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物心がつくとは どういうことか? (存在論)

 わたしは 世界の中で  おのれの身の周りに物心という線を引いて  世界からおのれを切り取ったのだろうか。  もし切り取ったのだとしたら  元は つながっていたのか。  切り取ったあと わたしと世界とは  もう縁が切れたのか。  物心とは どういうことか。  意識か。  ことばか。  感性も理性も そこにつらなっているのか。  あるいは もともと  世界はわたしとは仲がわるかったのか。  切り取るべくして 切り出されたのか。  ひとは誰でもそうなのか。  そのとき われとなんぢとは  物心を 分かち合っているのか。  いやいや ひととひととも  もともと仲がわるかったのか。  ことばは はさみか。糊か。  ことば はさみか? 糊か?  情感は?  知性は?  あるいはただのズレか?  もともと仲が良かったが  ズレが出来たということか?  ただそれだけのことか?   世界という生命は  すべてをつなげているのか?  それにわれもなんぢも  つらなっているのか?  それとも もともと  互いにお呼びでないのか?

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回答No.6

 物心がつくとは煩悩の始まり。  人の成長は欲望と共に。  欲望が煩悩を成長させ、人を成人へと成型する。  成人は煩悩の塊。  成長期には“世界”と線を引き、切り離し、己を浮かび上がらせる。  そして或る時、人は煩悩による心の曇りに気付きそれを拭おうとする。  なぜ拭おうとするのか。不思議だ。    やはり、気づきにくいが“つらなっている”からではないだろうか。  “つらなっている”からこそ自然と拭おうとするのだ。  子は親を忘れていても、親はいつも子の事を気遣っているもの。  その親の呼びかけに気付く子は親の元に駆け寄り安心を手にいれる。  ☆ 物心がつくとは、成長に必要な煩悩の種の発芽。  こんなことを考えました。  

bragelonne
質問者

お礼

 ふむふむ。おもしろそうですね。  ご回答をありがとうございます。  ★ 物心がつくとは、成長に必要な煩悩の種の発芽。  ☆ 質問者は ここで(この質問では) 跳躍者――つまりもっと言えば飛躍者――となります。  ○ ものごころがつくその同じ時点で 煩悩ないし無明ないし生存欲を持つと同時に 共生の種をも持ったか? さらには みづからの魂にその共生の種をみづからが植えたか?  ★ ~~~  やはり、気づきにくいが“つらなっている”からではないだろうか。  “つらなっている”からこそ自然と〔おのれの《心の曇り》を〕拭おうとするのだ。  ~~~~~  ☆ というふうに――成長期の或るときに―― 行動を始めるのは もともと 物心がついたときにその種を植えていたからか?  ★ ~~~  成長期には“世界”と線を引き、切り離し、己を浮かび上がらせる。  そして或る時、人は煩悩による心の曇りに気付きそれを拭おうとする。  ~~~~~  ☆ つまりは この初めの線引きそのことにおいて人は 世界の中から浮かび上がらせたおのれと同じ存在を ほかにも見止めていたのか? 共生の相手だと知ったのか?  世界という地に線を引いて――つまりは ものごころをつかせて――おのれを図として浮かび上がらせたそのことは 切り離したと同時に つながっていた。もしくは 切り離し行為そのものにおいて つながりを確認したのか?  ★ 物心がつくとは煩悩の始まり。  ☆ と同時に その無明を明知へと転換するむしろヰルスを仕込んでおいたのか?    人は ものごころがついたとき おのれを世界からほんとうに切り離したのか?  むしろつながっていることを確認しただけなのではないか?  世界の中に位置づけられているおのれを見たとき 母や父や 婆や爺を見て すでにおのれの子や孫をも見たのだろうか? これらを見たとき 共生を始めていたのか?    地と図とであるなら そして人はそれぞれが自分としての図であるのなら みんな地続きであるのではないか?   そうなると では 人は  ○ 人は おのれがこの世界‐内‐存在(《 In-der-Welt-Sein 》)であることを どこで・どうして忘れるのか?  という主題に変わって行くであろうか?

