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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:歌や踊りは 上手いとか下手とかではないのでは。)

歌や踊りの文化は、表現力豊かな世界を作る源となる

このQ&Aのポイント
  • 歌や踊りの文化は、人の愛情や想いを表現する力によって豊かな世界を作る源となる。
  • 歌や踊りの文化は、自然な心と感受性を根本に持ち、健康な世界を築くための文化である。
  • 歌や踊りの文化を進化させるためには、評価基準の変革や技術指導の中での表現行為が必要である。

質問者が選んだベストアンサー

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  • bari_saku
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回答No.6

#2です。 私は技術とは「自分の精神世界をより忠実に観客に伝えるための手段」だと考えます。 例えば音楽の世界では、自分がものすごく熱情的に表現したと思っていても、後で録音を聞いたら全くの平坦な演奏でショックを受けるというようなことがよくあります。 それをすなわち、技術不足と考えます。 誰の心の中にも美しいメロディーは流れていると思いますが、誰もが脳内のイメージ通りの音を出せるなら苦労はないわけで、より美しいメロディーを心の中に住まわせていて(ハート)、かつそれをより理想に近い形で他人に伝えられる(技術)人が「上手い」と言えるのではないでしょうか。 ご要望にうまく応えられている自信はあまりないのですが、いかがでしょうか。

iwamahico7
質問者

お礼

さらに明確にしてくださり ご回答ありがとうございます。 何か音楽演奏をやられておられるのでしょうか。 歌や踊りにも通じる的確な観点ですね。 》より美しいメロディーを心の中に住まわせていて(ハート)、かつそれをより理想に近い形で他人に伝えられる(技術)人が「上手い」と言えるのではないでしょうか。《 なるほどまさに、その通りだと思います。 ただ、 その意味での「上手さ」も どこまでも上があります。 そこを ~自慢大会一回限りで自己満足させる文化のままであってはならないのではないかと 私は思います。 また 》より美しいメロディーを心の中に住まわせていて(ハート)《 と書いてくださった部分の そのメロディーを生む源泉としてのハートの世界も   まずそれが必須なのだから 指導者たちは、 そのへんを教える番組をかを作って欲しいと思ったのです。 少し 新しく整理できた気がします。 上手い下手は あるのだけれど、 指導者がそれにとらわれていては 生徒は 大事な心の部分を見逃してしまうのでは、 これではもったいないのでは、というふうな質問のほうが より的確な質問となったかと思います。 核心をついてくださり ありがとうござました。

iwamahico7
質問者

補足

この場をお借りして 締め切りのご挨拶をさせていただきます。 「上手い」という評価基準も確かに重要ですね。 しかし 特に指導する場合それのみにとらわれた形で心の中のメロディーをさらに養い引きだす 努力も さらに必要かと思います。 皆さんの御回答 今回、すべて参考になりました。 ありがとうございます。 締め切らせていただきますが、 実は 私自身が今舞踊の開拓のような実践途上でもありますので、  その私自身にとっての 技術と心の面について、参考にもなりはげましともなった こちらのbarisakuさんの御回答を 今回は「ベストアンサー」にさせていただくことにしました。 みなさまにも ほんとうに感謝します。 ありがとうございました。

その他の回答 (6)

