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ヤマト王権と大和朝廷

現在の歴史教科書では「ヤマト王権」として一般に扱われている5~6世紀ですが、この歴史用語に対して未だに「大和朝廷」などという幻想にも近い表記をされて平然としている方々も多々見受けられます。  この方々の多くは1945年以前の歴史教育を受けてこられたと存じますが、現在の考古学的成果や文献史学による検証に基づく「大化以前」と「大化以後」の社会構造の違いなどに関してどの様な印象をお持ちであるかをうかがわせていただきたいと存じます。  もし可能であるならば、その理由も合わせてお話いただければ幸甚です。

みんなの回答

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.4

つまらん蛇足なのですが、 >この方々の多くは1945年以前の歴史教育を受けてこられたと存じますが、 これは、いかなる文献に基づいているのでしょうか? ウィキにも間違いはあるでしょう。 しかし、70年代に「大和時代から古墳時代」、80年代に「大和王権」とする http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9 の名称について のどこに間違いがあるのでしょうか。 私自身は、「大和王権」派?なのですが、歴史教育(というより受験教育かな?)の面で いつ頃から「朝廷」から「王権」になったのか興味があります。 ちなみに手元の19年版大坂書籍では「王権」です。 これしか、今、無いので・・・・。

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.3

私の投稿ミスはすみませんでした。 あわてて、自己違反通告したのですが、無駄。 削除方法を調べるうちに通勤タイムとなってしまいました。 違反通告してくれて幸いです。 さらに驚いたことに、あのアホミス質問にまじめに回答してくれた人もいて、申し訳ないです。名前もわからなくなりましたが、返答させてください。 注目せねばならないのは、70~80年代に「朝廷」から「王権」に変わったことであります。(私の記憶ですが、大阪書籍) 仮に、50年代に変わったのなら、そこに「皇国史観の衰退、史観・歴史教育の変化」という文脈で読み取るのが普通でしょう。「皇国」が敗れたのですから。しかし、70~80年代なら、それは当てはまらないでしょう。数年前にも教科書では、弥生時代が拡大されましたが、それと似たモノでしょう。「皇国史観の衰退、史観・歴史教育の変化」ではなくて、「掘ったら分かった事を教科書にも書いた」だけでしょう。

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.2

私の記憶では、 70年代の子供時代に学校で「大和朝廷」と習ったが、 80年代か90年代に、「大和王権」って言葉を たぶん、塾で子供の教科書を見て知った。 確か、この時に資料集か参考書に 「遺跡の発掘の成果で王権というようになった。」 と書いてあったと思う。 この私の記憶(一次史料・笑)は、ウィキの記述ともほぼ一致している。その通りなんだろう。 これは、「皇国史観うんぬん」よりは、 回答者No.1さんの 「単に研究方法が変わっただけ」 が真実に近いと思う。

TANUHACHI
質問者

お礼

 ありがとうございます。 >単に研究方法が変わっただけ だけで済むならばそれで疑問を氷解させることにつながるかといえば、何か不自然さが残ります。  ウィキにはでたらめな記述もありますので、僕は必ず根拠となる文献を探します。そこにはその言説を補完するための引用なり証拠もキチンと記されているからでもあります。  決してイデオロギーに基づいたなどの大それた企図はありませんので、ありがたくご教示をいただきます。

  • FEX2053
  • ベストアンサー率37% (7991/21371)
回答No.1

>「大和朝廷」などという幻想にも近い表記 そんなことは全くないですよ。「大和朝廷」と記述するグループと 「ヤマト王権」と記述するグループでは、歴史に対するアプローチ が違うんです。 「ヤマト王権」というのは、主に発掘などの考古学的アプローチ をとるグループの表記で、考古学的に考えると、当時の日本列島 内に豪族が多数存在したということは確定的ではあるものの、 どれが最有力=日本列島内を有効に支配していたかが分から ないため、有効支配をあらわす「王朝」ではなく、「ヤマト王権」 という記述をするのです。 逆にこれが「文献史学」的アプローチをする場合、「残存する文献 上」は、考古学的にも「王朝」と認定できる飛鳥朝以前に言及する 文献・・・というか記述があるため、後年の「王朝」と文献上継続 している面を重視して「大和朝廷」と記述するんです。 このへん、歴史をちゃんと勉強した人なら間違えませんよ。 歴史的教育云々という見方そのものが「偏った発想」であると 認識頂ければ幸いです。 ま、そういう勉強をちゃんとしていない人が書く文章なら、間違い に気づかない可能性もありますがね。

