- 締切済み
上手い下手よりも[心」が大切ならば、‥。
上手い下手よりも、歌には「心」が大切ならば、上手い下手を越えた歌手がたくさんいたほうが歌の世界は豊かになると思います。 日本人は、音声(心が 生活する体をとおして素直に声に出せる時にの自然なその人その人の声の基調となる声の心の部分)を評価できる耳が育っていないということを聞いていますが、 それならばなるほどそのような歌手があまりいないということも私にもなっとくできます。 もちろん、パワーとそのうねり(ドライブ感とかグルーブ感とかいったニュアンス)がないと、その想いなりが強弱のリズムやメロディーと節回しの微風に乗れないということはありえます。 でもそこさへクリアーすれば、それなりには上手くなってしまうでしょうが、大事なのはあくまで上手い下手より[心の表現」が大事であり、自然なその時の声の質が大切だと思うのです。 質問1、 外国では そのへんどうなのでしょう? 質問2、私の上記の考えに反論をもたれてるかたはいらっしゃいますか? わたしは、無学な肉体労働者ですが、歌は大好きで、本気でそう思っています。 変わった質問でしょうが、知識のある方、ご意見のある方のご回答をお待ちしております。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
みんなの回答
- reom
- ベストアンサー率44% (4/9)
高い声で歌った方がうまいみたいな風潮が日本にはあるとおもいます。 すると無理に声を出すことになります。 感情が入る声(怒ったり、悲しんだりする時の声)は地声が一番でやすく、それだから感情が入ります。 そういうところじゃないでしょうか。
- 666-555
- ベストアンサー率23% (45/190)
>質問1、 外国では そのへんどうなのでしょう? 私は殆ど洋楽しか聴きませんが、外国でも貴方と同じ考え方かどうかは、正直分かりません。(私は日本人ですし・・・。) ただ、国内・国外の老若男女に関わらず、普通は歌の(技術的な)上手い下手だけで評価したりはしないのではないでしょうか?(私がそう思っているだけかな?) >質問2、私の上記の考えに反論をもたれてるかたはいらっしゃいますか? 反論するつもりは、毛頭ございません。 ひとつの例として、私なりの考えを書かせていただきます。 >上手い下手よりも、歌には「心」が大切ならば、上手い下手を越えた歌手がたくさんいたほうが歌の世界は豊かになると思います。 全く同感です。歌において一番大切なのは、技術的な上手さなんかではなく、「心・感情」を奏でることだと思ってます。そして聴き手がそれに共感し心を揺さぶることで、初めて歌(音楽)は成立するものです。 つまり、歌い手と聴き手の2人がシンクロして初めて、存在することが出来るものだと考えております。 しかし歌を少しでも多くの聴き手に共感してもうためには、いくら心を込めたとしても、ダミ声で大きく怒鳴っていては意味がありません。 歌に込めた思いを伝えるためには、少なからず効率的な方法を用いないと効果は薄くなるのも確かです。 効率的に伝えるための手段として存在するもの、それが「技術」といわれるもので、これが出来ると(一般的に)上手いと言われますね。(ヴィブラートや正確なピッチ・コントロール、アクセントやトーン等・・) 例えば幼稚園児は、音を外して強弱もめちゃくちゃながらも一生懸命心を込めて歌っています。それはそれで素晴らしいですし、親御さんなどはそれで感動もすることでしょう。それは歌い手と聴き手がシンクロし、共感しているからです。 しかし全く興味のない、そこら辺の道行く人が聞いても、おそらくそこまで(親御さんたちほど)感動することはないでしょう。 それは、共感することができていない為です。 そこでもし、その子供達が歌の技術的を学んで、同じぐらい心を込めて歌えば、より多くの人を感動させることが出来るかもしれません。 つまり歌の(技術的な)上手い下手は、歌い手の心を表現する手段であります、時にはそれが強みにもなります。 そのような考えを持ってる私です。 なので結局私の考えをまとめると、 (1)歌の本質は「心」。 (2)重要なのは、「それをどれほど表現し、聴き手の共感を得てもらえるか」。 (3)共感してもらう手段として、技術は少なからず有意義である。 と言った感じです。(ですから、技術がなくても聴き手を共感させることが出来たら、技術なんていらないのです。実際、グランジ・パンク系のアーティストは技術なんか用いなくても、多くの聴き手に思いを伝えることが出来てます。) なので >それなりには上手くなってしまうでしょうが、大事なのはあくまで上手い下手より[心の表現」が大事であり、自然なその時の声の質が大切だと思うのです。 と言うお考えは、私も全く賛同させて頂きます。