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noname#156094
noname#156094
回答No.12

訂正します。 天動説と地動説を取り違えてしまいました。 お詫びいたします。

bragelonne
質問者

お礼

 了解しました。

noname#156094
noname#156094
回答No.11

お手やわらかなお礼ありがとうございました。 Bさんならではのもっと厳しい反論があるものと思っていました。 十二の見方からの捉え方など固定的すぎるといったご意見があるものと思っていたのですが 味気ない・・・という表現が示されているところに Bさんの持つ「共生的感覚」を多面的に捉えようとする姿勢が伺えるように思います。 人の一生を十二に分けた見方からすれば、確かにバッサリと切ったような答えとなってしまいます。 そしてそれは、ただの引用でしかない事も確かなのです。 仮の答えは、きれいであっても、仮りである以上は本当ではないのでしょう。 十二の見方を否定できない一つの捉え方として提示した、というようにお受け止めください。 最後に私なりの考えを述べておきたいと思います。 体験に基づいた感性的な答えですので、どちらかというと曖昧な内容に過ぎないものですが・・・ 十二の見方が天動説ならば、こちらは幼い地動説みたいなものです。 物心がつく、という時期は私にとって忘れ難い記憶と共にあります。 百姓をしていた両親や兄弟と一緒に、田んぼや畑で過ごした思い出です。 牛の引く荷車に乗って、草の生えた野良道を進んでいった光景は今も明瞭です。 草刈り籠の中に入っていて感じた草の臭いも確かです。 土の臭いも、風の冷たさもありました。 青麦の畑の上には雲雀がさえずり、降りてくれば、後を追って巣を探しました。 小川で洗い物をする母を待っている間に、水の中に入って蜆取りをしました。 ・・・・・・ 常に自然と両親との中で過ごした時期です。 たぶん私の人生の中で一番幸せだったのではないかと思います。 容量無制限の記憶媒体に次々と焼き付けられていった光景は、今も検索可能です。 そこには両親に見守られながら、見ることのできた世界がありました。 自由に見ることができて、いつも新鮮でした。 小さな感覚を思いっきり広げて、この世界を確かめようとしていました。 何も分からない中で、両親が見せてくれた宝物の世界でした。 ・・・・・・ 詩を書いても答えにはなりませんが >わたしは 世界の中で  おのれの身の周りに物心という線を引いて  世界からおのれを切り取ったのだろうか。 物心がつく、というのは、この世界を確かめようとしていたのだと思います。 自分という存在の不思議さに気付く以前に、ただひたすらに小さな感覚でもって、この世界の謎解きをしていたように思います。 その結果はBさんの仰ることでもあるように思いますが、その過程と結果を明らかに区別できるのでしょうか・・・ 人の一生の中の一つの時期における精神的結果としては正しい捉え方のようにも思えますが 私の体験からは、自我の芽生え以前に、この世界の印象が余りにも盛り沢山であった、としか言いようがないのです。 そうした見方からすれば、私にとっての自我の芽生えとは、大変に遅いものでした。 それが良かったのか、悪かったかは分かりませんが・・・ 以上ですが 私にとって、物心がつくというのは、ただひたすらに知るということだったように思います。 「切り取った」確定は、自分以外の人との世界の違いを知ることによってもたらされたように思います。 その確定はすべてを共有することはないという悲しみをもたらしました。 自然と両親の姿が私の心の原風景であり、物心がつく時期でした。 今もその風景は心の中に大切にしまってあります。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは へたのすけさん。ご回答をありがとうございます。  今回の質問は 考えてみれば 《世界とわれを 地と図とにそれぞれ当てて捉えた》ところからすれば そこに《切りと結び》とがあると考えられるのは当然と言えば当然である。そんなことを問うていたようでもあります。  その点 みなさんに対して 申し訳なかったように思います。  断片的な話になるかも知れませんが:  ★ 私にとって、物心がつくというのは、ただひたすらに知るということだったように思います。  ☆ そうなんですか。このように伺うと 或る一定の期間が 物心のつく時期だったというふうにも感じ取れてしまいます。そういう場合もあるのですね。    ★ ~~~  「切り取った」確定は、自分以外の人との世界の違いを知ることによってもたらされたように思います。  その確定はすべてを共有することはないという悲しみをもたらしました。  自然と両親の姿が私の心の原風景であり、物心がつく時期でした。  今もその風景は心の中に大切にしまってあります。  ~~~~~~  ☆ これも わたしの体験とは違っているので参考にしたいと思うところです。つまり 原風景となる風景が やはり一定の時間と期間にわたっているということのようですね。  わたしの場合は 幼稚園に上がるのを前にして 道端で近所の仲間と話をしているそのときに あぁ ぼくはこの友だちらといまここにいるのだなと思ったときが 自分の周りに線を引いた瞬間です。(きわめて遅い目覚めでした)。  それ以前のことは 断片的に一つひとつの光景をおぼえているというふうに記憶が成り立っています。それとしては確かに身内の者らといるときやら 一人で畑の中に立っているときやらの時間です。意味合いとしては中立のような感覚です。特になつかしいということでもないかも知れません。  で ここで違いが大きいと思ったことは 次です。  ★ 「切り取った」確定は、自分以外の人との世界の違いを知ることによってもたらされたように思います。  ☆ わたしの場合は 仲間たちと一緒にいる場面から 自分が《切り取れて来た》のが 物心がついた瞬間です。そのあと ほかの人との違いを知ったのです。順序がぎゃくのように思われ そうだとすれば 大きな違いであるようにも感じます。  そうして   ★ その確定はすべてを共有することはないという悲しみをもたらしました。  ☆ こんなことまでは とてもとても 何も感じませんでした。《あぁ 人と人とは違うんだな》と思っただけです。《ぼくは ぼくで ここにいて ぼくとしてこれから やって行くんだな》と思ったのでした。《これが世界か》と そのような言葉でではなくですが 感じていたかも知れません。  ★ 悲しみをもたらしました。  ☆ だとすれば やはり《切り》のほうなのでしょうか。わたしの場合は ともかく人とのあいだには距離があると感じたということでした。  そうして  ★ 私の体験からは、自我の芽生え以前に、この世界の印象が余りにも盛り沢山であった、としか言いようがないのです。  ☆ というくだりでしょうか わたしにとっておどろきとなるのは。つまりただ断片的な写真としての光景が わたしには何枚かある程度ですから。  もっと言えば   ★ 自分という存在の不思議さに気付く以前に、ただひたすらに小さな感覚でもって、この世界の謎解きをしていたように思います。  ☆ こんなことは わたしにはなかったです。自分を切り取り出して(自分が切り取り出されて)やっと 世界があると知ったのですから。どうも この体験が その後わたしが 能天気であることの原形を成しているかも分かりません。  それと 次のような印象があるとすれば つながっているかも分かりません。  ★ Bさんの持つ「共生的感覚」を多面的に捉えようとする姿勢が伺えるように思います。  かえって取り留めのないお話にしてしまったかも分かりません。  世界とのつながり 他人とのつながり これを 捉えることが出来るか? 捉えられるとすればそれは その切り結びしている姿として どうであるのか? こういったところに焦点を当ててはいますが そう簡単に答えは出て来ないものであるかも知れません。ありがとうございました。

