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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:表現の根源となる 愛情の根源についての質問)

愛情の根源とは?

このQ&Aのポイント
  • 愛情の根源としての自然な心と豊かな感受性が表現を豊かにする
  • 歌や踊りの文化は愛情の源であり、愛情を表現するための文化を目指すべき
  • 評価基準を超えた歌や踊りの文化革命が必要

質問者が選んだベストアンサー

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noname#194996
noname#194996
回答No.7

ご丁寧な補足をいただきましたので、またお邪魔した次第です。 その前に前回答の文初頭での間違いをお侘びします(意義→異議) 質問者様の仰る人間社会での愛の役割を私も過小に思っているものではありません。当然ながら、素人コーラスグループなど情熱のみでしっかりと結合するべき場所での権威主義の発露ほど場違いなものはないでしょうし、そういった利益をもくろむ団体ではない人間同士の自発的な結合が理想的な社会でのすべての秩序の基礎としてもくろむことが出来れば、いかに社会は棲みやすく、快適なものになるだろうことは想像するまでもないことでしょう。前回も書きましたが、なかなか現実はそううまくいかないもののようです。 私見では、唄や踊りは本来無心に、純粋な気持ちに人間を誘導するもののようで、論語でも孔子が音曲を好む理由に挙げているほどです。音楽を愛するものによこしまな人間はいないとまで言っています。 質問者様とこのあたりでは思いが一緒なのですね。芸術はひたすらに無心をつらぬくところから生まれてくるもので、たしかに自己愛とも無関係だと思います。 ただそういった音曲を愛する心と、人間同士をつなぐ愛情とはとても同一には考えられず、美を愛する芸術家に悪人は居ないかと考えればどうもそのようでもない。また、無心と言う状態がどれほど長く続けられるものか。 人間の感情は常に揺れ続けています。一箇所にとどまっていられる時間は限られています。そんな不安定なものに多くの人間のこころというファクターを加えたらどうなるでしょう。カオス以外に考えられません。ここはやはり理性に訴えるしかないのではないかというのが私の前回の趣旨です。 ある程度の雑多な人間を統べるためにはやはり善悪とりまぜた知恵がリーダーには必要だと私は思います 感性の進化が必要だと仰る気持ちは理解できます。でも私は人間においてはそれは進化というより深化ではないかと思います。多くそれは個人のなかに入っていくよりも周囲に共鳴を促すものです。 感性(感情です)は人間的なものというよりもむしろ前人間的なもの、文化、芸術にそれらは少なからず見出せるにせよ、やはり人間の創造物は理性の産物である、理性がなければ創造は不可能であると思います。 唄や踊りを他の一部の動物もするようですが、やはり人間の踊りや唄は理性が介在しなければ鑑賞には堪えないものです。 宗教は個人の自由です。ただ、私自身は現代においては役目を終えた過去のものだと思っています。それらが文化の一つだということは確かですし、興味をもたれるのは自由ですが、内に入ってミイラになる必要はないでしょう。 すみません、的をはずしてしまったかもしれません。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 すみません。  実は「私の自我論です。 ご意見をお願いします。」という新しい質問に 次々ご回答を頂いて それに対応しているうちに、 こちらの質問がまだ締め切っていないことも 忘れてしまっていました。 こちらのご回答もとっくに 読んではいて 最初は早くお礼を書かなければと思っていたのですが、 そのうちに 忘れてしまいました。 記憶に無くなってしまったわけではなかったのですが、 なんとなく気になってはいても   なにしろ 忙しい設備業その他の合間のネット活動の一環なので、 また 哲学カテのご回答が かなり抽象的で 内容が深くてもいきなり文が飛んでいたり、読み取りにくいご回答があったり てんてこ舞いの中で  とうとう こんな形となってしまったところです。 せっかく 丁寧な 再回答までいただいていたのに 申し訳ありません。 論語に出てくる 音楽の感性に関する記述は信頼できる世界ですね。    私は 実は ほんの数年前までは 論語ってお堅い道徳論とばかり思っていたのです。 ネットでですが 論語を読む機会があり、 まったく間違ったイメージを持っていたことを知りました。 もし 今生きておられたら 是非いっしょに歌や踊りの革命をしてみたくなります。 たぶん 私一人では 心細くて こんなところで いろいろ質問も始めたのだと思います。 》ただそういった音曲を愛する心と、人間同士をつなぐ愛情とはとても同一には考えられず《 音楽に感動する心も 時により大きく変わったりしますね。 私は 子どもの頃 とあるいじめや病気などにあうことで心身廃人になりそうなところだったところを とある虚弱児施設に助けられたことがあるのですが、 そんな中でのその虚弱児施設の消灯時間に毎晩流れてきた アンダンテカンタビレーや トロイメライやユーモレスクは   子どもなのに 胸の奥の奥のひだまで その細かい音までもが 染み込んできました。 しかし同じ子どもの頃 普通の学校で オオケストラをみんなで聞きにいった時には、 はるかに音響はいい生の演奏でも 何も感じませんでした^^。    また 大人になってからも たいていそういう場では 眠くなる時が多かったです^^。 しかし、これも時と場  突然涙があふれてきて会場中が感動でゆれだしたように感じた時もあります。 確かに そのへんも なんとも不安定なところ、 こうした不安定さは私だけでないところでしょう。 しかし だからこそ 私は 踊りと歌と絵という感動そのものの表出の世界を 徹底解明しようとしてきました。 感動そのものは どのようにして人間の中から生まれてゆくものなのか? その本質と 実生活での心理とのつながりを さらに演劇の世界にも、映画のモンタージュ映像の世界にも 心を伸ばしてその関わりを追求してもきました。 演劇では 感情については 時間曲線で克明にその感情の移り行く経過まで追いかけてゆきます。 その因果の世界もよく観察されています。 何か 苦痛が未来に予想されることで「不安」や(恐怖」が起こります。  この恐怖は それが理解不能であったりすることからも 突然起こったりする感情だったりもします。 怒りは 何かをやろうとしているその方向性を 逆なでするような刺激を受けた時は 突然せき止められた時に起こります。 穏やかな人も けっこう そういう場を知らないだけだったりもします。 嫉妬とかも、こん具合に その状況下にては、 突然 えっっ自分が?と思えるような感じで 起こってしまったりもします。 でも それはある曲線を描くようにして やがて 収まってゆきます。 因果はありますが、喜びも悲しみも たしかにカオス的です。 しかし 愛という感情は それらの 因果による感情の揺れとは別に、 もし 感動が深ければ その分は その何がしかを生むというふうに私は考えていて、 だからこその 総合的な藝術の追及を志ざしたい気持になっているのです。 その時 たしかに、 感情曲線とかいった記述以上に 少し複雑な愛と感性の仕組みも  たしかに、  理性でこそもっともっと見つめられるようになるべきかと思います。 そのへんを 今度こそ しっかりとした質問文にすべく  「自我」をめぐる論理の質問文を新たにたててみたところであるわけです。 そろそろ締め切ろう と思っていたところなのですが、 もしよろしければ、 こちらの続きとしても 何かご回答お願いします。 私は この情報化社会には 新たな理想への大きな可能性があるとは思っている人間ですが、 》なかなか現実はそううまくいかないもののようです。《 》ある程度の雑多な人間を統べるためにはやはり善悪とりまぜた知恵がリーダーには必要だと私は思います《 というあたり、 しっかりと思索した上でのことかとは思います。 理想に走っても 空回りのまま 何も出来ないのでは意味ないですしね^^。 》すみません、的をはずしてしまったかもしれません《 とんでもないです。 こちらこそ 的の絞れないような質問をしてしまいました。 にもかかわらず、 注意すべき点のしっかり抑えられたご回答だと思います。 論語、もう一度 見直そうと思っています。 勇気付けられました。 ありがとうございました。

