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ニーチェの運命愛とは?
yuan_kouさんの質問「運命の定義って?」に触発されて考えました。 ニーチェの語った運命愛とはどのようなものなのでしょうか。 私は今まで漠然と、悲劇の意志的肯定(克服ではなく受容)のことなの だろうと思っていましたが、違うでしょうか。 私は、克服可能なものは、運命でも悲劇でもないと思います。 (運命と悲劇を同じものと考える傾向が強すぎるのですが) また、人間は運命に出会うことでしか成長できないと思っていますが 偏った考えでしょうか。
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ニーチェの言う「運命愛」は「永遠回帰」の思想と一体のものです。1881年頃から、1899年に発狂するまでの、ニーチェ最晩年に到達した境地です。 「永遠回帰」は、円環状にイメージされた時間の中で、すべての出来事がそっくりそのまま反復されるということです。円環状に反復される歴史というのはもはや無意味、すなわち「ニヒリズム」です。このニヒリズムの力強い肯定、肯定することによるニヒリズムの克服、それが「運命愛」ということになります。 ニーチェの考えでは、人間が掲げる理想や美や神などは理性なるものが捏造した空しい幻想であって、「力への意志」と「力によってできること」とを引き離そうとする「反動的な力」として生の輝かしさを阻害するものでしかありません。そうした価値や道徳を解体して、自分の存在そのものに備わった力への意志によってなしうる生を生きるべきであると、ニーチェは主張しています。そして、そのような生き方が「永遠に回帰する」との認識に至った際の至福と戦慄を無限回にわたって繰り返し感じることができるならば、その生は生きるに値する。ここに「運命への愛」が生じます。 「悲劇」との関係ですが、初期のニーチェは『悲劇の誕生』において「悲劇」を「生を肯定する最高の形式」としており、「運命愛」については「哲学者が到達しうる最高の状態」として「生に対してディオニソス的であること」と言及していますので、結びつきはあります。が、初期と後期という時期的なズレがありますので、両者の結びつきが直接的なものなのか、それとも思想的な展開を経たものなのか、このへんは専門的な研究書にあたってみないことには何とも言えません。 それと…最後の「運命に出会うことでしか成長できない」というところの「運命」というのは、「成長のための試練」などのさまざまな出来事と考えてよいでしょうか? そういうことでしたら、「運命の定義って?」のところでも書きましたように、運命とは過去と未来の自分自身とその生き方についての自己了解の形と考えれば、そういう捉え方もアリだろうと思います。ニーチェも反対はしないと思います。ただ、ニーチェだったら、生の無意味を糊塗しようとする幻想として運命を観念することには、警戒を促すかもしれませんね。
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- sokura
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ニーチェは「キリスト的な愛や精神」を嫌い、これを「ルサンチマン」根性として 厳しく退けました。そこには、西欧思想に対する過剰なまでの攻撃性が感じ取られ ます。 ニーチェは、西欧思想が奏でる「必然的進歩主義」というか、人間中心のヒュー マニズムを基礎とした諸処の法則的な流れを嫌い、そのような考えでは、一生超越 出来ず、悪循環という時間の流れで、モルモットのように永遠にクルクル回ってい るだけだ、ギリシャ悲劇の最後の舞台のような変換、というか超越というか、そう いったものよって、西欧思想を飛び越えるのだ、というような認識をもっていたら しく、それらに立ち向かっていく勇気というか決断を「運命愛」と表現したかった のではないか、と思います。 こうした考えが、後々の「ゲルマン民族優先、ドイツナンバー1、運命的共同 体」というヒトラーのアジ演説でよみがえり、これに乗っかったハイデガーが、常 に保守反動学者、と攻撃されているところは有名ですね。 昔、読んだきりで判然とはしませんが、ニーチェの「運命愛」についての私の記 憶です。 ところで、「運命」という事態は、きっと個々人によってとらえ方が違うと思い ます。私にとって「運命」であっても、他人にとっては「運命」ではありません。 しかし、私が「日本語」の文化の中から、知らずに出発していた、ということは、 私にとっても他人にとっても、共通の感覚だと思います。 私は、こうしたことを「運命」と言った方がわかりやすい気がしています。そし て、それに対する意識のあり方の変容形態=「認識」とでも、これを磨くことによ って、日々の対応が変わってくるのだと、考えています。 ですから、自分が語る「日本語」の表現を考えたり、変化させることが、日々の 生活を少しづつ変えるのではないか、と考えています。それが成長かどうかは、判 断の分かれるところでしょうが。
お礼
sokuraさん、回答ありがとうございます。 小生、連休だというのに休日返上で仕事をしています。 後日またお礼させていただきます。申し訳ありません。
補足
