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車輪の下の時代背景
ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」の時代背景(1890年あたりのドイツ(シュヴァーベン))はどのようなものなのでしょうか。 よろしくお願いいたします。
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19世紀後半から20世紀前半はまさにドイツの時代といってよいでしょう。政治、軍事、科学、文学どれをとっても世界をリードし巻き込んで言ったといってもいいでしょう。 ドイツ帝国の時代と重なります。 ドイツ帝国 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%B8%9D%E5%9B%BD ドイツの植民地 第6部 大戦への道 http://www.kaho.biz/germany/taisen.html 海軍大拡張 ……と、こんな具合にアフリカ、オセアニア、アジアと全世界に広がっていった多くの植民地を維持するためには強力な海軍を必要とする。ドイツは伝統的に陸軍国であって海軍はまことに貧弱なものでしかなかったのだが、1890年にアメリカの戦略家マハンが執筆した『歴史に及ぼした海上権力の影響』で説かれた海軍力の重要性……世界を制するには海を制するべきであり、そのためには巨大な大砲を搭載した巨大な戦艦を必要とする……に触発されたドイツ皇帝とその政府は海軍の大増強に乗り出した。97年に海軍長官に就任したティルピッツ提督(熱烈な海軍拡張論者)の主導のもと、まず98年に「建艦法」を、続いて1900年に「第2次建艦法」を制定して、1920年までに戦艦38隻を常備するという大計画をぶちあげたのである。 目標はイギリス海軍(当時の世界で最強の海軍)である。当時のドイツは経済的に著しい躍進を示しており、特に重工業は90年代のうちにイギリスを凌駕、20世紀に入る頃のGNP成長率はイギリスの2倍にも達していた(註1)。しかも人口も増えまくっていて国中に若々しい活力が溢れており、これで植民地や海軍に関してイギリス(大国ではあるが既に老いつつある)より劣ったままで我慢しろと言う方が無理な話である。民間では「建艦協会」が組織され、大衆に対して猛烈に大海軍建設の夢を吹き込んだ。ちなみにドイツ政府は97年(建艦法制定の前年)に中国で膠州湾を租借した時には諸外国に対して「自国艦隊の石炭補給地が必要だから租借した」という説明を行ったが、実際にはそれは逆で、その「補給地」を守るために強力な艦隊が組織されることになるし、世論に海軍拡張の必要性を示すために前もって(建艦法の予算が議会で議論される前に)極東に拠点を建設しておいたという側面もあったのである。 註1 イギリスと比べればしょぼい植民地しか持っていなかったドイツがここまで躍進したということは、つまり植民地というのは実のところ大して本国経済に寄与するものではなかった、ということになる。ちなみにドイツ躍進の主因は、もともと光学・化学・電気といった科学技術に抜きんでていたのに加えて普仏戦争の勝利によってアルザス・ロレーヌ地方の鉄鉱資源を確保したこと、イギリスの産業革命が軽工業から発展していったのに対してドイツの場合は最初から重工業に力点を置いていたこと、工場の立地条件やノウハウに関してイギリス(産業革命の先輩)を手本にしたこと、工業と銀行が密接な協力関係にあったこと……等々があげられる。工業だけでなく農業も、耕作機械や化学肥料の導入によって生産を拡大していた。 そして、海軍大増強という巨大な内需のおかげで重工業(軍需)が潤うことになり、つまり輸出が多少減っても大丈夫ということになったため、政府は外国農産物の輸入を規制(農業関税をアップする)して国内の農業関係者の支持を集めるという政策に転換した。海軍増強の予算は農業関税による収入をあてればよいのである。ただしこの場合、大工業と農業関係者は儲かるからいいとしても一般の消費者は食糧(農産物)の値上がりに苦しまねばならないため、議会の内外において社会民主党が強く反対論を唱えた。社会民主党は1890年以降の総選挙で常に得票率第1位をキープ(ただし選挙区割や決戦投票の関係で議席数1位にはなかなかなれなかった)して帝国議会における最も強力な野党となっており、政府(経営者の味方)にとっては苦痛の種であった。そこで政府は、海軍大増強を通じて大工業と農業家を政府の周囲に結集することによって社会民主党を包囲するという方策も考えた。 