その他の回答 (6)

  • NURU_osan
  • ベストアンサー率50% (297/593)
回答No.6

 No.3ですが、補足を受けて再回答します。 >(1)「愛」が「愛情」と 絶対的に重なるなどというのはありえないでしょうが、 「愛情」の世界と「愛」とが 相対的には かなりいろいろな面で繋がってはいる点は  ヌル王さん^^は どう思われますか?  人間の感情というものは、一つだけが純粋な形で表出すると言う事はありません。全て、何か別の感情が混ざってしまうものです。  二つの異なる筈のものに似ている部分があるのは、それが共通の異なる感情を含んでいるからでしょう。  愛は理性の産物であり、愛情は我欲の産物であると私は考えています。  野生動物にも愛はあるではないか…という指摘に対しては、野生動物にも理性があるのだから当然であると答えます。  純然たる理性だけに基づく思考があり得ないように、我欲だけの思考もまたあり得ません。  二つが組み合わさって表出しているのですから、共通項があるのは当然だと思います。 >(2)又、私は 無限の愛というものを 無限の感性の可能性から考えて 無限に豊かな通じ合いの可能性がこの大地にはあるというふういはとらえています。 >しかし これ そちらの言われるように 同時に生物としての限界を持っていて その限り 有限であり相対的なものでしかありません。 >しかし 相対的な世界には価値はないとおかんがえでしょうか?   逆です。  有限で相対的だから価値はあるのです。無限かつ絶対的に存在するモノに価値を見出すことは不可能です。私は有限だから価値が無いと考えているのではなくて、有限だから絶対視すべきではないと考えているのです。  しかし、あなたは愛あるいは愛情というものを、絶対視しているように私には見えました。私はその「絶対視」を否定したのです。  そのため、あなたは私が価値が無いと言ったように受け止めてしまったのでしょう。  コリン・ウィルソン著「アウトサイダー」という本があります。この中に、あなたのように愛や愛情、あるいは真理について発見し、感動し、それを人々と共有しようとした…そして理解して貰えずに絶望していった…歴史上の偉人達が紹介されています。  同時に、そうした偉人達と同じような経験をする人たちと同種の人達とその運命について研究・分析し、世界に一大センセーションを巻き起こしました。  興味深い本だと思いますので、ご一読をお勧めします。  http://www.amazon.co.jp/s/?ie=UTF8&keywords=%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3+%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC&tag=googhydr-22&index=stripbooks&field-adult-product=0&hvadid=7356285059&ref=pd_sl_4h6l3ljhr9_e