noname#156094
noname#156094
回答No.10

どうやらBさんの仰っている《切り》と《結び》というところに大切な事があるように思います。 物の分別や好き嫌いといった意識の生じる点のことについてです。 少し視点を変えてみることにしました。 物心のつく時期の前後を見てみることにします。 十二の見方からです、古いですが。 ・・・・・ ・・・・・ 六処  六根具足して誕生前の胎児 触    二、三歳の頃の苦楽を知らないで触れるのみの位 受    六、七歳後、苦楽を識別する位 愛    十四、五歳以後の愛欲を生じる位 取    成人し利欲に執着する位 ・・・・・・ ・・・・・・ この「受」の初めの時期を、物心がつく、というのでしょう。 識別というところが、《切り》と《結び》に相当する感じがします。 記憶に基づいた判断ができるようになった、という事でしょうか。 詳しくは幼少期の心理あたりを調べてみるといいようにも思います。 対象とする物の見方の基準が、目まぐるしく変わってゆく中において繰り返される《切り》と《結び》は 自己判断の成長の証とも言えそうです。 それは、この世界に相応しい意識の成長でもあり、この世界から人に求められた過程なのかもしれません。 主観的には我れという意識の誕生のようでもあり、客観的には、この世界が生みだした精神の一部にすぎないのかもしれません。 知るという事の新鮮さの記憶は、誰でもいつまでもあると思います。 「物心がつく」という言葉に純粋な響きを感じるのは私だけではないと思います。 誰でもそこには宝物のような記憶があるのではないでしょうか。 シャッターを押したところだけが《切り》になっているように思います。 大きな《結び》の中でこそ、そのシャッターが押せたのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ええ。切り と 結び の問題です。  へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~  〔* ものごころがつくとき わが身の周りに線を引いたということとしての〕シャッターを押したところだけが《切り》になっているように思います。  大きな《結び》の中でこそ、そのシャッターが押せたのではないでしょうか。  ~~~~~  ここなどに焦点を当てたいと思いますが それとともに全体として受け取ったところでは 次のような問いを持って立っている自分を見い出すと思います。  ☆☆(No.6お礼欄) ~~~   人は ものごころがついたとき おのれを世界からほんとうに切り離したのか?  むしろつながっていることを確認しただけなのではないか?  世界の中に位置づけられているおのれを見たとき 母や父や 婆や爺を見て すでにおのれの子や孫をも見たのだろうか? これらを見たとき 共生を始めていたのか?    地と図とであるなら そして人はそれぞれが自分としての図であるのなら みんな地続きであるのではないか?   そうなると では 人は  ○ 人は おのれがこの世界‐内‐存在(《 In-der-Welt-Sein 》)であることを どこで・どうして忘れるのか?  という主題に変わって行くであろうか?  ~~~~~~~~~~    ★ ~~~~~  六処  六根具足して誕生前の胎児  触    二、三歳の頃の苦楽を知らないで触れるのみの位  受    六、七歳後、苦楽を識                      別する位  愛    十四、五歳以後の愛欲を生じる位  取    成人し利欲に執着する位  ~~~~~~~  ☆ おっしゃっているように 《受》の識別のところで 切り結びするというかたちに表わし替えましたが その以前の状態では 世界と《地続き》のままであって いわばすこやかな《世界‐内‐存在》だったのでしょうか? 必ずしもそうではないでしょうね。  まだ一人前の《社会的動物》にはなっていないと思われますから。つまり ことばによるマジワリを充分よくは果たせないからには。  でも この《結び》感を捨てる必要はないし また決して忘れる必要もない。と言えるか?  言えるとしたら どこで・どうして 忘れたのか?  《愛欲・利欲》の発生ゆえにという答えは あまりにも味気ないように思います。  言いかえると 愛欲や利欲を生じさせつつも 世界とのつながりを忘れずにいるということは 出来ないのか?  ですから 《心理》は資料になるでしょうが おそらく答えの材料にはならないようにも 素人考えでは 思われます。  といった問いになっています。どうでしょう。

