江戸時代の年貢について原則的なことを記します。
現代風にいえば所得税ではなく固定資産税ですから土地の所有者が納めます。
ですから小作農は小作料を地主に納め、地主は受け取った小作料の中から年貢を納めます。小作料の額は年貢の額の2~3倍になります。ずいぶん高いようですが、地主は年貢以外にも小割(村を維持する経費)などを負担しました。
年貢の額は「高(たか)」という数値が基準になり、「免四つ」といえば高の4割を年貢として納めます。
「高」は田、畑、屋敷が対象で、これを村単位で合計したものが「村高」、領地全体の合計が「知行高」です。加賀百万石などというのはこの数値です。
注意を要するのは「高」は評価値であって実際の生産量ではありません。「高」の数値が決まるのは江戸初期で(この頃は「高」は実際の生産量に近かったはず)、この数値は幕末まで変わりませんが、その間インフラ整備などで生産量は増加します。領主はそれをよく把握していて生産量に見合うだけの年貢を徴収しました。このため生産量が大きく増えた村では免がものすごく高くなり10割を超えることもありました。しかし年間の総生産量に対しては10~20%でした。ちなみに小生が生れた所は「免八つ」でした。
年貢は村請(村が納める責任を持つ)でしたのでもし払わない人がいると村は借金をして納めます。当然当人への貸付となり、それが払えないと村は当人の資産を没収します。
農民は年貢以外にも領主に対して種々の負担をしましたが、長くなるのでここには書きません。
漁業などでは色々な名目で領主に納めます。名称や金額は領主によって一定していませんが、多くは毎年一定額を納めたようです。
現在ではたいていどこの市町村もその地域の市町村史を出版しています。江戸時代の年貢のことはまず間違いなく書いてあるはずなので詳しくはそれを見てください。おもしろ発見があるかもしれません。
お礼
ご指導ありがとうございました。 暫くは回答が画面に表示されませんでしたので、ご指導内容を見ることができませんでした。 私にとっては始めて見る用語も出てきましたので、用語毎に知らべていきます。 < 注意するのは >のことですが、このことを知らないと、資料などを誤解してしますことになります、調べ方まで教えていただきまし、市町村史を見るさいの予備知識になり判りやすくなりました。 ありがとうございました。