お礼
ありがとうございました。 出発してみます。 ネット・ビジネス関連である手立てがあります。 それが成功するか否かは別として、出発してみます。 勇気づけられました。 ありがとうございました。
補足
忙しい時間の合間にネットに向かって書いている状況なもので、お礼等おそくなりました。 いそいで補足させていただきたかったことがあるのですが、 それは、私自身の歌の道でのある迷いがこの質問を生んだということです。 私は それが本物の哲学ならばその哲学こそが感情や想いに深みを持たせ、その奥深い感性の世界から詩や曲の解釈が起こり、それがうねりとなり(パワーとともにグルーブ感やドライブ感を生み)、それが音楽の世界とスイングしながらリズムを捉えメロディーを捉え、いよいよ、その自然のままにもそこに節回しがうまれ、ブィブラートを生み、 その音楽性ある心のうねりがフレンドリーな波を生むときにそれは想いあふれて歌となる という感じで、その繰り返しこそが大事だという点を「心を大切にする歌唱法」として捉えている者なのですが、 もしそこにすぐれた歌があるならば、その裏にはすぐれた哲学があり、それをも語らないではいられないのが、そのフレンドリーな心であり、想いであるはずだ、 いや、それ以外に歌の心の世界の深まった姿は ありえないのではないか? という感じの質問だったのです。 そうすると、大事なのはまずは音声であり、どれだけ人としてのハートをその声にやどしているかであり、 そこにおいては、技術が上手くなくてもかえって心通じる歌の世界もけっこう考えられたりするところ、 今の音楽産業にては、そのへんのところが、上手さに偏った,その分豊かさに欠けた歌の世界になってしまっているという感想のものだったのです。 わたしには、シアトルの住んでいる弟がいますが、(6人兄弟の長男です。)その弟の子供の、つい何年か前には庭で野良ねこと仲良しとなりあそんでいた女の子が、もう大人となっていて、実は自殺したロック・シンガーの絵を描いて送ってきました。 純粋なロック・シンガーの孤独がひしひしと伝わってくるいい絵となっていました。 詳しいことは知りませんが、グランジの人達も純粋さこそ、その深みこそが技術より大事だったのでしょう。 しかしながら、若い彼らにはその生きられた哲学を語るすべも無く、その深みは、曲がった形で社会に成功として受け入れられていったのだと思います。 その苦悩が、薬に頼る心を生み、そのグランジ生みの親もやがて自殺に追い込まれます。 ともめているシンクロ無しの成功はむしろ彼に地獄を生んだのでしょう。 音楽に技術は当然あるように、その音楽を使っての声の芸術にも音楽的にも アクセント的にも フレーズ内のピッチコントロールのメリハリにおいてもその技術を学ぶことは力となります。幅のひろい学習は、その分の幅のひろいシンクロを生む可能性を生むでしょう。 しかし、技術のとらわれている時人は 声を、音声を忘れてしまい 歌のもつ豊かさの最も大事な世界を忘れがちとなってしまう。ということだったのです。 とうぜん私自身も技術から学ぶことは、どこまでもあるとも言えます。 私自身の中から自然に生まれた節回しからも学ぶこともありますし、他の人のこころから作り出された技術からも学ぶことはあまりにも多い事です。 私自身の悩みとは、 そのような過程とともに、ひとり歌を追及してきた60歳の人間が、いざ急に歌への自信が出来た時に、 たぶん、ひとりで「哲学と歌」を語りはじめ、歌いだすのが、こわくなってしまったのだと思います。 