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純文学愛好者の皆様に質問です。
純文学の条件として、「物語性の無さ」を挙げる人をたまに見掛けます。 そういう意見を聞くたびに不思議に思うのですが、「物語性」を否定すると、 ドストエフスキーの「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」、 漱石の「こころ」、三島の「金閣寺」なども否定されてしまうんではないでしょうか。 いわゆる純文学扱いされている作品でも、物語性に富んだ作品は多いと思うのですが。
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>純文学の条件として、「物語性の無さ」を挙げる人をたまに見掛けます。 たしかに、そんな見方もないとはいえないですね。いうひとの気分はわかります。物語性が希薄な文学作品(小説)でも感銘を受ける作品は純文学には多くあります。それは純文学の特性といえるかもしれません。逆に、大衆文学で物語性の希薄な作品は、なくはありませんが少数です。多くは失敗作といえるでしょう。 しかしそれは純文学全体にはいえても、おっしゃるような小説としての純文学の条件だとはいえない思います。 純文学かどうかは、文学作品として芸術性が高いと認められるか、それとも読み物としての要素が大きいか(面白みを加味するために文学作品としての芸術性を犠牲にしていないか)どうかで分けられると思います。 >いわゆる純文学扱いされている作品でも、物語性に富んだ作品は多いと思うのですが。 その通りですね。面白いかどうかは純文学の条件ではありません。むしろ面白いことが文学としての価値を高めることすらあると思います。
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- izwata
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>純文学の条件として、「物語性の無さ」を挙げる人をたまに見掛けます。 おそらく、芥川竜之介の「文芸的な、余りに文芸的な」を聞きかじったがゆえの誤解だと思われます。 芥川竜之介は、「話」がなくとも純文学は純文学だと述べているまでで、 「話」があってはならないとは考えていません。 谷崎潤一郎は、芥川竜之介との論争の中で、詩にはない文学の特性として構成を重要視しましたし、 現代の大家の大江健三郎氏も、長嶋有氏の「夕子ちゃんの近道」のようなプロットありきで作られた小説を認め、第一回大江健三郎賞まで与えています。 「物語性の無さ」が純文学の条件だとするのは、かなり常識にそぐわない考え方だと思われます。 あるいは、そのような主張をする方の「物語」の定義が狭いのかもしれません。 物語=殺人事件の犯人を推理する、ですとか、太陽系の外から襲来した異星人を科学の力でやっつける という意味合いで「物語」を捉えているのでしたら、 そのような小説は海外でも「ミステリ」「SF」というように一般小説とは別ジャンルにわけられるので、 そういう意味では全ての純文学は物語性が無いかもしれません。
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