noname#140643
noname#140643
回答No.7

#3です。 追記で再度失礼しました。 自分自身は、スポーツを全くしておらず、観戦の趣味もありません。 が、バレエは 形が美しいので昔から好きでした(森下洋子さんとか、バレエブームでした)。 で「ボレロ」の感動ですが、 当時はあの踊りの部分だけが よくテレビで流れており、「これは全部みたい!」となりました。 スポーツの素養が全くない自分が惹かれた原因はわかりませんが、 自己分析すると 恥ずかしながら自分は長く美術をやっており、 自分なりに美しいものを見る目があるためではないか、 と思います。 美しい物の中でも、私は緊張感のある、造形的にも完成されたものが好きで、 逆にその場の勢いでバーっと表現したもの(例・鶴太郎の絵)は、 どうしても好きになれません。 そういうものが劣っているとは思いませんが…。 なので、計算され尽くした膨大な積み重ねと、踊り手の能力や魅力によって あそこまでの「美」になり、それに惹かれたのではないか…と。 伝わり辛かったら申し訳ありません。 質問者様の、新しい舞踊家としてのご活躍をお祈りいたします。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 絵も 実は 私の舞踊の求道の世界で大事な世界でした。 作品としての絵というのではなくて、 自分の中での踊りのイメージに繋がるような 線が描けるかどうかが 決め手となるものです。 うまくその線に気持が入らなければ、 それは真正直にそのまま踊りにも現れてしまいますし、 ほんとうに これだと思える線が 描けたときには、 表面が弱弱しく細い線でも 少しその線もましになったかなと思えました。 なぜなら 踊りがまるで違ってきたからです。 そのような実際の線、 タッチの世界は 絵の世界ではどうなっているのかわかりませんが、 そいう線を見つけたのは  あれ? その物体 (道端の花でもいいのですが)それに感動し手ていれば  苦手だったはずなのに どんな細かい写真のような絵を描いても 面倒くさくないぞ と気が付いたところから  その線を追いかけていって、  さらに あれ これって ほんとうに感動をした線を描ければ 線だけで 自分の心には響くぞ、と気が付いたわけです。 それが 実際の体の感動とその表現の世界に活かせるかは、単純にその線に ごまかしがないか、というだけのこと、  嘘ついて きれいにしあげただけなら なんにも 自分の踊りにはパワーにならなかった世界です。 そこから考えると 一気にバーっと表現した絵も その線が真実ならば 感動を生むと思いますが、 実は それがより 自分の踊りを安定させるほどのものになるには 長い長い年月もかかり、かつ その間には 無駄な線もたくさん描きました。 絵画は、なかなか解らなかった世界ですが、 その線の修行みたいなところで、  あれ、日本の絵の世界って 造形美的な中に なんていう深い安定した世界を描ききっているものが多いのだろうとも、気が付くようになりました。 作品的な絵とかは 描いていないのですが、 こうして一本の線をとおしては 絵の世界とも繋がっているようです^^。 その限りでしかないでしょうが そちらの御説明 それなりに理解できたのではないかと思います。 はげみになりました。 舞踊についてですが、 63歳となってから始めるのも その意味では遅いどころか、 これでよかったのかもしれません。 》質問者様の、新しい舞踊家としてのご活躍をお祈りいたします。《 ありがとうございます。

noname#140643
noname#140643
回答No.5

#3です。 丁寧なお礼、ありがとうございました。 「ボレロ」についてもう少し感想等…という事でしたので、 恥ずかしながら再度失礼いたしました。 長くなりますが… 私は映画で「ボレロ」を見ました。 20年以上前の事です。 今でも夫と繰り返し見ていますが、見れば見るほど新しい見方ができる、重厚でしかもエンターテイメントも兼ね備えている、すばらしい映画だと思います。 踊りはその中で圧倒的な緊張と解放を見せてくれた…と思うのですが、 結婚前、実家で見た時は、母も祖母も 「自分にも踊れそうな踊りだねぇ」 といいつつ、形だけ真似をしていました(笑)。 という事で、興味のない人の反応はこんなもんかと思っていたのですが、 何の説明もなしに映画を見た夫は、違っていました。 とにかく、あの圧倒的な存在感を放つ肉体とその動きに、心底感動したそうです。 ずっと田舎の農家で、言い方は悪いですがそういうものに全く触れて来なかったのに、母達と全然反応が違うのは、 自分がずっとスポーツをやっていたのでああいう動きをするために何が必要か、わかっていたからのようです。 ただ、「ボレロ」以外のバレエを見てもそこまでの気持ちにはならないようなので、やはりジョルジュ・ドンの「伝える力」が大きいため感動したのだと思います。 (映画の力?とも思いましたが、その後踊りだけのDVDを見ても同じように感動していました) お求めの回答かわかりませんが、 何かの一助になれば幸いです。