下手に歌えば、いじめられ、上手く歌えば 雲の上に祭り上げられ、どう歌えばいちばん哲学を具現できるのか? また今の音楽産業の波の中にではなくそこには新しいネット時代のあり方があるだろうところその道はいかに? でも これって、それで実践しなかったら していかなかったら、迷い続けるだけだったら、老人がそれで絶望したりしたら、わたしが いかにフレンドリーでなかったかを意味するだけですよね。 非難を恐れ、身近な人達の怒り?を恐れ(出たくいは打ちたくなる心理のことです。身近な人はいっきに飛び出さないかぎり頭をたたきたくなるんです。)がゆえに出発できない自分が見えてきました。 ここは自らをグランジ(ごみ)と呼んで出発したアーティストを学ぶべきところか。 ここに質問してみて あらためて思うとことがありました。 モア・フレンドリーに、 それで突き抜けていくこと、答えはこれだけなのかもしれない。 というふうにです。 そちらの丁寧な御回答の筆も 心がこもっていて、振るえるような勇気を私に与えてくれます。 ありがとうございました。
- nosutaruzi
- ベストアンサー率36% (123/334)
【質問1のアンサー??】 海外のアーティスト見てると思うんですが、 観客へ歌っている。っていうより、 「歌っている私は幸せ!貴方はどう!?」 と、語りかけるように歌ってくれる気がします。 ライブ映像とか見ると更にその感じが凄いですね。 観客はアーティストを仲間!と見てる感じがありますし、 アーティストも歌っているんじゃなくて、 一緒に楽しんでるって感じです。 なんで、あの、パフォーマンスの上手さが生まれるのかと思います。 心っていうか、 今、この場をいかに盛り上げてみんなで笑うかって感じですね。 だから、CDじゃ立派に歌っているのに、 ライブだとふざけまくっていたり、 ギターのビートがずれまくってたりして、 海外のアーティストのはちゃめちゃ加減は面白いです。 日本は、昔っから、アイドルやアーティストを「神格化」というか、 様付けしたり、歌ってください!って感じで観客が見ているので、 アーティストも「歌ってます、聞いて!」って感じです。 だから、歌に心を込めるよりも、いかに歌い上げるか。に 意識が観客も歌い手も集中した結果、そうなっているのかと。 一番解りやすいのが、フーミ●と浜●、本人&ファンかな。 けれど、それが日本の文化って事で諦めてます。 むしろ、それが日本かな~って。 だけど、日本のアーティストじゃ、 古いですがキャンディーズを見た時、 飾ってなくて、一所懸命で、すごく良いと思いました。 彼女達って意外と雰囲気が外人さんに近いって言うか、 歌、下手なんでよろしく!ってあっさり歌っちゃってる 辺りが好きでした。あれは気持ちで歌っている人たちだと 思いますよ。(あくまで私の感性で)
お礼
ありがとうございました。
補足
補足します。 実はこの質問は私自身のある歌の道についての迷いから生まれたものです。 歌は「哲学」から生まれるものと思っています。 そこに「哲学」の無い声ってどんな歌声なんだろうか?歌でありえるのか?と思ってしまいます。 でもここで言う「哲学」って、難しい言葉におぼれてかえって人と人の命の出会いを忘れているような人達のそれなのにむしろえばってるような人達の哲学の学問の世界のことではありません。 弱くても人間的に一生懸命生きようと努め続ける中に、そんな中での出会いに、何かの宝石のような涙しずくが流れるときに、人間の思索の心棒となるようなものを「哲学」と言いたいんです。 わたしは、今60歳の男性ですが、 若い頃今でいうソープランドで(あの いやらしい気持ちではないですよ。 でも言い訳もできないでしょうけどね。)遊んだものです。 ある時ベテランのトルコ嬢がこのように私に語ってくれたのですが、お客さんの100人に95人は変態だとのこと。 でもその変態というのは 要は自分におぼれてる人のことだということも教えてくれました。 形ではなく、技術でもなく、 そうでなくフレンドリーな人は、そういう人達だからこそ見分けが付いたのでしょう。 心待ちする友もいると語っていました。 100人中5人は、そういう人達もいるというふうにです。 (あの、わたしはその5人の一人だそうですから くれぐれも 誤解しませんように(笑)。) 