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お釈迦様なら何と言うのでしょうか?
私は私の生が憎い。 何故なら私は、強姦された母が中絶する事もできず、産まれた子供だから。 この憎しみがいかんともし難い。
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釈迦です(笑)。わたしはご存じのように悟りました。何を。 あなた方凡人は、物事を自分を通して見ています。自分に近いことは重要度が高く、遠いことは重要度が低いですよね。いわば自分関数に“事実”を代入して、自分なりの世界(=“解釈”)で生きているのです。さらに、自分で「能動的に」考えて“解釈”していると信じています。でも、それは嘘。悟りを開いた私からすれば、すっかりお見通し。ただの反応にしか見えません。私の悟りとは、自分関数ではなく、他人の視点、虫の視点、岩の視点…とすべての視点に同時に立つことができる、いわば自然と一体となる境地なのです。レッテルではなく、刻々と変化する自然そのものと一体なのです。言葉に出せば、レッテルを貼ることになるので言えませんが^^;。 あなた方は「あべこべの世界」で生きています。人生には意味があると思い込んでいるから、意味がないと嘆いたりむなしくなったりするのです。人生は思い通りになるべきだと無意識に思っているから苦悩するのです。因果関係の理解があべこべ。貴方が考えている上は下で、表は裏で、主は従で、とにかく「あべこべ」な世界観で宇宙遊泳のように生きています。「いかんともしがたい」って、他人事のような言い方をしてるけど、貴方がそうしているだけなのです。そうでなくて誰のせいだと言うのか。
- kandglose
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No.2,7です。早速のご返答、ありがとうございます。 質問者さんは、お母様や妹さんのご無念に真正面から受け止め、それゆえに >ただ最近、もしも妹が自殺していなかったら、もしも母が自殺していなかったら、 >私は今の幸せを手に入れていたのかと考えるようになりました。 >特に、妹がもし生きていたなら、私は今の妻と出会えていただろうかと考えるようになったのです。 >そうすると今の幸せな生活が彼女の死によってもたらされたものと思えるようになり、 >ひどく虚しく、理由もなく最近は心が荒んでいくのが分かりました。 このように、気持ちが挫けていらっしゃる状況にあったのですね。 …なおのこと、批判を加えるなど思いもよりませんし、逆に守り、救い取る気持ちになります。 質問者さんがここに来られて、質問を立ち上げられたのも、「お釈迦様の指」の後押しが あったように、心からそう思います。 http://www.kyoto-be.ne.jp/seikadai-es/pdf-tayori/H22-1101.pdf 上記URLから、「お釈迦様の指」の抜粋です。 ―ある若い村人が荷車を引いているときに水たまりに入り込んでしまいました。 その水たまりから抜け出すために一生懸命、荷車を引くのですが、なかなかうまくは行きません。 何度も何度も繰り返し、努力をしますが、やはりその村人の力では、無理なようです。 そんな様子を天から見ていたお釈迦様は、その荷車の後ろにそっと指を添えたそうです。 すると荷車は水たまりから抜け出し、村人は喜んで村へ帰って行ったそうです。 もちろん、お釈迦様の助けで荷車が動いたことには気付かず、 自分の力で水たまりを抜け出したと思って・・・。― 最後に、お釈迦様の教えにある「仏の心は大慈悲である」を抜粋し、私も肝に銘じて 回答を締めたいと思います。 http://www.anjyuji.net/bututa1.html ―仏の心とは大慈悲である。あらゆる手だてによって、すべての人びとを救う大慈の心、 人とともに病み、人とともに悩む大悲の心である。 ちょうど子を思う母のように、しばらくの間も捨て去ることなく、守り、育て、 救い取るのが仏の心である。 「おまえの悩みはわたしの悩み、おまえの楽しみはわたしの楽しみ。」と、 かたときも捨てることがない。 仏の大悲は人によって起こり、この大悲に触れて信ずる心が生まれ、 信ずる心によってさとりが得られる。 それは、子を愛することによって母であることを自覚し、母の心に触れて 子の心が安らかとなるようなものである。 ところが、人びとはこの仏の心を知らず、その無知からとらわれを起こして苦しみ、 煩悩のままにふるまって悩む。 罪業の重荷を負って、あえぎつつ、迷いの山から山を駆けめぐる。