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喉自慢(NHK)は、日本の誇る文化の一つ?
歌は自慢のためにあるのでも無く、 また喉で歌うものでもないのに? なんで専門家までNHKの「喉自慢」をそのまま黙って認めているのでしょうか? 視聴率との関係で、もっと効率のよい歌番組が考え付かずにしかたなしにそれを文化と宣伝してるのでしょうか? プロもその他の歌の専門家の先生方も、そのへんのマスコミの限界を理解してあげて妥協してるということなのでしょうか? それとも 歌の世界がビジネスに巻き込まれすぎてしまっているために、そのへんの矛盾に専門家まで 何も言えなくなっているのか、またマヒして気がつかなくなってしまっているのか? 心とビジネス、あるいは、現実の生物として、文明人としての弱さと歌の絡みの問題ですので、 けっこう複雑かもしれず、 まず、こちらの哲学カテにて質問してみました。 その番組が 大勢の人の馴染みの茶の間の文化になっていることは 馴染みという点では解ります。 しかし、歌の真剣な文化という観点からはなんとか、 もうすこし発展性のある番組を専門家たちは話し合うべきなのではと 思うのです。 さんまの替え歌番組についても 歌を真剣に愛する人間がなんで黙っていられるのか解りませんが? (日本の歌の最大の長所の一つは 詩の言葉をどこの国より以上に大事にする点だったはず。) が、 それは完全な娯楽番組ですよね。 NHKの場合は 日本を代表する文化と銘打っての番組なので、そのへんの疑問なのです。
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共感を呼びやすい庶民文化です。
お久しぶりです~。お世話になりに回答してみます。 独自の(発想、表現)と模倣と偽造は関係があります。 一致ではなく相違という。 だからその痕跡について語る価値も生まれるし、自分に何が出来て何が出来ないということも学べる。 日本もそうやって文化の発展を遂げてたのですし、今じゃ追われる立場になって偽造され他の文化に消化されてきてますよね。 接収→消化(再構築)→淘汰→排泄 これも日本にある独自であり、世界でも共有していることなだけだと思います。
お礼
ほんとにお久しぶりですね。 「十字架に接吻」への 今度は回答の方も急ぎ書いてみたいとおもいます。 今 私自身が、すこし悩んでいたり 迷っていたりもします。 こんな時には そちらの思索と文の深さは 魂まで励まされる思いがします。 いつも ありがとうございます。 言葉から文章の奥を 真剣に考える謙虚な言葉への姿勢を持っていてほんとによかったと思います(^^) そうでなければ、 そちらの詩心にも気がつかなかったと思いますし、 まして哲学的な理解の深さにもきがつかなかったでしょう。( 誉めてるのか けなしてるのか よく解らない文章より^^)。 ふたたび お会いできてうれしいです。 ありがとうございました。
補足
久しぶりです。 ご回答ありがとうございます。 私のブログを 変な検索で(^^)発見してしまったのにはびっくりしました。 でも そのブログは、 ちょっとした病気以後、体力とかの問題で続けられなくなってしまっています。 (こちらへの コメントとかが遅くなっている理由の一つでのあるところです。) なんとか再開したいのですが、今のところまだ無理のようです。 こちらへの参加一本にしぼっています。 ほんとに久しぶりですね。 どうしていられるか気になっていたところです。 お元気そうですね(^^)。 ご回答ですが、 さすがアランの勉強を勉強された方のご回答だと思いました。 文章は 哲学的な「謎」を追う文章ですと、やはり今一解りにくさはありますが、 この文章ですと、意味合いの深さはかなり読み取れます。 以前はなかなか大変でした。(あの…、 ついバラしてしまいましたが^^)。 以前の文でもなんとかかんとか 意味合いの深さは読み取れ、それで??と驚いてしまったのですが、 今回はストレートに よく解ります。 でも あとでちょっとそのへんはアドバイスしてみたいことがあります。 