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学習院大学文学部経済学科 入試問題 《フランス語》
昨年度の学習院大学の入試問題なんですが、第一問の仏文和訳で困ってます。 最初の2文なんですが、(事情により、セディーユは省略し、アクサン記号はアクサングラーヴは外し、右隣に記号をおきます。それ以外のアクサン記号は省略します。eg.Francais, premie`re) J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la premie`re fois de ma vie. Sur la plage de Nice, j'avais fait la connaissance d'une femme, une Francaise, qui vivait la` depuis plusieurs annees avec son mari et s'appelait Mireille. 訳すと、私が18歳だった時、私は人生で初めてフランスを離れた。ニースの浜辺で、私は数年間そこに夫と住んでいたミレイユという名前のフランス人女性と知り合った。 となったんですが、どう考えても「フランスを離れた」のあとに「ニースの浜辺で」とくるのがおかしいです。辞書を引いても他の意味は無く、答えも持ってないので更に困ってます。 結局、この文は何と訳すんですか??
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- PunPiPon
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サイコロさんご無沙汰していました。 〉郵便でチェスでもするように~ これいいですね。お言葉に甘えてゆっくりとお話していきたいと思います。 第一問 〉半過去は過去だから、完了のニュアンスを含んでいて当然である……ということですが、これなら、継起の動詞だけ、単純過去と複合過去を使えばいいのでは?と切り返されるように思います。 ↑↑上手く説明できていなかったみたいです。もう一度説明させてくださいね。一部同じことを繰り返すかもしれませんが。 半過去の本質は「すでに過去となってしまった行為または状態を(過去のある一時点において)未完了な形(aspect d’inachevé)で表現する(énoncer)」となるでしょうか。この「過去のある一時点での未完了な形」が「継続性(aspect de continuité)」とか「持続性(aspect de durée)」をも表すのだと思います。 絵画的半過去と呼ばれる用法は、本来単純過去や複合過去で表せば十分な完了した行為を、未完了な形(状態)で表すことで、読み手をそこにとどめ、ある種の関心や好奇心や、または期待の中に導き、それによってまさに生き生きとしたドラマを眼前に浮かび上がらせるのではないでしょうか。 〉継起の動詞だけ、単純過去と複合過去を使えばいいのでは? ↑↑単純過去や複合過去で出来事を表していくと、読み手はそこでとどまらずに、物事の継起を一緒になって追っていくのではないでしょうか(話がどんどん進むパターンですね)。 これに反して、絵画的半過去は読み手をとどめるか、または少なくともゆっくりとスピードダウンさせる効果があるのだと思います。 第二問 〉なるほど。が、meとは、 ・過去を思い回している語り手ですか? ・それとも、思い返されている語り手ですか? ↑↑正直申し上げて、確かに区別は付けていませんでした。サイコロさんからのご指摘を受け、つらつらと考えたところ、この文章《 Nous partions ; ~》から考えるならば「過去を思い返して今この文章を書いているme」です。 確かに《 Bientôt 》は悩ましいですね。《 Dès que nous sommes entrés dans ~ 》ではないですもんね。この田舎道に入ってから「直ちではないけどすぐ」だから「間もなく」の方がいいですかね。 〉それにしても、どんな状況なんでしょうね、田舎道は。鳥や虫よけの囲いが畑にかかっているのかもしれませんが、大人にしてみれば、通りにくい不便な道でしょう。 ↑↑私は《 clos 》を「囲い地」としました。これは文字通り《 clore 》された《 terrain 》だと思います。ここでどのように《 clore 》したかは分かりません。生垣で《 clore 》したのか、また板や棒を用いて柵などの格好で《 clore 》したのかは分かりません。ただ周りの他の《 terrain 》と区別するために《 clore 》したのでしょう。その中で何をしているのか、野菜でも栽培しているのか、それとも鶏でも放し飼いにしているのか。詳細は分かりませんが、のどかな田園風景の一こまでしょう。私の頭の中では次のような情景が浮かびます。 我々が入った田舎道は、曲がり角のところから始まりますが、その時点では両側が囲い地となっています(つまりこの田舎道の両側に生垣や柵などが続いています)。