sokuraさん、ありがとうございます。 「悪循環という時間の流れで、モルモットのように永遠にクルクル回っている」ことが 「永劫回帰」であり「それら(西欧思想)に立ち向かっていく勇気というか決断」が 「運命愛」なのでしょうか。 私は、ニーチェの著作をほとんど読んでいず、小林秀雄が「悲劇について」のなかで 語っているニーチェの運命愛像の影響を受けて、運命愛を我流解釈していました。 「どうにもならない悲劇。だがそれでも生きようという意志が失われないなら、人の こころに何が起こるか。この悲劇こそ生きる理由だ。すすんで望まれた運命だ。まことに 理屈に合わぬ話だが、そういうことが起こる。」 手元に本がないので正確ではないのですが、だいたいこのようなことを小林は言っています。 また経営評論家S氏が著作のなかでこんなことを言っていたのを覚えています。 「会社員時代の部下のことである。自分はこの社員をなんとなく敬遠していた。親しみが 持てなかった。思うに嫉妬だったと思う。なぜならば、この男はあまりにも恵まれすぎて いたからである。最難関大学をかなりの成績で出ていて、ハンサム、長身、スポーツ マン。父親も最難関大学の教授。ところがあるとき社員旅行のバスのなかで隣りあって すわって話をして、思いがけないことを聞いた。自分の幼い子供が重度の脳性麻痺で、親の 世話なしでは生きていけない。自分たち夫婦が世話できるうちはまだいい。でも自分たちが 年老いたとき、いったいこの子はどうなるのだろう。そう思うと子供が可哀想でならない。 そう涙ぐみながら話してくれた。私は愕然とした。毎日、何の苦労もなく明るく働いている と思っていたら、こんなに重い運命を背負って生きていたのか。目頭が熱くなった。彼への 軽率な気持ちを私は恥じた。こころのなかで声援を送らずにいられなかった」 このことは何を物語っているでしょうか。人生が順風満帆であるうちは、人生の意味や意義が 希薄である。生きることは時間空費に等しい。人々が恵まれすぎている人を、敬遠したり 親しみを感じなかったりするのは、嫉妬というよりも、無意味な生に対する嫌悪反応なのでは ないでしょうか。(明らかに言いすぎですね) 自分のための悲劇を自分で用意するなんていうことはできないし、子供を悲劇に突き 落としてくれるような親もいない。だから運命を待つしかない。ただ運命だけが人に悲劇を 与えてくれる。運命によってのみ魂が磨かれる。人は大人になれる。恐ろしい生の逆説性。 私の思想、かなりヘンですね。自分でそう思います。 悲愴趣味?・・・はやらないですね。
お礼
serpent-owlさん、いつも親切でていねいな回答、本当にありがとうございます。 小生、ただいま某会社の物流システムの本番稼動対応で、地獄状態です。連日トラブル 続出で、オンラインジョブがコケて、全国各地の物流倉庫のトラックが積荷できずにストッ プしてしまったときなどは、顔面蒼白、全身冷汗となります。ユーザの厳しい追及や復旧 命令に、死んだほうがマシだと思うことも、たびたびです。 でも、そういう日々が続くと逆に「来るなら来い! 殺すなら殺せ! 毒を食らわば 皿までじゃい!」というミョーな開き直りの気分になります。これなんぞは私に備わった 「力への意志」であり「運命への愛」と言えるでしょうか。(んなワケないですね) いただいたご回答をもとに、自分なりにニーチェの思想の理解を試みました。 どんなに時代が進んでも人間を苦しめる悲劇はなくなりはしない。病気、災害、社会矛盾。 新しい時代には新しい悲劇が次々とやってくる。人間にとって悲劇は常態であり、それは 永遠に続き、歴史に終点はない。しかしこの悲劇こそが人間の生に意味与える。生きる理由を もたらす。生というものの恐ろしい逆説性だと思う。 私はうっかり成長などという安っぽい言葉を使ってしまいました。でも、人間、成長する ために生きている訳じゃない。天国に入るために生きている訳じゃない。そんなセコイ目的 のために生まれてきた訳じゃない。生きることは「練習」でも「貯金」でもない。 人間は、いつもいつも、かけがえのない「今」を生きている。「今」はただ悲劇によって のみ輝きが与えられる。「生」の力が導き出される。過去も未来もない。ただ「今」だけが 永劫回帰する。生物よ、人類よ、真実在よ、汝は汝の運命を愛するだろう。 うーん、、、書いてて胸が高鳴ってきました。ニーチェの思想はキキすぎるぅ~
補足
serpent-owlさん、ありがとうございました。「神は死んだ」の回答も読ませて いただきました。私のニーチェ理解は的外れでした。 > ニーチェにとってはこの恐怖こそが真実なのであり、この恐怖に耐え、ニヒリズムを > 肯定する「超人」たることを私たちに課してきます。「神は死んだ」という言葉も、 > われわれに「強者たれ」と迫るニーチェの言葉の一つです。 ニーチェは誰に対して「強者たれ」と言ったのでしょうか。 個人? 読者? 同時代者? 民衆? 人類? serpent-owlさん? mori0309? それともニーチェ自身? そう語るニーチェはあらたな神なのではないでしょうか? > 哲学カテゴリ自体が一人の哲学者のよう・・・・ 意味深いですね。なにかこう感じるものがあります。 法則や秩序などない。でもただの混沌・デタラメ・乱雑ではない。 何かを模索しているのか。それとも、ただ存在しているだけなのか。 この哲学カテゴリに「主体」はあるのか。ないのか。 これを一つの「生き物」とみなすことはできるか。できないか。 「社会」とならばみなすことはできるか。 ならば「社会」と「生き物」はどう違うか。 「問い」が永劫回帰するmori0309でした。