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大谷吉継 過大評価?
大谷吉継についてなのですが過大評価のような気がします。 秀吉が百万の軍勢を、と言ったのは有名ですが譜代の家臣がいない秀吉の思惑が見え隠れしているように思います。 秀吉にそこまで言わせる目立った戦功はあるのでしょうか?兵站奉行としての功績ならば三成も同程度の評価がされるべきだと思いますし。
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賤ヶ岳の戦功は出典の信憑性に疑問が持たれております。 その後関ヶ原までの戦功は明らかではないようです。 奉行など秀吉の補佐としては有能な働きを見せていたそうですが。 参考:『歴史読本 特集 炎の仁将大谷吉継の生涯』(2009年7月号) 「百万の軍勢」の逸話の典拠が何か分かりませんでしたが、そもそもこれも信憑性が乏しいのではないでしょうか。関ヶ原本戦の奮戦ぶりから創られたもので秀吉の評価ではないと思えます。
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- takeko85
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>秀吉にそこまで言わせる目立った戦功はあるのでしょうか? 賤ヶ岳の戦い 長浜城主・柴田勝豊を調略して内応 合戦においても先懸衆として石田三成らと共に七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄 紀州征伐 最後まで抵抗を続ける紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取った 九州征伐 石田三成と共に兵站奉行に任じられ、功績を立てた。 文禄・慶長の役 船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、勲功を立てている。 関ヶ原の戦い 北陸での戦い 北国口の兵3万100の大将 東軍の前田利長を牽制するため越前・加賀における諸大名の調略を行なった。その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功 前田利長が小松城を攻撃した際には、「大谷水軍が金沢を攻撃する」との噂を流させ撤退に追い込んでいる。 浅井畷の戦い。 実際に前田軍(25000)と戦ったのは丹羽長重(3000)であるが、利長は吉継によって流された偽情報に動揺して軍を加賀に撤退させる際、丹羽軍に襲われて敗走し、前田軍は関ヶ原に結局間に合わなかった。 関ヶ原の戦い 午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦した。 小早川秀秋の裏切りを予想 小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊(戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5700)を攻撃するが、予てより小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し山へ追い返したという。その激戦ぶりは東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからも伺える。 秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・赤座・小川・朽木の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これによりわずか2000の大谷隊に2万もの大軍が前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継も自害した。享年42。吉継の敗北は戦場の趨勢を一変させ、西軍の諸隊に動揺を与え、西軍潰走の端緒となった。 吉継は当時業病とされていた病(ハンセン病と云われている)故に輿に乗って軍を指揮していた。
お礼
回答ありがとうございます。 やはりどう考えても過大評価だとしか思えません。
お礼
回答ありがとうございます。