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釈迦
釈迦、その、説いたところ、について、 よろしくお願いします。
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これは原始仏教阿含経に説かれているお釈迦様の悟りの順序です。 (1)この世界が実在の世界ではなく幻(空)の世界であることを知る。 (2)この世界には十二因縁の法則によって衆生は生まれることを知る。 (3)この世界が苦しみの世界であることを知る。(生老病死憂悲悩苦) (4)一切の苦しみは『欲望と愛着』によって生じていることを知る。 (5)衆生は欲界を輪廻していることを知る。 (6)『欲望と愛着』を滅することにより、輪廻から解脱し天界に生まれることを知る。 (7)仏教の修行によって欲界輪廻から解脱できたことを知る(漏盡智通)。 これが仏教の悟りということになります。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
人間が感じている不安の解消法方を説いたと思います、或いは死に対する恐怖感という言い方も同じです。人間には誰でも、意識するしないに関わらず『二つ意識が在ります。』 その証拠をある文献から乗せて見ます。ウイキペデアからです。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。” この研究から分る事が、二つの意識と言う事ですが、普通の場合には気が付きません、そういう場合を健常者と言っていますが、気が付く人がいます、そういう人を『不安になり易いとか、神経質な人』と形容しています。 右脳の機能は『生命活動全て取り仕切っています。』身体の生命維持機能の全てです。その他にも大まかに言うならば、行動面と精神面です。 人間が苦しむ場合に、『身体の機能面』と『行動面』と『精神面』と言う言い方も可能ですが、実際にはそれらが微妙に絡み合っています。 今の医学的な検査をしても実際には異常が見つけられない場合が、『釈迦』が説いたところになっています。実際には検査をした場合には何処にも異常がないからです。 その訳は『頭の中でそれらの苦しみを作っている事を意味します。』その苦しみには実態がないからです。実体がない苦しみを実体が在ると頭の中で思うことによって、その苦しみを創り上げている事が分ります。 つまり意識に上がった事を、打ち消そうとする事によって、返って『意識上に載せて苦しんでいる事を意味します。』 この苦しみ『意識地獄』を『一切皆苦』とお釈迦は残しています。この苦しみからの解放が『悟り』と云う事になります。 是は『心の矛盾の解消』が悟りの内容と言う意味です。つまり左脳に存在する意識=自我意識が『右脳の意識』=『仏性』=『命その者の働きの意志』とが再び仲良く脳内で同調する事を意味します。 人間が感じている『違和感や、生き難い想い』とは、自我と自分自身の命の働きが、同調出来ていない事の表れと言う意味になります。 健常者と言う意味は、心が二つ有ることに気付かない人と言う意味でも有ります。神経質な人や不安になり易い人とは、自分の心が二つになって居ることに『違和感を感じている人』という言い方が出来ます。
お礼
tumaritou1様、ご回答ありがとうございます。 >「人間が感じている不安の解消方法を説いたと思います」 ありがとうございます。
- 岩尾 俊志(@arakan)
- ベストアンサー率43% (31/71)
