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有害なる文学
どちらかというと文学愛好家なので、ただでさえ社会的地位の低下している文学をさらに貶めるような真似はしたくないのですが。 文学は有害ではないでしょうか? アリストテレスから始まって、魂の浄化うんぬんとあって、道徳心を育てるとか、国の統一性を保つとか、いろいろ効能はあると思います。 でも個人的な読書体験として、たしかにそういう一面があるとも思うのですが、一方でなんだか見なくてもいい世界を見せられ、悪徳を植えつけられたような気がします。 例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を読んで、殺人する、という行為を内側から見せられたような気がしました。殺人はとんでもない、と思いますが、どこか殺人に惹かれている私が生まれてしまいました。 ラシーヌの『フェードル』を読んで、禁じられた恋から生まれる錯乱の魅力を感じてしまいました。 プルーストを読んで一生仕事をしなくてすむブルジョワに惹かれ、芸術の素晴らしさと共に、社会参加のバカらしさ、友情の無益さを学んでしまいました。 村上春樹を読んで、ますます自閉的な世界に閉じこもることの深さに感銘を受けました。 サドを読むと、ああこんな怖い世界なのだ、と思うよりも、サディズムへの欲望が倍化されてしまいます。 作品を読むたびに、悪に対する理解が深まり、悪に対する魅力を感じてしまいます(もちろん、モラルを謳った作品に感銘を受けたこともありますが、悪を描く作品のほうが面白いと思ってしまいます)。 このように、どうも文学からモラルを引き出すことが出来ません。 私は楽しいから読んでいるだけですが、どうも文学は道徳的な効果より有害な効果を私に多くもたらしている気がします。 皆様は文学からモラルを引き出すことができますか?
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もちろん有害だと思います。 私の考えでは、実際の行動云々でなく、思想的に。 殺人はさておき、文学は、浮気や不倫をも肯定しうるものですから(笑) しかしいずれにしても、一人一人の人間の中に共通してあるものを文章に置き換えて書いているわけで、だからこそ共感を呼び、読み継がれるのでしょう。 普遍性がなければ広く読まれません。 ただの作者の自己満足で、閉じた世界です。他人が読んでも面白くない。 それに、くさいものにフタをして閉じ込めるより、読むことがカタルシスになります。 何が気に入るか、どう受け止めるのか、どう影響を受けるのかは、読んだ人それぞれで違うでしょう。 村上春樹を読んで、私はかえって安心して社会の中で生きるのがラクになってます。 ドストエフスキー作品もです。 そもそも、人間とは悪に惹かれるものだと思います。 本当にそちらへ行くかどうかは別として、映画の中の魅力的な悪役とか悪い女とかギャングの男とかには興味を持つわけでしょう。 人間とは矛盾したものである。 というのが文学なんじゃないでしょうか。キレイになんか行かないですよぉ。
- guitarist19xx
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こんにちは。二度目ですが再び答えたいと思います。 サドやドストエフスキーの小説はかなり倒錯的な面があります。私は読んでいるときに、これはおかしい、常識外れだと思いながらも、そのような世界観に惹かれずにはいられませんでした。 例としてあげられている『フェードル』もおなじです。これが平凡で退屈な恋愛だったら読者の心をうつことはまず無いでしょう。けれど現実に生きる人間で錯乱的な恋愛をすることはほとんど無いに等しいだろうし、したとしても日常生活が破綻することは目に見えています。しかし、そのように頭では理解したとしても、憧れが消えるわけではありません。 私は文学を読むことは毒にも薬にもなりえると思います。例としてあげられている作品は「取り扱い注意!」がふさわしいものばかりです。 >社会の存立に関わるモラルにも根本的な疑問を投げかけてしまう人は、社会全体にとってみると、「悪党」に分類されると思います。 文学作品を読む行為が、社会全体にとって「善」か「悪」を問う、というのはナンセンスだと思います。 前回もお答えしたように文学というのは常識を相対化するためにあると私は思っていますから、どちらか一方を、これがいい!という風に断定できないのです。 もしかすると、既成概念に疑問を持つと言うこと自体がが社会や政治にとっては不都合なのかもしれませんが。 >作品を読むたびに、悪に対する理解が深まり、悪に対する魅力を感じてしまいます これは別にいいんじゃないでしょうか?文学作品に限らず、平穏な暮らしを送っていればアウトローに惹かれるというのは、誰にでもあると思います。たとえば漫画などでもちょっとワルそうな男が女の子にもてたりするのと同じです。やっぱり現実をなぞるだけだと、人間は退屈してしまうのだと思います。 これはよく言われることですが、狂人は自分が狂人でないと思い込んでると言います。 少なくとも悪に魅力を感じる自分を自覚しているのですから、サドのような世界に実際に溺れることはないんじゃないでしょう。 文学からモラルを引き出せるかというのはYESであり、NOともいえます。 さきほども書いたとおり毒にも薬にもなるシロモノなのですから。 今日はこんなところです。
補足