TANUHACHI
質問者

お礼

 残念ですが、貴殿の回答を精査させていただいたところ、何れの研究団体及び学界にもそうした根拠を見出すことができませんでしたので、貴殿の御回答は参考にならず歴史学にとっては夢物語レベルとしかいえないとの判断に至りました。  殊に古代史研究に携わる識者にこの文面を見せたところでは、「王朝」の概念がなされず、また同時にその論拠とする「飛鳥朝以前の王朝」との継続関係が観られるとの部分もどの研究論文の一節であるのかすら不明です。よってこの見解を現時点での正当な検証とは認めることも困難であり、回答外と判断させていただきます。

TANUHACHI
質問者

補足

 ご教示ありがとうございます。まことに僭越ではございますが、少し釈然としない部分がありますので、よろしければ補足をお願いできるでしょうか。  >「ヤマト王権」というのは、主に発掘などの考古学的アプローチをとるグループの表記で、考古学的に考えると、当時の日本列島内に豪族が多数存在したということは確定的ではあるものの、どれが最有力=日本列島内を有効に支配していたかが分からないため、有効支配をあらわす「王朝」ではなく、「ヤマト王権」という記述をする  確かに4~5世紀段階の日本列島には吉備や毛野など幾つかの地域的国家と呼びうる独自の支配権力が点在していたことも知られていて「ヤマト」もその一つとされています。それは考古学の成果だけでなく文献史学からのアプローチからもなされております。こうした部分で「二分される」とは「国家論」や「社会組織論」の観点からすればいささか乱暴な括り方ではないでしょうか。逆にいえば、「文献史学者は大和朝廷と表記する」ことになりえます。  僕も少なからず文献史学の世界に籍を置かせていただいておりますが、余りにもソリッドステート的な印象があります。日本古代史では文献史学の草分け的な存在でもある井上光貞などは金石文や碑文を含めた考古史料も駆使しつつ厳密なテクストクリティークを行った上で研究論文には「大和朝廷」なる文言を使用していなかった記憶もあります。文献史学の石母田正も確か使用していなかったはずです。    >逆にこれが「文献史学」的アプローチをする場合、「残存する文献上」は、考古学的にも「王朝」と認定できる飛鳥朝以前に言及する文献・・・というか記述があるため、後年の「王朝」と文献上継続している面を重視して「大和朝廷」と記述する  考古学的に王朝を認定する、とはどの様な基準に基づく結論でしょうか。少なくとも考古学は「モノ」から「それが使われていた状況を知る」学問領域であり「科学」として位置付けられています。「歴史学」も然りです。そうした独自の領域に対し他の隣接科学の力を借りることで、時代像や歴史像を構築しうると、歴史学に携わる者の立場からは認識しておりますが、こうした見解は浅薄でしょうか。  「王朝」を王が支配する政治的社会経済的構造と把握するにはヴェーバーやその他社会科学における共同体論を含めた「支配構造に対する視線とその成果」を踏まることで、初めて「王朝」なる概念を規定することになるのではないでしょうか。  古くは騎馬民族説や王朝交替説などもありますが、文献史学の門脇禎二も大和朝廷を使用していません。 これまでの「研究史整理」から得られた可能性ですが、「大和朝廷」を使う立場には「朝廷=国家」がやはり少なからず影を落としていると考えるのが自然ではなかろうかと考えられます。  「大和朝廷」を使用する立場では、どうしても「律令国家」の説明をすることに難がある。歴史学の立場からすればどうしても「枠組みとそれを支える基本的規範」に視線が向きます。一方の歴史愛好者からは「そんなこと別に大した問題ではない」と一蹴されてしまいます。  「王朝」ならば「王権」が対応する歴史用語であり、系譜としての王朝と王権が一致するとは、どの様な研究論文に記されている見解でしょう。是非ご紹介いただければと存じます。  ことは「歴史認識」に関わる部分ですので、気になります。また合わせて「ちゃんとした勉強をした人」の具体的な条件と根拠もご教示いただければ幸甚です。