大人ならば生垣や柵越しに囲い地の中で何があるのか分かるのでしょうが、子どもたちにはよく分からないかもしれません。そしてこの田舎道を行くと、いつからか囲い地の生垣や柵がなくなり、両側に広々とした畑が広がるところに出てきます(日本風にいえば、田んぼのあぜ道のようなものでしょうか)。そして我々はカーブのところでこの田舎道を続けていくことを止め、道から両側に広がる畑の中に降りた(入った)のではないでしょうか。降りた理由は、畑で遊ぶためなのか、それとも家に戻るのにショートカットするためなのかは分かりませんが。ですから《 quitter la route 》なのでしょう。このような描写が浮かびます。 >それとも《 Nous partions ~ 》 以下を過去の習慣とするのはありですかね。 しかし、耕されているという細部が書いてあります。年中、畑が耕されているわけではないでしょうから、やはり、絵画的半過去でとっておくのが、よいのじゃないでしょうか。 ↑↑ごもっともです。お恥ずかしい限りです。 ここの土地の農業カレンダーが分かりませんが、《 terres labourées 》とあるからには季節は春先、犂などで畑の土が耕起され、これから畝立てや播種を待っているところですね。 あと、《 charmants 》を私は「感じのよい」とし、サイコロさんは「魅力的な」と訳されました。これに対してこの学者訳では「美しい」となっていますが、「美しい」ではどうしても《 beau / belle 》が浮かぶので、私的には少しおかしいかなと思っています。「美」には親しさはあまり感じないからかもしれません。 またよろしくお願いします。
- amaguappa
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ご都合で一時停止に入るとのこと。マナーからみても、別に質問を立てた方がよいとわたしも思います。 とりあえず返答しますが、急がずお読みください。 PunPiPonさんにお応えをいただき、さらに大きな溝を見出しました。 自由間接話法と説明・原因の半過去との混同は起こりやすいので、わたしも注意を怠らない点です。 Je decrochai le telephone : J’etais navre, je m'excusais, mais un rhume m'obligeait à garder le lit. >(電話がかかってきて、)それを取って言い訳というか理由を述べている とPunPiPonさんはおっしゃいますが、ここは、《私》の喋った現在形のセリフの引用だから自由間接話法で半過去形になっている、というただそれだけなのです。 なるほど、風邪で起きられないというのは言い訳っぽい内容ですから、maisの後は直接話法で括弧に括られていても説明の半過去だったかもしれません。しかしいま、すくなくとも自由間接話法のディスクールの中に置かれているわけです。 これを受けてフランソワ・ボン風に書いたのはこうでした。 La pendule a sonne. Ma montre n'ETAIT pas a l'heure. Peu importe. J'ETAIS navre, je m'EXCUSAIS, mais un rhume m'OBLIGEAIT a garder le lit. 「置き時計が鳴った。ぼくの腕時計は合っていないのだな。どうでもいいか。すまないな。ごめんね。ぼくは風邪で寝てるんだ」 おや、訳すと往年の米国SFの翻訳文みたいになってしまいましたが、口調を変えれば笙野頼子か金井美恵子か町田康か知れたものではありません。デートをすっぽかしたんでしょうか。裁判所の召喚なのに逃避しているんでしょうか。 > 自身が《 Je suis navré, je m’excuse, ~》と考えるのでしょうか?それとも独り言として呟いているのでしょうか? さあ? 考えるのか呟くのかを作家も書きたくないから、内容のみを引用するという粗野な手法をとるのでしょう。 PunPiPonさんは、すまない・ごめんねを省き、次のようにすると自由間接話法らしくなると考えておられますね。 >「置時計が鳴った。腕時計が遅れている。どうでもいいや。風邪でベッドに寝ていなければならないんだから。」 しかしこうすることで、むしろ二ヶ所の半過去は、状況ないし説明・原因の半過去の可能性に近付いているといえます。 置時計が鳴った(認識事実) 腕時計が遅れていた(継続的状況) どうでもいい(思考の挿入) 風邪でベッドに寝ていなければならないから(どうでもいい原因) となりませんか。つまり、引用の雰囲気がぐんと下がり、地の文かもしれない、すなわち著者のディスクールでありjeのディスクールではないかもしれないのです。
PunPiPonさん、ありがとうございます。ゆっくりお話ししましょう。郵便でチェスでもするように、のんびりとお互いに手を打ってもよいのではないですか。これが締められてしまったら、クイズの箇所だけ、別のスレッドに移設してしまうのも手だと思います。
- PunPiPon