それはともかく、 そちらの言いたい内容は、 独自性ある表現や発想の世界も、模倣から入ってそこに到達する場合もあるし、模倣が全く無い独自性というものはないわけだし、 そのへんをさらに考えると、偽造的な いっけんいい加減な表現の世界でさへ 創造性の過程としての痕跡を持っているものであり、 それを総合的に分析したり考えたり語ったりする価値がある世界だ。 その総合的な全体の中でこそ、自分の人生での道、今何が出来て何が出来ないかをも学びつつ進んでゆけるのだから。 という大きな含みのあるお考えが まず、一本ずしっとした重みで語られているのが解ります。 日本の文化を考えてゆくにも、その大きな流れを見失ってはだめだということですよね。 まさに >接収→消化(再構築)→淘汰→排泄<の流れを 大きな度量と眼力で見直すならば、 「喉自慢」の文化も 独自の文化としての価値の世界が見えてくるものだし、 それが世界にも共有されている文化というものの総合的な見方の世界だ。 というふうに意味が通じてきます。 アランというフランスの教育家であり哲学者の方も、そこまで大きく感性や表現の世界の教育の世界を見据えたかたなのでしょうか。 改革すべきことは改革すべきだと私は思っています。 しかし真の改革にはこうしたスケールの大きさ、視野の広さが必要なのだと、あらためて考えさせられました。 さすがですね。 ありがとうございました。 * ただ、 哲学的な思索と関わる文章については、 そちらの場合は、おそらくですがエスプリの効いたフランスの哲学の日本での翻訳ものとかだけを読んでいても、 せっかくのそちらの深い理解力を その文章に生かせないだろうと思います。 多読こそ文章上達の最高の道と言っても、 フランスの頓知の世界の翻訳なのですから、言い回しが普通の文章の創造性の世界とは違ってきてしまうと思います。 mikoーdesi様は、「プルクワ(フランス語で「謎」のことのようです。)」を追いかける哲学的姿勢も おそらくアランから学んでいます。 姿勢も 理解力もそのへん深い哲学向きの女性なのに、 惜しいですよね。 多読といっても、 随筆や評論ですと、アランをこれだけ理解し頭の中で消化できている人にとっては物足りないものも多いでしょうが、 ここで言うわかりやすい物語というのは文字通り 頭を使わないでも楽しめるような小説とかなのですが、 いままでは、 これはおもしろいな と思ったようなものはありますか? 詩なら そちらは生きられた感動する心の動きをそのまな素直に文にすることが出来るmikoーdesi様は 天才みたいなものです。 そして其の詩心の世界は 普通の散文とか手紙コメントにてはすでに、文章の味わいの世界として生きています。 詩だけでなく すばらしいものがすでに文章の中に生まれているわけです。 それならば、いつか哲学の頓知の世界にも それがゆとりと創造性自在性のあるエスプリとユーモアの世界へと進化してゆけるはずです。 mikoーdesi様ならです。 淘汰→排泄 其の地点の独自な哲学者の貴女でありますように♪ 淘汰→排泄 その日を目指して♪
- rabbit321
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私はモトカレの関係で内情をちょっと知っているんですが、 内部では異論もあるようですよ。もう時代おくれですよね、 あのての番組って。 年末の紅白もそうらしいです。局内では止めようという人も結構 いるみたいで。 わたしが感じるのはNHKって威張ってますよね。日本を代表してい るみたいなおごりや勘違い職員が多いように思います。朝ドラや 大河ドラマなんてその見本みたいなもので、どこかの地方起こしと 関連している。ウラでいろいろありそうです。なんかの関係で、 たとえばですけど、富山県の何とか町と市とかを舞台にしてドラマ を作るとそこがNHK上げてPRしてくれて何億というお金がころ がり込むようにできている。そういう話を買えばいいわけです。 ゴーストライターでもなんでも書かせて。 あとNHKって苗字から昔のえらい人の子孫だってすぐ分かる人が 多いのも特徴だし。普通の人は入れないような雰囲気。 モトカレ+わたしの意見でした。
お礼