iwamahico7
質問者

お礼

再度 ご回答ありがとうございます。 ほんとうは もし貴女が、だんなさんのように、スポーツから何かをつかんだ観察眼で ジョルジュ・ドンを感動したのであれば、 そのへん もう一度お聞きしたかったのですが^^、 ここは感想を少し 一応専門家^^という形で書かせていただきます。 》映画の力《 これもあっただろうと思います。 20年以上も前から 繰り返し見ているほどであればなおさらだと思います。 映画は 専門ではないですが、 舞踊でも 心のイメージを高める時には、映画でのモンタージュ(場面場面の組み合わせで物語効果その他の表現効果を高める手法)効果を  心の中で組み立てる時があります。 最初 ロングショットで映し出された街の喫茶店の窓から やがて 二人の男女が 珈琲を楽しそうに飲んでいたりする場面へ、 しかしその二人は 時折 しんみりとした様子も  そして、ふと男性が立ち上がると  何気なく挨拶して男性は立ち去ります。 女性は 下向き加減で、それを見送るでもなく    最後に男性が振り返り  女性も そちらに目を向け 左手があがりそうに、 よくある男女の別れの場面、 観客は ここまででは、別に何も感じません。 ところが その男女の、 それ以前の 出会いから、さまざまな場所での感動や笑いや 喧嘩や涙^^などの 想い出の映像が次に映され  やがて最後に 最後に もう一度 最初とまったく同じ 喫茶店のロングショットからの映像を観た観客は、 まったく同じただの さりげない男女のお別れ場面を 涙無には観れなくなっていたりする   全く同じ場面なのに、まったく違った じーーーーんとした感動を覚えてしまう世界 これが映画でのモンタージュ効果の世界です。 しかし、もちろん、 そこに 俳優たちのほんものの演技があってこそ そのモンタージュ効果は生かされます。 あとから DVDを観ても その効果はやはり 生きているかと思いますが、  同時にジョルジュ・ドンの動きが 人をひきつける迫力を持っているから ということも真実だと思います。  踊りが専門ではない私のネットの友人の場合は DVDで最初に感動しています。 そうそうスポーツでは すべてのスポーツが 実は日本武道でいう「絶対的安定性」を 求め始めています。 スピードが速くなるほど 命のぎりぎりの中で 活人剣を求めたそんな中ですら命を大切にした厳しい日本武道の世界の求めたような「安定性」を  ただの身体バランスを越えて求めることになるかと思います。 これは 舞踊でも共通項だと思うのです。 ただ、 逆に言えば、 その深い命を愛する精神さへあれば 舞踊は、自在でもある形でも その花を咲かせると思います。 そこが上手い下手を越えた世界だと私は思っているのです。 精神の深さなしの 下手は、 まさに ただのなんの価値のかけらもない世界、見ていても面白くもなんともない世界でしょう。 というよりも もともとは、それは歌や踊りではないのではないかと思うのです。 》お求めの回答かわかりませんが、 何かの一助になれば幸いです。《 とんでもないです。 メチャクチャ参考になりました。 ありがとうございました。

  • gldfish
  • ベストアンサー率41% (2895/6955)
回答No.4

細かい話は別として。 音楽やダンスは「上手いとか下手とか(小手先の技術)ではない」・・・というのは、全くその通りだと思います。これはヨーロッパ等のクリエイティブな世界では当たり前に意識されていることです。 http://www.youtube.com/watch?v=Ex1qzIggZnA どうです? 魅力的な動きでしょう? 「表現する」ことへの「高い意識」と「愛」も感じますね。 (ちなみにこのクリップは素人が有志で作ったのではありません。世界的な人気映像作家Spike Jonzeによる立派な商業音楽ビデオです。) 「歌やダンスというのは、ある程度の技術力あってこそ」なんて言い切る人は、「音楽」「舞踊」というもの、あるいは「表現する」ということが何たるか・・を何もわかっていない人だと思います。音楽や表現といったものをもっと幅広く知ることから始めた方がいいです。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 ご紹介のURLの映像ですが、 音楽をよく心で聞き取って(感動とともに) それが 動きの表情となって 人に伝わるダンスとなっていますね。 感じることが いかに本来の舞踊にとって大切かを示す映像の一つと思います。 ご紹介ありがとうございます。 》「歌やダンスというのは、ある程度の技術力あってこそ」なんて言い切る人は、「音楽」「舞踊」というもの、あるいは「表現する」ということが何たるか・・を何もわかっていない人だと思います。音楽や表現といったものをもっと幅広く知ることから始めた方がいいです。《 ずいぶん 自信を持たれた発言ですね。 ですが、例えば 音楽の楽譜は技術の世界ではないでしょうか? そのへん もう少し詳しいお考えをお聞きしたいので 補足入力に 再質問させていただきます。 よろしければ またご回答ください。 ありがとうございました。

