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日本の戦のルールとは?
- 日本の戦は当時のルールに基づいて行われ、フェアーに戦が進行していました。
- 勝つためには手段を選ばないという考え方があり、攻め方や戦術には多様性があったようです。
- 夜襲は当時の戦の中でも一つの戦術として認められており、特別なルール違反ではありませんでした。
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欧州では傭兵。日本では信長あたりがカネで兵隊を雇うようになってからのこと。 つまり兵隊にしてみれば明日のかせぎのために、簡単に命を捨てるわけにいかないので、傭兵同士だとぼちぼち暗くなってきたからここいらへんで退きましょうといった、アウンの呼吸があった。 そのいわば談合に対して、できたのが国民軍。この場合戦争に勝たないと、自分の生活が根こそぎ支配されることもあったので、死ぬまで必死に戦う。 ただ何事にも例外があるので、傭兵でも(現在のバチカンの衛兵)スイス傭兵は真剣にまじめに戦ったので、非常に商品価値があった。太平洋戦争中の日本兵は(いまでもそうだが)一糸乱れず動ける非常にまとまりのある軍隊だったので強かった。これはドイツ軍も同様。対する英国兵が鍛えられるのは、ウィンゲートが東南アジアの英国兵を鍛え直してから。米国軍は島嶼作戦でやり方をだいぶん変えた。 ちなみにジャンヌダルクがデビューした時の戦いは、本来互いに兵を退くはずが、その時なぜか後退しかけた仏兵を英国兵がさらに追撃し始め、それが両軍への不安感をあおった結果ともいわれている。当時は神様の存在がいまよりリアルだった。
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- nene-k
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私もバラッド見てました~ なかなかオモシロかったですね。 ところで、register8さんがおっしゃる「今日はもう終わりだ」みたいなシーンは、真正面からの城攻めのシーンではなかったですか? 先の回答者さんがおっしゃっているように、街灯もない真っ暗な夜に軍隊を動かすのは大変な事… なので、真夜中の夜討ちや早朝の朝駆けといった攻撃は、少人数による奇襲作戦となります。 逆に言えば、大勢の軍隊が少人数で籠る城を取り囲んで行う城攻めという物は、真っ暗な夜には不可能なわけで、ルールうんぬんではなく、できないので「今日はもう終わりだ」なのです。 その夜に奇襲をかけるか否かは、また別の作戦で、昼間の城攻めの続きではない…という事です。
- isa-98
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島津 義弘は京で挙兵し本国から兵を送るよう願いますが、兄義久に断られてしまいます。 義弘は「何の権限も持たぬただの武将よ。」と無念を押し殺していましたが、 1兵、また1兵と義弘の元へ具足を持った薩摩兵が現れます。 義弘挙兵の報を聞き、自費で薩摩から歩いて来たのです。 義弘は1人1人、手を取って感謝しました。 遂に2千の兵が集まります。 はじめは家康の願いを聞こうと思いますが断られ、西軍へ付きます。 堂々と胸を張り「2千でござる!」と義弘。 「2千ですか。」と冷酷なソロバンを叩く三成。 その上、美濃墨俣で義弘の軍を見捨てて勝手に撤退してしまいます。 義弘は夜討ちをかけます。 3百の全兵力を率いて美濃墨俣へ強行突入を果たし、島津の全軍の脱出を成功させます。 島津軍の怒りは既に頂点に達していました。 しかし「策は策。戦は戦。物の定め。」 それでも戦は戦。 勝つ為に夜討ちを提案します。 宇喜多秀家は「それは名案。」と同意しますが三成は義に反すると却下します。 「戦に参戦せよ。」と、下馬の礼も取らない無礼な石田の兵。 「あの時、夜討ちをかけていればこうはなっていないであろう!」 ルールとは、恩、礼。人。
- isa-98
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ちゃらりらーーー。つ^_^)つ 藤原 頼長は貴族の男同士の色恋沙汰で勢力をどんどん伸ばします。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E9%95%B7 ふっふっふっ。(^○^) しかし、鳥羽法皇崩御で戦の気配になります。 戦力的には劣勢必至でした。 「このままでは負けるのは必定。今、兵は鋭気。 今夜にでも高松殿へ夜討ちをかけて勝機を掴むべきでしょう。」(先手必勝の定石。) と、源為朝は夜討ちと奇襲の両方を進言します。 しかし、藤原 頼長は、「それには義が無い。」 と一蹴してしまいます。 当時、夜討ちは侍では普通の事でした。 軍議が大和からの援軍を待つ事になった夜、逆に敵の夜討ちに遭います。 この愚策は総崩れの原因となります。 最期に父親の所へ助けを求めますが、断られてしまいます。 「あの時、夜討ちをかけていれば父にこんな仕打ちをされなんだ。」 藤原 忠実は失意と共に絶命します。