  • MOG777
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回答No.9

お礼ありがとうございます。 そして、再質問に対する回答ですが まず 勝義諦 (普遍的な真理) 世俗諦(社会的な共同幻想・約束事) 世俗諦を超える逝かれた個人的妄想 以上の三点で整理したほうがよいと思います。 あと、私からの確認ですが、社会的動物というのは世俗諦(社会的な共同幻想・約束事)を拡大するために世俗諦を超える逝かれた個人的妄想を壊そうとする性質をもつ生き物という意味でしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~   ○ (存在論の仮説) ~~~~~~~~~  世界から自分を切り取り出した《われ》は そのみづからが引いた線によって あたかも世界やほかの人びとに対して 壁をつくり溝を掘ったかたちになる。  けれどもその《われ》は ほかの《われ》に声をかける。  この《呼びかけ合い》は しかしながら 人の自然本性のしからしむる偽りのない欲求であり 計らいのない振る舞いなのではないだろうか? それが 生まれつきそなわった或る種の《いのち(または 息吹き)》であり この自然本性において ヒトは むしろ世界という地から《われ》という図として浮かび上がったけれどもその存在は〔自然本性において〕 なお続いて互いに地続きであるのではないか?  壁や溝なる切断線を ひとは 構わず突き抜けて存在する社会的動物であるのではないか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~  ★ あと、私からの確認ですが、社会的動物というのは世俗諦(社会的な共同幻想・約束事)を拡大するために世俗諦を超える逝かれた個人的妄想を壊そうとする性質をもつ生き物という意味でしょうか?  ☆ 《世俗諦を超える逝かれた個人的妄想》というのが よく分からないのですが この    ○ 壁や溝なる切断線を ひとは 構わず突き抜けて存在する社会的動物であるのではないか?  には 次のような意味を込めています。  ○ (ものごころがわれの周りに引いた線は われと世界とを《切り・結び》する)~~~  1. ヒトは 動物と違って 《ことば ないしその概念としての意識》によって 自然環界やほかのヒトと われとを 分けている。  2. ただしこの《ことば による呼びかけ合い》は 互いを切り分けた線を超えて 互いを結びつけることができる。  3. その結びつきとしての《きづな もしくは互いに地続きであること》は あんがい動物の場合のそれを共有しているかにも思われる。動物のような本能はすでにほとんど壊れているかも知れないが その余韻は残っていて その余韻によってだけでも 互いに図たる存在が 世界たる地を基礎として 地続きでありうる。  4. ことばを介してのマジワリという意味で《社会的な》であり あたかも自然および第二の自然たる社会から成る世界において 互いに地続きであるという意味で 《動物》でもある。特には生殖行為を介するという意味であり この生殖行為の外にある人びととも 社会的なマジワリを持つ。  ~~~~~~~~~  たぶん あるいは 確かに これら四つの事項は  ★ 世俗諦(社会的な共同幻想・約束事)を拡大するために  ☆ 明らかにした命題だと考えます。  もし   ★ 勝義諦  ☆ をも持ち出すとすれば こうなるかも分かりません。  5. 《ことば ないしその概念としての意識》によって身の周りに引いた線を 同じくその《ことばによって 互いに呼びかけ合う》というとき しかもさらには《ことばを超えた場からナゾの何ものかによって 呼びかけられる》ことがある。これを 第一義のことば(声・ヒラメキつまり 直感および直観)とする。つまり 勝義諦である。そのきっかけである。  ということになりましょうか。