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。  実はいくつか同じ失敗 今回 (OKウェブを久しぶりに活用し始めてから)しているのですが、 お礼を書いたにも関わらず 「確認する」で確認したことで 安心して 「お礼する」を押さないうちに  次へと進んで 忘れていってしまう失敗をしています。 すみません、 こちらのお礼も すでに書いたつもりになっていました。 たしか けっこう長く書いたお礼文だったとおもいます。 しかし 補足文に書きました新しい質問「私の自我論です。 ご意見お願いします」の方が かなり進んでしまっていますので、 補足に書きました 齟齬のあたりは、 先に進むことで 解けるものなら解くことで  質疑 議論等は、進めてゆければと思っています。 私自身が 愛についても 重複的な考え方をしている点は その自我論のあたりからもわかっていただけることかと思います。 しかし、ご紹介の 「アウトサイダー」は できるだけ早く 手に入れて読んでみたいと思います。 情報化社会の庶民は その経験や知恵を生かして 今までとは別の理想へのパワーを持てると私は考えているのですが、 当然 理想を考えるならば そのへんの過去の失敗事例は 最高に役立つところの一つかと思います。 わざわざ 再度のご回答文、 しかも 適切な本を紹介してくださり  ありがとうございます。 ここで 締め切らせていただきますが、 お礼文おそくなりすみませんでした。  また ご丁寧なご回答 重ねてお礼させていただきます。 ありがとうございました。

iwamahico7
質問者

補足

そうそう、 自我についての私の考え方を書いた上での質問を近い内にしたいと思っていますが、 その時には 是非 その質問読んでみてください。 齟齬のあたりが解けるかもしれません。 よろしくおねがいいたします。 また その時に いつでも また御回答くだされば 私としてはたいへんありがたいところです。 ありがとうございました。

noname#194996
noname#194996
回答No.5

>人のあたりまえの愛情や、そこからの想いが表現力豊かな歌や踊りの世界を作る源であるからこそ、歌や踊りの文化は すばらしいものになりえるのではないでしょうか? 何の意義を挟むことも出来ない、まっとうな議論だと思います。つまり歌や踊りは万人共通に楽しめるものだということでしょう。 >その愛情の根元には 自然な健康な心、 豊かな感受性が 当たり前の世界として土台となる、 そのような文化を目指すためだけに 歌や踊りの文化はあるべきなのではないでしょうか? こうなってくると、いささかなり疑義をとなえたくなります。人間には万人共通の部分があると同時に、どうにもならない多様さと自由があるのも事実です。 歌や踊りの文化は多様であり、おおくのひとを楽しませると同時に、また一部の人にしかわからない特殊な活動があり分派した技能があり、その良し悪しは残念ながら万人共通のものとはいえない面があります。 >不自然な愛情や、偽りの愛情がもしこの世に無ければ 誰も権力を持つことなく リーダーは役割としてのみ存在しえるのが 人間の人間として信頼すべき人間社会の姿だと思います。 仰ることを誤解していなければ、それはとっくに人間社会からは失われたものを意味なく追い続けている理想家のむなしい姿であるように思います。 小さな血縁社会ですらまとまることの難しいのが現代人の姿です。かって美しい愛の歌やら求愛の舞いがその力だけで社会をまとめることが出来たでしょうか。 民族主義も国家主義も血を呼んで破綻しました。愛情はもちろん必要ですが、今人間に必要なものは、激情に裏返る危険な存在でもあるそういった感性よりも、徹底した無神論と冷徹な理性ではないでしょうか。 それがひいては信頼にたる人間社会を作り上げる基礎なのだと私は思います。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 丁寧な御回答 ほんとうにありがとうございます。 哲学カテの複雑さを 実は少し誤解していたところがあります。 もう少し 質問する私自身 文を整理して書くべきところだったと反省しています。 そのへん、みなさんにも 申し訳ない形となってしまっいるかと思います。 補足質問させていただきましたので  もしよろしければ またよろしくお願いいたします。 ありがとうございました。

