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釈迦の教え

 釈迦の教えについて、NHKの「宗教の時間」などで聴いていますと「釈迦は、執着を断てと教えた」との講義がいたるところで出てきます。「欲の張りすぎはよくない、足ることを知れ」ということは理解できます。幼稚園の児でも分かることことです。出来ないから苦しむのです。「悪いことをせずに良いことをしなさい」そんなこと誰でも分かっていること。釈迦が世界三大偉人として崇められる根拠はどこにあるのでしょうか?理屈や教えで人間が変われるのであれば、この娑婆世界はとっくに神の世になっているはず。釈迦は何を伝えたかったのでしょうか?要するに心掛け次第だということでしょうか?よろしくお願い致します。

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回答No.1

お釈迦様の気が付いた最大の発見は「縁起」であったと聞いたことがあります。因果応報という言葉には深い仏教の哲学的な意味合いが込められていますね。「原因」があって相応の「結果」が起きる。これを因果と言いますね。 例えば、何かしらの努力をして良い結果を得るという構図です。しかし、努力をしても良い結果ばかりを得られないことが現実の人間の世界です。結果によって奮起する者、脱落して行く者と様々でしょう。 ここでお釈迦様が発見した「縁起」の考え方がとても革新的だったんです。原因と結果というものは「縁」によって結ばれていると思い至ったのです。これを因縁果というんですね。原因と結果が縁によって結ばれているとするのなら、例えそれが悪い結果であっても、もちろん良い結果であっても、仕方が無いこととして受け入れることができるようになるものですものね。 縁というのには色々な意味合いがあると思いますが、「不思議さ」とか「神秘」などの意味合いになるものだと思います。般若心経に沢山出てくる「無」という意味と同じものです。 人間の人生は、全てが自分の思い通りになるものばかりではありません。であるのなら、目前の課題に対して、「自分が」挑めるものと、自分の努力とは関係なく全面的に「受け入れるしかない」「委ねなければならない」ものとを見極めなければなりません。 この「受け入れ難いもの」に出会ったときに、その出来事と自分が縁で繋がっているという視点を持つことだけで、今までに経験のなかった新しい視点、新しい境地を人間は生み出すことができるのです。何事にも結果が生産的であるのなら、意味の無い、無価値なものは無いと思い至るのだと思います。 また、お釈迦様のユニークなところは「苦しみ」というものを認めているところにあると思います。生老病死、愛別離苦と言った仏教の苦しみの分類は、むしろ哲学に似ているものですね。 この世界をどのように見るのか? ただ悪いことばかりが起きる運の無い人生なのか? 起きてしまった出来事は縁からの贈り物なのか?それとも? というように、一人一人が自分の生き方を模索して行く。お釈迦様の考え方はそういう思考の道程にあって、後世の人間はそれを学び、超えていくことを目指さすことができるのだと思います。生きるってその一点だけ考えても素敵なことですね(^-^)

kisenyama
質問者

お礼

実に分かりやすい御説明をありがとうございました。「縁からの贈り物」として受け入れる。「超えていく」ことで僅かでも変われる。肝に銘じて勉強します。ありがとうございました。

その他の回答 (2)

回答No.3

その様な文学的な思想ではないと思います、人はこの世に生まれ生き方は様々ですが、死ぬ時の心構えを説いているのではないでしょうか。即身成仏、どのような死に方をしても仏様(太陽)になれるのならそれに越した幸せは無いと思われます。仏の世界は宇宙そのものだと考えられます、世間の細々しい事は取るに足りない事です、いずれすべての人は宇宙のチリになるのですから。ご質問にそぐわないならスルーしてください。

kisenyama
質問者

お礼

ありがとうございました。娑婆の浮沈、栄枯などを説いているのではないのですね。少し、釈迦のレベルの高さを感じられたように思います。これからも勉強します。

noname#223196
noname#223196
回答No.2

私も普通に生き普通に死んで行く凡人ですから大した回答はできませんが自分なりに思うところを表してみましたのでご参考まで。「悪い事はするな、良いことをせよ」当たり前の誰でも知っている事→確かにその通りです。しかし、言葉で表現可能な世界には限界があり言葉で釈尊の体験した真実を覚知することはできません。言葉の向こうに展開される世界は釈尊の言葉を聞いた人間の推理想像力によってのみ見いだされていくものです。一般の方はその精神的作業が面倒なので仏教つまらないで終ります。良い事、悪い事した結果その行為の連鎖が波の様に広がってやがて自分に還ってくる一部始終を釈尊は「見た」のだと思います。この世が当人にとって如何なるものであろうとそれは当人の心が同調した世界であり(これは私の観)仏教とは教えられるものでなく、自覚され獲得される宗教、ではないでしょうか。

kisenyama
質問者

お礼

う~ん。御説明の中に「良くない行いをしたときの君の行きつくところが心配でならないのだ。断じてその壁を越えよ」という釈迦の慈悲がこめられているのだろうか?という感じがしました。ありがとうございました。これからも勉強します。

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