ストレートで大変に面白い質問ですね。 釈迦が説いたことは簡単明瞭。 すべての人間が抱える悩み、不安、苦しみ からの解脱(苦しみからの解放)のあり方です。 その苦しみには、大きく言って 1 金銭や名誉などが得られない (得ても上には上があり、最終的な 満足が得られない)現世的な苦しみ と、 2 そもそもそれぞれが生きている ことそのものに意味があるのか? という、「おのれ」の存在自体に対する懐疑的 (形而上的)な苦しみ のふたつがあります。 そして、その苦しみを生む迷いの根源が 人間が、おのれの存在こそすべてであると 思い込んでしまっている → そのことそのものは疑いもしていない という錯誤にあることの洞察に至りました。 では、その洞察の中身はどういうものであったか? たとえば、われわれがつゆ疑いもしない おのれ自身の肉体を形成している 物質 → たとえば、あなたの左の小指を 形成している物質のひとつである炭素は 千年前はエジプトの砂だったかもしれません。 ここまでは、簡単に納得できるでしょう。 では、精神は? これもよくよく仔細に観察してみると 過去の人間が語ったり、至ったりした 洞察が再生されているのに 過ぎません。 ということは? そもそもわれわれが、(何の疑いもなく) 根本的な「実体」であると思い込んでいる → そして、それがなくなったらどうしよう と、不安にかられてしょうがないところの 「おのれ」そのものの「実体」あるいは 「本質」そのものがないのです。 つまり、(おのれを含めて)すべてのものは 瞬間瞬間に、ある条件が重なり合って 生起している(あるいは、生起しているように見える) ものに過ぎず、したがって 消えもせず、減りもせず、そもそも新しく生まれたものでも なかった → したがって、不安を持とうにも持つ必要もない 永遠不滅の宇宙そのもの(あるいはその一部) であったという洞察に至ったということになります。 ことばにすればたったこれだけのことですが、 そこに至るには 多くの疑問があるはずです。 それについては、また項を改めて 考えて(論じて)いきましょう。
お礼
arakan様、ご回答ありがとうございます。 >「すべてのものは 瞬間瞬間に、ある条件が重なり合って 生起している(あるいは、生起しているように見える) ものに過ぎず、したがって 消えもせず、減りもせず、そもそも新しく生まれたものでも なかった 」 ありがとうございます。
- abc2008
- ベストアンサー率17% (7/41)
釈迦が我々に教えたかったことは、決して難しい話ではなく、実は老若男女、国籍を問わず、万民がその自身の生命の中に卓越したすばらしい能力を秘めていて、それを発揮さえすれば、いかなる事態にも悠々と向かって乗り越えていける勇気や希望に満ち溢れた強靭な境地に変革できるというもので、それで、その能力の存在とその開発方途を説き教えたかったのです。 元々、仏の語源のブッダとはサンスクリット語で、その意味するところは『目覚めた者』というもので、釈迦は自身に秘められていた、そのすばらしい万能とも言える能力に目覚めた先覚者だったのです。ところが世の中では、このことに気付くことなく、当然、その卓越した能力を使うこともなく、いわゆる宝の持ち腐れ状態のままで人生を終えてしまっている人がほとんどで、実にもったいない話であり、これはちょうど油田や金鉱脈を持っているのに、そのことに気付かず、それを開発しないままに亡くなって行くようなものかと思われます。 それで、その存在とその開発方途を人々に説くに当たり、いきなりその真意を説いても紀元前約800年当時の人々にとっては到底理解し難いものであったので、少しづつ基本的ともいえる導入説話を多用し、聞く者たちの理解力向上を図って、その真意を受け入れやすい方向へと導いていったのです。分かりやすく言えば、小学生にいきなり大学講義をしても無理なので、やはり基本的な『いろは』から教えていかねばならないようなものかと思われます。それで真意を説くまでに40年近くも費やしたのです。それで、その期間に様々な教経が説かれましたが、その中でもよく見聞きするものが阿弥陀経や大日経、般若心経等で、また、それらの教経内に出てくる観音菩薩や薬王菩薩、普賢菩薩等は我々の秘められた能力の特性部分を擬人化して解き明かしたもので、つまり、能力の特性を単に説明するよりは、それぞれを様々な菩薩という存在に置き換えて種々説明した方が受け入れ易く、また印象深く人々の心に残るからであり、それが証拠に様々な仏像が現存することとなったのです。 それで、最終的にはその真意である『法華経』を説くに至ったのですが、この法華経にこそ、その能力の核心とその開発方途を説き教えているのです。