iwamahico7
質問者

補足

《>その愛情の根元には 自然な健康な心、 豊かな感受性が 当たり前の世界として土台となる、 そのような文化を目指すためだけに 歌や踊りの文化はあるべきなのではないでしょうか?》  と私が ふと書いてしまった部分 ご指摘ありがとうございます。 これ書き方が抽象的であるというより かなりいい加減な文となってしまっていると思います。 愛情の根源には 道徳を越えた形での自然な真心が必要と常々考えていまして、 それが 自然な健康な心や、豊かな感受性の進化が、その自然な真心を生み出すと考えていたもの、  それを一気につなげてしまう文章にしていて、 実は文章的には繋がっていないことを見逃していました。 哲学カテへの質問であるのに このへんを不明確な文にしてしまっては完全に落ち度ですね。 ここは、こまかく  道徳と 真心の関係についての 質問を新たに立てるべきところかと思います。 ここでは これは、これで かなり多くの御回答を頂いてしまいましたので、それなりに 細くなりで補ってゆこうと思いますが、 そのつもりになりましたので よろしくお願いいたします。 しかし それとは別にも 》人間には万人共通の部分があると同時に、どうにもならない多様さと自由があるのも事実です。 歌や踊りの文化は多様であり、おおくのひとを楽しませると同時に、また一部の人にしかわからない特殊な活動があり分派した技能があり、その良し悪しは残念ながら万人共通のものとはいえない面があります。《   この多様な視点を認めるべき意義の世界はわかります。 例えば 喉自慢大会を 私は批判していますが、 自慢という言葉にこだわるほど自我の強い人たちが 出場しているかというと その逆のもっと無心に歌う人が けっこう無心に歌い無心に評価をも喜んでいる場面もたくさん見かけます。 美空ひばりも そこで優勝し テレビ界に入ってきたわけです。 ただ さらなる 歌の文化を私は求めています。 役割行動としてのリーダー・フォロアー関係は チームワークの訓練でも養えるものです。  そういう関係としてのリーダーを歌の世界にならば なお求めてしまうというところが私にはあり、  そこから 書いてしまった文でもあるのですが、 これも、 真心がもし この文明の社会でも可能ならば その愛の世界は  この世から権力関係を消してゆけるのではという考えがあってのことです。 愛という言葉も 長い間に利己的にも利用されてきているわけです。 何が  嘘偽りの無い愛を作る源泉なのか? それをこちらの哲学カテでは 問いかけようとしました。 それには 感性の進化は やはり必須だと思うのです。 》激情に裏返る危険な存在でもあるそういった感性よりも《  とおっしゃられる 》感性《とは どのようなものでしょうか? 私の方が 何か言葉の使い方をそのへんでも間違えているのでしょうか? 一枚の葉っぱに 雪が降り積もるのを 体の奥から感動して心癒される静かな感性、 小川のせせらぎに むんむんとした若い命を見出す感性、 夏の雲の下のアジサイの花に どこまでも新鮮な命の香りを感じる感性、  そうした大自然との触れ合い この大地との触れ合い の心の世界の進化が どうして》激情の裏返る危険な存在でおある《のでしょうか? 宗教が陥ってしまった 道徳の必要な時代にての権力の世界は、 そこに 多くの 真心の愛をこそ 無心の愛をこそ訴えた知恵者たちを生みましたが それでも 歴史は その知恵にではなく 権力が要請した 信仰という美名のもとの盲目性だったと思います。   多くの知恵ある宗教家の 叫びの真実に今こそ 耳を傾けなおす時なのではとも思います。 存在自体は、相変わらず不思議です。 なぜ 自分という存在が存在しているのかは 誰も解らないはずです。   しかし だからこそ、 もしかしたら 》徹底した無神論《が 必要な時なのかもしれませんね。 ここまでにも さらに質問自体に疑問がありましたら、 是非また御回答をいただきたいところなのですが、 実は この》徹底した無神論と冷徹な理性《というそちらの御回答文に触れて  補足入力させていただきましたようなものかもしれません。 そのへん もしよろしければ、もう少し詳しく書いていただけませんか。 存在が不思議なことを利用したかのような 死後の世界のイメージ神話とかで権力を膨らませてしまった 宗教の悪い面は確かに すこしづつでも是正してゆくべきかと思います。 しかし、神 あるいは 存在とは? 私たちには解らないは図の存在との理解が徹底的に必要という事はわかりますし、 そのへんを徹底する意義は わかりますが   神を存在しないとまでは徹底して言い切る必要は無いのではないかと思います。 あるいは そんな煮え切らない態度では とても 神との対話は不可能であるという現実は見えてこないと思われるのですか? 神はいないに等しいと 理解することが 人間の能力を限界まで見つめる 契機となると思われますか? 私は この伝統文化にももっと許容的でありつつ、 新しい社会を作ってゆくことは可能だと思っています。 冷徹な理性が必要な時ではあると思っていますが。 もしよろしければ、 このへんだけでも またよろしくお願いいたします。 ありがとうございました。

回答No.4

こんちは 歌や踊りに限定はできないのですが、確かに 1)人間の愛情 が、芸術の根底にあっても私はおかしくは無いと思います これは、私のの意見ですが、歌や踊りの表現の根底に置くものは 2)人間の躍動感 だと思いますが、いかがなもんでしょうか? 何を思い芸術を表現しても、それは個人個人の勝手なんだとは思います

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 躍動感♪、 たしかに 大漁のお祭りにしても また豊かな命を守ることが出来たという 村への愛情もともなう躍動感 ですよね。 それが自然な踊りを生み出してきたわけです。 この自然なままの踊りのエネルギーは 民謡として残された踊りなどから想像する世界よりも はるかに、まさに躍動的であり奥深くすばらしいものであるはず、 上手い下手を越えた せつせつとした通じ合い、の世界 生き生きとした表現表出舞踊がすでに  言葉以前の森の中にもあったということです。 舞踊史では 言葉での史料を学者がまとめたものですから 宗教舞踊→娯楽舞踊→表現表出舞踊へと いう段階が記述分類されていますが  それ以前にも はるか80万年前から人類は存在していたわけです。 ただ、 大きな問題は 愛情自体が 現代人は はっきりとはつかめない世界となってしまっていて、 魂の底からの躍動感 や未来への希望が見えなくなっていると思います。 そのへんを 少しでも 少しづつでも 価値的な方向へ 論議をすすめてゆけないか  哲学カテにて質問してみたわけです。 シンプル イズ、ベストの核心をついてくださり ありがとうございます。

