有に伴う保存の義務は負わないと、 人間の総体を開示し、所有を励みにせずとも、ありのままの自分が目的足りえる。 いくら軽い存在であっても目的なのだ、 というニヒリズムな主張をなされているのだと思います。 ミイラになることを望んだ人がいて、そうなった。 その目的もいろいろ察するところがありますが、 我が固有の肉体だって自然から借用し生ある内に活用させていただいているもの。 ミイラさんは体を自然に還す道理はない、 寧ろ器物として所有させる願望があるのでしょう。 サドゥーさんとミイラさんのどちらが隷属趣味なのか、という疑問からでした。
お礼
回答ありがとうございます。 裸形は衣服への執着の放棄、ミイラは肉体への執着と いうことで比較されたんですね。
異文化というか、或いは同世代の日本人同士で尊敬する個人人の影響って大きかったですね。 受け入れ方、影響され方って非常に大切ですね。 そして受け入れ、影響されるに当たって、どう理解し受け取っているかはまったく当方の仕方・方法でしかなですね。 そこに客観性や間主観性や或いは、基準などは期待もできません。 そこに本当は、なんていうものはなく、全部紡ぎと編集構成といっても言い過ぎではないでしょう。 偉い宗祖たちはそれなりに真実に迫る、迫力と自分性があったでしょうから、決して勝手な紡ぎや歪曲ではなくても、消化吸収にともなる自己化は遭ったと存じます。 そして人に伝えるに当たっては、またフィルターが必要であったのでしょうね。 個人と画き把持するその世界は個人的であり、そして大きく見ると結局そんなに変わっていないという事情は人間という存在の全体性を推測させます。 つまり大きな大洋とそれぞれ違いそして同じなる波、波なんですね。 それをある意識が照らして、意識化させている。そしてそこに自分という個別があるかのように思わせている。 唯一意識の面白い策略ですね。 私はパラマハンサ・ヨガナンダというヨガの大師のSelf-Realization Fellowshipでまだ数十年ですが勉強して、判ってきました。
お礼
このサドゥーの中の1人が歩いてきて、「おれは6年間あそこの禿山で修行したあと、 女の子の作ったミルク粥を飲んで、体力回復してから瞑想したら悟ったよ」なんて 話しかけてきても、迫真性があってもほとんど受け入れられないと思います。 古代インドは現代日本人にとって、時間的にも空間的にも 2ステップ以上離れていて相当な隔たりがあります。 時間: 古代→中世→近代→現代 空間: インド→中国→日本 インド本場のカレーだと形而上抽象哲理ゴリゴリで骨ばかりで食べにくいので、 日本人向けに慈悲や情のコクやうまみを追加して美味しく頂けるのでは ないかと。。
- miko-desi
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一切の衣装を身に付けない「人間らしからず」なところとは異様でも、 何らかの関係者の集いと受け止められる「人間らしさ」ですね。 群れの中では義務感や使命感が観念として立ち上るからです。 単独で厳重に保管されているミイラを見るより異様に映るかもしれませんが、 彼らを保存させようとする働きは彼らの意志と生命力中にあるあけで、 周りは常に同情してくれていない。それは自然も同じ。 繁殖能力も生理反応もないくせに数千年も保存されてるミイラこそ奇人変人です?
お礼
裸形の人間がゾロゾロと歩いている姿は異様です ここに毛無しチンパンジーの画像がありますが あまり大差ないかも? http://www.dailymail.co.uk/news/article-1322472/Guru-chimp-suffering-alopecia-looks-human-star-zoo-attraction.html ミイラの話がどこから来たのかわかりませんが 空海のことでしょうか?
ひきました?この程度で? 現地に行けばもっと面白いもの見られますよ。 >お釈迦様もこんなだった? 似たようなものでしょう。 もっともお釈迦様はもとはといえば王族の出身ですから、 もしかしたら、もっと優雅ないでたちだったかも。
お礼
大いにドン引きしました。 現地に行くまでもなく写真だけで十分です。 今のインドのサドゥーにも、昔は身分が高かった人とか 混じってるんでしょうかね???
- バグース(@bagus3)
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サドゥーはヒンドゥー教徒です 仏陀は仏教を始めた人です。
お礼
回答ありがとうございます。 仏教もヒンズー教的な環境から出て来た宗教で 今のインド人の沐浴と同じなんじゃないの?というのが 質問の趣旨でした。
お礼
ダンマパダなどの原始仏典を読むと、たしかにこのインドのサドゥーの世界なんですよね。。 こんな感じで托鉢に回って、「アーナンダよ、云々」とかやってたんでしょうね。 やっぱり現代日本人が古代インド人の宗教をそのまま食べると エグかったり、生煮えだったりして、あまり口に合わないかもしれませんね・・・ あまりに時代と場所が違いすぎて。 日本人に合うように、親鸞や日蓮などの先人が努力して仏法を食べやすくしてくれたと 考えることにしました。