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始まりの前の混沌

聖書の中に『光有れ』という命令文が盛り込まれていますので、其の表現の意味を鑑みました際に、次の通りの疑問が浮かんで参りましたから、教えて下さい。 光が誕生する前には、闇の存在が認識され得たのでしょうか?

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回答No.13

 No.5&9&11&12です。  信仰という動態においていくらか違った状態を想定なさって それについて問うておられます。  ★ (No.12お礼欄) 『天地人の本来的な合一(梵我一如)』の場合には、信仰の対象の存在を自己の外部に切り離せませんので、  ☆ これは 《宇宙の霊 ないし 仏性 ないし 神の聖霊》が人間である《わたし》に宿るという・信仰の動態をめぐるひとつの状態をまづ言っているはずです。  そして 信仰の対象(つまり 非対象)を 何ものにも依存せず自立する存在として《ブラフマン(梵)》と名づけた場合です。宇宙の主宰者だとも規定されます。  そして 人間の《わたし》は 《アートマン(我)》としてあります。  かくて 梵我一如という状態を言っているわけだと考えますが これは あくまですでに信仰が一般的なかたちで成ったあとのその状態の説明であるかと見ます。  ですから  ★ 信仰の対象の存在を自己の外部に切り離せません  ☆ というのは あくまでそのひとつの状態――つまり非対象の何ものかがあたかも経験存在である《わたし》に宿ると見立てての状態――にかんして そのように捉えようとしていることを意味します。ですが これは 実際にはあり得ません。  もともと 信仰の対象は 非経験であり おのれの心においては非思考として成っています。そのあと そこにおいて 《梵我一如》の状態が成り立っているのだと見ています。いくら修行を経たあとその状態になるのだと言っても 信仰の成立という一時点〔における一事件〕にかんしては ブラフマンのほうからはたらくのであって そこで一如となった状態を切り離すも離さないもないと考えます。  すなわち重ねて述べますが この《一体(一如)》を  ★ 切り離す  ☆ かどうかは 信仰にかんするかぎり 問題になりません。人が丸っきり自分ひとりの力でその一体の状態を得たとは考えられず――つまりは 生まれた状態において一たんその一如の状態に近いかたちにありますが それもウソをつくことで損傷が出来ました―― 人が内部・外部の別なく切り離すことのできるかたちで一体であるのでもない。こう考えます。  もし切り離した状態になろうと思うなら――ほんとうには 神はどこへも行きませんが―― 自分の心に逆らってウソ・イツワリを重ねて行動すればよいはずです。神から遠ざかるという状態に置かれて行くものと思われます。  したがって 信仰という動態にかんするかぎり  ★ 〔・・・信仰の対象の存在を自己の外部に切り離せませんので、〕 信じることさえもが為され得ず、無心状態の振る舞いを疑わない態度の保持が必要になるのだろう、と思われます。  ☆ という気づかいは 不要です。  信仰は 神のほうから心の窓をノックするといったふうにおとづれてくれます。そのとき 受け容れたなら 信仰が成立し 救いも与えられ あとは ウソ・イツワリを為すかどうかの問題になります。それ以外の何かが わたしを神から離すということはあり得ません。気づかいは無用です。大船に乗った気持ちでいていいはずです。  次の《管理者 あるいは 組織宗教の指導者》は そもそも必要ではありません。  ★ でも、残念ながら、『自己主張の責任を転嫁させてくれ得る管理者への積極的な依存』の為に、烏合の衆の中へ参加したがっている、という不純な動機さえもが、多くの信者達の心の中に残り続けている様ですね。  ☆ 《不純な動機》は ひとえに《ウソ・イツワリ》の問題です。  ★ 従いまして、純粋な晴れ上がり  ☆ としての信仰の動態は 曇りも雨もあるいは嵐をも容れて 成り立って存続します。  ★ 従いまして、純粋な晴れ上がりの【妄想】的な体験を語る説得的な折伏が、今後の日本でも繰り返され続けるのでしょう。  ☆ 要りません。  ウソ・イツワリの世界に自分がい続けようという心つもりでいながら 信仰において心の晴れ上がりを求めるという場合には あせってそういうあたかも簡便法としての信仰を――つまりイツワリの信仰です―― 求めそれにすがりつづけるということがある。そういう分析をなさっている。  このように考えます。

BuffaloAndJtp
質問者

お礼

たとえ『受け入れられるべき境遇への納得が難しい』と感じられましょうとも、【疑われ得ない真実(イデア)】が目の前に立ちはだかっているのでしたら、信じられずとも【容認】が可能なのではないでしょうか?

