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生きながら神、仏となる人は

人々に甘えて、むしろ依存体質と言うことができるのではないでしょうか。ですから、あなたが神仏頼って甘えると、とてもとても重荷に感じてしまうでしょう。神仏とつき合うということは、生活の基盤を頼るのではなく、快楽や刺激、遊びなど人生の色どりを楽しむようにするとベストなのではないかと思うのです。 頼りすぎないこと 寄りかからないこと どう思いますか?

みんなの回答

  • reodesuyo
  • ベストアンサー率11% (2/18)
回答No.11

神は空を飛び、そして不老不死。 それができないものは全部インチキ神。 キリストとか釈迦なんかはインチキ偽物。

noname#156094
noname#156094
回答No.10

お正月になると皆な初詣に行きます。 おしゃれな支度をして、わいわいぞろぞろと楽しい感じです。 お賽銭はいくらにしよう? 10円か、50円か、100円か? 間をとって50円にしよう いや、思いきって100円にしよう ご利益がないといけないから あっ、お札を投げている人がいる もったいないな・・・ 今年は良いことがありますように 家族が元気で過ごせますように 仕事がうまくいきますように お金がたくさん入りますように すべて順調にいきますように 100円じゃ少し足らなかったかな・・・ やれやれ・・・お願いが沢山あって神様も大変です。 信心も鰯の頭から鯨の頭までいろいろみたいです。 鰯と鯨の違いは誠意の違いみたいです。 自分は小さな鰯ですけれども・・・という気持ちは鯨に近い 逆に一万円札を投げている鰯みたいな人もいる、といった感じもしますが・・・ 信心の基準を設けることが人にはできるのでしょうか? たとえ出来たとしても、それはあやふやではないでしょうか。 人との付き合いが人それぞれであるように 人と神仏とのお付き合いも人それぞれのような感じがします。 それでいいのではないでしょうか。

  • rfrfr111
  • ベストアンサー率14% (62/414)
回答No.9

なにこれ? あなたの哲学それとも何かの抜粋? 神に依存するな、頼るなと言いたいのかい? まあ誰も、神様に頼って神様が応えてくれたことなどないでしょう。 自分の心の整理をし行動を起こすのに上手に使えばいいだけでしょう。 今幸せにあること、これから起きること全てが感謝すべきことであることを、自分の両親、先祖に感謝すればいい。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.8

神仏とは快楽や刺激、遊びなど彩を楽しむようにするのがベスト??? リアルでは言わないほうがいいですよ。まともな人格を持った人からは確実に軽蔑されますから。 テレビやマスコミで言っているような、あるいは未熟な連中の言葉を真実だと思わないでちゃんと常識を学びましょう。

sarasuva
質問者

補足

ごもっともです

回答No.7

生きながら神、仏となる人だろうがそうでない人であろうが、人間は生活の基盤を他に依存して生きてます。それは重荷ですが他に頼らず寄りかからず生きていくことはできません。それはそれとして、快楽や刺激、遊びなど人生の色どりを楽しむことはすばらしいことですし、楽しませる側もいいんですよ。 だから、なんであれ、やりたいことをやりたいだけ、おおいにやったらいいです。

  • yuyuyunn
  • ベストアンサー率41% (20359/48650)
回答No.6

#2です いいや全然 酒井大阿闍梨様の本でも読んでみて下さい 皆足元にも及ばないって思うから

sarasuva
質問者

補足

いや… そしたら、しん〇ゅくの大都会の道端で、何十キロの鉛の背〇子を背負って、何十万人の相談役になって、役に立ってる、密教〇者の方が足元に及びませんよ。 そう簡単に本なんて書けませんから。

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.5

神仏に対して人間は片想いになりがちですので、おっしゃるように過剰な期待を持たないことは大切と感じます。

  • kirin1985
  • ベストアンサー率40% (50/123)
回答No.4

自分は仏教を信じる無神論者ですので、仏教に従い回答致します。 神と言う存在を信じませんが、神に近い存在は信じます。それは自我を削ぎ落とせた人、利他的人間と解釈しています。当人の仏陀は因果応報と諸行無常を伝えました。 因果応報、日本流には「情けは人の為ならず」と利己的に解釈されましたが、本質は利他的な配慮です。諸行無常は煩悩に執着する利己心を戒めています。 その思想に従い僧が祈り、僧になり得ない者が托鉢をする。信じている者同士では当たり前に思います。依存と言う言葉自体が煩悩、利己心を内包した思考です。依存され重荷と感じる僧がいれば、それは仏教の本質を理解していない生臭坊主です。まして神と自称する、あるいは崇められる存在がそれを重荷と感じるとは思いません。 仏教に限らず宗教は生き方の指南です。人は信じる添え木があれば強くなります。宗教は多くあります。快楽を戒めるのも、もしかしたら快楽を薦める宗教もあるのではないでしょうか。生き方としての宗教、人によって合う合わないあります。人口の数だけ宗教あってもおかしくありません。 個人的には、質問文全てに反対ですがm(_ _)m、生き方、考え方は人それぞれです。d(^_^o)

sarasuva
質問者

補足

自我は削られて捨てられないと思います。煩悩108と言われておりますが、もっとありまして30万以上あると言われてます。欲がないのもよくないし、欲がありすぎてもよくありません。いかに円く削られていくかだと感じます。誰にでもこだわりがあって、譲れない部分はあると思うのです。

  • dotamao
  • ベストアンサー率19% (5/26)
回答No.3

基本的に人間は人間ですから神にも仏にもなれないのは分かりますよね? でも人生を振り返った時、そこには恩人が居るわけでそういった人がその人の人生においての神様になるんじゃないかと僕は思いますね。 僕は今年で43歳のまだ若輩者ですけど、若い頃は甘ったれ人生生きてましたよ。それを見かねた鬼が出てきました。 でもその鬼もリスクを背負ってます。その甘ったれの恨みを一身に受けるんですから。 その鬼が鬼のままで終わるか神に化けるかはその鬼がどれだけ真剣に相手と向き合うかによっても違います。 人間てどうでもいい時はどうでもいいんですよ。 ただここぞという時どういった行動をとるかで決まりますよね。 例えば自分の命を省みず他人の命を救った時、救われた命にとってみては救ってくれた命は神様ですよね。 そう考えると神様みたいな人には滅多に出逢えないのかもしれないですね。 僕も甘ったれ人生生きてたからこそ出逢えた神様だったのかもしれない。 あのままだと野垂れ死んでた所を鬼になって救ってくれましたから。

sarasuva
質問者

補足

おっしゃる通りだと思います。 >基本的に人間は人間ですから神にも仏にもなれないのは分かりますよね? 孟母断機ではありませんが、積み重ねてきたことが凝縮された時、本当の神、仏が現れて救ってくださるのだと思います。まさにここぞという時です。それは見たこともない迫力で向き合っていきます。そして何度も現れません。(結果が出ればいいのです) 鬼になってくれるのは、守るものがあってこそだと思います。

  • yuyuyunn
  • ベストアンサー率41% (20359/48650)
回答No.2

いや、甘えていないと思いますよ 人々の幸せを願い あえて言うなら神や仏と二人三脚で間に進んでくださっている方々ですから

sarasuva
質問者

補足

神、仏になれる人は幸せを願ってますが、それには自分が幸せでないと、人に幸せを与えられないですよね?住む場所、食べもの、着るもを施して貰っているではないですか。それがどんどんエスカレートしていくんですよ。