多少疲れ気味の日々が続いています。 元気が沸いてきました。 勇気付けられました。 rabbit321様もがんばってください。 ありがとうございました。
補足
いろいろな制作会社との契約とかでなりたっている事情とか NHKはそのへんどうなのかとかの内部事情についてはよく解らないのですが、 どのような長い間にできあがった形があろうとも、 私たちがみんなでよりよい番組を応援したいという意識を持つならば、 変わらない組織は無いと信じています。 大勢の意識の高さに裏付けられた正義はかならず勝つと信じているのです。 現在私は61歳なのですが、 子供の頃 ちょうどテレビが始まったばかりの同年代の人たちならば、街頭テレビとか近所の酒屋さんとかにみんなでプロレスを見に行ったとかの思い出を持っていたりするでしょう。 しかし、私は、その少し後に、虚弱児施設にて、テレビを出会う形となります。 ちょうど、テレビ文化が文化として始まったばかりの頃と言えるでしょう。 そこには物事が始まる時のさまざまな新鮮なエネルギーがありました。 その施設で人気があったのは 相撲番組で、朝潮太郎とかいう大関が一番人気だったりしたのをなつかしく思い出しますが、 なによりも強烈な想いでは やはり「私は界になりたい」というフランキー堺主演の戦争映画です。 私たちは ふだん20人から30人程のグループに別れて、そのぞれのグループの大きな寝泊りもする部屋で食事をするのですが、 大きな食堂で全員がいっしょに食事をすることもたくさんありました。 その食堂にテレビがあるため、食事の時はなぜか「胃に悪いですよ」なんていう先生もいなくて、みんながテレビを見ることが出来たのです(^^)。 そこで 見たのがその「私は貝になりたい」という映画です。 フランキー堺の演じる床屋が 戦争犯罪の罪で死刑になるまでのドラマですが、まさに時代を反映していたのでしょう。 意味が解るはずの無いと思える小学校一年生までが、その映画には見入っていました。 そして、最後の主人公が死刑台に歩いてゆく段になると、そこらじゅうからすすり泣きが始まりました。 そこで有名な最後のせりふ「私は、もし生まれ変われるならば貝になりたい」というせりふをフランキー堺が重く演じると、とうとう全員が明らかに泣き出しました。 そのまま彼は 死刑台に飛び降ります。 そして幕となる映画なのですが、 なんと一年生から6年生、それに先生方も含め全員が その後大泣きに大声で泣き出してしまったのです。 ちいさな海辺の虚弱児施設を越え、その声は、もしかしたら星たちにまでとどいたかもしれません。 時代の空気です。 テレビ映画製作者達の方でも それこそ未来の新しい文化創造のロマンに燃えていた時代です。 ドキュメントにしても報道にしても その理想をみんなが求め そのはじまりに希望を持っていた時代ですね。 その後、残念ながら 大相撲にすら見られるマンネリ化が起ってしまいました。 ビジネスのからくりに負けたというところもあるでしょう。 でも、大相撲にしても、こんな今こそ、その伝統の日本武道の本質に立ち返って今度こそ本物のもうくずれることのない相撲文化に昇華しなおすという道を選択することも出来るのですよ。 もちろん、 このままさらなる不祥事が発覚したりして、滅びて行く選択もできますけどね。 外国人力士にしても、たとえばブルガリアはすばらしいレスリングの伝統がある国ですが、その道を捨ててまで日本の相撲のすばらしさに命をかけた力士がいても、 この状況にはがっかりしてしまいます。 反対に本当の日本民族の魂は 茶道の精神の国、もてなしの国じゃないですか、なんでブルガリアの素朴な村の人たちやそのレスリングの世界との交流をドキュメントしないのでしょう。 そんな報道で 彼を励ましてあげられないのでしょう。 いや、これこそテレビが始まったばかりの頃の交通事情や技術ではむずかしかったことが今なら出来ることなんです。 モンゴルの力士の報道にしても、くだらない喧嘩なんかしてないで、ホーミーやその民謡のもともとの世界とか 琴の源泉でもある馬頭琴の伝統の世界と日本の文化との交流を NHKならばもっともっと推進してゆけるのではないでしょうか? 