  • NURU_osan
  • ベストアンサー率50% (297/593)
回答No.3

 混同されておられるようですが、「愛」と「愛情」は異なるものです。「愛情」はその対象に対する独占欲を含み、純然たる「愛」と比較すると既に歪です。  宗教で述べられているような無償かつ無限の愛というものは、残念ながら現実世界では存在し得ません。誰もが肉体的にも精神的にも限界を持っている以上、愛だけが特別無限である事はあり得ません。  自分に対して危害を加えるモノや愛を注ぐに値しない対象を愛し続けることは不可能です。愛の象徴たる自己犠牲には少なからず愛している自分に対する自己愛…つまりナルシシズム…が混在しており、過度な愛の事例が偽りの無い愛や不自然ではない愛の例になるとは考えにくいものがあります。  愛情が独占欲を含むものである以上、愛情もまた利害関係を生みだす一つの要素です。状況によっては「愛」を否定しかねないのが愛情です。  この世は有限の世界ですから、必ず持てる者と持たざる者が生じ、利害関係が生じます。利害関係がある以上、無償かつ無限の愛などというものが生じる事はあり得ず、自分に危害を加える相手を愛し続ける事が出来ない以上、全ての人に対して愛を注ぐ事は絶対に不可能であることがわかります。  リーダーが権力を持って人々を統率し指導するのは、そしてそれが支持され歓迎されるのは、利害関係による対立を許容範囲に収めるためであり、それは利益を制限し害悪を極限することによって行われます。つまりリーダーの役割とは与える事によってではなく、抑制することによって成し遂げられるのです。  これは所謂宗教で述べられているような根源的な愛とは根本的に異なることです。  逆にリーダーが愛によって役割を果たそうとしたならば、それはむしろ批判の対象にしかならないでしょう。そのリーダーは間違いなく無能の烙印を捺されることになります。  人間が人間として信頼し合う社会は、愛によって育まれるものではありません。愛情によってでもありません。  音楽に限らず芸術が表現することを目指したのは愛や愛情ではありません。それらは芸術が表現しようとした対象の一つに過ぎず、決して全てではありません。  芸術を現在あるような高みに消化させたものは、言ってみれば芸術を庇護する権力者たちの欲望であり、芸術の歴史の中における愛はその権力者の欲望を満たす芸術が表現に用いた一つの道具でしかありません。  愛を表現することだけが目的であれば、芸術は現在のように昇華する事なく、どこにでもあるような民俗芸能であり続けたでしょう。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 お礼その他遅くなりました。  Ano1の方にも書きましたが 忙しい身の中、 音楽カテの方から 先にお礼その他書かせていただいていたのです。 抽象的に霧のかかったような質問文にもかかわらず、丁寧な御回答ありがとうございます。 愛についても この質問では このような論議を根源から一つ一つ深めたくて 一番にはそれが目的での哲学カテでの質問でした。 ですので さっそく補足質問をさせていただきます。 よろしくお願いいたします。 ありがとうございました。

