- ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:綿の歴史。)
綿の歴史とは?三河地方と和泉・河内の関係について
このQ&Aのポイント
- 綿の歴史とは、日本での栽培が始まった16世紀初めから現在までの歴史を指します。三河地方が日本で初めて綿の栽培地となり、その後和泉・河内などの畿内にも広まりました。
- 質問1に関して、三河地方へ綿の種や苗がもたらされた経緯は具体的には分かっていませんが、日本後記には延暦18年に綿の栽培が行われた例があることが分かっています。
- 質問2に関して、和泉・河内などへの綿作の技術流出の具体的な経緯は分かっていませんが、綿作は利益のある作物であったため、三河地方からの流出が行われた可能性があります。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんばんは。 最初のご質問に対する回答は、長々とここに書くよりも、次に挙げる本をご一読されたほうがご理解いただけるものと確信いたします。 永原慶二著『新・木綿以前のこと 苧麻から木綿へ』(中公新書963)、中央公論社、1990年。 なお永原氏は、日本の木綿栽培の発祥が三河であること否定されています。 次のご質問については、別に領主が栽培管理していたわけではないことと、木綿はそれまで庶民の日常着の素材であった麻よりも糸を取るのが簡単であり、保温性にも優れていることから、今よりも寒冷であったと考えられている戦国時代に普及したと考えられてます。
その他の回答 (1)
- Verhalten
- ベストアンサー率17% (36/201)
回答No.2
綿花は亜熱帯の植物ですから、日本には根を降ろさなかったのです。 敷島のやまとにあらぬ 唐人の植えてし綿の種は絶えにし と言うように、 近畿や九州に綿の種を撒いたがことごとく失敗しました。 後に輸入に頼るようになります。 恐らく、寒さに強くなったアジア綿が中国から日本に伝わったのだと思います。 http://cotton.hisid.net/wata/b.html もちろん、 貿易港付近の百姓の栽培が発祥地になります。 商品作物として成功したのが三河でありましょう。 綿花栽培はデリケートではありますが、 技術的には流出もありますが、創意工夫だったのだと思います。
質問者
お礼
ご回答ありがとうございます。 >貿易港付近の百姓の栽培が発祥地になります。 確かに、そのとおりだと思います。 今のところ、このあたりだ、と断定はできないようですが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 早速、読みました。 確かに、木綿栽培の発祥の地が三河ではない、と言い切れそうです。 中国・朝鮮との交易によって「綿」が来たのであれば、九州や近畿地方の方が三河より早いはずで、不思議に思っていました。 この本にある「山科家礼記」をキーワードにして検索すると、山口県立大学生活科学部研究報告の論文「木綿織物の受容過程と柳井縞に関する一考察」を見つけました。 この論文でも永原慶二氏の著書を取り上げています。 あっと言う間に各地に広がっていったのは、商人が「綿の種」を売り歩いた、という記述もあります。これには、びっくりしました。 お蔭様で疑問が解消しました。 ご教示に感謝します。