今こそ もっと目を覚まして 歌なら歌の本物の文化を高め低ってほしいですね。 私たちも 勇気を持って 悪い点は悪い点として指摘してゆけるようになっていきたいものです。 勇気ある御意見、 ほんとにありがとうございました。 お茶の間になじみのある番組、そのすべてがおかしいなどと言ってるのではないわけです。 もっとその本質を考え哲学して、本気で明日のすばらしい道を今の技術の世界で 選択し、勇気を持って取り組み始めてほしいという抗議です。 同意見の方のご回答には勇気付けられます。 ありがとうございました。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
おはようございます!arayata333さん。 ●視聴率との関係で、もっと効率のよい歌番組が考え付かずに しかたなしにそれを文化と宣伝してるのでしょうか? ↑ どうなんでしょうね? よっしょ、いっしょに考えてみよっと。 ところで、NHKの「のど自慢」の意義はまず何だと考えます? お国自慢の場ー地域の主張の場ー個の存在表明ー止揚 うん、名もない人たちが日本のどこかでこうして、日々、泣き笑い、明るく生きているってことをみせてくれてるんじゃないですかね。ときに人は、現実を見忘れ、理想理想理想を追い求め突き進んでもしまいます。そんなとき、これが現実といわんばかりに、鐘の音が鳴る。名もない人の存在にハッとする。TVの画面に映し出されるのはほんのひとにぎりの名もない人たち。そこには映らない名もない人たちがたーくさんいることを気づかせてくれる。日本は広いと。知らないこといっぱい。それなのに、時代の流れは日々加速するかのように流行廃りの入れ替わりめまぐるしいこと。誰にも気づかれることなく消えていってしまうことやものがあまりにおおい。そういう時代、だからなおのことこのベタとも思える「のど自慢」大事じゃなのかな。 【歴史遺産】 http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2008&d=0621&f=column_0621_003.shtml
補足
よい観点を突かれていますね。 ありがとうございます。 本来 歌のパワーは、人の想いの海のうねりのパワーとして誕生します。 そのパワーさへあれば、 下手な段階でもそれなりに想いはさまざまに表にはじけます。 弱さや弱さの自覚も想いの強さに生きてくるのが その時歌という表現の大きな特徴になります。 ともかく一生懸命生きてることの反映となる世界なんです。 でも だからこそ、それはたんなる「自慢大会」の域を脱出してほしいというのが私の願いであり、 歌のプロや専門家の先生方へのなんで黙っているのだろうという疑問なんです。 そのへんを指導できれば その想いのうねりやそのパワーをどうやってリズムやメロディーや節回しにつなげ 言葉の解釈の世界を豊かにしていけるかを、その大会に出る人は学べることになり、みんなどんどんうまくなります。 何回かにわけての、 歌好きの人たちのそのような 真剣な指導のもとの集いの歌の大会を放送するなら、 人の涙や笑いの世界、 一生懸命生きてる心の世界は よりいっそう、歌を通して 大勢の人を励ましもし、楽しませてもくれ、力づけてもくれるようになるでしょう。 一回限りの しろうと歌自慢大会というのは、やはり それだけでは「地域の歌」の世界の本当のパワーは浮かび上がってこないと思っているのです。 【歴史遺産】と題したURLの紹介ありがとうございます。 日本で言えば 昔のホテルオークラを想像します。 今はビクトリア調の建物になっていますが、昔は日本の建物のつくりを生かした大変世界中から注目された建物でしたからね。 またその頃に 世界一のサービスの伝統の始まりのエネルギーが生まれたのですよね。 その頃を知ってる方は 懐かしいことだろうと思います。 ホテル事業もまた これからの時代は 感性教育にとって重要です。 特にできれば近未来には 子供達が旅行できるような環境づくりが 総合教育の一環として考えられるべきところだからです。 今は、写真文化と旅館業の関係がいよいよ密に始まったところと捕らえています。 写真という文化は、神様の御技をそのまま捕らえるという点において、音楽の始まりと似ています。 