世間からはゴミのように思われてる人達の中にも 本物の「生きられた哲学」はいっぱいあります。 nosutarzi様なんて、名前からして「あれ」です。 えっ ?ま いいじゃないですか、言葉なんて。 nなことないか。 「フレンドリーな はげましとなる文面の、そこれへんの哲学者さまよりよっぽど人と人との出会いと 優しさをもった、生きられた哲学者」です。 悩みは現音楽産業界への疑問にあります。 私には60歳の人間としての歌にかける深い想いがあります。 上手い下手をこえた歌の世界がどんなものなのかの実態を多くの人に伝えたいという想いです。 そういうまったく新しい豊かさをもった歌声の世界を表現してみたいのです。 そのまま 現音楽産業に出てゆくのではけれどそれもまたスターシステムの枠の中に取り入れられてしまいます。 あたらしいシステムを創造してゆく必要を感じます。 でも 私自身も弱い凡人でもある者、生身の人間に、なにかが足りない気がして それで思い切って踏み出せないでいたものでもあるんです。 んn もっとフレンドリーに、もっともっとフレンドリーに、なおなおフレンドリーに、 これかな答えは。 観客も歌い手もそれでぶっとばすぐらいの「心」があれば、そこまで「生きた哲学」があれば♪ あとは <あっさり>出発すればいいのかもしれませんね。 思わず、迷いから書いてしまった質問ですが、書いてよかったと思いました。 あなたのような「友」と出会えたんですからね。 あ 「年下の男の子」でなくてごめんなさい♪ でも 歌に年齢は関係ないですね。 友の心にも、ハートにも、その「哲学」にも。
お礼
要点を捉えてくださった御回答 力となりました。 ありがとうごさいます。
補足
自分の歌の道のある迷いがあり つい質問してしまいました。 意味の解りにくい質問に、大事なポイントを抑えての御回答ありがとうございます。 腹から出る声、低音の胸のあたりに響く(胸を触ると解る)声こそ大事ですよね。 そこでパワーと心にうねりを充分練って、内側から節回しができるようになれば低い声でもそのまま歌は歌となりますよね。 高い声は その土台があって始めて生きてきますし、じょじょにそこからこを本物の高い声も育つと言われています。 高い声が、心の高揚を現す世界ともなりえるのはそんな時なのですから、だいじなのはまずは腹から歌うことなのに、そのへんが高い声に流されてるところがむかしから日本にはありますよね。 美空ひばりの高い声は 低い地声との調和がきれいですよね。 基本ができているわけです。 たぶんreomさんも知ってると思うのですが、でも低い声で歌を練り続けるというのは実際にはすぐれた先生とかがいないとなかなか難しいですよね。 わたしは独学でしたので、その地点を越えるのが大変でした。 上手い下手ではなくて、どれだけ体から声を出せているか、それでいて自然でリラックスできているかが私自身の長い道のりでした。 上手くも歌えるところまできていますが、それ以上に、今までに無い心の世界のパワーとそこからの新しい技術の世界を開拓していきたいと今思っています。 上手さについては それなりに自然にそれが伴えばいいことです。 そのへんでの悩みは無かったはずなんです。 でも 日本の「風潮」を突き破って いざ進むのが怖くなってしまったのだと思います。 人間ひとりなんて弱いものですね。 まだ歌の世界をほんとうには知らないときに、私の歌はけだしかなりの人から支持され高く評価も受けたりしてました。 でもいざほんとうに歌いだそうとするときに、今は、まわりに仲間もいません。 こ、怖くなってしまったのです(笑)。 でも なんなのでしょうね。 いろいろなことが深く歌について理解されてきたのに、たとえば、reomさんの短い御回答からも多くを学ぶことがあります。 ほんとうに自信ができたら、そういうものなのかもしれません。 こういう考えもあるのかなというのではなくて、自分自身に大きな力を得ることができるものがあるのです。 説明するのは難しいですが、 人間て、一人じゃなくてほんとに相対的な存在なんですね。 これでこの質問は締め切りますが、 ほんとに勉強になりました。 ありがとうございます。