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南九州にいた隼人について
勇猛果敢な薩摩隼人などその血を引いていることを 誇る言葉がある、「隼人」とはどういう人々で しょうか? 全くの無知なのですが、蝦夷やアイヌ民族のような 大和民族とは違う異民族なのでしょうか? それとも民族的には同じで大和朝廷に制圧される 前に国を持っていた人々でしょうか? 他にも文化、歴史などなんでもご教授ください。 質問文の中にも多々おかしなところもあるかもしれません がお許し下さい。宜しくお願いいたします
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「隼人」とは本来男女の別なく古代の南九州の住民につけられた呼称であり、呪術的な能力に長けていると見なされたことから、5世紀頃から朝廷の間近に仕えたともされます。隼人の呼称は7世紀後半頃から見られそれ以前には「熊襲」が南九州一帯にいたとされます。 後に編纂された「風土記」では地名として好字二字を当てるルールがあったにもかかわらず、熊襲や土蜘蛛など良くない印象を与える呼称が与えられたのは、やはり中央に対立する勢力があったのだろうと思います。熊襲の支配地域がどこにあったかという説はいろいろありますが、津田左右吉が唱える球磨と曽於を結びつける説には、両地域に実際に行ってみて、私も個人的には抵抗があります。 熊襲以降波状に加えられた中央政権からの軍事行動によりこの地域の中央政権への従属度は強まっていきます。具体的には筑紫の太宰や日向の国を通じての朝貢やさまざまな交流があったようです。 7世紀までは隼人は大隅の隼人と阿多(今の加世田市・金峰町の万瀬川河口付近か)隼人と大別されていましたが8世紀になると統一した隼人の呼称が定着します。 「隼人」の呼び名は古事記や日本書紀で見られますが、万葉集では一部「早人」の表記もあります。江戸時代の国文学者本居宣長によれば「隼人」の呼称の由来はその敏捷性や勇猛果敢さにあるとされますが、他にも地名説、「囃し人」説、「吠人(はいと)」説、中国古来の「四神思想」の「鳥隼」がもとになるとの説もあります。 なお現在の姶良郡隼人町ですが昭和4年に西国分村から改名した名前であり、昨今の市町村合併のあおりを受け消えゆく運命にあるようです。 http://www2.airachuou-gappei.jp/ 12世紀になると、源氏の直系とされる惟宗忠久(島津忠久)が南九州の支配を任じられるようになります。隼人の名はこの地の勇猛果敢な武士の代名詞としてその名を広く知らしめるようになりますが、明治維新や西南戦争を経てそのイメージは十分に摩耗したような気もします。 >大和民族とは違う異民族なのでしょうか? これを考える上では民族とはなにか、と言う定義をはっきりさせる必要があります。私見ですが、民族とは、言語をはじめとする共通な文化のもと、地縁や血縁などを通じて同じグループに属するという共感を持つ集団であるとするなら、熊襲のころは別民族ではなかったのかという気もします。さすがに中央政権の支配を受け入れるようになってからは同一の民族意識のもと、日本の一地方を構成していったものと想像します。 例えば漢民族などどんどんその限界を広げていき歴史的には東夷北荻と呼ばれた人たちもいつの間にか漢民族を名乗るようになったことを考えると、異民族であったかどうかなどはあまり問題にはならないのでは、などと考えたりします。 ホモサピエンスが日本付近に到達したのは早くても数万年前のはずで、弥生時代には明確に「日本人」が確立していたとの記事を下記サイトなどで読むと、隼人とそれ以外の地域に住む日本人との間の身体的差異はなかったものと思います。 http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/D/dna-11.html 以上は、全くの私見でフリーハンド書いていますので自信なしとしますが、興味がおありなら参考書籍も読んでみて下さい。多少読みにくいかもしれませんがおもしろいのはおもしろいです。 参考:「隼人の古代史」中村明蔵著(平凡社新書#119)
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- junt
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神武天皇とその一行が東征したからといって、南九州が無人になった訳ではありません。古事記や豊後国風土記によると、もとから住んでいた熊襲族や隼人族が残ったことが分かります。 隼人とは、文字通り猛菌類のハヤブサのごとく、目にも止まらぬ速さで山から山へ移動する山間居住民族のことです。後世、これら山に住む人々が山家(さんか)と呼ばれるようになりましたが、これらの人々も、大和の人々と同じ日本民族です。 山家は定住せず、山の産物である藤の蔓やクマザサの繊維などで籠や箕を作ることを生業にしていました。主要な生活物資を平地の住民から得るため、時々里に下りて交易するが、里の人達は山家の人達が生活を維持できるように、常に交換に応じてきました。だから彼らはその恩義を感じ、山を守り、動物の害を防いで役立とうとした例もあったようです。 また、これらの人々が独自の信仰を持ち里の人々とは違う穴居生活をしていた山間民族ではと想像する人もいますが、古代日本人と言葉が通じたのだから、同じ人種、同じ民族であることに疑いはないとみられています。