今までは おもに社会ドキュメント芸術としてその深みを追いかけていたのが、 もっと直接的に この青い地球のすばらしさ、私たちの生きてる大地のすばらしさを 深く広くどこまでも物語るものになりつつあります。 子供達が そのような旅行が 彼ら本当の芸術家たちへのあこがれや信頼の中で 世界中を旅することが出来るなら、 その子供達の、その歌の文化もさらに豊かなものとなるでしょう。 なぜ、littlekiss様が 香港のすばらしいホテルの事業をここに紹介してくださったのかの 詳しい意味合いはわかりませんが、 ともかくこうしたホテルマンのこれからの主導的な役割は、ホテルオークラの時代よりもさらに大きくなるだろうと私自身が思っていますので、 この>止揚<の世界、 まさにへーゲルの真に言わんとしていたのだろう弁証法の真の総合的な止揚の世界に思え、 さらなる ひろい文化としてのあの歌の大会の文化の意義のあたりの観点を ここに学ばせていただきました。 なるほどと思いました。 ありがとうございます。 製造業での原材料の輸入と製品の輸出の時代はとっくに終わっているでしょう。 金融危機は アメリカの影響をもろに受ける形にはなっていません。 ネット金融の世界はむしろ健全です。 かれらがしっかりしていれば当面は金融も安泰です。 でも 長い目ではアメリカ以上にいやはるかに危険な金融体質(金利据え置き型がアメリカでは20%、その中でのサブプライムがこれだけの危機を生み出したところ その証券化は日本では受け付けていない。 でも日本ではその危険な金利の世界のほうが80%だとのこと、今のうちにしっかりした政府の対応が必要なことは確か)を持っているとも言われているようです。 日本は、産業構造の転換が必要な時、 ここには不動産部門は、総合的視野が求められ、真にそれを見つめることが出来さえすれば、ネット金融とともに日本はサービス産業にても次の世界の先頭にも立てるのではとも思っています。 ただし、現実は、中国の勢いの最中、 しっかりしたホテル事業はすでに中国の先を越されてしまったのだろうか? ともかく、さらに大きな目で 明日の子供達の文化を考えていきたいところと あらためて思っています。 ありがとうございました。
歌ぐらいで目くじらをたてるなんて粋じゃないなと思いますが。 川柳を下品だといって文句言ってるのと変わりませんよね。
お礼
私の弟で、現在シアトルに暮らしている写真家がいます。 最初は趣味だったのが 今ではほとんどプロです。 数々のおもしろい感動的な写真があるのですが、 其の中でも白鷺が何千羽もいっせいに飛び立つ姿を写した、 20センチ50センチぐらいの大きな写真を見たときには驚きました。 命の世界 本能の姿のすごさにあっとうされました。 兄弟の写真というより、人間の写真のすごさの世界として素直に胸を打たれました。 これもまた粋な世界ですよね。 写真以前のフェルメールとかの世界(すみません、詳しく知らないのですが、写真機は其の頃できてなかったですよね。)とかもすごいですし、 ゴッホのタッチの世界も これは感動の空間を切り取っています。 でも、そんな画家達も 心の奥には写真機にあこがれていたはずです。 写真自体は知らなかったかもしれません。 でも それは神の御業そのものの世界を写す世界です。 彼らの心には神の御業自体をまだまだ写し取れていないという心もあったでしょう。 ただし、 宇宙の広大さ、とう事一つとっても、それを感じる心自体がなければ、それは「広大」ですらないわけです。 感じる心自体も写し取るのが絵の世界です。 その構成技術の世界がいかにあれ、そのまえの肝心はやはり感じる心自体であるだろうと思うのです。 絵には絵のすばらしい世界があると思います。 というより、絵の心の世界ならば それこそウソの無い感性そのものの世界と私は思っています。 実は歌にも そういう本質的な意味でのその絵心こそがまず必要とも私は思っています。 粋な世界の深みは、 その自然な心とともにこそ在ると私は思っているのです。 私自身は やはり、歌の文化の世界にも 理想は求めます。 粋を愛するがゆえにです。 ありがとうございました。
補足