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サイコロさん、ご返事ありがとうございます。 サイコロさんから指摘された点についてまた少しつらつらと考えてみたいと思います。 が、すいません仕事の方が待ったなしの状況になってきたので、私からの返事は12日以降ということでよろしいですか。 12日に納品の翻訳を終えてからまた続きを考えたいと思います。 その間にももしサイコロさんがなにか思いつかれたりしたら、ご連絡ください。 すでにこのスレッドを勝手に使っていますが、質問者の方はもうこのスレッドを締めることはないだろうし、これを見ているのは我々とamaguappa さんぐらいでしょうから、こんな風に使っても運営に連絡する人もいないでしょうから。
PunPiPonさん、どうもありがとうございます。ゲームなので、ちょっと突っ込んでみますね。 第一問 半過去は過去だから、完了のニュアンスを含んでいて当然である……ということですが、これなら、継起の動詞だけ、単純過去と複合過去を使えばいいのでは?と切り返されるように思います。フラッシュバックしているのは、結局、どの過去形も同じではあるのです。半過去の本質をいうためには、もう少し別の要素を付け加えないとならないのでは? 第二問 >語り手、すなわち《 qui me devint bientôt aussi ~》 の《 me 》であると思います。ここでの《 nous 》 を《 moi et Monsieur X 》と考え、そこから《 Monsieur X 》を差し引いて、《 je (moi) 》と考えました。 なるほど。が、meとは、 ・過去を思い回している語り手ですか? ・それとも、思い返されている語り手ですか? Bientôtがありますから、かなり悩ましいと思うのですよ。「まもなく」っていつのmeなのだ、と。突然雷に打たれたように、という即効性のある副詞ではないでしょう。meの分類については触れてらっしゃらないので、区別がつかないということだと受け取ってよいでしょうか。 閑話休題。プルーストを長蛇の文で訳すか、それともぶつ切りにするかですが、これはどうなのでしょうね。PunPiPonさんは、最後を「からだ」としていますが、これによって、文章が明晰になりますね。なるほどと思いました。 一つのパラグラフが一文であるというラテン語の影響に過ぎないのなら、「日本語はラテン語ではない」といって、ぶつ切り訳がいいと思うのです。しかし、記憶が塊となって押し寄せてきているという状態であるのなら、ぶつ切りにしてしまうと、プルーストの作為が損なわれてしまう。どちらにせよ、読む人が少なくなってしまうくらいならと、ぶつ切りにした方が商業的にはいいのでしょうけれど。うーん。模範解答は完全に学者の訳ですね。「駅」とすればいいところを「鉄道の停車場」と律義に訳しているように。だから、プルーストの文を少しでも尊重したいのだな、ということがよくわかります。 それでも、私はぶつ切り派です。というのも、切っても、連結するように訳を工夫するという対応をする他なかろうに、と思うからです。 >僕らは出かけた。鉄道の駅を迂回した後、いくらか時間が経って、僕らは一本の田舎道に入った。これは僕にとって、かつてのコンブレの数々の通りと同じくらい、親しいものにたちまちなった。田舎道は、曲がり角から始まる。僕らは魅力的な囲いの間に侵入するのだが、分岐する地点で道とお別れになる。道の両側に広がっていたのは畑で、それは耕されていた。 統辞法を無視して、私は語の出た順に沿って、文意に違反しない程度に文章を再構成して行くという訳です。というのも、この人、書きながら思い出しているのでしょう。clos charmantsとは畑のことなのでしょうし、模範解答もそう解釈していますが、畑であると示されるのは後の方です。そして、「耕されていた」とあるからには、季節が種まきの時期なのだな、五月あたりだろうか?などと想像力が膨らみます。しかし、それは記憶が満ちてきた最後のあたりです。論理的に描写するなら、こうは書かないでしょうね。 >それとも《 Nous partions ~ 》 以下を過去の習慣とするのはありですかね。 その可能性もありますね。何度も遊んだ道ということで。しかし、耕されているという細部が書いてあります。年中、畑が耕されているわけではないでしょうから、やはり、絵画的半過去でとっておくのが、よいのじゃないでしょうか。 それにしても、どんな状況なんでしょうね、田舎道は。鳥や虫よけの囲いが畑にかかっているのかもしれませんが、大人にしてみれば、通りにくい不便な道でしょう。が、子供にしてみると、秘密基地を探索するような気持であり、書きながら、当時の好奇心を思い出して、「そうそう、あの頃は楽しかったな。忘れられないな」と、何度も自分の記憶に立ち返っているように思います。これは昔の自分と一体化しているとは考えられないでしょうか。 何か建設的なものをという野心を持っているというより、私はやりとりを楽しんでいるという範囲です。どうぞ楽しんでくださったらと思います。
- PunPiPon
