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価値のシステムについて(権力かな?)
たとえば、会社、「美人論」、「やさしさ」など、なんでもいいですが、そこには優劣を定めるような価値のシステムが存在すると思います。その、価値のシステムをわかりやすく説明できるかた、または、そういうものを研究している哲学者などはいますでしょうか。たくさんいると思うんですが、ちょっとぼくにはわかりません。もしよろしければ教えてください。よろしくお願いします。 「真・善・美」というよりは、世俗の価値システム。例えば、隣人との間の権力???関係?クラス内の優劣???など、の方向で考えていきたいです。質問分がわかりにくくてすいませんでした。
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そうですね。 もう少し質問を絞った方が希望に沿う回答が出やすくなると思います。 真とは何か?善とは何か?美とは何か?というのであれば とりあえず「哲学」ですが そういうのをお望みではないわけですよね。 哲学が求めるのは基本的に「普遍性」ですが もっと世俗的な方向に行きたい つまり「普遍」ではなく「固有の文化性」を知りたいのかな? とも考えられます。 その場合は文化研究、所謂「カルチュラル・スタディーズ」 あるいは「比較文化論」なんていうのが思い浮かびます。 例えば、未開社会の親族構造を分析し、未開人の秩序構造を考察した レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」「野生の思考」とか 文化の解釈の歴史的な流れ、文化と市場経済の関係性などを考察した とレイモンド・ウィリアムス「文化と社会」なんかがあります。 レヴィ=ストロースと前後して フーコー、バルト、ラカンといった「構造主義」を 見ていくのもありかもしれない。 ともかく、カルチュラル・スタディーズは様々な文化をテーマにした 多様な研究を便宜上ひとつのジャンルにしたものですから tricleoreさんの関心が向かうテーマがあるか?が問題ですよね。 世俗の価値システム、という言葉をそのまま受けると 「社会システム理論」が思い浮かびます。 社会システム理論が扱う基礎概念として 例えば「システムとは何か」「制度とは何か」「信頼とは何か」 「ルールとは何か」「機能とは何か」「進化とは何か」 「学習とは何か」「適応とは何か」、と ざっと思いつくだけでこんな概念が出てきます。 このようなことにtricleoreさんの関心が向かう関心かあれば ニクラス・ルーマン「信頼」「制度としての基本権」があります。 手っ取り早くは以下のサイトを。 http://www.miyadai.com/texts/virtual/01.php 最後に >隣人との間の権力???関係?クラス内の優劣???など 心理学かいな?という気もします。 まあ、とりあえずヒントになれば、ということで。
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- cse_ri2
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たぶん質問者の方のいう「世俗の価値」については、 プラグマティズムについて調べればよいかと思います。 Googleで「プラグマティズム」で検索してみれば、けっこうな 数のサイトがヒットします。 美人論・クラス内の優劣、たいてはプラグマティズムで説明が つきそうですね。 美人がもてはやされるのは、美人の方が多くの男性たちに 与える影響が大きいから。学校で成績で優劣をつけるのも、 学歴社会では勉強ができる人の方が、より有益だからです。
お礼
回答ありがとうございます。 ゲーム理論みたいなもんですかね?
- murasakit
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大変難しいことで悩んでおられると思います。実を言えば、私もこの方ずっと、この問題で、悩み、自問してきた歳月かなと思ったりします。 簡単に言えば、「有用であるか」「役立たず」かと言う経済的価値観が全ての価値観を動かしているのではないでしょうか。どうすれば、利益が上がるかどうかと言う事に、全ては拘束されていると思います。ところが忘れてならないのは、この世の中、人間社会だと言うことです。人間がいることで成り立っている、経済社会だということです。人間社会の生を横軸に、経済的価値観が縦軸になって、複雑に、人間社会の価値観は出来上がっていると思います。 大きく見たときに、この利潤優先の価値観は、合理的なようで、非合理的なものだから、人間のより良く生きると言う価値観と衝突します。この衝突。軋轢が、人類の歴史ではなかったかと思います。 たとえば、「やさしさ」も、2つの価値観から拘束されています。今話題になっている「リストラ」を「やさしさ」と言うことから考えてみるとどうでしょうか。一人の家庭生活に対する、また人間に対する「やさしさ」と言うことからいえば、この「リストラ」は否定されるものです。世の中の人が、否定しても、実際、「リストラ」は現在、ますます強力に実行されています。「やさしさ」と言う価値観は、経済社会の中では、通用しないのです。だから、価値観と言うのは、経済的価値観によって、左右されていると言うのが事実です。だけど、「リストラ」と言う事実が、そのまま黙認されているのかと言うと、人間性の価値観の面から、ブレーキがかけられていることも事実です。勿論、「やさしくない」と言うだけでは、歯止めはかけられません。「やさしさ」を教育された人間が人的結合や、法律などの力を借りて、この経済的価値観に、合理的な歯止めをかけていっているのではないかと思ったりします。 今あげた例は、一般的に、感情としては、理解できることですが、 この「やさしさ」についても、もっと深く多面的に考える必要もあります。 貴方が質問なさっておられる「やさしさ」と言う価値観は、人間社会に深く入り込んだ局面での、人間対人間が葛藤する場面での価値観だとお思います。 そういう場面であっても、最初申し上げた、2つの価値観が縦糸、横糸になっていることは、最後には分かってきます。ただ、誰にとっての「やさしさ」か、どんな「やさしさか」と言うことまで、細かく見ていかないと、この結論まで説明することは出来ません。 今日はこのあたりで、触りだけに止めておきたいと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 僕は、「やさしさ」もひとつの価値システムだと思っています。やさしさという価値に合致しない場合、全人格的に否定される場合があります。「やさしさ」を疑うことはむずかしいので、「やさしさ」全開の人は、権力を容易に手にすることができます。これに対抗するのは、「世間知」などの「真実を見る眼(抽象的ですいません)」だとおもいます。