法華経に至るまでの説教は、結局、秘められた特性がどのようなもので、どの位価値があるのか等の説明のためのものであり、それぞれが特性の部分部分を巧みな比喩や方便等で事細かに解説したものということです。それで最後に法華経によって、その価値ある特性の開発のやり方を示唆したということです。その開発のためのキーワードが『南無妙法蓮華経』であり、つまり、自身の宝蔵(釈迦はその特性を宝の蔵に例えて)を開くための唯一の鍵が『南無妙法蓮華経』であり、これを用いれば、その特性を欲しいままに使っていくことができ、まさに価値(勝ち)ある人生を送ることができるというものです。ちなみに法華経という題号は『妙法蓮華経』を略したものなのです。 今でこそ、仏説は宗教という何か堅苦しく儀式めいた存在になってしまっていますが、本来、釈迦の当時においては、釈迦の講義による、いわゆる自己啓発のためのセミナーみたいなもので、今のような煩雑なものではなかったのです。結局は後世の者たちが、部分部分の解説に過ぎないものをこれこそが真意とか、これこそが本意とか手前勝手に決め付けては開宗していったために、現状のようになってしまったのですが、以上のような基本的なことが判れば、仏教の概要が大体、分かるかと思われますが、結局、『南無妙法蓮華経』という鍵を使うのに、どこそこの宗派に属さなければならないものではなく、本来、誰でもその鍵を使って自身の宝蔵を開き、その価値あるものを自由に使っていく権利があり、後世に出現した寺院や僧侶等に何ら縛られることはない、万民に共通の唯一の鍵なのです。 ところで仏説を現代風に単的に言えば、我々誰もがその胸中には、すばらしい力があり、それはあたかも我々の中に優秀な医学博士や薬学博士、芸術家、哲学者、科学者、経済学者等々の様々な卓越した能力ある者たちを抱え込んでいるようなもので、それらの能力を様々な場面で自由自在に発揮させて、人生をおもしろく悠々と過ごして行ける境涯になる、ということかと思われます。
お礼
abc2008様、こんばんは。 >「ところで仏説を現代風に単的に言えば、我々誰もがその胸中には、すばらしい力があり、それはあたかも我々の中に優秀な医学博士や薬学博士、芸術家、哲学者、科学者、経済学者等々の様々な卓越した能力ある者たちを抱え込んでいるようなもので、それらの能力を様々な場面で自由自在に発揮させて、人生をおもしろく悠々と過ごして行ける境涯になる、ということかと思われます。」 ・・・ありがとうございます。
- hanniyagi
- ベストアンサー率15% (14/88)
釈迦が、人々に気づいて欲しい、と説いているのは。知恵、と、心、であり。 知恵と心は同じものであり、反対のものである。 知恵=心 であり。同じに。知恵×心=一つの統一体 =一定 という考え方です。 動物、畜生、は行動に駆り立てる、心、のままに行動をし、それが適切な対応となる事によって 生き延び、種族を存続させる結果になる。それが動物の、知恵、であり。進化、適応の方向となっている。 しかし人間は、心のままに行動し生きることは、出来ない、困難である。 知恵が一体のため、すぐ、妄想、空想、に取り憑かれ。適応行動にならない。 動物と同じになる、のではなく、動物以下、の生命体になりかねない。 無明(明かりがない、知恵がない)とは、知らない事ではなく、迷妄に取り憑かれる事であり。 そけが、人間の、苦、人を苦しめ、自分も苦しむ、地獄、の起源となる。 「人はその執着するところにより、喜び、が起こる」と言えば 釈迦は 「人はその執着するところにより、憂い、が起こる」と人々の、心、認識とは反対の事を答えます。 喜びと憂い、愛と憎しみ、は一体であり、同じ心の表裏である。 喜ぶ心が憂うる心であり、人を愛する者が、人を憎む者、となる。 悩みや苦しみを滅するには、喜びを求める心、も同時に滅するしかない。 人間は。知恵×心=一定 知恵が大きくなれば、心が小さくなる。 心が増幅されると、知恵は消滅する(想起しない)。人間は知恵によらなければ、適応出来ない。 発狂、自滅する?動物と考えていたのでしょう。 