お礼
ご回答有り難うございます。 よくよく考えてみると当時は今のように 文化レベルも生活習慣も当然画一的ではなかったんで すよね。歴史を考える上で今との比較を安易にしてしまい がちですが、ご回答を読んでそれを気づきました ありがとうございました
- tosiki
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こんにちは。^^ 私も熊襲、隼人、大和朝廷はNO2さん同様、親族だと考えています。 参考URLです。 これを見ると、 大和朝廷が東進した年代が予想出来ます。 (銅鐸が無くなった時代ですね。) ここを見ると、どう考えても熊襲、隼人は 親族、同盟国(対等な国家)でしょう。 私の推測。 熊襲、隼人は、大和朝廷と共同で銅鐸勢力を滅ぼし、 その後、面倒なので大和朝廷はこの2国に忠誠を誓わせようとします。 戦争になり、隼人はすぐに降伏します。(やっぱ親族?) 熊襲は徹底抗戦し、全滅。(単なる同盟国?) NO,3さん同様、熊襲の居住区は納得行きません。 熊本平野周辺から、伊万里まで勢力を伸ばしていると、地理上、壊滅させなければならない理由が発生します。 参考URLで推理して下さい。
お礼
ご回答有り難うございました HP参照いたしました。 いや-ミステリ-ですね、推理ですね。 今回質問させていただかせて隼人という民が こんなにもまだ分かっていない人々という事が 良く分かりました 歴史は面白いですね(^ー^)
- OMP
- ベストアンサー率23% (132/553)
古事記を読み直したので、回答が遅れました。 あくまでも伝説の話ですが・・・ 日本書紀・古事記によりますと、隼人の祖先と大和朝廷の祖先は兄弟でした。 日本を作ったのがイザナギ(伊耶那岐神)とイザナミ(伊耶那美神)という二人の神様です。 二人はたくさんの子孫を残しましたが イザナギの左の目からアマテラスオオミカミ(天照大御神)が生まれ 鼻からスサノオノミコト(須佐之男尊)が生まれました。 アマテラスとスサノオが誓約を行ったときに、三種の神器である勾玉から アメノホシミミノミコト(天之忍穂耳命)が生まれ その息子にニニギノミコト(天迩岐志国迩岐志天津日高日子番能迩迩藝命)がいます。 関連する人名(神名?)だけを羅列したのでゴチャゴチャしちゃいましたが イザナギのひ孫(アマテラスの孫)に、ニニギがいます。 そのニニギが地上の高千穂の峰に降臨しました。 これが南九州だと言われてます。 ニニギが地上で美しい女性に出会います。それがコノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜比売)。 二人の間にも、やはり子供が生まれ、それが有名な海幸彦と山幸彦です。 山幸彦の子孫が大和朝廷を作り、海幸彦の子孫は隼人になりました。 ふぅ、やっと「隼人」が出てきましたね。 この兄弟がケンカをしました。海幸彦が負け、山幸彦に従わなくてはなりませんでした。 歴史的に隼人は、大和朝廷に抵抗したものの、最終的には服属し、主に警衛を担当しました。 伝説通りになった・・・と言うよりは、史実を元に 古事記を書いたのではないでしょうか?
お礼
ご回答有り難うございました。 普通に読みながら「すげ-」とつぶやいてしまいました 大変勉強になりました。 実は以前、この教えてgooで「海幸彦、山幸彦とは?」 という質問をさせていただき、その時にニニギや この花咲くや姫の話を聞きました。 そこから更に下る話なんですね-。 古事記恐るべし... 隼人というものに更に興味が湧きました ありがとうございました
- iikuni-tsukurou
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隼人というのは部族の名前から来ていたのでは? こういうHPがあるので参考までに。
お礼
ご回答ありがとうございます HP参照いたしました。 多くの人々が今の日本を形成したんだなぁと 思うとちょっと浪漫を感じ興味をもってしまいます
お礼
ご回答有り難うございました いや~また「フファ-」とため息をつきながら 読ませていただきました。 poor_Quark様は知の巨人ですね。感服いたすと ともに自分の無知さを恥じました。 う~ん、勉強が足りないなと思いました。 歴史は専門ではありませんが、勉強の必要性を 強く感じました。 本当に楽しく読ませていただきました。 ありがとうございました