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 『無心状態で受け入れる』という態度は、機械の冷静な挙動(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%86%85%E8%94%B5%E6%96%B9%E5%BC%8F)に似ていますね。 例えば、エレベータの遠隔監視の中枢の側では、たとえ信号の人為的な遣り取りを積極的に行ないませんでしても、ポートが開放されているだけで、各端末からの異常発報を(自動的に)受け付けられる様に出来ています。 従いまして、人類の場合にも、若し本来の健康的な無心状態が取り戻されたのでしたら、inputの直後に原始的な能力(火事場での閃きの様な馬鹿力)が経絡を辿って自動的にoutputされるのでしょうね。

その他の回答 (17)

  • miko-desi
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回答No.7

光は時間を旅する。 では時間そのものは何を(意味)しているか? 時間は何もしていません?し、 時間に始まりや終わりがあるなら その前後には時間のない事実がある これが闇の存在ということになりそうです。 時間それ自体は意味もなく永遠で 光とともに全ての事実、知覚が時空を旅をし 関連なきものを留まらせます。 闇に一つの時間も空間もないので連続体としての旅ができないはずです。 よくわかりませんが??。あえて説明能力のなさをさらしました(?) 光あれ!

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 光さえもが時空の歪みの影響を受けますが、 光自体が時空の歪みを拵える訳では御座いませんよね。

  • yuimakozi
  • ベストアンサー率22% (25/110)
回答No.6

この世に存在するものは、全て相対依存の関係にあります。 長い、大きい、熱い、硬い、速い、これらの概念は単独では存在できません。 比較する他の存在があって初めて存在できるのです。 「生」があるから「死」がある。死が存在するには生がなければなりません。 また、「生」がなければ「死」もありません。 光が無ければ闇も存在しません。 光が存在した瞬間から闇も存在したのです。

BuffaloAndJtp
質問者

お礼

闇の存在が認識されるのは、認識の主体達が光の側に位置しているからなのでしょうか?

BuffaloAndJtp
質問者

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有り難う御座います。 混沌の対称性が自発的に破れていく過程の途上で、 光と闇との分極化が起きたのでしょうか?

回答No.5

 こんにちは。  ★ 始まり  ☆ と言えば 時空間としての概念であり この経験世界に属しています。    ★ 始まりの前  ☆ の《前》も 時空間に属する概念です。後ろや左右あるいは上下といった相対的な概念で捉えられる世界に属します。  従うならば 《始まりの前》は 経験存在であるわれわれ人間には 分かりません。分かるか分からないかが 分かりません。  これは 決まりです。分かったら 《始まりの前》があらたに経験世界としての《始まり》として認識されることになります。分からないと分かったら 《分からない(つまりおそらく 未知の意)》と規定し得たかたちで その《始まりの前》は 何らかのモノ・コトとして経験世界に属すると理解されます。  したがって 《始まりの前》は 分かるか分からないかが 分かりません。  そして  ★ 始まりの前の混沌  ☆ というふうには 規定し得ません。言いかえると 《分かるか分からないかが分からない》なら なんとでも表現しうるとも考えられます。つまり 混沌でも秩序でも 無でも有でもつまり無神でも有神でも なんとでもです。  ★ 聖書の中に『光有れ』という命令文が盛り込まれています  ▼ (創世記1:1-5) ~~~  1: 初めに、神は天地を創造された。  2: 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3: 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。  4: 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、  5: 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 《昼と夜》があり 《昼が夕べとなり そのまま――夜には引き入れられず――朝をむかえる》のは おそらく地球上での生活でしょうから 措いておきます。  《天地》というのも 同じく地球上における見方だと思われます。そうしますと 要するに《初めに 光〔の爆発?〕があった》というほどのことを言おうとしていると考えるのですが どうでしょう?  命令者・創造主としての神は あくまで言葉のあやだと思われます。擬人化して表現しているのだと。聖書記者は 物語として表現しているのだと。  ★ 光が誕生する前には、闇の存在が認識され得たのでしょうか?  ☆ 闇は 光とともに現われたものと思われます。《前》については すでに考えました。    と捉えるのですがねぇ。  ちなみに 光も 経験的・相対的・有限的なモノ・コトです。初めから 有限のモノとして発生したと捉えます。  ただし《始まりの以前の世界》としての《無限》は じつは《有限か無限かが 人間には分からない》わけですから 仮りに無限という言葉で表わしているだけだとなります。有限の世界においても 限りなく数えられるというかたちの可能無限があり得ます。  少々くどいですが 光の誕生する以前の世界は 光速を超えていると言えるでしょうが 光速を超える・超えないとは関係のない世界であるとも言えます。  プランク定数とか何とか言う h が零である世界かも知れませんし あるいは 如何ような値にもなる世界であるかも分かりません。  そういう《無限・無根拠・遍在・全体》として仮りに表現して捉えられる世界であるように考えられます。つまり この無限の半分も三分の一も やはり無限であるという世界だと思われます。