noname#156094
noname#156094
回答No.8

>わたしは 世界の中で  おのれの身の周りに物心という線を引いて  世界からおのれを切り取ったのだろうか。 自我の芽生え、といった事でしょうか。 自我の誕生の瞬間を、物心がつくといっておられるように思います。 無我から自我への変化においての本質を問いているように思います。 命の誕生に次ぐ心の誕生でしょうか。 確かな記憶の始まりは、この世界と自分との相対的思量の始まりでもあるといった事かもしれません。 それは喜ばしいことなのか、それとも孤独の悲しみの始まりなのかは判然としませんが・・・ ただ、そこから見えてくるのは 相対的であるがゆえに、常に新鮮さをもった新しい発見の連続であったという事実だったように思います。 そこには命の躍動感があり、同時に命の閉塞感もあったように思います。 自我の誕生と共に、命の光と影が生まれたようにも感じます。 物心という原点には、この世界に自らが確かに生まれたという意味があるのではないでしょうか。 人の発育という客観的な見方からすれば、感覚や心の成長といったものなのでしょう。 個人の内面からすれば、この世界を取り込むビックバンみたいなものかもしれません。 その記憶は朧げでありながらも、人それぞれに決して忘れることのないもののように思います。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは へたのすけさん。ご回答をありがとうございます。  ★ 自我  ☆ という用語は嫌いですが 意を汲んでみてまいります。  ★ 物心という原点には、この世界に自らが確かに生まれたという意味があるのではないでしょうか。  ☆ そうだと思います。そしてその世界とわれとの関係を問うています。  世界とわれとは どのように切り結びしているのか?  ★ 人の発育という客観的な見方からすれば、感覚や心の成長といったものなのでしょう。  ☆ その《感覚》において われは 世界と地続きであると言えるか?  その《心の成長》において われは 世界の中にいるほかの人間という存在と どういう関係を築いていくのか? そもそもどういう関係にあって存在しているのか? どう捉えたのか 心は?  ★ ~~~  個人の内面からすれば、この世界を取り込むビックバンみたいなものかもしれません。  その記憶は朧げでありながらも、人それぞれに決して忘れることのないもののように思います。  ~~~~  ☆ つまり われは おのれの周りに線を引き おのれを世界から切り取った。けれども  ★ 世界を取り込むビッグバンみたいなもの  ☆ でもありうるか? 《切り結びする》というのは 地続きに《ズレ》があるということだろうか?  ★ ~~~  確かな記憶の始まりは、この世界と自分との相対的思量の始まりでもあるといった事かもしれません。  それは喜ばしいことなのか、それとも孤独の悲しみの始まりなのかは判然としませんが・・・  ~~~~~  ☆ この《喜ばしいこと》と《孤独の悲しみの始まり》という二つの側面は 《切り結びする》状態ゆえにであろうか?  《切り》ゆえに 孤独か? 《結び》ゆえに よろこびか? そんな単純ではないか?  ★ そこには命の躍動感があり、同時に命の閉塞感もあったように思います。  ★ 自我の誕生と共に、命の光と影が生まれたようにも感じます。  ☆ このように二面性があるというのは 何故か? 

回答No.7

 解答No.6へのお礼欄の「人はおのれがこの世界・内・存在であることを、どこでどうして忘れるのか?」という“主題”について。  ここで言う“忘れる”とは“同化”と受け止めて、  それは「信仰」に依って得ることができる。  感情が先で理性は後から。  感情を表現するために必要なのが理性の働き。  でも、感情の裏付けのない理の働きは“説明”でしかない。  その説明が正しかったとしてもそれは「図」としてである。  「地」は感じる事が出来るもの。  湯船に立ち上がる暖かそうな湯気を“見ている”のではなく、その湯船に浸かって温まることが、「信仰」。  “ヒラメキ”は信仰ではなく。霊的現象にすぎない。  「信仰」に“ヒラメキ”はアブナイ!        