iwamahico7
質問者

補足

ありがとうございます。 さっそく補足質問させていただきたいのですが、 よろしければ際回答おねがいいたします。 まず「愛」と「愛情」という言葉の使い分けが出来ていない点についてなのですが、 これこそ、私の質問が 大きな雲の上から眺めたような大きな抽象的表現展開をいきな求めすぎた現れなのでしょう。 抽象的表現は 物事を大きく俯瞰して捕まえることで もしそれが正確な曇りなき俯瞰であれば、そのまま大きな正しい目標へのパワーとなります。 しかし、 高いところからのその眺めは 具体的な事例までは見えないような 視界が曇り 霧にまで覆われた憶測である場合も 同じ様に 一見力強い大きな展望に見えますので 注意が必要なところでしょう。 なるほど 例えば家族愛にしても 家族を愛するあまり そのために 一生懸命になって働いている中  働きもせず公園などで なにもかも意欲を失い希望も失っている人も含め 働かないで生活保護を受けたりしている人たちを はげしく嫌う感情になる人もいます。 家族への愛情は せつせつと伝わってくるような人が? と思うと これを簡単に 不平等観とは言えません。 しかし これで さらに経済の二重構造は 進展していったりするわけですよね。   このへんも混迷を極める世界であるように思えます。 私はこれを 《ほんとうの教育機会均等》の不在 あるいはその努力の足りなさが 最大因だと考えていますが、 この現実の前に それが家族愛と対立することがあることは 今現在事実であり現実です。 また ふつう愛情という時には 確か男女間の愛情を示すことも多いわけです。 家族愛の意味でも 子どもへの愛情とか いろいろ使いますが、 この男女間の愛情のことをさす場合がほとんどかもしれません。 「君が大好きなこの気持は 物を所有するような気持とは全くことなる」というのが 恋をしていたりする時の感情ではあるのでしょうが、 結婚してずっとその恋人だけと死ぬまで暮らしたいという時の感情には 本人たち気が付かないかもしれなくても 確かに所有したいという気持ではあるわけです。 例えば たの女性がその男性を誰よりも好きで いっしょにいたいと思っていても  その男性がその女性でない女性に恋をしていれば、その女性のその男性への恋は見捨てられてしまいます。 そして それは まるで公然と 「愛情」の名のもとに肯定されてしまっていたりします。 そして それらの家族愛や 恋愛感情も たしかに 偽りの無い 不自然でない「愛情」の一つでしょう。 また その限り 愛と愛情とは対立するという見方のあたりは、なるほど、鋭い現実観察によるものだと思います。 また 宗教で言われるような無償の愛、「愛」についての観察眼にも深いものがあると思います。 とくに 》愛の象徴たる自己犠牲には少なからず愛している自分に対する自己愛…つまりナルシシズム…が混在しており、過度な愛の事例が偽りの無い愛や不自然ではない愛の例になるとは考えにくいものがあります。《 のあたりは、名文ですらあると思います。 しかし、こんへんが クリアーされていないと 結局「愛」はこの世には存在しないとなり 《歌と「愛」の関係》以前の問題となってしまうわけです。 まず、ここまでを一区切りとして 補足質問させていただきます。 家族愛 恋愛ともに、 現代では 本能を離れた、また自然の中の無心な家族愛や恋愛の世界を離れた 複雑すぎる心理世界となっていると思うのですが、 その中で家族愛については、 ここでは どのように考えたらいいか私も解らないでいたりしますので(現実問題としてです) (家族病理とかの中での所有欲の問題については詳しいつもりでも それは その一端でしかないとも思っています) ここでは略させていただきます。 男女の愛情についてクリアーできれば ある程度は 何かが見えてくル世界ではあるかと思われますし、 男女間の問題について先に書かせていただきます。 私が体験した 恋のいくつかは まさに目の醒めるような衝撃的な感情でした。  ただそばにいるだけで 激しい感情が 嗚咽を生み出してしまうような、 それがまた相手にも通じるような そんな体験も あったりしました。 しかし それとても 後から考えてみれば 私の場合は 結婚とかは誰ともしていませんが  結婚したかった気持においては所有したかった気持には変わりありません。 ただ、 恋の深い感情の世界が 純粋に 感性を深める大きなパワーではあることも確かです。 だからこそ その部分を拡大して 歌を歌う時の情感のイメージを膨らますことが出来 またプロは本来 その情感を通して聞く人の感性をも高めるところまで その表現を磨いてゆくべきところと言えたりします。 歌や踊りの文化においては 例えばまず その恋なら恋の深さ(あるいはそのイメージの深さ)が先に必要であり  その上での表現の深さなのだから  上手い下手を越えて まずそのイメージを先に指導できるようになる必要があるという考えなのですが、 恋という突然やってくる いつ起こるかわからない感情の世界はそれ自体が不安定ですし   実は そこでも それによって感性が深まり ほんとうに優しい気持になってくれば、 その愛情は そのままでは矛盾におちいり、 純粋な表現の世界を曇らせてしまいます。 いろんな矛盾 優しさこそが男女関係を深めるのに その優しさが それ以外の場で人を傷つけても無視されてしまったりする世界  これが 深くなるほど そこに矛盾が生まれ  誠実な表現者はそこで足踏みしてしまいます。 私自身は、これは 東洋医学の原点から生まれた経絡の知識による、全く新しい気によるセックス論が生まれるしかないなと根本的には思うのです。 セックス無にも 恋の高みに、 呼吸と呼吸で男女が通じ合いエクスタシーに達してしまうような文化です。  呼吸法などの修行が必要ですが不可能ではないです。 すみません、 ここまでで すでにかなりの紙数となってしまいました。 今回は 以下2点に絞らせていただきますが、 (1)「愛」が「愛情」と 絶対的に重なるなどというのはありえないでしょうが、 「愛情」の世界と「愛」とが 相対的には かなりいろいろな面で繋がってはいる点は  ヌル王さん^^は どう思われますか? (2)又、私は 無限の愛というものを 無限の感性の可能性から考えて 無限に豊かな通じ合いの可能性がこの大地にはあるというふういはとらえています。 しかし これ そちらの言われるように 同時に生物としての限界を持っていて その限り 有限であり相対的なものでしかありません。 しかし 相対的な世界には価値はないとおかんがえでしょうか?  たしかに 戦争などの極限状態にては、 どんなに虫も殺せない神経の人でも 神経がまるで変わってしまうものです。 実際のその当事者からリアルなお話を伺っています)  私も人殺しに簡単になってしまうでしょう。 しかし それもまた 極限状況における心理です。  あくまで 相対的な中に 私たちの幸せへの道筋があると思います。 小さな価値をつみかさねてゆく価値の世界。 その向こうに 確かに 現実世界にも「愛」が見えてくる気がするのですが。