BuffaloAndJtp
質問者

お礼

信仰と流行とに関しましての質問を、 別のページへ提出させて頂きました。 http://okwave.jp/qa/q6953012.html

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 「(1個の)太極」の分化は可能ですけれども、「(0個の)無極」の分化は不可能ですので、【始源】はリアルに経験され得ず、数式的な手段によって暗示されるヴァーチャルな可能世界に【始源】の状態は留まり続けているのでしょうか? http://search.yahoo.co.jp/search?fr=sb-kingbrw1&ei=UTF-8&p=%E5%8F%AF%E8%83%BD%E4%B8%96%E7%95%8C

回答No.4

「光」とは、光量子であり、量子=不確定性原理そのものの 実体化です。 不確定性原理の「相補的不確定性」を、原理的に確定化せずに 階層現象表面的に(いい加減に)捉える時、有限的存在性は 派生するのです。 その「派生」とは、絶対化における無限不確定性(=闇)の潜在的認識 可能性の移動(異なるhの時系列化)に於て、相対的に無が風(光) となり、その経験(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として、 感受表面(光速)からの自我仮説(時間的流れ)と時空仮説(空間的 広がり)の相補分化が可能になっているのです。 自分が走るから風が吹く時、「この風はどこから吹いているのか?」 と問う事は無意味である(立ち止まって(死んで)みればその「前」だ)。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 闇の様態の1つが可視光線なのでしょうか?

  • Nucleus_
  • ベストアンサー率34% (8/23)
回答No.3
BuffaloAndJtp
質問者

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有り難う御座います。 上手い回答ですね。勉強になりました。

回答No.2

可視光線もが電磁波の一部に留まっていますので、若しかしますと、別の手段の採用によっては闇の存在が認識され得るのかも知れませんね。 尚、御互いの交流の中で分かる内容もが含まれているのかも知れませんから、若し宜しければ、下記のページへの参加にも御協力を賜れますと、非常に幸いです。 http://okwave.jp/qa/q6945548.html http://okwave.jp/qa/q6922299.html http://okwave.jp/qa/q6884806.html http://okwave.jp/qa/q6894753.html

  • remondo
  • ベストアンサー率20% (25/120)
回答No.1

存在の認識という科学的考察は不要と思います。 以下の記述は私が別の方の問いに答えたものです。 ご参考あれば幸いです。_______________________________________ 私はこの現世は、別界の念意による想像の世界と思っています。 よって宇宙の果てはありません。 太陽と地球の関係は偶然と思いますか? この世が三次元構成であっても、別界は多次元である筈です。現世は科学が成立しても 別界は大らかな念意に包まれていて、  科学は存在しません。 また、それは我々が生を営むこの世の次元に交差しているかも知れません。 それで、時折科学では証明できない現象が現れることもあるでしょう。 生き物が死を迎えた時は、この別界に召されてゆくのではないしょうか?  それは偉大なる創造主が存する場です。 宇宙の謎を謎として人生の終焉を迎えるよりも、己が信ずる斯かる別界があれば 創造主の子として安らかに死後を迎えれる筈です。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 若し完全に【宇宙物理学】と此の質問の内容とを切り離して考えて頂けるのでしたら、次の様な見方さえもが可能になるでしょう。 つまり、『闇の中で迷える子羊達の心に一条の光が差し込む前に、其の子羊達が自分達の心の闇の存在を自覚し得たのか否か?』という解釈です。 従いまして、若し支障が御座いませんでしたら、 畏れ入りますが、追加で教えて下さい。 仰っている内容の意味合いは、 『心の問題としての解釈』にも当て嵌まり得ますでしょうか?

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