― 質問者さんには、深い闇の悩みや煩悶から克服され、今いるご家族を慈しみ、守り、育て、 家族の皆さんが誇りを持てるような生き様を実践して亡きお母様や妹さんのご無念をも雪(そそ)ぎ 救い取ることを切に祈念しております。 高野山にてお払いを受けるもよし、導師の講話を聴くもよし、禅寺で一泊二日、座禅を組み 精進料理で心を清めるもよし、かと思います。 私も一回答者として、「おまえの悩みはわたしの悩み、おまえの楽しみはわたしの楽しみ。」の 姿勢で、今後もあらゆる質問者さんの悩みに向かっていきたいと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 たくさんのお釈迦様の説法を教えて頂き、また親身にご相談に乗って頂きありがとうございました。こうしてお話を聞いて頂いただけでも、だいぶ胸のモヤモヤが取れた気がします。ストレスの溜め込みはやはり良くないですね。ありがとうございました。
- anndoromeda
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NO1です。 人はこの世に学びに来た・・と、師から聞きました。 最初は何を言われているのか分かりませんでした。 が、何度も何度も聞く内に・・少しずつですが・・ さて、何を学ぶのかが問題ですね。 それは、「自分」を学ぶです。 自分・・自分とは何者なのか、あるいは自分とは・・などと考えた事はありますか? 自分、知っているようで、殆ど自分の事を知ってはいません。 その、自分を知らないが、多くの悩み苦しみの原因でもある・・かも知れません。 また、他人を理解できないのも、自分を知らないから・・かも知れません。 自分・・名前でもないです。 また、どこそこの産まれ・・誰それも息子、あるいは娘でもない? 辞書を引くなども一法かも。 知らないから、知りたい。 これが全ての出発点でもありますね。 自分の事をろくに知りもしないで、生きて来たこれまでの人生。 知らないままで、これまで通りに、のほほんと生きて行けるのか? 深い闇とか書かれていましたが、それがどの様なものかは想像もできませんが、 だから何?とも感じます。 その、あなたが思う、深い闇・・を生じさせているものは何? と言う話です。
お礼
ご回答ありがとうございました。 おっしゃられるように、私は自分を理解できていないのだと思います。意識下での自分はある程度客観視できるので、悪い面についても、ある程度自覚はあるつもりです。ただ、自分の悪い面がどこから来るのかというのは今まで深く考えた事がなかった気がします。深い闇に繋がるのかは分かりませんが、もう少し自分の意識のルーツを考えようと思います。
何かしらのヒントみたいなものが見つかったとのことで、回答者として報われる言葉です 短所も見方を変えると長所となる場合があります、恐ろしい妄想さえ紙に書いてみる、冷静なときもう一度読むことで自分が求めていることが見えてきたりしますし、小説としてのアイデアになるかもしれないですし 悩みが変わらなくてもそれを生かすことができるかという見方を最後に残しておきます。 それでは
お礼
ありがとうございます。妄想はかき消したいです。観念みたいな形でなかなか消えてくれない時がありますが。とりあえず紙に書くというのはすごく冷静になれる気もしますが、少し怖いのでやめておきます。 私が今のような心境を克服出来た時、同じような悩みをもつ人がいたらその方法を教えてあげようと思います。
- kandglose
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No.2です。No.1さんにある補足を読みました。 >質問回答を締め切ると皆様の批判が聞こえなくなる(そんなことないのでしょうか?) >のでしばらくは開けておきます。 何を仰いますか。身内を失い苦界の真っただ中にある質問者さんを責めたりはしません。 貴方が荒んだり、何かあったりしたら、お母様や妹さんがますます浮かばれません。 こんなときこそ、お釈迦様はこうおっしゃるでしょう。 ―比丘たちよ、瞑想しなさい。怠るなかれ。心を汚れで満たしてはならない。嘆き悲しむな。 生は問題に満ち、苦悩に満ち、痛みに満ち、苦に満ちている― あなたが為すべきは、この苦界の中で心を清め、正すことによってその心の導くままに 与えられた大きな試練を乗り越え、貴方の家族、とりわけ子供さんを物心共々豊かさを 実感できるようにするばかりでなく、その逞しく、信念ある生き様を示すことによって 子供さんが誇りに感じ、後についてくるように導いてあげることです。 そして他の生物でない、人として生きていることを心から有難く思い、前向きに生きて 心清冽にしてお母様や妹さんの菩提を弔って下さい。 