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amaguappa さん、ご返事ありがとうございます。 ・自由間接話法はシステマティックには起こらない。 ↑↑私も自由間接話法はシステマティックに起こるとは思っていません。あくまでも文脈によるものだと考えています。ただし、(私が考えている)自由間接話法に置かれているなら、それは間接話法や直接話法にシステマティックに変換できる可能性はあるとおもいっています。 ・自由間接話法は作中人物の発話の典型ではなく筆者の引用の典型である。 ↑↑これは上記と同じ、作中人物の《 énoncé 》だと考えています。 〉たぶんこの点について非常に喰い違いがあるように思われます。 ↑↑そうです。ご指摘の通りです。食い違いというか間に結構な溝があると思います。 〉このような喰い違いがあるということ以外の帰結を望んでおられるのなら、暴走にすぎるのではありませんか。 ↑↑別になんらかの帰結に至ろうとは思っていません。お互いに自分の思うところを述べているだけだと思います。それはサイコロさんも同じだと思います。 ところで、amaguappa さんがあげてくれた例文ですが、 〉大文字のところはje pensaiの内容でありうるものとして自由間接話法になっています。《 La pendule a sonné. Ma montre n'ETAIT pas à l'heure. Peu importe. J'ETAIS navré, je m'EXCUSAIS, mais un rhume m'OBLIGEAIT à garder le lit. 》 ↑↑これには少し違和感を覚えます。自由間接話法云々の前に、場面・状況を思い浮かべると少しおかしいかなと。Je pensai que J'ETAIS navré, je m'EXCUSAIS, mais un rhume m'OBLIGEAIT à garder le lit. となる訳ですか?自身が《 Je suis navré, je m’excuse, ~》と考えるのでしょうか?それとも独り言として呟いているのでしょうか?これ朝倉がje pensai が省略された自由間接話法の例文としてあげているんですか? これがamaguappa さんが#21であげてくれた《 Je décrochai le téléphone : J’étais navré, je m'excusais, mais un rhume m'obligeait à garder le lit. 》ならば分かります。(電話がかかってきて、)それを取って言い訳というか理由を述べている場面が浮かびますから。 または《 La pendule a sonné. Ma montre n'ETAIT pas à l'heure. Peu importe. Un rhume m'OBLIGEAIT à garder le lit. 》ならばありかなと思います。もし訳せば「置時計が鳴った。腕時計が遅れている。どうでもいいや。風邪でベッドに寝ていなければならないんだから。」という風になるでしょうか。 あと話はそれますが、これならば三人称でもいいだろうな、と思います。《 La pendule a sonné. Sa montre n’était pas à l’heure. Peu importe. Un rhume l’obligeait à garder le lit. 》 《Sa montre ~ 》の前に、Il se disait en faisant clapper sa langue なんかが省略されていると考えたら楽しいですね。
- PunPiPon
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サイコロさん、お返事ありがとうございます。 〉下手をすると水掛け論になる危険が出てきました。 ↑↑そうですね。水掛け論というか平行線になりそうです。 でもこれまでの経緯をつらつら思うに、サイコロさんの言わんとするところも分かるよう気がしてきました。こういうことなんだろうな、と。それはさておき、サイコロさんからの宿題に頑張って取り組みたいと思います。 (1) 第1問 私が半過去について考えている本質的なものは、「過去のある時点における未完了」であります。この「過去のある時点における未完了」からその時点での継続性や完了の繰り返しによる反復の意味も出てくると思っています。またもう一つ本質的なものとして、よく複合過去との対比で言われるのですが、「半過去は現在となんらつながりがない」というものです。どういうことかと言いますと、「過去のある時点における未完了」とはいっても、半過去もあくまでも過去時制ですから、現在からみればすでに過ぎ去ってしまった、または終わってしまったことであります。そして半過去は「その現在からみればすでに過ぎ去ってしまった、または終わってしまったことを未完了な状態で」述べているだけで、その結果が現在まで続いているのか、または中断しているのかについては、関係がないというか、なんら述べていないということです。