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物心がつくとは どういうことか? (存在論)

 わたしは 世界の中で  おのれの身の周りに物心という線を引いて  世界からおのれを切り取ったのだろうか。  もし切り取ったのだとしたら  元は つながっていたのか。  切り取ったあと わたしと世界とは  もう縁が切れたのか。  物心とは どういうことか。  意識か。  ことばか。  感性も理性も そこにつらなっているのか。  あるいは もともと  世界はわたしとは仲がわるかったのか。  切り取るべくして 切り出されたのか。  ひとは誰でもそうなのか。  そのとき われとなんぢとは  物心を 分かち合っているのか。  いやいや ひととひととも  もともと仲がわるかったのか。  ことばは はさみか。糊か。  ことば はさみか? 糊か?  情感は?  知性は?  あるいはただのズレか?  もともと仲が良かったが  ズレが出来たということか?  ただそれだけのことか?   世界という生命は  すべてをつなげているのか?  それにわれもなんぢも  つらなっているのか?  それとも もともと  互いにお呼びでないのか?

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回答No.6

 物心がつくとは煩悩の始まり。  人の成長は欲望と共に。  欲望が煩悩を成長させ、人を成人へと成型する。  成人は煩悩の塊。  成長期には“世界”と線を引き、切り離し、己を浮かび上がらせる。  そして或る時、人は煩悩による心の曇りに気付きそれを拭おうとする。  なぜ拭おうとするのか。不思議だ。    やはり、気づきにくいが“つらなっている”からではないだろうか。  “つらなっている”からこそ自然と拭おうとするのだ。  子は親を忘れていても、親はいつも子の事を気遣っているもの。  その親の呼びかけに気付く子は親の元に駆け寄り安心を手にいれる。  ☆ 物心がつくとは、成長に必要な煩悩の種の発芽。  こんなことを考えました。  

bragelonne
質問者

お礼

 ふむふむ。おもしろそうですね。  ご回答をありがとうございます。  ★ 物心がつくとは、成長に必要な煩悩の種の発芽。  ☆ 質問者は ここで(この質問では) 跳躍者――つまりもっと言えば飛躍者――となります。  ○ ものごころがつくその同じ時点で 煩悩ないし無明ないし生存欲を持つと同時に 共生の種をも持ったか? さらには みづからの魂にその共生の種をみづからが植えたか?  ★ ~~~  やはり、気づきにくいが“つらなっている”からではないだろうか。  “つらなっている”からこそ自然と〔おのれの《心の曇り》を〕拭おうとするのだ。  ~~~~~  ☆ というふうに――成長期の或るときに―― 行動を始めるのは もともと 物心がついたときにその種を植えていたからか?  ★ ~~~  成長期には“世界”と線を引き、切り離し、己を浮かび上がらせる。  そして或る時、人は煩悩による心の曇りに気付きそれを拭おうとする。  ~~~~~  ☆ つまりは この初めの線引きそのことにおいて人は 世界の中から浮かび上がらせたおのれと同じ存在を ほかにも見止めていたのか? 共生の相手だと知ったのか?  世界という地に線を引いて――つまりは ものごころをつかせて――おのれを図として浮かび上がらせたそのことは 切り離したと同時に つながっていた。もしくは 切り離し行為そのものにおいて つながりを確認したのか?  ★ 物心がつくとは煩悩の始まり。  ☆ と同時に その無明を明知へと転換するむしろヰルスを仕込んでおいたのか?    人は ものごころがついたとき おのれを世界からほんとうに切り離したのか?  むしろつながっていることを確認しただけなのではないか?  世界の中に位置づけられているおのれを見たとき 母や父や 婆や爺を見て すでにおのれの子や孫をも見たのだろうか? これらを見たとき 共生を始めていたのか?    地と図とであるなら そして人はそれぞれが自分としての図であるのなら みんな地続きであるのではないか?   そうなると では 人は  ○ 人は おのれがこの世界‐内‐存在(《 In-der-Welt-Sein 》)であることを どこで・どうして忘れるのか?  という主題に変わって行くであろうか?

その他の回答 (21)

回答No.1

脳は、その発達の初期において、環境からの特定のパターン に対して、条件反射的に特定の行動をとらせるものであった。 その「特定のパターン」をもたらす感覚器官が複数になり、 1つの対象からの複数の感覚器官の刺激の相関の蓄積に於て、 次の感受における先行感覚(光や音など情報性の高い)に 対して、それ以外の直接的・生理的感受の記憶が励起され、 “そこに行った時に起きる事”=予測としての空間的広がりが 感じられるようになる。 その過程において、最初は条件反射的に環境と一体であった 精神活動が、徐々に客観的対象として分離され、その主体と しての自我の目覚め=自己存在の客観視も可能になる。 (それは「事実を知る」というような本質への接近ではなく、 無=無限不確定性の潜在としての認識可能性における、 プランク定数の収束(=物体収縮=宇宙膨張)の時系列化に よる変化を原点化した感受表面(現在=光速)からの自我 仮説(経験=過去=超光速=時間軸)と時空仮説(予測=未来 =光速下=時間軸)の相補分化として、その虚構の時間軸へ の無限不確定性の相補分化における、経験的な階層現象 表面的定性化=原理的確定を伴わない“いい加減な”捉え 方による有限性の派生によるものである)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (1)  ★ 無=無限不確定性の潜在としての認識可能性における  ☆ という・言うとすればその舞台は 《われ》と地続きなのでしょうか?  のちに切り出されて来る《われ》と 時空間として なおも 連続していましょうか?  (2)  連続しているけれども 人には・われには 分からないということでしょうか?  ★ 原理的確定を伴わない“いい加減な”捉え方  ☆ しか 人間は ものごころがついたあとは 出来ないということでしょうか?  (3)   けれども もしそうだとしても――つまりは もう環境世界との連続性は断たれたとしても―― では何故 もとは 地続きだったと分かるのでしょうか? 脳細胞とそのはたらきから分かりましょうか?  (3-1)  ★ 最初は条件反射的に環境と一体であった精神活動  ☆ これは 地続きであり連続していたということでしょうか? そこまでは言えないのでしょうか?  (4)  ★ 徐々に客観的対象として分離され、その主体としての自我の目覚め=自己存在の客観視も可能になる。  ☆ これは 理論的に言っているのみであって 実際には ここに言うところの  ★ 客観的対象〔として分離され〕 / 〔自己存在の〕客観視〔も可能になる〕  ☆ は 言わばただ類型的に(近似値としてのように)そうだということでしょうか? それとも 実際にそういう能力が 人間に開発されうるという意味でしょうか?

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