izwataのプロフィール

@izwata izwata
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  • 登録日2011/09/02
  • 性別男性
  • 職業学生
  • 小論文の添削お願いします(急ぎ)

    課題文A、Bをふまえて、「自文化と異文化」という問題について、あなたの考えを書きなさい、という設問です。 課題文の要約は小論文に書きました。 ************** 課題文Aの筆者は、異文化交流において、 文化を主張し、お互いの文化を理解し合うこと が必要だと述べている。また、課題文Bの筆者は、 文化的な知識を教える義務があると 述べている。しかし、私は異文化を理解するにも、 自文化を理解してもらうにも、まず主張することや 教えることはせず、経験することが必要だと思う。 なぜなら、自分の目で見て、きちんと外国人と 話して体験しなければ、異文化が本当は どういうものかはわからないからだ。例えば、 異文化人と交流する前に私たちは念入りに 相手の文化を調べてから交流しようとするだろう。 そして、調べたことから相手の文化はこういうものだからこんなことはしてはならな いという結論を出す。確かに、先に相手のこ とを知ることは大切だが、これでは交流する意味がない。 異文化を知るためには、何の先 入観も持ってはならないのだ。相手と話して、 許容できる範囲なら受け入れて、できないな らば、ルールとして決めれば良いのだ。日本 人だって、相手が敬語を使わないからとい って激怒したりはしないだろう。もし必要なら 一言注意すれば良いのだ。『自文化と異文化 』といっても交流するのは人間どうしなのだ から遠慮は必要ないのだ。 確かに、異文化人と交流することで多くの価値観や 見解を持ち込むことになり、それが衝突を生むかもしれない。 しかし、その時は納得いくまで話し合えばいいのだ。親や親友とでも 喧嘩することはあるだろう。それでも、話し合ってルールを決めたり、意見を受け入れたりして、 仲直りすることができる。それをすればいいのだ。 異文化との衝突で、相手のことを難しく考え過ぎたり、面倒くさがったりして、 放り出してしまってはいけない。お互いの許容できる範囲を教え合い、 ルールを決めて、親友になれて初めて異文化交流になるのだ。 そうすることで自文化を伝えることにもなり、異文化を理解することにもなるのだ。 文化は教えてもらっても理解することはできないし、教えても理解してもらうことは難しい。 本当にお互いを理解し合いたいならば、一度は、相手に対して失礼にあたることもしなければ いけないのだ。テレビやインターネット、本で入手した情報を信じきってしまえば、 自文化を理解してもらうことも、異文化を理解することもできないのだ。 したがって、経験することが必要である。 100点満点中何点かもお願いします。

    • plokmi
    • 回答数4
  • 仕事にもとめるものは?

    大学4年生の女です。 4月から社会人になります。 公務員試験に合格し、地元の役所に勤める予定です。 ですが、まだ体力がある今はもっとやりがいを重視した仕事の方がいいのではないかと不安になっています。 公務員は他の一般企業と比べて安定はしていますし、 この不景気の今、安定していることはとても重要だと思っています。 私は女性なので、もちろん結婚・出産もしたいと思っています。 なので、公務員という職はとてもいい職だと感じていますが、 先輩などからは「公務員はやりがいに欠ける。企業の方がやりがいはある」という話を聞きます。 すでに社会に出ている方々は「やりがい」と「安定」についてどのようにお考えでしょうか? ご意見お聞かせください。