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.2

おはようございます。 今、外を観ると草花が風を受けて踊っているようです。風に折れないように、しなやかでいる姿は苦難を踊りや歌で乗り越えてきた人々や私の経験と重なります。 そういった共感から慈しみは生まれるのではないでしょうか。

iwamahico7
質問者

お礼

あれ?  という感じなのですが 一度 お礼は入力したのに 最後のボタンを押し忘れたようです。 すみません、 遅くなりました。 読ませていただき それこそ歌や踊りのような 詩のような御回答文だと感じ、感動しました。 昔 ある寒村にて 酪農を手伝っていた時のことです。 そこの農家の奥さんが 働き者で かつ子育てと 家事食事の世話に飛び回っている人でしたが、 そんな中でも いつも明るく ぬいぐるみ創作の趣味まで持っていたりしました。 都会育ちのもやしでもある私には 大地に生きる人のたくましさにも感動させられた想い出です。 強風に 心折れ、 折れて折れて生きてきもした私にとって そのような人たちの目の輝きは、歌や踊り以上に 生きるささへとなり続けてきた何かです。 感性も この「共感」を忘れては 育たないですね。 大事な観点をついていただき、また 大事なことを思い出させていただき ありがとうございます。 感動させられます。 ありがとうございました。

回答No.1

初めまして。ご質問に対し100%納得できる回答ができるか分かりませんがご回答させていただきます。 私が思うに「そこからの想いが表現力豊かな歌や踊りの世界を作る源」については、それは「自己顕示 欲」を満たすためのもの、日常生活の常識から一時解放される行為だと思います。 「はげましあい、 その中で技術指導もしてゆく」というのは、イスラム教信者となったマルコム・X 相手から質問されあっさり答えた後に「賢者(指導者)は、質問に答え導くことに喜びを感じる」と映画 のなかで言っています。これは愛ではない「自己満足」のエリアと思います。 「リーダーは役割としてのみ存在しえるのが 」については、キリストのような「無償の愛」があれば 指導者として立派にやっていけるでしょう。 どこかの国のエセ指導者は、最初は「この国の発展のために身をささげる」などのようなことを言って 大歓迎されるが、最後には大歓迎していた人々によって処刑される。ヒトラーもそう。 「表現の根源となるような 生き生きした愛情の根源」は、人を敬い 敬まられ、他人の言いところを見 い出し、平凡を維持し、生かし生かされていくものだと思われます。 「歌や踊りの文化」は自己陶酔の世界であり例えば洞窟の中で一人太鼓を叩いても陶酔しないと思います 通常の愛と言われるものは、性欲が根源にあり、フロイトなどの心理学者は、性欲の満足不満足により 「不自然な愛情や、偽りの愛情」となり、そのような愛情が歪んだ行為に結びつくというようなことを 言っています。人間はやはり人間を超えられず、人間の愛は、純粋でないものが 答えではないかとおもいます。 不自然・偽りがあり、そのなかで音楽があり踊りという形式もある、という考えるしかないのでしょう か。                ----乱筆乱文ご無礼----