(突き放しているようなイメージでしょうか。) 瞬間的な行為を半過去にすることで「生き生きとした描写」に繋がるのは、瞬間的に終わる行為を「過去における未完了」な行為(まだ継続中な行為)として、そして過去に突き放すような感じを出すことで、読み手の中にも「~しつつあった」という情景を、amaguappa さんの言葉を借りれば《フラッシュバック》のように表すのだと思います。 ですからフランス語で読む分には「~しつつあった」という感じを得つつ、それを瞬間的行為の生き生きとした描写と取れるでしょうが、日本語への訳出は困難を伴うでしょう。瞬間的に終わった行為なのに「~しつつあった」と訳せば、十中八九過去における進行形と捉えられてしまいますから。 « J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. » という文章も、すでに過去の話であるから終わっている(完了している)ことなのに、語り手は《 quitter 》を半過去に置くことで「離れつつあった」と表現することで読み手・聞き手の頭の中(眼前に)表現していると思います。 (2) 第2問 《 familière 》や《 charmants 》 という判断は誰の判断か?この文章だけ読めば、語り手、すなわち《 qui me devint bientôt aussi ~》 の《 me 》であると思います。ここでの《 nous 》 を《 moi et Monsieur X 》と考え、そこから《 Monsieur X 》を差し引いて、《 je (moi) 》と考えました。 それにしてもやはりプルーストの文章は訳しづらいですね。私が訳したら「我々は出かけた。駅を迂回して少し行くと、一本の田舎道に入った。この田舎道に入るとすぐに私は親しさを感じた。感じのよい囲い地のところから始まる曲がり角から、我々が道を離れた両側に耕作地が続くカーブのところまで、コンブレの田舎道と同じ感覚を覚えたからだ。」こんな風にぶつ切りにしてしまうと思います。 それとも《 Nous partions ~ 》 以下を過去の習慣とするのはありですかね。
- amaguappa
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クイズでお忙しいところ息抜きとして読んでいただければよいのですが、 PunPiPonさんは「#11のところで私がなんとか拵えた状況(作文)が理解できない」という発想から脱却できませんか。 #11の3における"語り手"が何をいわんとしているのかを問題としています。精神病的なディスクールか健忘症的ディスクールの演出をしようとしているのか。しかしはたして意図するような表現になっていますか? ということなのです。 なるほど、無理矢理あつらえた状況だから表現は失敗しているが、システマティックな書き換えの解説をしたかったのだ、という言い分もあるのでしょう。 ・自由間接話法はシステマティックには起こらない。 ・自由間接話法は作中人物の発話の典型ではなく筆者の引用の典型である。 たぶんこの点について非常に喰い違いがあるように思われます。 PunPiPonさんの振る舞いがかなり非常識という点にわたしはほとんど目を瞑っていると思うのですが、このような喰い違いがあるということ以外の帰結を望んでおられるのなら、暴走にすぎるのではありませんか。 PunPiPonさんは「自由間接話法と取らえられるような文章には、その前にそれらしい状況があるであろう、と考えた」、そして「#21でamaguappa さんが例文を挙げておられますが、これらの例文の前にも、何らかの状況を提示する文章がありますでしょ」と言っています。 例文をいまいちどご覧ください。大文字のところはje pensaiの内容でありうるものとして自由間接話法になっています。おわかりでしょうか。 サイコロさんのおっしゃるようなケース、最後の頁に余白のあと三人称の独白であったと知らされるにしても、また知らされないにしても、一人称の過去の叙述において違いは出ないでしょう。 La pendule a sonne. Ma montre n'ETAIT pas a l'heure. Peu importe. J'ETAIS navre, je m'EXCUSAIS, mais un rhume m'OBLIGEAIT a garder le lit. Le train de nuit s'est arrete en passant Metz. C'ETAIT la frontiere. La noire a la banquette d'en face ronflait. Je voyais les feux tout loin par la glace. Mon visage pale SE PROFILAIT dans l'obscurite. J'avais dix-huit ans et je QUITTAIS la France pour la premiere fois de ma vie.
