- ベストアンサー
グループ内での権力構造?群れの心理学?
「たとえば、学校などの閉鎖空間の中で友達を作る」ということを考えた場合、これはその価値のシステムの中での権力争いということにはならないでしょうか? 僕はこのようなことが苦手で、あらゆる価値のシステム(学校、やさしさ、友達、恋人、サークルなど)から距離を置いてしまいます。 だれか、このことを説明してください。 よろしくおねがいします。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>あらゆる「場」にはそれ相応の >ペルソナ(仮面)が用意されていて、 >それを着けて舞台に上らざるを >得ないような状況がある これは、ユングのペルソナより、社会学の分野で研究されてきた考え方に近い気がします。 例えば、哲学者でもあり社会学者でもあったドイツの人、ゲオルク・ジンメルは、「社交性」という概念で、人が集まる場所では人びとはその場に相応しい形式を導入する、という意味のことを述べています。つまり、人びとは場面によって、それなりの振る舞いを、誰に強制されるでもなく、するようになる、ということです。これって、tricleoreさんのおっしゃる「価値システム」とか「ペルソナ」という概念と近くないですか? また、やはり哲学者でもあり社会学者・社会心理学者でもあったアメリカ人、G.H.ミードは、「自己」をまさに、ペルソナ的なものとして捉えました。僕らは、この世界の中で他者達との相互作用過程を生きており、「自己」や「意味」を相互作用の産物として捉えたんです。僕らは他と孤立した存在ではく、誕生とともに存在したのでもありません。ミードによれば、誕生後のさまざまな社会的経験と活動のプロセスの中で、「僕」なるものが生じてくるんです。 このミードの立場は、社会学の中で、ハーバート・ブルーマーというアメリカの社会学者に受け継がれ、「シンボリック相互作用論」という名を与えられます。シンボリック相互作用論とは、ブルーマーによれば、僕らは物事が僕らに対して持つ意味を参考にして、その物事に対して行為します(これはギブソンのアフォーダンスの概念に近いです)が、肝心のその「意味」は、僕らがその仲間と一緒に行動し、行為する中で、その相互作用の中で導き出され、発生すると考えられます(これはヴィゴツキーの最接近領域やレイヴ&ウェンガーの正統的周辺参加の概念に近いです)。つまり、僕らは他者と「意味」というシンボリックな水準で相互作用するということになりそうです(あるいはラカンやバルトなどの構造主義に近いかも知れません)。 ところで、ミードもブルーマーもシカゴ大学の教授でした。彼らの流れを「シカゴ学派」と呼ぶことがあります。その流れの中で、シカゴ大学から博士号を授与されたE・ゴフマンという社会学者も忘れてはいけません。彼は、「ドラマトゥルギー」という概念を提出しました。これは、日常の相互行為を「劇場のパフォーマンス」として見る発想で、あるいはもしかしたら、tricleoreさんの発想に一番近いかも知れません。彼は、日常をドラマのようにしてすごすことで、つまり僕らがある場面では、決まったある役割を背負うことで、相互行為の秩序が維持されていると考えました。 以上のような、秩序(価値)システムの発生因として権力を見出したのがフーコーだと思います。もし、興味があれば、僕が今回、あんちょことして使った有斐閣の『クロニクル社会学』を読んでみてください。代表的な社会学者ごとに章分けされ、人と理論が解説されています。フーコーも出てきますよ。
その他の回答 (4)
- jjjiiiooo
- ベストアンサー率28% (42/146)