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 お礼おそくなりました。 忙しい設備業の合間に スポーツブログなどを書いていまして、その上に他にもいろいろと忙しい身ですので、 まず音楽カテの方に先に御礼等を書いていて、こちらでの 時間がとれませんでした。 音楽カテの方では 具体的な質問、技術と心の関わりを求めてゆく質問でしたので 割合まとまった御回答となりましたが、 こちらの哲学カテでも 即御回答がいくつか寄せられているのは解っていたのですが、、かなり抽象的な表現での質問をしてしまいましたので、 みなさんの御回答も かなり抽象的で複雑なものになっていました。  あとまわしとなってしまい  申し訳ありません。 》私が思うに「そこからの想いが表現力豊かな歌や踊りの世界を作る源」については、それは「自己顕示 欲」を満たすためのもの、日常生活の常識から一時解放される行為だと思います。《 私が書いた 歌の文化のあるべき姿は あくまで理想です。 「自己顕示欲」を 直感的にだと思われますが ご指摘くださりありがとうございます。 さすが哲学カテだと思います。 私も 卵の殻のような 固い自我の殻を 人間は誰もが持っていると思います。 ですが、これが 感性が深くなると 生物としての自己愛は持ちつつも その殻は 愛という形のエネルギーで突き破られるとも思っています。 一見同じ様な殻が 自己防衛の形で残っていても 殻の性質が変化してしまうわけです。 むずかしい考え方(かた)でしょうか。  卵の中心に近づくと 感性が深まる心の世界をイメージしていただけると すこしわかりやすくなるかもしれません。 その中心からは 殻を突き破る(正確には 間単に通り抜けてしまう)エネルギー( 他人への愛)が出てきます。 欲望は 欲望自体内側へ向かうエネルギー 自己中なエネルギーですが、自己顕示欲も含めて その内側へと向かう いろいろな契機を含んでいます。 簡単に言えば 感性が豊かになることで、 最初はお金を使う目標が 大邸宅の美しい庭でくつろぎたいという欲望だったのが、またそのために すべてが自己中心的だったのが、 道端の草花にも 全身で心通わせるようになったら、 世界中が自分に庭に見えてきて やがれ 大邸宅の庭なんてばかばかしくなり、 それよりも 苦しんでいる人に 目が向かい始めた   といったようなことです。 そうなってゆくと そこでは自我の殻は 薄まってしまうわけです。  あるいは それが強固な人でも 人生の目的は その自我の壁を簡単に通過した 人間性あふれる世界に向かい始めるということです。 マルコムXについては ほとんど知らないので なんとも言えませんが、  なんらか この自我を突き抜けるエネルギーは身につけた人 あるいはそうであるかのような目標に向かって強い意志で前進した人なのでしょう。 表面からは、 それが「自己顕示欲」なのかどうかは、 ガンジーにしてもわかりづらいところ、 おそらく そちらのご指摘は これもさすが哲学カテらしく  そのへんのするどい疑問を物語るものと思えます。 次のリーダーについては これは 役割行動の訓練や慣れも大事だと思います。 でも これも 自我の現実の問題と絡めて考えると、それを突き抜ける愛のエネルギーが無いと、 たしかにリーダー争いとかも起こったりしそうですね。 ただ わたしが 疑問に思うのは 歌の想いの根源は その愛のエネルギーとなんらか関わるもの、 そのリーダーたちが、 自己顕示欲のみにごまするように思える歌の文化に満足していて  慈しみの心とか 心の指導を怠っている点なのです。 》どこかの国のエセ指導者は、最初は「この国の発展のために身をささげる」などのようなことを言って《 歴史上 そのへん最大に悲しかったのは 共産主義の歴史ですね。  これは大勢の民衆が 共産主義になれば 心までみんな愛し合えるようになるとさへ信じていたのに、 その良心はあの大量の粛清によって裏切られました。 どんなにか 慙愧に耐えなかったことでしょう。 やはり 私の考えでは 歌や踊りの本質をよみがえらすような愛という人間性の根源を   まずはむしろ「欲望」などの人間の弱い面をも  しっかりとその構造や いい面(愛に向かう面)などを   少し複雑でもしっかり《みつめ》なおし、 競争社会の中で 人間的な社会を建設しなおしてゆく道しかないと思うのです。 競争社会は 生まれつきの不平等の存在を考えれば、現実の必然としてまず《みつめる》しかないところ、 そこにも 愛のエネルギーがあれば、変革は可能だと私は思っています。 》 「表現の根源となるような 生き生きした愛情の根源」は、人を敬い 敬まられ、他人の言いところを見 い出し、平凡を維持し、生かし生かされていくものだと思われます《 ちょっと 文章が乱れているところが気になりますが、 これも私の質問文が  まるで雲の上から 眺めた方向性をさぐる質問文、抽象的でありすぎたための 何かの混乱の現われかと思います。 しかし、ここにこそ そちらが 無意識の底からも言いたいような 心の底の彼方の願いのようなものを感じさせられます。 平凡だって、みんな尊い命です。 お互い 知らない間に この大地に生きてましたが 感性(感じる側)さへ開かれるなら この大地は無限に豊かです。  みんな その可能性の中に生きているのがこの奇跡の星の住民です。   》「歌や踊りの文化」は自己陶酔の世界であり例えば洞窟の中で一人太鼓を叩いても陶酔しないと思います《 ありがとうございます。 これも重要なところですよね。 人間ひとりでは、感性も豊かにならないですよね。 ほんとうにありがとうございます。 一見 まさに 抽象的で雲の上から霧がかかったような大きな大地を 描写しているかのような ばらばらに思える文、  そして最後に 「性欲」の問題まで直裁に ともかく御回答くださったということは  これは質問への むしろ さらなる誠意を意味するものでもあると思います。 そのお心遣いがうれしくて、 詳しい感想を書かせていただきました。 この「性欲」の問題は わたしも 十全にはまだ解決していなィ問題です。 しかし、フロイトの考えは 西洋のキリスト教の中での抑えられたひずんだ性欲が象徴的に夢に現れる 夢の社会現象のようなものをたまたま捉えた 実験検証臨床心理学です。 もちろん 世界的に 性欲については開放的になれる思索展開が出来ていないと思いますが、  フロイトの実験検証はかなり狭いと思います。 現代の夢判断は もう少し広い実験データーをもとにしているとおもいますが、 フロイトのその実験部分は、むしろ多少科学的でもまだ幼稚な夢判断の一種。 性と 愛の関わりには、実は深い可能性(感性が豊かになる可能性)が隠されているようなものてすが、 そのへんの 表現の世界が わたしの中でも それこそ入り組んでいて、 これはまた別の質問をたてさせていただきます。 しかしながら  男女の情感の世界こそ 歌を通して 大自然への感性を表現する時にも大事な世界なのです。 そこを 哲学者たちはもっと真剣に考え しっかりと捕らえて欲しいと思わざるを得ません。 恋の中でのセックスと何かいやらしいとか汚いとか感じたことはありますか? 無いはずです。 もしあったとしたら それはまだ恋とは言えないと思います。 深く感じるがキーなのですが、 男女の恋の場合 それをコントロールすることはほとんど不可能。   もしそれさへクリアーすれば 恋は 感性を深め 深まった感性はさらに恋を高め、 やがて すべては 大きな人間性社会の実現へと向かってゆくでしょう。 でも そういう話を 私自身もまだあまり聞いてないのです? 》不自然・偽りがあり、そのなかで音楽があり踊りという形式もある、という考えるしかないのでしょう か。《 誠実なご感想 誠意あふれる御回答だと思います。 ありがとうございました。

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