仏教と一口に言っても、実に広範ですね。おそらく仏教全般というより、禅と言ってしまった方がよいのではないかと思えます。というのも、禅と現象学の関係は、近年、次第に注目されつつある主題だからです。
まず、「本質観取」の目的は、一言で言えば、本質を抜き出してくるということにありますね。おそらく仏教だとか、禅に限らず、人間の「本質を抽出する」「本質を問う」という点で見れば、宗教全般、何事も共通点があるのです。しかし現象学の手法は、原因と結果をひっくり返すという点で、非常に特異であると言われます。たとえば、「林檎が目の前にある(原因)。だからこそ、赤くて丸いものが見えている(結果)」と考えるのが普通でしょう。しかし現象学の発想の場合、逆に、「赤くて丸いものが見えている(原因)。だから、林檎が目の前にあるんだな(結果)」と考えます。前者よりも、後者の方が、より客観的な認識の仕方であると言えます。「赤くて丸いもの」は、林檎かもしれないし、赤いボールかもしれません。
さて、禅問答の場合、同様の発想の逆転があります。たとえば、一休の頓知などわかりやすい例となるように思えます。つまり、「このハシ渡るべからず」と書かれている立て看板を見たとします。普通は「立て札を立てた奴が不適当な政治家だ」(原因)から、「橋を渡ることを禁じたのだ」(結果)と考えます。相手は意地悪な奴だから、嫌がらせしてきたのだな、と思うわけです。が、一休の場合は、「橋を渡ることを禁じるのであれば」(原因)、「立て札を立てた者は不当な政治家となってしまう」(結果)。自ら不当な政治家だと知らしめて回りたい者はいないはずだ。だから、橋そのものを渡ることを否定したのではないに違いない。「端」を渡ることを禁止したに過ぎないのだ――と考えたと説明することができるでしょう。
同じことを、公案についても考えてみましょう。
・両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか、それを報告しなさい(隻手の声)。
普通は、「両手を打ち合わせた」(原因)から、「音がする」(結果)と考えるわけです。が、この公案の場合、「音がする」(結果)という点から出発して、原因は何だったのか?と問うわけです。片手で音がするというのなら、音が出た原因は、手を打ち合わせることではなかったのかもしれない、別の要因があったかもしれない、というわけです。同様の例は、公案でいくらでもあげられますが、私は禅に関しては専門ではないのですから、ボロが出る前に、このくらいでやめましょう。
しかし、私がこのような例をあげて言いたかったのは、禅問答の場合、客観的な認識に到達するという目的を確固として有しているわけではないということです。つまり、原因→結果という通常の秩序を逸脱させることに、まず主眼があるように思います。というのも、「隻手の声」とあるように、「手が声を出す」とでも解釈しなければ、議論がそもそも成立しません。しかし、現象学の場合、客観的な認識に到達するという確固とした意志があるわけです。
おっと、そういえば、他の方へのお礼欄でマラルメの名前が挙がっていますね。詩において、現象学的な見地や、禅問答が起きるのは、当然と言えば当然です。これは、フランスの詩人らに、ブディスムが影響を与えたという意味ではありません。というのも、「手が声を出す」という言い回しそのものが、既に詩的であって、公案のディスクールが、そもそも詩であるからです。意識せずとも、両者が似るのは、必然と言えば必然なのです。
無論、十九世紀後半の詩において、主体を逸脱するというテーマは顕著でした。ランボーの「酔っ払った船」など、舵を失った船が主体性を喪失した男の内面を象徴しているという意味で明らかです。彼は『イリュミナシオン』で何度も、原因と結果の関係を逆転させます。彼にかかれば、日の出という毎日起きている当たり前のことでも、朝が来たから日が昇るという説明になりません。曙の化身である少女が街を駆け巡り、少年が少女を追いかけ回すという特殊な要因が潜んでいるのです。『イリュミナシオン』のディスクールをいじって公案めいたものを作るのは、実に容易でしょう。
マラルメにも似たようなことは言えますね。「牧神の午後」など、「腕の中に二人女をさらってきたはずなんだが、はて?私は何をしたんだったか?彼女らと愛し合うことができたんだったか?」と問い始めているわけですから。逃げられたから、腕の中に女がいない、とマラルメの牧神は考えません。腕の中に女がいないということからすれば、どうも自分は逃げられたという結論になるのかな、と考えるのです。こういう、とぼけ具合が、禅に似ているということはできるかもしれません。
詩の場合は、客観的な認識をもたらすというより、禅問答的にも自らの主観を抜けていく契機を作るということが重要であるといえます。そこに答えがあるわけではないのです。現象学と禅の違いは、科学と詩の違いのようなものだと、私には思えるのです。「思える」il me sembleに過ぎないのであって、論じているのとは違う、と最後に言っておかなければなりませんが。
お礼
果敢な投稿をありがとうございます。 リンゴの例を挙げてくださいましたが、そうですね、現象学では、リンゴの個々はどれも違う筈なのにどうしてリンゴってわかるんだろう?(類概念に昇華される)ということに注目しますね。それからもう一つ、わたしたちがリンゴを前にしているときの現出が、意識の流れの上で(=時間)やたらに変化しないで同一性を保っているということを重視します。こうした経験に構造を見出していこうという学問です。 微分積分的なイメージを持っていただけるといいかと思いますが、時間における現出が同一性を保っているので、赤いとか丸いといった情報ごとの志向的相関が絞られてきて、リンゴの形相という結節点を炙り出すのですね。ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。 「この橋渡るべからず」について仰っている逆転の発想というのは、ブラジュロンヌさんがときどきやるんですよね。。。それはさておき、一休さんの頓知がそんな一周りした発想とは存じませんでした。禅僧というのは大体において莫迦でよしで、あんまり考えないことになっているかと存じます。前夫の住職は修業先が悪かったのか、公案であれこれ答えたら禅師にぶっ叩かれるから無としか言えないうえ、何べん無と答えても叩かれ、とうとう無と答えると、よしと言われるのだと申しておりました。こんなのもある禅の世界ですが、 > 原因→結果という通常の秩序を逸脱させることに、まず主眼がある というのは納得できます。 現象学的還元が仰るところの逆転になるのは、経験を純粋に取り上げる作業だからじゃないでしょうかね。空間や時間を無条件に存在のかなめとしている経験的意識をエポケーして。 このあたりを踏み台に、誰か、能動性と受動性をめぐって、仏教でのお考えなど教えて下さらないでしょうか。 最後に、マラルメの件はご存じでしょう、ヴェルレーヌに充てた書簡でよく知られているものですが、Rienの発見というあれです。マラルメが精神的危機に陥ってスピリチュアル体験してしまった話です。詩の指示内容よりは詩の構造的展開手段にこの体験が生かされたと考えるのがわたしは好きです。サイコロさんの示されるフランス詩への愛はいつも華麗にして穏やかですね。ありがとうございます。