それこそがお母様や妹さんの魂を安寧に導き、同時に家族の皆さんが質問者さんの家族で あることに誇りを持つはずだと、私は固く信じています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 本当に人の世は苦に満ちていますね。ある日突然姿を消した我が子を一生探す目に会う両親、日に日に筋肉が退化していく子をもつ親。人の数だけ苦しみがあるようにも思えます。 そんな環境もあってでしょうか、普段の私は天真爛漫で悩みなどないように世間では写っているのでしょうが、深い闇が存在します。時々自分でも怖いような妄想に駆られたりします。でも普段の生活でそれは消えますし、何でこんな事を考えるんだという自分は常にいます。一度高野山にでも行ってお払いをしてもらった方がいいのかとも思います。 瞑想のやり方も知りませんが、この邪気を払うのもまた試練なのでしょう。息子に恥じない生き方ができるよう精進していきます。 ありがとうございました。
- tohimihu
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そんなの関係ねえ
お礼
ご回答ありがとうございます。 質問は仮定の話でした。申し訳ございません。本当の話はNo.1さんの補足に書きました。
No.4です 決して憎しみを人生のテーマにし〝ほしくない〝と願います。 脱字がありましたすみませんm(_ _)m
はじめまして。 30代前半の小僧である私なんかがいくら質問者様の憎しみを理解しようとも理解し得ないことであることは重々承知した上で、私が思うことを書いてみます。 決して答えにもならないと思いますが、質問者様もどうか答えにならないと思って読みにくい文をご覧頂けると幸いです。 今現在生活していて直接的にこの事実が原因で問題になることはないと思います、つまり睡眠、食事、仕事、生きていく上で支障はないと思います、ただ心に憎しみがあると表情が強張ったりして人に好かれにくい、物事を悲観的に捉えてしまうことで積極的に行動できず諸々の悩みを抱えてしまう、といった間接的な原因にはなってしまいます。 事実が直接、生活に支障を来すことはない訳です、過去は変えられないし、変わらなくても生きていけるのです、憎しみこそが問題 憎しみがあってもそれを無理に消そうとしなくても生きてはいけるのでそれはそれでもいいと思うんです、お風呂に入れば気持ちいいし、性行為をすれば気持ちいいし、友人と触れ合えば楽しい、誰かの役に立てれば嬉しい、憎しみがあっても楽しめる、喜びや楽しかったことがあったら是非そうやって憎しみと結びつけて下さい、逆に悲しいことや怒りがあったときに結びつけないで下さい 決して憎しみを人生のテーマのようにと願います。 答えにもならないのに長々と申し訳ありません、最後に楽しかったことなどあったら昔の自分に手紙を書いてみる、毎日寝る前に思ってなくても「まぁいっか」と思うことで潜在意識に癖をつけていくのもいいかもしれません。 お釈迦様は何て言うのでしょうか? …無言。 ある意味答えなのかもしれません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 質問は仮定の話でした。申し訳ございません。本当の話はNo.1さんの補足に書きました。 憎しみ、こそないですが、真の私は虚しさ、心の荒みに悩まされる事があります。 過去は変えられない。現実を受け入れ、楽しい方へ常に気持ちを持っていく意識が 大切ですね。
やりたいことをやりなさい かな。
お礼
ご回答ありがとうございます。 質問は仮定の話でした。申し訳ございません。本当の話はNo.1さんの補足に書きました。
- kandglose
- ベストアンサー率90% (568/626)
はじめまして。私はお釈迦様と違い底の浅い人間なので、 お釈迦様の言葉をかいつまむようなことしかできませんが、ご容赦下さい。 まず、質問者さんの苦しみは逃れようがないものであり、察するに余りあります。 しかしながら私は思うのですが、親が悪鬼極まりないような性格の人間でも 取り巻く環境により子供の性格が、慈愛に満ちたものになるケースはごまんとあります。 こういうケースを見るたび、人の性格とは遺伝するものではなく、その人それぞれの心掛けで 立派にも堕落したものにもなり、親子でも似ても似つかないものになるものだと私は固く信じ 伝えたいと心から願うものです。 その上で、お釈迦様の教えを二つの故事を挙げて引用・抜粋したいと思います。 