<ブサイクや性格的におかしい人という表現はあまりすきではありません ゴメンナサイ。自分もそんな表現は好きじゃないです。 ただ優劣は、他人からみれば本人以外「ほとんど、どーでも良い」と感じてるっていいたくて使いました。 さて、客観的に見て tricleoreさんが >そういう人たちに魅力を見出してしまいます。。。) これは,憶らく「立場からくる落ち着きや安心」なのだと思います。tricleoreさんが、苦手なことが好きな「苦手な人達」へ苦手感から→そうでない人達に共感を感じ、安らぐのでしょう。 自分が言いたかったのは、 tricleoreさんが今、そういう人達に魅力を感じるならそれで良いと思うんです。 是非、そういう人達と友達になるべきです。 問題はそこに「劣や下」またそういう人種に「駄目や悪」と捉えない事です。それは自分自身への判断にもなります。 人間は得意な事や、苦手な事がある。 そして人によって特徴が違う。 それは、下や劣や悪ではない。だから、そう価値判断しないで、しっかりした人間価値判断を持ち 自分の心を自由にすれば楽に、強くなれると考えます。 <やはりこの問題にとらわれてしまいます 時間が解決してくれます、ま、徐々にですが あとは、格闘技なんか習ってみてはどうですか? 強くなる事で、心にゆとりや強さが得られるかもしれませんので ではでは。御参考に
- jjjiiiooo
- ベストアンサー率28% (42/146)
苦手な事は、苦手だと思っていたら、ずーっと苦手なままです。 苦手な事は悪い事ではありません。 苦手な事を「悪いこと」と思っていては、自分を責め、よけい苦手になり、悪循環に入るだけです。 苦しいとおもうから、苦しいだけで、この世に「苦しい」なんてものは本当の所「実在してないですよ」 苦しいと思う人の「心の中にだけ存在しているだけです」 つまり、苦しいなんてものは本当は自分で発生しているのです。そんなものないのに あなたは誰か他人に迷惑を掛けるような人間ですか? この世の中は所詮「自分以外、全て他人と他人によって成り立ってます」 あなたも1他人からすれば「ただの1他人です」 つまり、他人から他人を見れば 本質的には自分に悪影響がない限り「どーでもいい」のです。(好影響は本質的にはどーでもいい次元です) 苦手=苦手になる環境にいたのです。 得意になる環境を作りましょう。例えば、気が合う友人を1人でも作るとか そうやって少しずつ苦手を「楽しい」に変える努力をする事も大事だと思います。 でも、まー、まずは「人間はだれしも特別ではない」と知るべきです。つまり、苦手な事があるあなたも、普通な人だという事に気付くべきです。 そして、そんなことは本質的に価値判断に値しない事だと。 あなたのクラスにはブサイクな人もいるでしょ?けど、別に何とも思わないでしょ? でも、なかにはそのブサイクな人の中にも、そのことを過剰に意識してしまっている人もいますね そういう人を見ればあなたも「誰も、あなたの事なんかどーとも思ってないよ、だって「どーでもいい他人」なんだからと感じるはずです。「だからそんな風に意味ない自責をしても損なだけだよ」と けど、本人はその事を悪い事、駄目な事と捉えてしまい、悪循環・・・ダメダメダメ・・とそして、より自分の中で「駄目な物」としてしまうのです。 駄目、なんて存在してないのに、発生させ存在しているのは自分の心の中だけです。 ま、そんなこといってもなかなか心は思った様になってくれないですけどね(笑) でも、質を徐々に変化させる事は可能です。ではでは
お礼
回答ありがとうございます。 そうですね。 >少しずつ苦手を「楽しい」に変える努力をする事も大事だと思います。 この姿勢は大事だと思います。あと、他人が僕のことを何とも思っていなく、また、僕は一般的な何の変哲も無い人間だとはわかっているつもりですが、やはりこの問題にとらわれてしまいます。 価値を相対的に見すぎているので、分裂病気質かもしれません。ブサイクな人(僕が思う範囲で)や性格的におかしい人(同左)に感情移入をしてしまいます。そう言う人たちを、無条件に排除するような思考形式を持てれば、精神的に安定すると思います。僕はいつも「弱いものの味方」(自分自信も弱いと思うし)という視点と「強いものへの憧れ」の間で揺れていて、つらいです。(ブサイクや性格的におかしい人という表現はあまりすきではありません<さっきは、わかりやすいようにつかいましたが。。>そういう人たちに魅力を見出してしまいます。。。) 回答ありがとうございました。
- jume
- ベストアンサー率46% (71/152)