- tanuki4u
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 時代的にはこれも近い にしても 「直生以下500余の奇襲部隊が編成された。」 というくらいに、少人数で攻撃しています。
夜戦行動の困難さを、 夜中にコンビニ行くのと似たようなものだと思ってませんか? 足場の不確かな真っ暗闇で、大人数が入り乱れて、軍隊として行動できるとお思いですか? 通信手段も限られている中で、どうやって部隊を移動させるのだと思いますか? 難しそうでしょ? リスク大きすぎでしょ? そうそうセオリーを破って勝てる天才が顕れる訳じゃないですしね。
- phantom1
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バラッドの元になったクレヨンしんちゃんの映画は、子供向けにしてはヤケに合戦の考証がしっかりしていて、大人も楽しめる作品だと思います。 夜になって戦いをやめるシーンが牧歌的で暢気に見えたのでしょうが、日が暮れると戦闘を停止するのは、それが当時の戦闘技術の限界だったからです。 戦国時代の野戦は、しっかり陣形を組んだ部隊同士がぶつかって、陣形を崩された方が戦闘続航不能となって敗退し、崩れなかった側(勝った方)が追撃する、といったものです。 無線通信機などの無い時代においては、旗印の動きなど目視での状況確認が一般的で、太鼓や鐘の音も使えますが、これは「前進」とか「後退」ぐらいの簡単な意味しか伝えられません。複雑な言葉を伝えるには伝令を走らせなければならないので、どうしてもタイムラグが発生します。 このような貧弱な通信事情で、一度陣形を崩された部隊を立て直す事はほとんど不可能です。故に、崩された方はばらばらになって逃げるしかない。 こうした戦闘方法ですので、陣形の維持が戦闘の第一条件なのですが、夜間ではこれが難しい。現代のような暗視装置もありませんし、闇を照らす道具は松明ぐらいですから、大部隊は夜間行動できないわけです。 そんなわけで、日暮れまでに決着が付きそうもない場合、双方阿吽の呼吸で撤退する事もあったようです。しかし、この時代の戦闘が複数日に亘る事はほとんど無く、ぶつかる前の睨み合いが何日も続く事は多かったものの、一旦戦闘が始まった場合は大抵一日で決着が付いたようです(攻城戦は例外)。 戦国時代の戦争には、守らなければペナルティを受けるようなルールはありません。そもそも、そういった社会的規範が機能しなくなったために、戦国時代になってしまったからです。 しかし、作法とでも言うべき共通の認識はあったようです。例えば、停戦交渉や降服勧告を行なう軍使を示す表示は、現代では白旗ですが、戦国時代の日本では、足軽のかぶる陣笠のあご紐の片方を、竹ざおの先に括りつけて掲げる、というのが一般的だったようです。
- mekuriya
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スポーツではない。ルールはない。フェアもアンフェアもない。いくと見せていかない。いかないと見せていく。駆け引きと騙しあいです。戦の為の戦ではありません。目的があります。その目的が何かが問題なのです。映画は現代人の頭のレベルに合わせて物凄く馬鹿っぽく単純な話にしていますが、戦国時代の人達は現代人の余興の為に戦っていたわけでなく、皆自分の為に戦っていたのです。
- tanuki4u
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バラッドは、クレヨンしんちゃんの派生物。 フィクションの中でのフィクションですので、話は単純にしている。 スポーツにルールがあるのは、ルールを守らせるプレヤーより権力を持っている存在があるかであって、ルールを守らせる主体がいない戦争においては、ルールもヘチマもありません。 有名なルール違反としては、義経の漕ぎ手殺害があります。 源平の争乱のころでは、漕ぎ手を撃つのは非戦闘員への攻撃ということで禁止とは言わないが、しないことになっていた。ガツガツ射殺したて勝ったのが義経となります。 バラッドの時代設定で言うと、川越の夜戦が同時代になるかと http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%B6%8A%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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バラッドは見てないが 証明が無いから真っ暗でまともに戦えないってだけでは 敵味方も判断できず同士討ちになるし