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~  ここで言う“忘れる”とは“同化”と受け止めて、  それは「信仰」に依って得ることができる。  ~~~~   ☆ つまり   ○ 人はおのれがこの世界・内・存在であることを、どこでどうして忘れるのか?  ↓  ○ 人はおのれがこの世界・内・存在であることを どこでどうして《同化》するのか?  あるいは  ↓  ○ 人はおのれがこの世界・内・存在であることを、どこでどうして忘れてしまい 世界のシガラミのほうに同化するのか?  でしょうか? そして  ★ それは「信仰」に依って得ることができる。  ☆ ですか?    ★ ~~~  感情が先で理性は後から。  感情を表現するために必要なのが理性の働き。  でも、感情の裏付けのない理の働きは“説明”でしかない。  ~~~~~  ☆ ものごとは 知覚から入りますね。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚。これを意識し 言葉ないし概念として捉えれば 理性がはたらく。  理性ないし知性が 知覚をとおして現われた感情なら感情を みづからの判断をも交えて表現する。  理性ないし知性は ただ机上の空論のごとく 思弁的にあたまの中だけにおいて 想像をめぐらしつつ 一定の判断をおこない それを文として表現する。こともある。  ★ ~~~  その説明が正しかったとしてもそれは「図」としてである。  「地」は感じる事が出来るもの。  ~~~~~  ☆ ということは 環境世界と地続きであるとしたらそれは 感性をつうじてだと。  地続きのその基礎の上で 図としていろんな文章表現もおこなわれる。  ★  湯船に立ち上がる暖かそうな湯気を“見ている”のではなく、その湯船に浸かって温まることが、「信仰」。  ☆ 湯船が《地》であるということでしょうか? その地続きなる状態は 今度は感性から 《信仰》にすすめた。  ★ ~~~~~  “ヒラメキ”は信仰ではなく。霊的現象にすぎない。  「信仰」に“ヒラメキ”はアブナイ!  ~~~~~~  ☆  信仰という動態において 霊との交信として ヒラメキ(インスピレーション)が得られる。直感でありまた直観だと見られる。  直観および直観なるヒラメキが ふつうの知覚ないし感性とどういう関係にあるか。突き詰めた状態のものを言うのだろうか。  そのあと 理性ないし知性が 言葉による表現をおこない始める。  ものごころがつくことは ヒラメキと関係あるか?  《わたし》の意識が芽生えるということは 世界とわたしとが 切り結びしているということか?

回答No.5

 これまでも感じてきたことですけど、ブラジュロンヌさんとは世界観?に、根本的なずれがあるように思います。    ブラジュロンヌさんがどう捉えているかは、正確に言葉に表現できないので、私の思いを述べれば「宇宙の本体は“絶対”の大心霊体である」という彼のお坊さんの言葉が物事を考える基本、根本、になっています。  また、人の心に表れる善と悪との意識は「善」が全体への指向性があり、「悪」は個への指向性があると見ています。  宇宙を精神の“全体”とした場合、善の象徴としての表現である“仏心”を善の究極の世界(全体)と見ているわけです。だからその対極にある“個”を“悪”という表現でとらえることになり、今回の回答のような感想になりました。  宇宙の精神が現象したのがこの世界で、この「全体」の中に「個」が含まれている、あるいはこの「全体」は我々にとって「個」となって現れている、意識できる、と言ってみたい気もします。  神も悪魔も含めて精神は同質と捉えています。  

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  なるほど。  つまり 世界は 調和である。ということでしょうか。  たぶん 哲学は この命題を前提として置いていてもよいと思うのですが その《調和が破られた》というところから出発するでしょうね。  極端に言えば 眉間にしわを寄せて ああだこうだと考えるところからです。  ★ 私の思いを述べれば「宇宙の本体は“絶対”の大心霊体である」という彼のお坊さんの言葉が物事を考える基本、根本、になっています。  ☆ これを 神学として捉え 前提となる領域に置いておいてもよいが その神学の議論として世界を捉え考えるのではないと哲学は言うでしょうね。  つまり言いかえるなら 《ものごころがつく》というのは   ★ 宇宙の精神が現象したのがこの世界で、この「全体」の中に「個」が含まれている、あるいはこの「全体」は我々にとって「個」となって現れている、意識できる、と言ってみたい気もします。  ☆ という方程式の中におさまるというのが 神学としてのお考えなのだと思います。  哲学は  ★ 宇宙の精神が現象したのがこの世界で、  ☆ という前提部分を外します。括弧の中に入れて置きます。よほどのことでなければ 持ち出して来ません。持ち出したら 哲学にとってその思考の限界を意味します。  調和を乱すチカラ・そのハタラキ これを経験科学として明らかにするのが 哲学であり その結果 そうだとすれば  ★ 神も悪魔も含めて精神は同質と捉えています。  ☆ という神学の領域の命題が来ます。  ★ 根本的なずれがあるように  ☆ というのは こういうズレだと思います。探究の方向がぎゃくだというようなかたち。・・・  ただし この質問の中身は きわめて限りなく神学に近いものです。