あの質問は、こういうことでしたか(笑) 実は僕もいわゆる「常識」的な価値システムに乗ることが苦手で、適当に自分とシステムをいなしながら生きてきた感じがします。僕は、この価値のシステムを一つの「ゲーム」と捉えようと思っています。ゲームには、ルールが必要で、ゲームに乗るとは、そのルールに従わなければなりません。その場合のルールは、しかし明文化されたルールではありません。確かに、法律も一つのルールであり、現代の日本では、立ちションも重婚もしてはいけないことになっています。法律までいかなくても、自治体によってゴミの分別には一定のルールが設けられています。ところが、そんな明文化されたルール以外にも、とりわけtricleoreさんがあげてらっしゃる、「学校、やさしさ、友達、恋人、サークル」という場には、明文化されないいわゆる「不文律」があります。これをフランスの思想家ミシェル・フーコーは、「生の権力」と呼びました。(ゲームと言う点では、ウィトゲンシュタインも想起されます) 例えば学校には、隠れたカリキュラム(ヒドゥン・カリキュラム)があります。それは文科省や教育委員会や教師が明文化した目標達成のためのカリキュラムではなく、教師や生徒間で交わされる会話や遊びや、インフォーマルな場でのコミュニケーションの中で、価値として、あるいは行動規範として、子どもたちに学習されることになります。その子どもたちが大人になり、その子どもを教育する立場になるわけですが、教育しようと思ったことのほかに、彼と交わした言葉や行動によって、また子どもは行動規範を学習することになります。そうやって現代の社会は形成されてきたわけですが、これを社会学者イヴァン・イリッチの理論を受けて宮台真司は、これを「学校化」と呼びました。僕たちは、「学校的」と言うと、何か真面目なものを想像しがちですが、僕らが学校で学習するのは、単に勉強や道徳だけではなく、それとは別にインフォーマルな学校的な生き方というのが学習されているわけです。それが僕らの価値や行動を束縛しています。「学校では教えてくれないこと」は、大抵、学校で教わっているのです。 インフォーマルな学習ということでは、心理学で最近注目を集めている「状況論」を考えないわけにはいきません。これは認知心理学の新しい考え方ですが、理論として、心理学を超えて出てゆく可能性を持っています。簡単に言えば、状況論において、学習とは、ある共同体へ参加することです。例えば、どのような状況であいさつが交わされ、どのような状況で笑うのか、ということを学習することが、ある共同体へ、参加するということになります。言語もまた、その共同体へ参加するために必要です。言葉がしゃべれない人の周囲では、独特のコミュニケーションが発達しますが、そういう風にして、人は自分が生きるために必要な環境(生態学的ニッチ)を構成するわけです。この方面での代表的な理論家(心理学者)は、JJギブソンですが、他に教育学の分野で高名なヴィゴツキーや、文化人類学・民俗学でも注目されているレイヴ&ウェンガーも忘れてはいけません。 したがって、以上のようなことを考えると、ある価値や権力大系は、ある程度、必要なことなのかも知れません。もちろん、そんな支配的な権力やイデオロギーに対して、批判する目を忘れてはいけません。それがマルクスが教えてくれたことで、ソビエトが倒れても、なお保てた彼のアクチュアリティです。 まぁ、そういう言い方をすれば、カッコ良い気がしますが、自分が落ちこぼれている気がしないでもありません。実際、僕は言語だけの存在です。実生活では、かなりみっともない人間です。しかし、それもまた、学校的な価値判断なのかもしれませんが…。
お礼
最後の落ちが面白かったです(笑) そうですね。僕はミシェル・フーコーの新書を2冊くらい読みました。今卒業論文を書いているのですが、この価値のシステムに対する身のこなし方を書ければよいと思っています。ちなみに主に扱っている文献は、カミュの『異邦人』です。 そうですね。その不文律が昔わからなかったんですよね。その不文律を無意識のままに内面化できる人が、「うまくやれる」奴なんでしょうね。 僕もこれをゲームのように考えようと思います。そのためにはやっぱり、この構造をもう少し理解したいと思っています。 これはちょっかんですが、そういったあらゆる「場」にはそれ相応のペルソナ(仮面)が用意されていて、それを着けて舞台に上らざるを得ないような状況があると思います。組織化された「場」では、それだけペルソナも強固になるような気がします。思いつきで書きました。回答ありがとうございました。