iwamahico7
質問者

補足

実は 私は ある意味、舞踊の専門家です。 ただ 舞踊の心の世界だけを 40年も追求してきました、 しかも、虚弱児施設出身の人の3倍ブキッチョ人間、  63歳ですがいまだプロではないところなのです。 ですが、だからこそ、 今 踊り始めるべきときなのか、とも思っています。 》「歌やダンスというのは、ある程度の技術力あってこそ」なんて言い切る人は、「音楽」「舞踊」というもの、あるいは「表現する」ということが何たるか・・を何もわかっていない人だと思います。音楽や表現といったものをもっと幅広く知ることから始めた方がいいです《 これは ずいぶん自信のある言い方だと思います。 歌に関しては、Ano2の方(かた)の補足に 《心の方が先であるという面》を《海の波》に例えて書かせていただきましたが、 踊りの世界にも共通項は大きいことでありつつ、 踊りの世界では、 「音楽リズム体操と 舞踊の違い」ですら明確にしている論述をあまり聞きません。 ワンツースリーフォーと 最初から技術の練習に明け暮れしている教室ばかりです? これは、 楽譜という西洋で発達した音楽形式とその技術の進化が生み出したリズムの技術の世界の練習とも言えます。 この楽譜のリズムと もともとの踊りのリズムについて、 お礼を先ほど書いていましたときには、質問してみるつもりでしたが、 その前に、 gldfishさんは、 実際に何か舞踊をやられている方(かた)なのでしょうか? 音符と 拍子についての論議は 専門的すぎる話となりそうですので、 まず そのへんについて お伺いさせていただきます。 ここでは、 少し質問を切り替えまして まず、 アメリカの大学の舞踊科の基本となっています ドヴラー女史の舞踊教育理論について、 その基本は簡単明瞭でもありますので そのへんの質問をさせていただきたいと思います。 ご存知がもしれませんが、 1 リズム  2 パントマイムの音楽的表現(音楽的デフォルメ)、3、心の直接的表出表現 の3段階を 1、2,3の 順番に 教育してゆくという考えなのですが、 この3の 直接の心の表出表現 つまり体の動きを通しての直接の心の表情(顔なら笑顔とかにすぐ現れる単純に表情と考えてもいいところなのですが)が  確かに 日本では 一番上の段階として教えられていることをあまり聞きません。 まさにそちらの言われるように、 踊りが大衆の中に溶け込んでいるような文化の中での教室と、日本の教室の差なのでしょう。 そのへん ご紹介のURLの ダンスは まさに 心を表出している面を 浮き彫りにしていました。 今の日本(これは、高度経済時代の日本人ということかもしれませんが)で  このよさが 深く理解できる人がいるかどうかは疑問なのですが、  たしかに 踊りがしみこんだ西洋の人なら すぐ そのすぐれた面を理解するでしょう。 しかし、この ドヴラー女史の 単純明快な教育法でも すでに1のリズムというところから かなり技術的でもあるのです。 感動そのもの 心の躍動そのもの、 その心弾むリズムがそのまま舞踊のリズムとなる世界ならば、 考えてみれば  1と 3とを分ける必要も無いところ、 まず gldfishさんには、 欧米であれば、 技術が踊りではないことを かなり大勢の人が理解していると思われますか? このへん 細かく言えば きりがないのかもしれませんが、 アメリカの大学の舞踊科の基礎となっている この単純明快な3段階論理について、 どう思われる方(かた)なのか お聞きしておこうと思いました。 もしよろしければ そのへん再回答おねがいいたします。 よろしくおねがいします。 ありがとうございました。