PunPiPonさん、なるほど、精密な議論ですね。以下はその通りです。いや、私のミスで時間をとらせてしまいました。ごめんなさい。 >サイコロさんが引用されている朝倉でも《 Je lui ai demandé des nouvelles de Lambert : il lui avait écrit, il rentrait dans une semaine. 》を直接話法に直せば、《 Il a répondu : « Il m’écrit, il rentre… » ではなく、《 Il a répondu : « Il m’a écrit, il rentre… » となっていませんか。 さて、ご投稿を拝読しました。どういたしましょうか。私が理屈をこねることもできるのですが、下手をすると水掛け論になる危険が出てきました。聡明な、PunPiPonさんならおわかりでしょう。 そこで私からゲームを提案してみたいと思います。この二問に完璧にお答えになったら、潔く、PunPiPonさんが、このエチュードの勝者と認めますよ。もちろん答え方次第では、おや?それこそ自由間接話法を説明してしまったことになりますよ、と申し上げるだろうと思います。しかし自由間接話法が定義できないままでは、ゲームになりません。ここでいう自由間接話法とは、お互いに同意をみた意見ですが、シンプルに、 >自由間接話法の特徴は、人間が二人いて、その二人の視点が重なり合うということです。」(←いいこと言う!!) としたいと思います。他の定義は、今回、放棄することにします。広範に資料を集めて「自由間接話法」の真実を議論しようということではなく、ゲームです。もっとも私からすれば、ゲームから有益なことを言えると思っていますが。いかがでしょうか。 (1)第一問 まず、質問文の訳について。おそらく以下の思考過程は同じことでしょう。 ・継続、反復ではない。 ・となると、絵画的半過去である。 そして訳については、実は最初に見解の一致を見ていたようです。No7ですが、 >この半過去の部分を訳すとなると#5の方が回答しているように、「私は十八歳だった。私はこの時、生まれて初めてフランスを離れた。」と《 quittais 》は瞬間的行為の完了として訳せばいいと思います。(中略)つまり、半過去だからと言ってなんでもかんでも過去の未完了・進行中として訳すのは無理なときがあるということです。(もちろん、完了した瞬間的行為をあたかも進行中の行為であるかのように半過去で描写することが上述した絵画的半過去なのですが。) No5とは私のことです。おっしゃる通りですね。しかし、おっと? そもそもQuitterは瞬間的な出来事であるのに、なぜ、本来は継続や反復の意味をもつ半過去を使うことが、生き生きとした描写に繋がるのでしょうか。矛盾ではないという形で説明がつきますか。 (2)第二問 今度は、先のプルーストです。というのも『フランス語ハンドブック』の分類を論破してもらわないことには、始まりませんから。 >Nous partions ; quelque temps après avoir contourné la station du chemin de fer, nous entrions dans une route campagnarde qui me devint bientôt aussi familière que celles de Combray, depuis le coude où elle s’amorçait entre des clos charmants jusqu’au tournant où nous la quittions et qui avait de chaque côté des terres labourées. >私たちは出発した。鉄道の停車場を迂回してしばらく行くと、とある田舎道に入るのだったが、美しい囲い畑に挟まれてその道が始まるあたりの屈曲部から、両側に耕地のある曲がり角で私たちがその道を捨てるまでの一帯は、ちょうどコンブレの田舎道と同じように、たちまち私にとって親しいものになった。 ここにfamilière、charmants という判断が書き込まれていますね。これは誰がそう思ったんでしょう。思い返しているnousなのか。それとも、その当時、コンブレを回ったnousなのか。あるいはもっと他の誰か? それとも、区別がつかないのでしょうか。
