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中国に対して不即不離の距離に位置する日本

私は留学生です。歴史の授業から気にかかる疑問があります。 中国に対して不即不離の距離に位置する日本は「他者」(中国、そして西洋)の文明にたいする柔軟な姿勢について、そして、その「均質性」はいいことですか だれか教えてもらえませんか。よろしくお願いします。

みんなの回答

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

1,均質性  これが為に、日本の集団性が発達したのだと  思っています。  その集団性の利点ですが。  台湾の小説家が、次のように述べています。 「日本人は、一人では豚であるが、中国人は  一人でも竜である。  しかし、三人集まると、中国人は豚になり  日本人は竜になる」  つまり、日本人は集団で力を発揮する、てことです。  この為、国土も狭く、資源も無い日本がここまで  やって来られたと思っています。  又、均質性があるから犯罪も少ないのです。  魏志倭人伝にあります。 「倭人は盗まず」 2,他者に対する柔軟性  これは、日本が長い間中国から文物を取り入れる  ことによって発達してきた所以でしょう。  これの為、日本はアジアで、最も速く近代化に成功しました。    反面、中国のような大文明を新しく創る、といった  ことが出来なくなったのではないか、と考えて  おります。  

  • phj
  • ベストアンサー率52% (2344/4489)
回答No.1

私は日本人について「最大にして最後の少数民族」だと思っています。 「小数民族」という定義は色々ありますが、近隣に強大な民族があり、その影響を受けつつ、取り込まれない程度に自然の要害があるという意味で、使っています。 たとえばチベット族などは近隣にインドや中国などの古くからの大国がありながら、ヒマラヤの山々に囲まれることで、自分たちの文化を継承してきたというようなことを指しています。 しかし大航海時代以降、南米のインカ族など様々な少数民族が文化的継承を断念し、または滅ぼされた民族もあるわけです。 この点において日本は大陸と適度な距離(質問者様の言う不即不離の距離)に島国として存在することで長い間、ひとつの文化と民族を継承してくることが可能でした。 日本は制度的に見たばあい、3世紀ごろに成立した大和政権がほぼ一貫して現在までこの国を支配しているといえます。その下の政府には変易がありますが、民族的文化的には1700年以上かけて統一され均一的になってきている、といえます。 また特質すべきなのは、大和政権成立後は強大な民族も勃興せず異民族が来襲して侵略することもなく、均一化=良いこと、という価値観でやってきたといえます。 しかしそれだけでは文化的にも制度的にも国が衰退していくことになります。そのため日本は海外から自ら進んで、文明を取り入れていくことになります。 この「文明を取り入れる」という視点で日本の歴史を見てみると、明らかに「海外から文明を取り入れて飛躍した時期」と「国内に安住して安定した時期(国粋主義)」に分かれていきます。 たとえば3世紀の大和政権成立後、7世紀に起こった「大化の改新」は中国の律令制を取り入れた政治改革でありその後の平安期の文化的発展に寄与しています。 平安期の後、日本は動乱期に入り鎌倉時代には一旦国粋主義になりますが、室町期にはまた冊封を受け入れます。これは多聞に経済的要素が大きいのですが、いずれにしても海外の要素をテコにして国内の影響力を増す努力をしたことには違いありません。 その後、日本は戦国時代に入ると、中国だけでなく南蛮(西洋文明)も受け入れるようになります。これも経済的に南蛮貿易をすることで戦費を賄う必要があったからで、同時に鉄砲など最新の兵器を輸入し戦争の趨勢を変化させることにもなりました。 そして最終的に徳川幕府の成立により、また国粋主義に向かいます。次に海外と交流するのはペリー来航による近代化(明治維新)の頃になります。 日本は海外(最初は中国そして西洋)との不即不離の関係を考察し「日本にとって海外との交流は、日本の制度的な変化(支配者にとっては危機)をもたらし、同時に富を生む」ということが分かっていました。 戦国時代、織田信長は南蛮を好み、豊臣は貿易は継続するものの伴天連(カソリック宣教)は禁止し、徳川は鎖国をしたのも、すべて日本の状態をどのようにするかという戦略的視点によるものです。 織田信長は、南蛮の優れた兵器と貿易による利益を好み、同時に南蛮文化の侵略は阻止できると思っていたでしょう(古来からの日本文化そして権力である比叡山を焼き討ちした実績があるからです) それに対して豊臣は、南蛮文化を制御しながら(伴天連の禁止)貿易の果実をとろうと画策しました。 徳川は、戦乱を終わらせ安定した国家を構築するには、各地の有力者(主に戦国大名)に貿易をさせないことが重要だと考え、長崎以外の貿易をすべて禁止しました。日本は島国なのでその気になればどこからでも貿易船を出せるからです。 このような歴史的経緯を纏めると、日本にとって「他者」とは、日本の状況をコントロールすために必要な手段でありながら、コントロールするのが難しい存在、であったといえます。 もちろん「他者」である中国も西洋も、自国の意思をもって日本にやってくるからです。 しかし、逆をいえば日本は他者との付き合い方をコントロールすることが出来たともいえます。先ほどのチベット族やインカ族などは、地続きの強大な民族から圧力を受けることはあってもそれを拒否したり受け流したりすることは難しかったからです。 しかし日本は日本列島をひとつの国としまとめることにより、海外からやってくる「他者」をどのように処遇するか、日本で決めることができました。 そのため古くから受容してる中国文化の取り入れ方を形式化し、それを当てはめる形で南蛮文化や明治維新を行ったのです。 これらの形式的な取り入れは戦後のGHQの占領に際しても行われたと考えていますし、現在までその方式の名残が、日本の英語学習に残っていると考えています。 しかし、インターネットが発達し飛行機が世界を飛び回る時代に合っては、いままでの「他者」の取り入れ方では間に合わないですし、問題が大きいといえます。 日本の今後は明治維新以来の大きな変革期を迎えることでしょう。しかも、すでに不即不離というわけには行かず「有即不分」の大陸型の付き合いをしなければならない時期ともいえます。 いよいよ日本は「少数民族的価値観」からの大転換を迫られているのではないでしょうか。それは同時に柔軟な対応を失うことにつながるかもしれません。 嫌韓デモなどは、すでに日本の「他者に対する柔軟な姿勢」が失われつつあることの証左なのかもしれませんね。

hunteroam
質問者

お礼

分かりました。 教えてもらって、どうもありがとうございました。

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