noname#140643
noname#140643
回答No.3

自分の夫(50代後半。芸術的な事には全く興味なし)の事で恐縮ですが、 BSなどで映画や歌番組を見ていて、 たまに 「あっ、心を奪われている」 という事があります。 美空ひばりの歌 ジョルジュ・ドンのバレエ モーツァルトの作った前半の「レクイエム」 等です。 逆に、「NHKののど自慢」と「よさこい」は大嫌いで、 うちでは放送を見たことがありません。 理由を要約すると、 「素人の自意識過剰」 みたいなものが嫌だそうです。 「プロ」でやっていこうという人で、見せるに値する芸があるなら 公共の電波にのせてもいいけど、 「片手間」みたいなものを見せられるのは、正直私も苦痛です。 ただ、「楽しみたい」とか「仲間との一体感を感じたい」とか、そういう理由はわかるので、 それは地域の中や、わかってくれる人の前だけでやるべきだと思います。 そして、その中でもやっぱり切磋琢磨された「上手い」ものは皆の心にひびくし、それが続けられることで「文化」になってきているのではないでしょうか。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 そちらの ご家庭の例まで書いてくださり ありがとうございます。 実は 私は もう63歳なのですが、 40年以上も 舞踊の方の心の世界を追及してきた人間です。 心ばかり追求してきたため もう体が歳食ってしまった今も プロの舞踊家ではないのですが^^、  やはり こころが歌や舞踊にとっていかに大事な世界か、わかってきましたので、  むしろこの体から出発して 技術の世界をも、 巻き込めないかと 真剣に考え始めているのです。 》自分の夫(50代後半。芸術的な事には全く興味なし)《 とありますが、 美空ひばりや、 ジョルジュ・ドンや 「レクイエム」への感動の心は むしろ 本当の藝術への感性をもたれているからこそ、  芸術家は芸術家として 自分は自分の道にまい進するという心深き庶民の姿を連想します。 お心の深い方(かた)なのでしょう。 実は NHKの喉自慢大会出場者についても、逆に言えば 「自意識過剰」 ということでは あのように明るく大声で人前では歌えない という 面も あることはあると思っているのです。 そのへん もし機会があれば よく見ておいてみてください。 けして 喉自慢という自慢がつく名前のままではない いい面もたくさんある文化ではあるのです。 美空ひばりも そこで優勝し テレビ文化の流れに乗っかっていった人です。 でも 本質を一言で 要約すれば確かに、「素人の自意識過剰」 それをプロまでもが あおっているかのような番組となってしまっているところを  なぜ専門家の方たちは 黙ってみているのだろうか? 明日の 歌の文化は これでいいのだろうか? という疑問だったわけです。 せっかく歌が大好きな人たちに歌を大勢の人の前で歌う機会を与える番組なら  歌のすばらしさを さらに追求し 専門家がそのへんをしっかり指導し  その人たちと さらにすばらしい歌の文化を、 そしてその番組を創ってゆくべきなのでは という思いがあったのです。 ご回答 大変参考になりました。 ありがとうございます。 なお、補足入力の方にも、舞踊家として 少しだけ 補足質問させていただきますが、 もしよろしければ ということなので あまり気になさらないで下さい。 よろしくお願いします。 ありがとうございました。

iwamahico7
質問者

補足

ジュルジュ・ドンの バレーを 何か映像で観られましたのですか? 「愛と悲しみのボレロ」という映画の中で 踊っていますね。 モーリス・ベジャールというモダンバレー家の振り付けで すばらしい踊りを踊っています。 動きは西洋的ですけど、精神的には 日本の幽玄に通じるものがあり、 日本人なら本来 そのへんのひきつけられるとことがあると思えます。 命の中の静寂さを 動きの技術の中、動と静の緊迫感のあるメリハリで表現していると思います。 だんなさんと その映画をいっしょに鑑賞されたのでしょうか? もしよろしければ   その感想だけ もう少しお話いただけると ありがたいのですが よろしいでしょうか。 よろしくおねがいいたします。 ありがとうございました。

  • bari_saku
  • ベストアンサー率17% (1827/10268)
回答No.2

#1さんの回答とかぶりますが、他人の心を動かす度合いが大きいほど「上手い」となると思います。 そして他人の心を動かすにはまずハート、そして技術が必要。 どちらが重要かと言われれば言うまでもなくハートですが、技術なしに感動はあり得ません。

iwamahico7
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 》どちらが重要かと言われれば言うまでもなくハートですが、技術なしに感動はあり得ません。《 重要なところと思われますので 補足入力にて、再質問させていただきます。 ありがとうございました。