体調がすぐれず、お礼等遅くなっています。 ありがとうございます。 「粋」上限も下限もなくしかして、結局はそのプロや専門家は「品格」にそれを包み込む、といわれてる世界ですね。 そこを私も重要視しているつもりではあるんです。 歌の基本として、それを海の波に例えると、“想いの深さ”という歌の源泉にあたるものが海そのもの、あるいは海の広さと深さの例えられたりします。 それが、人の胸に(浜辺)に打ち寄せるべく、想いのうねりとなり、そのうねりが技術的に言うならばグルーブ感とかドライブ感になるのであっても、元はまさに「想いのうねり」であるところ、 日本人でシャウト(歌での叫び)の出来る人がなかなかいないのは、技術に頼りすぎというのがあったりします。 そのうねりが 音楽のリズムとメロディーとに出会い、それがまた歌詞ともであい、 歌として表現する人の中でまとまり、あふれたり、思い余ったり、こぼれるように、 人に伝えるべく 崩れてゆくのが波であり歌なのだ。 というふうに、 海の波に例えると、歌の全体像がなかなかステキ(詩的)に見えてきたりします。 その時に、想いの源泉の奥にあるものとして、そこにあるのが 実際の大自然との触れ合いであり、それを感じる側の感性の世界であり、 かつ、そこからの心のユトリが生む、人への真心の世界 暖かい交流の世界なのですが、 その全体に関わってるのが まさに男女の交流の世界、粋の世界でもあると私は思ってます。 そして、たとえば 浮世絵の春画の世界、 これを私は下品として捉えるという立場では けしてないのです。 性器そのものだけをユーモラスに描いたものもありますが、 それなどはかなりまさに明るい娯楽のエネルギーが 絵からも伝わってきます。 筆タッチというか 線の魅力です。 線にこそ構成や技術以前に心が現れる世界です。(写実を否定してるとかの話ではないですよ。 むしろ写真こそが絵画も含めてあらゆる芸術をリードする日が近づいているという理論のようなものも抱いていたりします。) ひるがえって 現代のポルノは、けして明るいものとはなっていないですね。 私が昔30年ほど前(現在61歳) 新宿歌舞伎町で暮らしてた時にポルノ映写技師の方が友達だったので、 その頃のモザイクポルノ映画はけっこう見ましたが、 なんとか見られるのが縄縛りの物語なしの映像のみというものでしかありませんでした。 現在もそのへんは あまり進歩してないようです。 余談かもしてないですが 本物の芸術家ならば、このへんを改革できるようになるべきかとも思っています。 すみません。 たぶん、わたしの質問の仕方が簡単すぎたと思います。 歌自慢は、別に喉自慢でもかまわないですが、 結局自慢という形は卒業できるような番組にすべきで、 そのへんには目くじらをたしかにたてています。 結局 競争じゃないということです。 大きな意味での芸術や娯楽の世界はです。 いまのままでは、 下手でも心や素質があることが解るという人もその時点での歌によって評価が決まってしまいますし、それを越える番組に変えることは「自慢」と付くかぎり 不可能かと思います。 その人その人の良さや素質や長所を その歌その歌の中に見つけ出して、それを少なくとも何回かにわけて、どう伸ばせるかの指導も徹底する、それでどう変化してゆくかの その創造性をさらに見ることが出来るそういう番組へと昇華できないか これが 私の言いたかったことなんです。 また、 最初の頃の 美空ひばりがアマチュアとして登場した頃もプロは招かれていたのでしょうか? いつしか 「そんな歌自慢のチャンピオン達よりも、やっぱりプロの方がうまいでしょ。」という プロのお披露目の場にもなっていますよね。 プロなら、なんで、番組自体を真剣に 進化させようとしないのですか?という疑問であり、質問だったのです。 プロや歌の先生方への疑問が主なのですから、やはり哲学カテでの質問ではなかったかとも思いますが、 書いてよかったとも思います。 哲学の方は、みんな真剣で切実ですね。 文面からその心(想いの世界)が伝わってきました。 粋への想いなのでしょうか、 そのソウルがです。 ありがとうございました。 まだ閉じませんので よろしければ、 友達になってください。 哲学の真剣な質疑の世界とは ソウルメイトの歌そのものと私は思ってますから。 ありがとうございました。
