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機会均等
アメリカの唱えていた中国の機会均等とは具体的にどのようなものだったのでしょうか?
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桂ハリマン協定で、アメリカ側の考えの一端が読み取れましょう。アメリカは日露戦争において、日本が発行した戦時国債を引き受けるなど多大な協力をしてくれた他、セオドアルーズベルトは日露の講和を斡旋する労をとってくれた。戦時国債を一人で買ってくれたのが鉄道王ハリマンでありました。そうした動機は日本が好きだったからといった女子供のような話ではなくて、支援した見返りに商売のチャンスを得ようとするものだったのです。世の中万事ギブ&テイクです。 その例をもう少し説明しましょう。日露戦争の前の日清戦争で日本は勝利し、下関条約で清に遼東半島の割譲を要求し、清はやむなく受け入れた。ところがロシア、フランス、ドイツは徒党を組んで三国干渉で話に割って入ってきました。清に遼東半島を返還せよというのです。それはロシア、フランス、ドイツが清に恩を売って、見返りを得ようという下心があったからです。ロシアは目論みどおりに旅順・大連を租借地にし、南満州鉄道の鉄道敷設権も手に入れた。モスクワからシベリア鉄道、東清鉄道、南満州鉄道と旅順・大連が直結すれば列車でロシア軍の輸送が可能になる。旅順・大連を不凍港の軍港として整備できれば、ロシアは極東を支配できます。フランスも広州湾、ドイツも膠州湾(山東半島)を租借地にします。一方日本は何も得ていません。遼東半島を欲張ったばかりにロシア、フランス、ドイツに付け入られる隙を与え、三国だけが利益を得たのです。馬鹿馬鹿しい。日本外交の下手糞さは筆舌に尽くしがたい。 その頃、アメリカは何をやっていたか。スペインと戦争していました。アメリカはスペインの植民地だったキューバ、フイリピンを横取りしてアメリカの植民地にする為に、スペインから独立させてやるよと甘言を弄して、原住民を味方にしようと工作していたわけです。それでアメリカは極東進出が遅れたのです。 そうすると日露戦争です。アメリカにとって絶好のチャンスです。この機を逃しては成るまい。それで日本を支援した。その見返りに利権を得ようと考えたからです。日本も日本一国では、この先荷が重いとハリマンの提案を受け入れて桂ハリマン協定を締結した。 桂ハリマン協定とは条約一歩手前の覚書です。ロシアが日本に割譲した南満州鉄道を日米両国で共同経営しましょうという提案がハリマンの提案の骨子です。ハリマンは南満州鉄道の共同経営を足がかりにして満州で商売を広げようと考えていたのでしょう。 ところがハリマンのアメリカ帰国と入れ違いに日本に帰国した小村寿太郎が一方的に桂ハリマン協定を破棄してしまったのです。これは日本近代史最大の外交失敗といえる事件でした。ペリー来航以来、順調だった日米関係がこの一件によって、険悪に変わってしまったのです。アメリカ世論は悪化しました。日本は日露戦争であれほどアメリカに世話になっておきながら、その恩を忘れて満州利権を独占するつもりなのか。この対日世論の悪化が日米戦争の伏線なのです。 桂ハリマン協定を破棄されたアメリカは憤激しましたが、具体的にはどうすることもできず、中国進出の機会も得られませんでした。それでもアメリカは日本ほど満州、中国進出にこだわっていたわけでは無かった。アメリカにはフイリピン、ハワイ、キューバ、パナマ運河など仕掛中の案件がいくつもありましたから。 だから中国の機会均等といってもアメリカがどこまで本気に具体的な計画を持っていたか分からないのです。いうだけいってみたというのが実態に近いのじゃないかと考えています。ハリマンは具体的に考えていたかも知れないが、幻の桂ハリマン協定の4年後にハリマン自身が死去してしまってうやむやになりました。小村寿太郎も1911年に亡くなります。そういうえば没後100年なんですね。 こんなところで回答になっているのかな。
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- tanuki4u
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中国進出が遅れたので、俺にも分前をよこせ。 です。 http://heiwa.yomitan.jp/4/3237.html 物資の収奪とそれを運搬する鉄道ということになります。 上のURLは各国の勢力圏となりますが、具体的には個別の列強と「他の国には、おたくに了解を得ずには、領土を分割しません」なんて条約を結んでいます。いきなり植民地にするのは、抵抗が強いので、優先権を握ったわけです。 アメリカは、乗り遅れたので、「上記の優先権とか、チャラにしろよ」と主張したわけです。