仏教の修行者への戒律とは、殺生をするな、世間の俗事に関わるな、歌舞音曲に耽るな、 酒を飲むな、、女人に関わるな。など、出離離貪、心、執着、を起こす、縁、から遠ざかれ。 なのです。 釈迦の修行を邪魔しよう、悟らせまい、とする。3人の魔女の誘惑の伝説がありますが。 魔女の名は、愛、と、憎悪、と、快楽、になっているのです。 愛とか、幸せ、を唱える宗教、西洋思想、とは反対の思想でもあり。 一般社会、この世、の思想ではなく。 釈迦の最初の説法の相手は、かって、修行(生滅滅為の実践)を共にした、5人のバラモン修行者であった。ように、かの世での、修行者、菩薩(ボーデイン・サットバ 悟りを求める者)に対する、指導思想、だったようです。 釈迦は女性の入門を認めたがらなかったが。高弟たちの強い要請に、渋々女性修行者、比丘尼、を認めた後。「これで仏教は500年早く滅びることになる」と言った。との話しがありますが。 女性は、心=知恵 であり、男は 知恵×心=1 と捉える傾向は幼児期から見られるようで。 女の子は早熟でしっかりしているが。男の子は、考え納得しないと、何も出来ない、遅れている。ところがあり。成長すると、心を超える、という意味での精神性が逆転するようです。 女性の入門を認めると、心の宗教に転化、変質するのが、500年、早まる。 女性の入門を認めなくとも、仏教は滅びる。釈迦の高弟、主立った後継者となるのは、 文字が書け、知的素養の高い、バラモン、、あるいは元バラモン修行者であり。 バラモンは、司祭、神事を司る階級であり。仏教思想自体、バラモン思想×釈迦の思想=仏教 の形態であり。自分が居なくなれば、いずれ、バラモン思想に、逆転それる、乗っ取られる、事は。承知していたのでしょう。
お礼
hanniyagi様、ご回答ありがとうございます。 >「無明(明かりが無い、知恵が無い)とは、・・・「知らない事」ではなく(!)、迷妄に取り憑かれる事であり。それが、人間の、苦、人を苦しめ、自分も苦しむ、地獄、の起源となる。」 ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
ご返答をありがとうございました。 ★(No.8お礼欄) 私が質問させて頂いているのは「メタ「ゴータマ・シッダールタ」」ではなくて、 彼が何を説いたのか?、という、(「ナマ「ゴータマ・シッダールタ」の)ことなのです。 ☆ それでしたら 特に見るべきものはない。という回答になります。 せいぜいが ふつうの倫理規範を説いたといったところではないでしょうか? 特に 性愛観では おおきなチョンボを侵しています。
お礼
bragelonneさん、ご回答ありがとうございます。 >「ふつうの倫理規範を説いた」 ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
ご返答をいただきました。 割り合いかんたんなところから考えを述べてまいります。 ★(No.6お礼欄) ここに≪罪を憎んで人を憎まず≫とあるのは、すなわち「性善説」である、ということでしょうか。 ☆ これは 一般の性善説よりも根源的なのでしょうね。言わば《性〈仏性〉説》なのでしょうね。 ★(同上) ゴータマさんが「仏性説」をどう考えたか、判らないことが腑に落ちません。 ☆ おっしゃるように 正真正銘の《仮説》として述べています。 たとえば 次のように問い求めをつづけています。 【Q:ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5224310.html ○ ちなみにこの質問での質疑応答を経たかぎりでは 実質的にゴータマさんは仏性を説いていたと見做す答えを得ました。 ★(同上) ~~~~~~ (後半) >「他方ではむろん現代でも無神論を標榜する人びとも少なくなく それはじんるいの歴史上大雑把にはこのブッダの説いた神学の系譜であると考えられます。」 んー、これもゴータマさんご自身が聞かれたら、どう考えるか、判らないわけですが、少なくとも前半の内容よりはゴータマさん納得されるのではないかな、と思います。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ この仮説の検証――途中までだと言わなければならないかも知れませんが――は 次などの質問でおこないました。 【Q:ブッダは 神ですか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4199231.html 【Q:ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5440380.html ううーん。限界はありますね。よしなに扱ってください。