こんにちは、「美人論」に誘われお邪魔してしまいました。 価値システムと言うと、価値法則と言い換えてもいいですよね。世俗の価値法則は、哲学・経済学・社会学等の中にバラバラに散らばっているといった感じですね。 マックスウェーバーとシュモラーの価値判断論争が有名です、私も探していますが、論争自体を扱った本はなかなか見つかりませんね。 ウェーバーの「学問から価値判断を排除する」意見がその後の主流となっています。 「普遍的価値法則」は、存在しないかもしれませんね。 「真・善・美」と同じで{「価値」そのもの}は、認識も経験も不可能なようでございます。
お礼
はい。バラバラといった感じです。 普遍的価値法則は僕も存在しないと思いますね。ただ、もしか したら、人間存在の枠組みよりさらに大きいものがあり、 それがいまだに人間が気づかない普遍的な価値を支えている というような気がしないではありません。 それは、人間が作り出した哲学・宗教などを越えて、人間 以前のものでしょうね。たとえば、太陽とか海とか。 回答ありがとうございました。
- jume
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権力と言えば、フランスの思想家ミシェル・フーコーでしょう。ニーチェというドイツの哲学者の名前はご存知だと思いますが、彼が 価値は解釈に過ぎない と述べたことをフーコーは、歴史社会学的に実証的に研究し、ある価値が時代や場所によって異なることを発見し、それを解釈の土台(エピステーメー)と呼びました。 価値は、権力的に働きます。僕らは、価値に対して自由ではありません。僕らは、価値を自由に創造することは出来ません(想像することはできますが・笑)。したがって、権力とは、誰かが「自由に」行使できるものではないようです。目に見えていた権威や権力、すなわち既存の封建的な価値が崩れたことを、ニーチェは「神は死んだ」と述べましたが、そのあとの現代を生きる僕らは、どのような価値(権力)の中に生きているでしょうか? 僕らの時代の権力は、上からの押し付けがましい権力ではなく、横並びの見えない網の目のような権力ではないでしょうか? それは、ある意味では、上からの権力より厄介な権力です。 あと、この話題について、僕が興味を持っているのは、シモーヌ・ヴェイユというフランスの思想家です。善意の集団が暴力的な、悪魔的な相貌を表わす一瞬の考察を深めた人で、そのアクチュアリティは、連合赤軍事件を経た今、まだ高まりつづけていると言えるでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 僕も漠然と、ニーチェ、フーコーで考えていこうと 思っていました。(まだまだ、浅いですけど。。。^^;) シモーヌ・ヴェイユですね。 名前だけの存在でした。早速、調べてみようと思います。^^
- kamin
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権力とは、自らの意志によって状況を動かすことの出来る力だと思います。 具体的には、受け身ではなく能動体の方が強いということです。欲しい物を求める資格は、与えられるのを待つだけの受身の人間には属しません。 能動体の人物には何が備わっているべきかというと、 (1)努力によって勝ち得た能力と、(2)先天的な能力のどちらかでしょうか。 簡単な例を挙げると、 (1)の場合、外国に行ってタバコが買いたい、そんな時に英語なり現地の言葉が話せなければタバコを手に入れることが出来ません。つまり、能力なしには自分の欲望を果たすことが出来ないということです。 これは政治や恋愛にも当てはめることができ、国を動かす知能を磨かなければ政治は出来ず、やさしさや機知を全く持たない人間が恋愛に成功しないのと同じことです(もちろんこれは話の筋上の短絡的な見方であって、現実の恋愛はほとんどが相性やタイミングの問題ですが・・・)。 (2)の場合。スーパーモデルになりたい。身長が150cmなら無理です。 蛇足ですが、セクシャルな関係についても同じことが言えるでしょう。『源氏物語』で女性が自分の想いを遂げるためには男性を待つしか手立てがなく泣き暮らすのは、当時の男性社会の構造に加え、肉体的に男性が積極的な生理構造を持つのに対して、女性が受身であること。聖書におけるリリスの反乱もここに端を発しています。 クラスや隣人などの優劣の関係の場合も、何らかの能力によって決定されるでしょう。小単位の閉ざされた空間の場合、英語力やら哲学の知識などよりも、クラスの場合であればスポーツが出来るとか容姿が良いとか、人を笑わせるユーモアがあるとか。 ご近所付合いであれば、個人の能力というよりも、背景にある付加価値を「力」として物を言うでしょうね。市議会議員の娘であるとか課長の奥さんであるとかね。 この人たちの周りに取り巻きのヒトビトが集まることで、小ポリスを形成し、声高に仕切り始める、という状態になっていくようです。
お礼
回答ありがとうございます。 非常にわかりやすい意見で参考になりました。 そういう、能力に関する権力もありますね。
ン~……個体どうしの「パワー・バランス」みたいな?? それとも「感情」かな? 社会哲学かな??? わぁ~っ!ごめんなさい~!!!(逃走)
お礼
すいません。 質問内容がよく練られてなくて答えにくい質問 になってしまったみたいです。
お礼
非常に参考になるサイトを紹介して頂き、ありがとう ございました。 世俗の価値システムが僕の興味のあるところです。