    • noname#186426
    • 回答数8
  • 自分は一人なのではないか

    高校一年生です。 私には、よく言う「いつメン」がいません。 クラスの女子みんなと仲が良いと思うし、よく喋ります。 しかしお弁当を食べる人も移動教室の時一緒になる人も休み時間を一緒に過ごす人もいつも同じではありません。 だいたいは決まっていますが…。 固定の仲良しの友達が数人いないと、寂しく感じることがあります。 普段は特に意識することはないのですが…。 例えば、私の周りにはメールを好む人が少ないので 友達とメールをすることがほとんどありません。 休日などの会えないときにメールをし合っている他の人たちをみると少し羨ましくなります。 あとは、休日に友達との約束がないと少しさみしく、不安になります。 いつも一緒で、心を許せている人達がいないと 自分は一人なのではないかと感じてしまい 不安に駆られることがよくあります。 実際自分からメールをすれば返してくる友達はいっぱいいるし、 誘えば遊んでくれる友達もいっぱいいます。 でも一緒にいて本当に安らげる友達、仲間がいるとは言えません。 贅沢な悩みだと思うし、このような仲間を得ることは簡単ではないし、焦ることもないとわかっています。 でも、だから尚更モヤモヤしてしまいます。 いつか、仲間を得ることができるでしょうか? ご回答よろしくお願いします。

    • noname#182714
    • 回答数4
  • 「作者の死」はどこまで妥当なんでしょう?

    文学や映画作品の考察についての質問です。 よく、作品のディティールについて、「何故そうした表現がとられるのだろう?」という考察が為されています。例えば、主人公が寿司を食べている場面があれば、「何故ここで(カレーやうどんなどではなく)寿司なのだろう?」という問いが立てられたり、登場人物の容姿・服装について、それが何を象徴するのか、といった議論がなされたりしています。 こうした評論を見ているとき、時折、そんなに細部にまで問いを立てて意味はあるのか?と思ってしまうことが有ります。例えば、上の例でいえば、「寿司は江戸っ子の気風を暗示する」だとか、「生で動物の肉を食べるということが獣性を暗示する」、だとかいう考察に対して、作者は主人公にとりあえず寿司を食べさせたに過ぎないのであって、別に、他の食べ物でもなんでも構わないのではないか?と考えてしまいます。 そうした疑問への反論のひとつとして、「作者の死」という発想があるでしょう。 「作品を、作者からの強力なメッセージだと考え、それを作者の意図どおりに受け取ることこそ至上、とすることは止めよう。受け手が主体的に意味を作り出していこう」という考えが「作者の死」、と理解しています。 しかし、寿司が作者の気まぐれに過ぎない要素であるとしたなら、そこに受け手が「何故寿司なのか?」という問いを投げかけることがどこまで生産的でしょう?作者がそれをカレーやうどんにしていたら、立てられる問いも寿司からカレーやうどんに変わっていたはずであり、それに応じて結論も変わってしまうはずです。 僕が疑問に感じているのは、「作者の死」という言葉の下、「元々の作者の意図」というのを殆ど無視していながら、結局、作者のきまぐれで結論が変わってしまう、という議論がなされている、ということです。 「ここで作者はこういう小道具を用意しているが、物語の内容から考えるに、もっとこうした小道具があるべきだ。それを登場させなかったのは作者の細部をくみたてる力の欠如を示す」という議論に繋がって行くのならまだ、批判の生産性というものが感じられます。 しかし、作中で描写されているもの/出来事を、絶対的なもの/あるべき場所にあるべきことが描写されている、というように考えていながら、作者の意図を排除し、自由な解釈を与えてしまうという議論には、いびつさを感じてしまいます。 こうした議論にも価値はあるのでしょうか?それとも、作者の死という発想から生まれる批評には、もっと正しいやり方があるのでしょうか? みなさまのお考えを聞かせてもらいたいです。

    • haozhu
    • 回答数2
  • 冗談に冗談で返すには?

    接客業をしているのですが、たまに言われるお客さんやスタッフからの冗談やからかいに上手く返す言葉がわかりません(>_<) 明らかに冗談と分かる「結婚しよ!!」や、私が店から出かける際の「そのまま帰ってこなくていいよ!!」などの言葉にどうしても冗談で返す言葉がうまくつかめず… 私は会社での飲みでも割といじられる感じの性格らしいですが、不快とは思わずむしろ楽しく返事をしたいといつも思っています 友達にその事を話しても「真面目すぎ!(笑)」 難しく考えるような返事じゃないのかもしれませんが、どんな返事が楽しく受け取ってもらえるか…アイディアとして提供してもらえるとありがたいです(´Д`)

    • noname#159162
    • 回答数6