お礼
bragelonneさん、こんばんは。ご回答ありがとうございます。 どうも、bragelonneさんは、「メタ」な方向へ行ってしまいがちのように思われます。 私が質問させて頂いているのは「メタ「ゴータマ・シッダールタ」」ではなくて、 彼が何を説いたのか?、という、(「ナマ「ゴータマ・シッダールタ」の)ことなのです。 「ゴータマ・シッダールタを評して欲しい」ということではないのです。
苦行の放棄については、中道の教えとして説かれていますが 実際面における解釈は、そう単純ではないと思います。 瞑想の最終段階において、苦行による衰弱から死に至り、悟りを得られない可能性を知ったために、苦行を放棄したという解釈もあります。 体力がなければ悟りを得られない・・・というのは回峰行の堂入りの判断にも似ているような感じもします。 ブッダの教説や体験については、それが深遠であるがゆえに、様々な解釈がなされてきたと思います。 解釈の浅深は、同時に解釈を行う人の境地を表すものでもあるようです。 そしてまた、どの解釈を選ぶのかも自由になされてきたと思います。 決定的解釈が存在しない理由もそこにあると思います。 最後は自分だけの仏教を探さなければならないのかもしれません。 それでいいのでしょう・・・ たぶん、ですが。
お礼
hetanosuke様、ご回答ありがとうございます。 >「ブッダの教説や体験については、・・・様々な解釈がなされてきたと思います。」 >「解釈の深浅は、同時に解釈を行なう人の境地を表すものでもあるようです。」 >「そしてまた、どの解釈を選ぶのかも自由になされてきたと思います。」 >「決定的解釈が存在しない理由もそこにあると思います。」 >「最後は自分だけの仏教を探さなければならないのかもしれません。」 >「全ては有限であり、相対的」 >「苦を脱却した状態を涅槃という」 やはり、質問してみて良かったと思います。 皆様のご回答のおかげで、私は自分の仏教に対する考え方や理解を、より深める事が出来たというように感じております。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 けっきょく 絶対者としての神――これが ブラフマンとしてすでにゴータマ氏の以前に説かれていた――に抵抗し(なぜならその宗教から 人道に反する身分制を現実社会に派生させていた) そして教義としても対抗するものを説いた。 ただしけっきょくは 主宰神ブラフマンおよびその宇宙霊が人間にも宿るとするところのアートマンを全否定したかたち すなわち徹底的な無神論 であった。アン‐アートマン(無我)説=涅槃論=空観=縁起説・・・。 ところが 後世になってそこまでの天与の霊感がゴータマくんにさづけられていたのなら それは 宇宙霊にひとしいと捉えられこれは ただし名称を変えて 仏性(如来蔵)と呼ばれた。 アン‐アートマン(無我)説による仏性は アートマンなる宇宙霊とおなじ概念であろうと考えられます。 古代ギリシャでは 同じく《宇宙の霊魂 プシュケー・コスムー》と呼ぶ神学があり ラテン世界では 《アニマ・ムンディ 世界霊魂》と呼びました。 近代人は この《神ないし無い神 つまりはそのいづれにしてもの聖霊》を 括弧に入れて経験合理性において経験科学を問うかたちを築きましたが この基本的な態度としての《括弧に入れる》という前提は往々にして忘れ去られたり あるいはぎゃくに無理矢理別のかたちで出し続けたりしつつ来ました。 