【参考文献】 http://homepage3.nifty.com/sukha/Gunaratana_diy_.html 一つは上記URLにある「自ら実践する」です。引用ですが、お釈迦様は生きている頃 ―比丘たちよ、瞑想しなさい。怠るなかれ。心を汚れで満たしてはならない。嘆き悲しむな。 生は問題に満ち、苦悩に満ち、痛みに満ち、苦に満ちている― と述べられています。 その言葉の意味は、 「嘆いたり、同じ過ちを繰り返さないようにしてください。私たちは現実から逃げることは できません。人生は薔薇のように美しいものではないのです。浮き沈みがあり、至るところに 凹凸があります。こうしたことが私たちが日々直面している現実なのです。」 ということです。(もちろん、ここに書き込んでいる私や、他の回答者さんも皆そうです。) 私たちは問題は外の世界にあるとか、問題なんかないとか他のことに目をそらすか、 問題を無視し逃げるかのいずれかに走り一時的な慰めや安堵を得ようとしますが それでは問題の根本的解決にはつながらず、むしろ問題や苦しみを生み出している 自らの心を清め、その心に方向づけられ、導かれ、行為に移し、注意深く問題に直面し 対処することで問題を本質的に解決させよという意図が込められているのです。 世知辛く益々取り巻く環境が日々厳しくなっている昨今、出自は関係なく、 いかに今の時代を逞しく乗り越えていくかに、人間の価値があると強く思います。 そういう生きる知恵や実力を質問者さんが付け、将来敵対するであろう人物や勢力に対し グウの音も出せない程の実力差を持って世を渡り切り、将来質問者さんを支えるであろう 新しい家族である伴侶や子女をしっかり養い、満足な生活を送れるようにすることで 周囲から一目置かれるような人物に、是非ともなって下さい。 そしてもう一つ、「盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえ」と挙げたいと思います。 【参考文献】 http://magazine.gow.asia/life/column_details.php?column_uid=00001145 これもこのURLからの抜粋になりますが、 ―ある時、お釈迦様は弟子に対して「人間に生まれてきたことをどのように思っているか?」 と尋ねました。 すると弟子は「大変喜んでいます」と答えました。 お釈迦様が重ねて「では、どれくらい喜んでいるか?」と尋ねると、 弟子は返答に困ってしまいました。 そこでお釈迦様はひとつのたとえ話をしました。 「広大な海の底には、一匹の目の見えない亀が存在しています。その亀は百年に一度、海面に 顔を出します。同じく、その広大な海には、真ん中に小さな穴の開いた丸太が浮かんでいます」 ここでお釈迦様は再び弟子に尋ねました。 「百年に一度、目の見えない亀が海面に顔を出したとき、その浮いている丸太の穴に 頭を入れる可能性はあるか?」 弟子は答えに困りました。絶対にないとは言い切れないが、あまりにも確率が低いからです。 「数億の生命がいるなかで、私たちが人間に生まれることは、目の見えない亀が丸太の穴に 頭を入れることが有るよりも難しいこと……有り難いことなんですよ」と、 お釈迦様が説いたのです。 この『有り難い』が「ありがとう」の由来となっていると言い伝えられています。― 私たちは人間として生まれ、他の生物と等しく、苦界の中を必死で生きています。 幸い、私たちには「思考する」能力を与えられ、直面する諸問題に真正面から立ち向かい 乗り越えられるため、その能力を活用できる立場にあります。 もし他の「思考する」能力を持たない生物として生まれたならば、ただひたすら運命に流され ある者は捕食され、ある者は過酷な環境を乗り越えられず行き倒れになったり、またある者は 他ならぬ人間に目の敵にされて叩き潰されたり、大量虐殺されたり、公害による有害物質で 奇形を生じ生殖能力を失って個体数を減らすような理不尽を、黙って受け入れねばなりません。 人間はそれに対し、思考し抵抗する能力を有している以上、人間として生まれたことを 有難く思わねば罰が当たるでしょう。(只私も、時々その有難みを忘れたりはしますが(汗)。) 逞しく、1人の人間として、この時代を生き抜いて下さい。応援しています。
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お礼
ありがとうございます。 すみません、さすがにそこまで悟れないです。でもお釈迦様目線で言えばそうなるんですね。この日常の主体的体験からの超越は、まさに仏になるということなのかも知れませんが、私はすべての煩悩を捨て去るでなく、馬鹿な人間でもいたいのです。馬鹿な人間には悩みがつきものという事なのでしょうが・・・