回答No.4

 全体を「仏心」といい個体を「私心」という。  物心(ものごころ?)は「私心」の主“私”  仏心も私心も精神として同質。  全体中の「個」であり全体を離れての「個」はあり得ない。  宇宙、存在、それを全体と云うのだから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ん?  いや ちょっと待って。  ★ 全体を「仏心」といい個体を「私心」という。  ☆ 仏心と仏性とは どう違うのか?  もし同じなら 仏心も 《われ》にやどるのではないのか?  もっと言えば 《私心》に仏心=仏性が やどる。のではないだろうか?  しかも こうおっしゃる。   ★ 仏心も私心も精神として同質。  ☆ なら  ★ 物心(ものごころ?)は「私心」の主“私”  ☆ の《“私”》も 仏心と同じになる。  しかも  ★ 精神  ☆ が仏性であるとは ちょこざいな!! 身と心 身体と精神から成るわたしに 仏性はやどる。のであって 精神が 仏性であったなら そこらじゅうにブッダがうようよしていることになる。  わいわいえいとさん ちとおふざけが過ぎます。と思いますよ。

  • MOG777
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回答No.3

お礼ありがとございます。 > ☆☆ ことばは はさみか? 糊か?  ☆ というように 両方のはたらきがあるのかなとも思ったのですが 物心がつくことは 要するに《切断》を意味しましょうか? たとえば、本物の肉を持ち歩くのは大変だから「肉」という概念をつくり外回りの営業をするわけです。 「肉」という概念=言葉を使いこなすことが、社会的に物心がつくということで 一方、本物の肉から離れ概念だけで理解することを世界との接触を失うと述べましょう。 ことばは社会の人間のあいだを結ぶと同時に、世界と《切断》させていると言えるかもしれません。 > 《線を引いた》なら もう引きっ放しであり その切断線は 消えないし 消えないだけではなく ふたたびつなぐということはあり得ない。という極に振れ切ってしまいましょうか? 可能ですし、そのための仏道かと思います。 > ★ 「わからない」と言えたときから、互いにお呼びがかかる関係になるのでは?  ☆ というように《お呼びがかかる》というのは 壁や溝や切断線を前提としておこなうということですよね? かろうじて《呼びかけ合う》というところでしょうか? ですよね? 本人が万能感をもっている場合、誰も必要としないし、壁越しに呼びかけても壁を高くするだけでしょう。 >ふと 呼びかけ合うその以前における地続きが 人は分かるのではないかと とっぴなヒラメキを持ったものですから。消去せよということでしたら そのようにどうぞ。 ましゅまろさん等とのやりとりをみると、本気で閃きに縋るタイプではないでしょう・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  総じて言って 次のくだりの内容が あたかも全体を覆っているように思えたのですが?  ★★(回答No.2) ~~~  分かったつもりになった時から、世界からの信号は心に届かなくなるわけで  それにより ≫閉じられた世界の小さな万能の神になる≪ ことも可能になる。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり《可能になる》だけではなく たいていは この《閉じられた世界》の中で《小さな万能の神にな》ってしまった状態が すでに出発点であるかのようにです。  おそらく世界から自分を切り取り出して 感性に富むだけではなく理性もはたらくと来れば 或る種の万能感を持つかと思います 物心がついてしばらくして世界が見えてくれば。  でも長い目でみれば その人間も 自然(環境)のあり方におどろきを覚え あるいは社会の中で ものごとがおのれの思うようにはならないと知り おそれをもいだくと思われます。  人が互いに《呼びかけ合う》というその関係的あり方として  ★ 本人が万能感をもっている場合、誰も必要としないし、壁越しに呼びかけても壁を高くするだけでしょう。  ☆ とだけ見てしまうのは 何だか さびしいように思うのですが?  ☆☆(No.2お礼欄) ~~~   ★ 「わからない」と言えたときから、互いにお呼びがかかる関係になるのでは?   ☆ というように《お呼びがかかる》というのは 壁や溝や切断線を前提としておこなうということですよね? かろうじて《呼びかけ合う》というところでしょうか? ですよね?  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここです。極論によって話をすすめたいと思えば こうです。  ○ ~~~  世界から自分を切り取り出した《われ》は そのみづからが引いた線によって あたかも世界やほかの人びとに対して 壁をつくり溝を掘ったかたちになる。  けれどもその《われ》は ほかの《われ》に声をかける。  この《呼びかけ合い》は しかしながら 人の自然本性のしからしむる偽りのない欲求であり 計らいのない振る舞いなのではないだろうか? それが 生まれつきそなわった或る種の《いのち(または 息吹き)》であり この自然本性において ヒトは むしろ世界という地から《われ》という図として浮かび上がったけれどもその存在は〔自然本性において〕 なお続いて互いに地続きであるのではないか?  壁や溝なる切断線を ひとは 構わず突き抜けて存在する社会的動物であるのではないか?  ~~~~~~~~~~~~  次の見方においてその対極をむしろ捉えられるものなら捉えてみたい。のです。  ★ ~~~~~   > 《線を引いた》なら もう引きっ放しであり その切断線は 消えないし 消えないだけではなく ふたたびつなぐということはあり得ない。という極に振れ切ってしまいましょうか?  可能ですし、そのための仏道かと思います。  ~~~~~~~~  ☆ たとえば《消える》という意味において涅槃と言ってもそれはただ表現のアヤに過ぎず むしろ両極のいづれをも意味しうるかも知れない。つまり   (あ) 世界に対して引いた線は その線によってわれと世界とは永久に切断され その切断関係においてわれは涅槃に入る。  (い) 世界に対して引いた線は われを浮かび上がらせるためだけであって そのあとこれは切断線となるのではなく むしろ浮かび上がったわれが涅槃に入るときには 切断線を切断しえているのだ。   両義性を持つ。のではないか?  あと 《ことば》の問題があります。  ★ ~~~~  たとえば、本物の肉を持ち歩くのは大変だから「肉」という概念をつくり外回りの営業をするわけです。  「肉」という概念=言葉を使いこなすことが、社会的に物心がつくということで  一方、本物の肉から離れ概念だけで理解することを世界との接触を失うと述べましょう。  ことばは社会の人間のあいだを結ぶと同時に、世界と《切断》させていると言えるかもしれません。  ~~~~~~  ☆ この  ★ 本物の肉から離れ概念だけで理解することを世界との接触を失うと述べましょう。  ☆ は そうは言っても けっきょくたとえば地動説は だいたいは《概念たることばだけで理解する》ことでもありますよね。そのようにやはり《切断線》としてのハタラキだけなのでしょうか?  仏性がやどるというのは 切断線の徹底なのでしょうか?  ★ ましゅまろさん等とのやりとりをみると、本気で閃きに縋るタイプではないでしょう・・・  ☆ それはそうなのですけれど。(読んでいてくれますねぇ)。