科学万能主義になるか それとも 一般に《観念の神》としてただただ想念の内に生き続ける(つまりは 生きていない)かする形式となりました。 科学は 霊魂といった絶対の領域に対してただ触れるのを禁欲しているに過ぎないという批判つまりは考え直しが持たれていますし あるいは わざわざ〔すでに観念としてあるのみなのだからもともと生きていないのに〕神は死んだと宣言して 観念の神による洗脳(言わば自己洗脳)から脱却しなければならないというかたちも現われました。 ゴータマさんの生きた証しとしては 一方でむしろ仏性説として この宇宙霊が普遍的に人には宿るという通念としてでも受け継がれて来ていましょうし(《罪を憎んで人を憎まず》) 他方ではむろん現代でも無神論を標榜する人びとも少なくなく それはじんるいの歴史上大雑把にはこのブッダの説いた神学の系譜であると考えられます。
お礼
bragelonneさん、ご回答、ありがとうございます。 少し、用語(といっても基本的なものですが)を整理いたします。 「ゴータマ氏」・・・仏教の開祖と言われるゴータマ・シッダールタ氏の、開祖としてではなく、一人の人間としての側面に注目する場合、ゴータマさんという言い方がなされる 「ブッダ」・・・以前は、修行僧全般の尊称であったものが、ゴータマ氏以降、ゴータマ氏だけを表す特別な尊称となったもの >「けっきょく 絶対者としての神・・・これが ブラフマンとしてすでにゴータマ氏の以前に説かれていた・・・に抵抗し(なぜならその宗教から 人道に反する身分制を現実社会に派生させていた) そして教義としても対抗するものを説いた。」 >「すなわち徹底的な無神論 であった。」 ありがとうございます。 最後の段落について、前半と後半に分けて検討させて頂きます。 (前半) >「ゴータマさんの生きた証しとしては 一方でむしろ仏性説として この宇宙霊が普遍的に人には宿るという通年としてでも受け継がれて来ていましょうし」 ところが >「ところが 後世になってそこまでの天与の霊感がゴータマくんにさづけられていたのなら それは宇宙霊にひとしいと捉えられこれは ただし名称を変えて 仏性(如来蔵)と呼ばれた。」 なのですから、なのであるとすれば、ゴータマさんが「仏性説」をどう考えたか、判らないことが腑に落ちません。 ・・・ここに≪罪を憎んで人を憎まず≫とあるのは、すなわち「性善説」である、ということでしょうか。 (後半) >「他方ではむろん現代でも無神論を標榜する人びとも少なくなく それはじんるいの歴史上大雑把にはこのブッダの説いた神学の系譜であると考えられます。」 んー、これもゴータマさんご自身が聞かれたら、どう考えるか、判らないわけですが、少なくとも前半の内容よりはゴータマさん納得されるのではないかな、と思います。
説いたのは、全て方便。 本当に伝えたかったのは、 方便として表現する前の「それ」そのもの。 今この瞬間にも、 あなたは「それ」を見逃し続け、 既知の物事に置き換える事で、 汚し続けている。 「それ」は理解を超えている。 「それ」は理解が及ぶ様な代物ではない。 何故なら「それ」は、理解した瞬間に、 「それ」以外のものにすり変わるからだ。 本当は「それ」を「それ」と呼ぶのも適切ではない。 より適切な表現は「 」とか とかだけど、 一番良いのは理解も表現もしない事だったりする。 でも、それではみんな困ってしまうので、 表現すれば捻じ曲がると知りつつも、 仕方なしに色々と方便を説いた。 経典に書いてある事など、 精々その程度のもの。 本当に大切な事は、書けないし、説けない。
お礼
siryuan様、ご回答、ありがとうございます。 >「(でも、)それではみんな困ってしまうので、表現すれば 捻じ曲がると知りつつも、仕方なしに色々と方便を説いた。」 >「経典に書いてあることなど、精々その程度のもの。」 ありがとうございました。
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お礼
MooonStar様、ご回答ありがとうございます。 >「一切の苦しみは『欲望と愛着』によって生じていることを知る」 ありがとうございます。