2度目の投稿、ありがとうございます。 楽しく読ませていただきましたw >文学作品を読む行為が、社会全体にとって「善」か「悪」を問う、というのはナンセンスだと思います。 前回もお答えしたように文学というのは常識を相対化するためにあると私は思っていますから、どちらか一方を、これがいい!という風に断定できないのです。 もしかすると、既成概念に疑問を持つと言うこと自体がが社会や政治にとっては不都合なのかもしれませんが。 おっしゃる通りだと思います。 あげ足取りになってしまっては申し訳ないので、あまり反論するつもりもないのですが。。 それでも学校教育で文学って枠がある、という事実があると思います(「国語」なる謎の科目の中に)。 で、なぜ常識を相対化し、善か悪かを問うことそのものがナンセンスでもあるような文学が未だ教育プログラムの中に組み込まれているか、というと、多分 <「常識を相対化する」ということは善である>という思想があるからではないでしょうか。 平たくいうと批判精神の育成、みたいなことだと思います。 (文科省の指導要綱はプラトン哲学から啓蒙思想くらいまでをぐちゃぐちゃにミックスしたかなり楽しいもので、つまり「欧米においつけ」的に作られただけで、それ自体でなんらかの思想があるわけではなく、その指導要綱自体は議論の対象となるほどしっかりしたものではないですが。) そうした批判精神の育成、という考え方も、わからないではないし、多分それはおっしゃられている >悪に魅力を感じる自分を自覚しているのですから、サドのような世界に実際に溺れることはないんじゃないでしょう。 という考え方とかなり近いのだと思います。 つまり、文学は悪い面もあるが、総合的判断からすると、多分善だ、悪を相対化して、認識すると乗り越えられる、という主張だと思います。 それに反し、私は「わかっちゃいるが止められない」的な性向を強く持っていて、そういう曇った目で人のことを見ていると、ほかの人も自分と同じような気がして、そうすると、相対的に文学は 悪を認識させる→悪の道にひきずりこむ の傾向が強いような気がしたので、質問したしだいです。 もちろん、こんなことは統計のとりようがなく、作家によっても、読者によっても、まるっきり異なる反応が出て、文学を読むことは総体的に善だとか悪だとか、断定はできないと思うのですが。他の人はどう思っているのかな、と疑問に思ったので質問させて頂きました。 ご回答ありがとうございました。
- guitarist19xx
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私も同じようなことを考えたことがあります。サドやドストエフスキーを読んで「こんなヤバイこと書いていいのかよ!!」と思ったものです。なんだか、自分が今までいた世界や常識がひっくりかえった気がしました。 >でも個人的な読書体験として、たしかにそういう一面があるとも思うのですが、一方でなんだか見なくてもいい世界を見せられ、悪徳を植えつけられたような気がします。 この心情はとてもよくわかります。悪徳と美徳は相対的なものです。時代や社会情勢によって揺れ動き、かつては良いとされていたものが悪とされ、その逆のことも起こりうる。法律や規則がいい例かもしれません。 文学は常識や規則を相対化するためにあると思うのですが、いかがでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 >サドやドストエフスキーを読んで「こんなヤバイこと書いていいのかよ!!」と思ったものです。 全く同じ感想を持ちました。 サドは文学者としてより、サディズムの大元、という悪いイメージが一般にあるように思うので、まだいいんですが。 ドストエフスキーなんて文豪の名をほしいままにしています。でも長編小説が多く、読むのが大変で私の周りではあまり読んでいる人がいません。 実際、あれは完全に殺人者の世界、という一面があると思います。 まじでやばい。 あれを国民全員に強制的に読ませ、国民投票でもしたら、「これは非常によくない本じゃ」という結論がでる気がするんです。 >文学は常識や規則を相対化するためにある 仰るとおりだと思います。本当に同感です。 社会の存立に関わるモラルにも根本的な疑問を投げかけてしまう人は、社会全体にとってみると、「悪党」に分類されると思います。 文学は「悪い」なあ、と思うのです。 そんな世界がある、って分かっただけで、常識的な視点からすると、もう悪党の仲間入り、っていうかw ご回答ありがとうございました。
文学に限らず、あらゆるメディア、ゲームには、一定数の「入り込んでしまって、出てこれない人」の心配は、つきものだと思います。 メッセージを送り込まれるわけですから。 入り込むことは、鑑賞の上で、ある程度必要だと思います。問題は出てくることだと思うのですが。 文学者は、他のジャンルより自殺者が多いのは、ご存知の通りです。自分の内面に旅立ったまま、本人が出てこれなかったと解釈しています。 文学者本人の人となりと文学の質は、別物だと考えています。 文学にモラルを求めてはいません。 有害な効果は、有り得ると思います。要は「出てくる」ことだと思います。
お礼
たしかに、客観視することは大事ですよね。 ただ、文学の力、なんてものがあるとすれば、 それを読んだときに、強い感動とともに、読み手の価値観、世界観を部分的に書き換えてしまう力であると思います。 つまり優れた文学作品とは、自我+無意識という人間のOSを書き換えてしまうウイルスのようなものだと思っています。 もちろんモラルの向上に役立つ良質なソフトのダウンロードとなることもありますが、深刻なシステム障害を引き起こすものとなることもあるw 作品を客観視することは重要で、批評行為などもそのためにもあると思うのですが、一方で簡単に出てこれるような作品なんてつまらないし、読む価値もない、という気がします。 こういう矛盾した視点って割と文学愛好家に共有されている気がするのですが、どうでしょうか? 回答ありがとうございました。
お礼
ありがとうございました。 本当に浮気や殺人をするよりも、作品の中で浮気や殺人をして、カタルシスを行い、現実世界でいい人になる。 そんなバランスのとれたafter_8さんのような人が、理想だと思います。 まだまだ私はそんな人になれないので、修行が必要のようですw 回答ありがとうございました。