  • MOG777
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回答No.2

物心が付くの意味は? 国語辞書。 幼児期を過ぎて、世の中のいろいろなことがなんとなくわかりはじめる。 だそうです。 個人的に修正すると「なんとなくわかったような気になりはじめる」としたいです。 分かったつもりになった時から、世界からの信号は心に届かなくなるわけで それにより閉じられた世界の小さな万能の神になることも可能になる。 それはまた、地を這うわれとなんぢの間に壁をつくることになる。 「わからない」と言えたときから、互いにお呼びがかかる関係になるのでは?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ それはまた、地を這うわれとなんぢの間に壁をつくることになる。  ★ 「わからない」と言えたときから、互いにお呼びがかかる関係になるのでは?  ☆ こういった《壁・溝・お呼びでない・お呼びがかかる》の関係をどう捉えるか。ここに焦点を見ています。  ☆☆ ことばは はさみか? 糊か?  ☆ というように 両方のはたらきがあるのかなとも思ったのですが 物心がつくことは 要するに《切断》を意味しましょうか?  ★ 分かったつもりになった時から、世界からの信号は心に届かなくなるわけで  ☆ と見るとき その《遮断》が 遮断を通過してなお《地続きであったことが分かるようにさせる》ということは もうないでしょうか?  《線を引いた》なら もう引きっ放しであり その切断線は 消えないし 消えないだけではなく ふたたびつなぐということはあり得ない。という極に振れ切ってしまいましょうか?  といった問いになっています。  ええ。ですから  ★ 「わからない」と言えたときから、互いにお呼びがかかる関係になるのでは?  ☆ というように《お呼びがかかる》というのは 壁や溝や切断線を前提としておこなうということですよね? かろうじて《呼びかけ合う》というところでしょうか? ですよね?  ふと 呼びかけ合うその以前における地続きが 人は分かるのではないかと とっぴなヒラメキを持ったものですから。消去せよということでしたら そのようにどうぞ。