- PunPiPon
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あっ、投稿しようと思ったらamaguappa さんが回答を寄せてましたね。 amaguappa さんへ 〉投稿が増えましたね。 ↑↑投稿しているのはもはやサイコロさんと私だけですけど。 〉のっけから話が逸れますが、もしかしてPunPiPonさんは、夏草や、の質問でわたしが質問者の方に対して言っている言葉を、他回答者をくさしていると誤解なさったのではないでしょうか? ↑↑はい。これは話が逸れまくっています。amaguappa さんが他の質問者をくさそうがどうしようが私に関係ありません。 ところで#11のところで私がなんとか拵えた状況(作文)が理解できないとのことですが、私が言いたいのは、自由間接話法と取らえられるような文章には、その前にそれらしい状況があるであろう、と考えたからです。 #20でサイコロさんが、そして#21でamaguappa さんが例文を挙げておられますが、これらの例文の前にも、何らかの状況を提示する文章がありますでしょ。 これに対して、この質問にあるように « J'avais dix-huit ans et je quittais la France pour la première fois de ma vie. Sur la plage de Nice, j'avais fait la connaissance d'une femme, une Française, qui vivait là depuis plusieurs années avec son mari et s'appelait Mireille. » という文章が冒頭からいきなり出ていたとしたら、これを自由間接話法というのはここでは無理であろう、ということです。 ただしこれに関してはサイコロさんの方から、「最後の方で作者が語り手とは違うことがありうるので、その場合自由間接話法の可能性も排除できない」と指摘され、これについては確かに可能性もあるでしょうという見解です。(個人的には語り手(≠作者) の長いmonologue intérieur を読者をミスリードする形で作者は記述したと取りたいですけど。私も以外に強情ですね。) サイコロさんへ 〉(2)絵画的半過去における完了動詞の訳し方 ↑↑これに関して、一つあげるとすれば、朝倉がimparfait de l’indicatif 2「同時性」のところで例文にあげている《 La mère se mourait, les enfants jouaient dans la cour. 》は少しずるいかな、と思います。というのも、《 se mourir:死にかけている、死に瀕している 》はもともと継続相 (aspect duratif) を持つ動詞ですから、これを半過去に置くのは当然のことだと思われるからです。(se mourir が単純過去や複合過去に置かれたらそれこそインパクトがあるでしょう。) 結局、瞬間相 (aspect momentané) や完了相 (aspect perfectif)(もしかしたら起動相 (aspect inchoatif) もありかもしれませんが)を内在する動詞が、基本的に未完了や継続を表す半過去に置かれた時、どう訳出するのかというのが本来のここでの疑問であったわけです。これすなわちフランス語ハンドブック』の著者によれば「これらの例は多く未完了動詞に関わるものだったが、ここでは元来が半過去系とはなじみにくい完了動詞が問題になって来る。」ということでしょう。(とここまで書いて、質問者の方は最初のphrase の半過去と二番目の phrase の大過去の関係がよくわからない、という質問であることに気付きました。我々はかなり迷走したようです。) 余談ですが、私も長いフランス語の文章を訳す時は、こまめに切って訳しますが、学生時代プルーストの文章を同じように短く切って訳したら、教授から「プルーストの特徴(良さ、だったかな)はその長い文章にあるのだから、あまり細切れも...」と言われたのを思い出しました。