そんな訳で、政府としてはこれで何もかもが万事順調だ、と言いたいところだが、各産業(の利害を議会において代表する諸政党)の意見は海軍増強という点では一致したものの他の政策では亀裂が多かったし、(1907年の南西アフリカの大反乱に際する総選挙をのぞけば)社会民主党の得票率を抑えることも出来なかった。それよりなによりドイツ海軍の増強にビビったイギリスも海軍拡張に乗り出し、これとの建艦競争を強いられたドイツ政府は(関税アップによる収入だけでは建艦費用を賄いきれなくなって)財政的に困った状況となってしまった(それはイギリスも同じだったが)。しかもこのせいで、東アフリカの項で説明した「ドイツとイギリスの同盟構想」が大幅に崩れてしまうのである。それに、ドイツ海軍の大増強は最初は確かに「植民地を維持するため」という名目で始められたし、国民に対しても繰り返しそう宣伝されていたが、実際に建造された艦隊の大半は本国の港に置かれてイギリス海軍と睨み合うことになった。ドイツ政府としては、イギリスを圧迫感を与えることによって相手に独英友好の重要性を認識させるという思惑もあった(ジョセフ・ナイ著『国際紛争』)のだが……。 文学 詩的リアリズム(1848年 - 1890年) [編集] 詩的・市民的リアリズムにおいて作家は、大きな社会・政治問題を避け、狭く地域的な郷土の風景と人びとに興味を向けた。全ての小説・戯曲・詩の中心は、一人一人の人間、個人である。詩的リアリズム作品の多くに見られる様式的特長は、耐え難く腹立たしい現実から距離を置くユーモアである。このユーモアによってリアリズム文学は、社会構造の個々の欠陥や弱点を告発するのだが、それが社会構造全般に対して向けられることはない。 初めのうち好まれたジャンルはノヴェレ(短・中編小説)であり、例としてスイスのコンラート・フェルディナント・マイヤーによる『首飾り』、テオドール・シュトルムの『白馬の騎士』などがある。戯曲では『マリア・マグダレーナ』などを書いたフリードリヒ・ヘッベルのみが記憶されている。のちには長編小説(ロマーン)がノヴェレよりも好まれるようになる。長編の作者としては、グスタフ・フライタークやヴィルヘルム・ラーベなどが挙げられる。 リアリズムの二巨頭は、テオドール・フォンターネと、スイスのゴットフリート・ケラーである。ケラーは、『村のロメオとユーリア』のような物語のほか、教養小説『緑のハインリヒ』などを著した。フォンターネは、ジャーナリストとして出発したが、『イェニー・トライベル夫人』や『エフィ・ブリースト』などの小説を書いている。フォンターネはその視野を主人公から広げ、社会小説の域にまで発展させた。 オーストリアでは、マリー・フォン・エプナー=エッシェンバッハやルートヴィヒ・アンツェングルーバーらの牧歌的モチーフや、時代区分の後方にはみ出しているがペーター・ロゼガーらが見られる。 自然主義(1880年 - 1900年) [編集] 自然主義は、社会の全ての領域における諸関係を容赦なくに明らかにしようとする新たな美術・文学の潮流であった。19世紀中期のリアリズム文学者たちがいまだテーマとして避けていたものが、この時期の文学における主要な対象となった。いわゆる良い趣味というものが設ける限界にも、市民的な芸術理解にもなんら顧慮することなく、現実世界の描写においてはできる限り現実とその似姿の間の差異をゼロに近づけなければならないと考えられた。様式上本質的に新しいのは、このような観点からの俗語・隠語・方言などの導入であった。自分自身の考えに従って自由に行動する主人公はもはや描かれなくなり、代わりに集団や出自、家庭環境や時代思潮に縛られた人々が物語の中心に据えられた。 ロシア文学やフランス文学とは異なり、ドイツ語圏においては重要な自然主義的長編小説が登場しなかった。アルノー・ホルツはヨハネス・シュラーフとともに抒情詩や『パパ・ハムレット』などの短い散文を制作した。ホルツの方程式『芸術=自然-X』はよく知られており、この等式においてXは限りなく0に近づいていかなければならず、したがって芸術とは現実の写し絵以上のものではないと考えられた。さらに重要なのはゲアハルト・ハウプトマンの貢献で、戯曲『織工』は国際的な賞賛を受けた。自然主義の周縁にはフランク・ヴェーデキントがおり、『春の目覚め』は思春期の性をテーマとして示し、すでに世紀末に位置している。
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