- wiz0621
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歌は娯楽です。 歌に限らず芸術というのは娯楽そのものなのです。 そこを失念してはいけないと思います。 「音楽」の名が示すように、楽しいと感じることが第一です。 音楽に高尚さや学術性を求める人間も確かに居ますが、 それが音楽の全てではありません。 あの番組を楽しいと感じる人が一人でも居るのならば、 それは研究室で音楽を分析する人間より、 より正しく真摯に「音楽」を体現していると言えるのです。 また、日本が特別に詩を重視しているということはありません。 むしろそういった傾向はオペラのようにストーリー性を持たせる ことを重視した西洋にこそ強い傾向です。 日本の歌が重視するのは平安時代から詩より「韻」です。 漢詩が伝来して以降、一定のリズムや似た音による言い換え (つまり替え歌)により歌を楽しむ傾向が強い文化であると言えます。 それに社会風刺を加えた今の替え歌は平安期から続く日本文化 そのものであり、正当な後継であるとすら言えるでしょう。 最近からくりTV見てないから どんな事になっているのかは知らないけどね。
補足
ありがとうございます。 なるほど、そのように言えるとおもいます。 「楽しみ」とか「楽しむ」という言葉の含みの豊かさは カイヨワでしたか遊びの哲学者の定義とかも越えているかと思います。 むかし、わたしは、一度 リクリエーションの世界を徹底的に「研究室で分析」する方式にても(^^)研究したことがあり、 その過程でカイヨワのような遊び(娯楽)の哲学者の遊びの定義とかも考えたことはあります。 しかし、その時から、リクリエーションの歌とか人形劇とかの世界が、みずからを芸術とは質や高みが違うと簡単に規定していることが気にかかっていました。 感性(感じる事自体)の世界は、表現の世界とは別にも深まっていきます。 そして感性の世界が深まれば、リクリエーションそのものの内容も確かに変わってはゆくでしょう。 しかし、相互的に価値的な方向に人間という教育が必要な生き物の教育の世界を向かわせるという 切実な課題をそこに考え合わせる時、 たしかにどんなリクリエーションもそのまま価値あるものにしえるのですし、 そこには、必ずしも芸術との差があるとは言えない世界も存在し始めます。 「楽しみ」という含みのある言葉でも そのよすがを語りえましょう。 もうすこし突っ込むならば、人間の男女の粋な世界やそれと感性そのものの発展とが関わる「楽しみ」の根っこの部分が このリクリエーションそのものの中にもあるということです。 ありがとうございます。 そのような大きな目で もういちどリクリエーションとしての「喉自慢大会」という世界を 見直す気づきを与えていだだきました。 歌の先生方は、そのへんの役割の違いをテレビ文化との間に見ているという感じなのかもしれませんが、 しかし、 歌の先生方ならば、リクリエーションの面も芸術の面もひっくるめて 単に「喉自慢」を否定するのではなく、 発展させる道を考えてもいいのではという疑問は あるのです。 もしかしたら、このへんも感性自体の教育の遅れと関わる社会事象の一つなのかもしれません。 * 「韻を踏む」文化もすばらしいと思いますが、 詩というより、 歌詞の中の言葉の要素を 昔の唱歌とかの中では大切にされた歴史はあるかと思います。 たとえば菩提樹という ドイツの「冬の旅」の一部を約した歌などは、日本語が生き生きとその精神をよくとらえていたりします。 一方ロシアの歌の 戦後のブームの中での訳は、かなり雰囲気だけのものとなっていたりします。 やはり戦前の滝廉太郎の出てきたすぐ後の時代の 歌詞にすばらしいものがたくさんあるかと思います。 (今の日本のオペラ界のかたがたはそのへんもさまざまに研究されてるようです。) * 今現在 私は実は歌の実践にかなり集中して(声が一方で出なくなっていたり体調がよくないので進展はしてないのですが)いて、 そのために、リクリエーションの再考察の必要とか、 そのへんからの「喉自慢文化」とう感覚を忘れていました。 