iwamahico7
質問者

補足

》どちらが重要かと言われれば言うまでもなくハートですが、技術なしに感動はあり得ません《 重要なところと思いますので このへんもうすこし詳しく質問させてください。 まず、歌の技術と 心の関係を少し 分析して考えてみたいと思います。 ここは そのあたりを 海の波に例えると解りやすいのではと思います。 その想い自体が どのような仕組みで生まれるかとかいった心理学的な分析は ここでは置いておいて、 歌の声の表現となるような心の世界を 想いの海として例えてみるのです。 人間がそこに生活している数だけ豊かな おそらく無際限の海の広さの可能性がそこには広がっているでしょう。 その想いの海、が  浜辺(人の胸、あるいはハート)に向かって 表現されるべく そのパワーが近づいてゆくにつれ、 それはうねりとして高まり、 やがて それが 浜辺へと無心に崩れて行くようなエネルギーの中で 波となり  音楽のリズムやメロディーと合流し 波はそのまま崩れて 人の胸へ(浜辺へ)と打ち寄せてゆく  というふうに考えてみてください。 その時に、 想いのうねりが あると 声にもドライブ感とかグルーブ感とか いった 深みや重みのあるうねりが生まれますが、  やはり これも 想いのうねりが先にあっての声の技術です。  あるいはそのように捕らえることができると思います。 その土台があって  次の声の波のあたりの 節回しや 演歌で言えばこぶしまわし、 細かい声の震わしとかも 表面的にならずに またかなり自在に創造できたりします。 これもまた 技術で 声を震わせたり 節回しを創ったりしては、 もともとの想いの世界は生きてきません。 (すみません、 私はそう思うということです) その上に さらに歌の世界や音楽の演奏の世界などでは、 強弱のメリハリや 変化の豊かさが より高度な 心の表現の世界、より深い精神や、感性の世界を表現してゆくと思うのですが、 このメリハリのあたりも 技術が先であったら、  歌の本質である心は どうなってゆくのか?  そこに 疑問がまず 起こってしまう人間なのです。 これ 技術だけの指導でも 聞きばえとかは 進歩してしまうと思うのです。   だからこそ そのへんが、私は怖いなと思ってるのですが、 そこで 気になるのが今の歌の大会やその番組などの世界ということだったのです。 さて、 ハートと 技術の世界ですが、 ハートが深ければ 、 これだけですと 抽象的ですので、例えが ハートに躍動とリズミカルさ、軽快さのある明るい心の持ち主ならば、と言い変えてみますが そこには 人間関係的にも そのようなハートから生まれる 重みはあっても軽快でもある 音楽とハーモニーを生むような想いの海のうねりがまず生まれ  おそらく 自然にも 技術は必然的に身についてゆくところ、  ハートの深さには それが嘘偽りのない真心であるほど  ほんとうは技術さへ越えて人に伝わってゆく世界もあるのですから、 では その時に 技術とは どのように指導されるべき世界なのか? というあたりに 気持がひっかかるのです。 そして、 歌なのに 心の教育 感性の教育が  歌の番組でも なぜか少なすぎ(というより皆無に近い)のは 何故なのか? といった疑問です。 おそらく 技術の世界にも 価値も深みも 例えればやはり海にも例えら得るような何かはあるのでしょうが、 まさに、 そちらの言われるように 》まずハート《  という点がこの日本の歌の文化の中で どうなっているのか? そのへんの疑問だったのです。 少し 詳しく書かせていただきましたが そのへん どう思われますか?   再質問となりますが、 もしよろしければ またご回答おねがいいたします。 ありがとうございました。

  • IDii24
  • ベストアンサー率24% (1597/6506)
回答No.1

何人の人に感動を与えることができるか。それが上手い下手という表現に現われるのだと思います。 だから明らかに違いはあって、下手な人は下手なんでしょう。のど自慢だって同じ事ですよ。カラオケの採点マシンの様な評価はしてないと思いますよ。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 言葉足らずでしたので すこし補足と再質問を書かせていただきました。 ありがとうございました。

iwamahico7
質問者

補足

すみません、 喉自慢大会の評価基準自体の評価をしている質問ではなかったのですが、 書き方がそのへん舌足らずだったと思います。 補足入力で補足させていただきます。 NHKの喉自慢大会は 美空ひばりも参加したことのある伝統の歌の大会です。 その評価基準自体は かなりしっかりしたものだと思います。 声量があって楽に、会場中に声を前に出して歌えているのに、気持が入っていないだけで鐘は二つどまりというのは ざらに見かけます。 私が気になるのは それが 一回限りの勝敗の大会となってしまっている点であり またそのような番組が日本文化として定着してしまっているあたりなのです。 歌の好きな人が 無心に歌う姿を 評価しても入る番組であるなら、 せっかくのその明るい開放的な心も含めて、 指導者が、その人その人の感性や 愛情の世界をもっと評価し 指導し その上で技術も指導できれば  こうした大会には 最初は下手の中の下手な人であっても  歌が好きなら参加したくもなるでしょうし、 たとえ 肉体的な何かの障害があったりしてうまくならなくても もっと歌が好きになり、 かつ何かのその人らしい表現力がみにつくと思うのに? なぜ 歌の専門家や 指導者が この番組にそのへんの言及をしないのか? またプロも 参加している番組なのに、 これではプロとの技術面での違いを明確にするプロの商売のための番組となってしまいます。 それなら それで たくさんの歌好きの人たちと プロの人たちとの競争の番組を  正々堂々と創るべきところかと思いますし  もちろん それは競争が目的であるような表層的なものであってはならないと思います。 なぜ、そのような番組が生まれないのか? と言った問題でもあるのです。  あるいは そういうビジョンをなぜ 日本の歌の指導者が提案したりしないのか?   という疑問なのです。 そのへんは どう思われますか?

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