補足
人間は分かり合えないのだろうか。 と、ナルシスティックに思いつめたいと言う欲求にかられることしばしば。しかし、そう単純に決め付けられないことも知っているから、ナルシスティックに逃避することもできない(苦笑)。と、つい書いてしまいましたw ちゃんとしたカウンセラーに話を聞いてもらったほうがいいかもしれないです^^;
- jjjiiiooo
- ベストアンサー率28% (42/146)
<学校などの閉鎖空間の中で友達を作る」ということを考えた場合、これはその価値のシステムの中での権力争いということにはならないでしょうか? いや、別に権力に偏ったものではないでしょう。 例えば、人間は精神上「安心や共感」を自然と求めてしまう構造になってます。 これは、あなたが音楽やゲームをしたり漫画を読むのと同じで、心が楽しみを求めるからです。 心の楽しみ、つまりノンストレス状態は、心身の免疫状態、抵抗状態を高めてくれます。 よって自分にとって良い → よって悩(心)がそれら「安心」「共感」それらから来る「ゆとり」を求め その根元である友人(仲間)という共感取得要素を求めるのでしょう。 権力と思うのは、そこに自分の優劣の劣を感じてるからではないでしょうか? 自分への劣等感、そこから、それら自体に苦手感、そして遠ざける。と捉えてしまうので、自分の苦手→自分にとって弱い部分→よってそれらが強いもの→最終的に自分が弱く苦しむ為、そうでない、自分の苦手なもの→(友達、やさしさ、学校、恋人、サークル)などを権力(強い物)精神的に有利な物。と思ってしまうのではないでしょうか? でも、これは、あなたという立場から見ての世界観なんですよ 彼等はただ無意識に上記の楽しみを求めていたり 楽しいから、楽しみたいから、やりたいから、幸福感への願望があるから(サークル、恋人など) や、 寂しいから、不安になりたくないから、辛くなるのが嫌だから(友達) や、 単に将来の事や、親のいう事がその人にとって大事だから、それ以外ないから(学校) と求めているだけの場合がほとんどですよ。 まあ、物事の姿、価値などは角度と立場などで変化してしまうものです tricleoreさんが、そう感じるのは、tricleoreさんがそれらが苦手だからです。 勿論、それは悪い事ではないですよ。 苦手→遠ざかる→客観に見られる→物事の形を、正しく見る事が出来る。 など、違う立場だから得られる、気付く事が出来る、有意義なこともあります。 また、欲求のあて場がしぼられる→何らかには非常に強くなれる。という事でもあります。 ではでは、御参考に。
お礼
回答ありがとうございます。 >楽しいから、楽しみたいから、やりたいから、幸福感への願望があるから(サークル、恋人など)や、寂しいから、不安になりたくないから、辛くなるのが嫌だから(友達)や、単に将来の事や、親のいう事がその人にとって大事だから、それ以外ないから(学校) この「幸福への願望」がちょっとこわいですね。幸福への願望は、つまり、エゴイスティックな欲望なわけで、よりよい立場を獲得するために、既存のシステムの一部に積極的に参加するような気がするんですよね。。。全体主義みたい。。。その価値のシステムには必ず排除されるものが出てくるわけで。。。 確かに、僕は必要以上の恐怖感を抱いていたかもしれません。 回答ありがとうございました。
お礼
クロニクル社会学おもしろそうですね! それ以外にもいろいろ教えてもらい、ありがとうございました!
補足
非常に詳しい回答ありがとうございました。 「ドラマトゥルギー」何度も耳にしたことがあります! E.ゴフマンですね! 実は、今、大学の図書館の近くでキーボードをたたいています。「クロニクル社会学」、「ゴフマン世界の再構成、共存の技法と秩序」を検索したので、これから早速借りて読んでみようと思います!卒論提出まであと、12日!!!!