真剣に 歌の想いの世界を追いかけていると、NHKのその番組がまるで異星人の歌の集いに見えてきてしまうときがあります。 その想いの表現の世界は演劇に一応の完成の世界があるのとは違い どこまでの先があります。 その過程でチャンピオンゲームが出てくるのが 理解しがたい心境となってしまうのです。 しかし私自身の役割は、感性教育の中にあると思っている人間です。 一番肝心の遊び、娯楽という面を忘れてその教育の世界は無いでしょう。 あらためて目を覚まさせていただいた気持ちです。 ありがとうございました。
お礼
たった一行の文にて、 このあたりの改善の道にての きおつけるべき点のすべてを書いてくださったように受け取らせていただきました。 NHKでの、歌の番組として今「清とこの夜」というすばらしい番組がありますが、一方でそういう歌番組もNHKは創造もしているわけです。 下手な批判はそうした創造性の芽までつみとってしまったりするだけでしょう。 長所をこそ見据え、其の中での改革であってこそ、相互的で総合的な発展が起こって行くのでしょう。 84歳の私の母がお昼の「喉自慢」の大ファンです。 タイトルは自慢となっていますが、 出場者はむしろそれを「見つめて」もいます。 自慢を超えた歌い手(歌好き)の方も大勢います。 そしてそれが、庶民の心とシンクロしている姿もそこにはあるわけです。 たんなる「なじみ」とうよりも、深いものがあったりもします。 ほんとうは、 歌の教育の全体がまず進化すること、それが先ですね。 そしてそれは じっくりとこそ取り組むべき課題の一つなのですよね。 ありがとうございます。 私自身にも示唆に富む御回答でした。 ありがとうございました。
補足
primeape様には、お礼のみにして、 ここで、大きくまとまってしまったので 閉じようと思いましたが、 お礼と前後しますが、 ここにも 急ぎ いままでのお礼の意味も込めて筆を伸ばさせていただくことにしました。 今回のそちらの御回答についての、感想はお礼文にてまとめていますが、 そちらのご回答について いつも思いますのは、私たち人間が森に住んでいた頃の村の長老の哲学的役割の世界です。 人の生涯について、其の村のすべてのことを誰より知っていて、必要な見通しの世界とか その考え方の世界を誰よりも的確に若者達にアドバイスしてゆくそういう哲学の世界です。 対話の哲学の原型とも言えるものです。 bragelone様の言われるムライスムではないですが、 大昔も未来も 村の長老こそ、人生を語る哲学者、人生を対話できる哲学者とわたしは思います。 白紙状態の脳の集中力から生まれる 時としてまさに的確な一言こそ、おそらく今までの人生が一気に何かの回答へと収斂されてゆくそういう哲学的なパワーでこそあるのだと思います。 日本にては、それは多々経験の重みをこそ訴えるものとなるところ、また常識の重みをこそ語るところとなるところ、 そちらの文面は しかして、だからといって改革自体を否定するものではなく、 お礼文にて先に書きましたが、 まさに 改革するならじっくりと取組むべきという 究極の姿勢が そっと示唆されています。 あくまで、神ならぬ身の 木の葉のような存在性はどんな時にても自覚している必要性があるものでしょう。 そうした謙虚さの必要性をこそ一気に語っておられる姿を いつも感じるのです。 わたしにとっては 気持ちの落ち着く回答です。 primeate様、いつもありがとうございます。 今回も 最終的に気持ちがまとまりました。 これをもって閉じさせていただきます。 他のみなさまも ほんとにありがとうございました。 私は真剣すぎるぐらい物事を考えていて、ときどき迷いとかに落ち込みます。 こんな時には ほんとに励ましともなり またパワーともなるところです。 今回は、お一人お一人に それぞれ勇気づけられましたので、 閉めるにあたってのポイント差というものはつけがたいものがあります。 そのへんご了承ください。 みなさんに、20ポイントさしあげたくなってしまう時というのもあるものですね。 ありがとうございました。 みなさま、ほんとにありがとうございました。