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神を創造主と呼ぶのは ただの物語である。

 《創造者》と《被造物》との関係を言うことによって もし前者が後者に絶対的に先行しているということを意味させるのであれば それで済むという問題ではないか。  《絶対》を擬人化して《絶対者》と呼び これをさらに《造物主》に見立てる。そこから 物語がおもしろくなる。そういう演出の問題だということではないか。

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  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.2

そうです。その物語を作ったのは絶対でない人間ですから、物語は矛盾だらけです。聖書もコーランもおかしな内容です。 仏教でさえ「絶対」を擬人化させて仏像まで作っては神を崇める宗教と同じレベルです。

bragelonne
質問者

お礼

 人生の歩きさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  正直に反応すれば ちょっと粗雑なまとめのように感じられました。    ★ その物語を作ったのは絶対でない人間ですから  ☆ すでに初めにそのたとえば創世記の記述は 事実をしるしたと見る向きとは別に あくまで《物語》であると捉えておられます。  そうしますと わざわざ  ★ 作ったのは絶対でない人間ですから  ☆ と重ねて指摘するのも 要らないかも知れないと思いました。  ★ 物語は矛盾だらけです。聖書もコーランもおかしな内容です。  ☆ これは どうでしょう? たとえばエワとアダムの《原罪》の物語 これもむろん物語なのですが 矛盾だらけでしょうか?  たとえば 次のように質問者は捉えていますので 決して矛盾がその物語を反故にするほどには大きくはないと考えます。     【Q:なぜ知恵の実を食べてはいけなかったのでしょうか?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6869412.html   その回答No.10&15&19&25です。  クルアーンについては ここでは保留します。(ひとことでは まとめないほうがよいと思いますし 具体的な相手との対話の中で考えを述べることがいちばんよいと考えます)。  ★ 仏教でさえ「絶対」を擬人化させて仏像まで作っては神を崇める宗教と同じレベルです。  ☆ ブディズムについても保留しますが ブッダあるいはブディストが《絶対》をどう扱っているのかは やっかいな説明をしなければならないと思います。   【Q:ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5440380.html    ですが 総じて質問趣旨の《物語》説に賛成票を一票投じていただいたと理解します。ありがとうございます。

その他の回答 (7)

回答No.8

生憎、クライアントPCは外部機器の存在を知っていませんでして、 クライアントにとりましては、サーバさえもがデジタルデータの一部に過ぎません。 つまり、クライアントシステム側では、近隣の周辺機器類でさえもが【ヴァーチャルな虚構(アプリケーションソフトウェア)の要素】として認識されているのでして、『物理的に存在していない仮想マシン』と『物理的に存在している外部機器類』との不毛な峻別が出来なくてもデータの状態には変わりが御座いませんので、無駄な時間の浪費を防ぐ為に其の峻別を行なってはいないのです。 因みに、コンピュータネットワーク自体をシステムだと見做す発想にも、 勿体無い謬見が含まれています。 単独のクライアントコンピュータは外部をアプリケーションの虚構の中に織り込みまして、『天上天下唯我独尊』の教えの通りに、【妄想的】に自己完結のシステムを構成・維持していますので、インターネットに管理者の存在が必要でなくなっているのです。即ち、敢えて申し上げるのでしたら、「各ユーザー自身が管理者だ」、と各クライアントPCは判断しているのでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 あのう  ★ 即ち、敢えて申し上げるのでしたら、「各ユーザー自身が管理者だ」、と各クライアントPCは判断しているのでしょう。  ☆ このように――そしてそれだけではなく 設計・構想の段階においてから始まっていることなのでしょうが―― たとえ《管理》という見方をしないとしても 全体として《人の手によって(頭によって)つくられている》モノでありそこに動きのあるコトである。こういう見方を申し上げているのですが?  したがってたとえば《無心》という規定は あまり合っていないのではないか。このようにもお伝えしています。  峻別があってもなくても 全体としてまとまったかたちで動きはたらくのであれば それとしてシステムでしょう。人為的な世界である。こう申し上げています。  同じことの繰り返しのようですから 投稿への感謝はひかえます。

回答No.7

展開が非常にややこしくなってすいませんが、 人間に関する問題への言及の前にもう少しの解説を加えさせて下さい。 そもそも、インターネットで検索結果を閲覧する時には、LAN側の各クライアントPCからWAN側(http://ja.wikipedia.org/wiki/Wide_Area_Network)のサーバへのアクセスが必要になりますが、ウェブブラウザ画面(IE・FireFox・GoogleChrome等)へ検索結果を表示させるべく、【システム】を活用させる際に、クライアントPCが情報源のサーバの在り処を知らなくても、構いません。 それどころか、0と1との情報の羅列が適切な順序でCPU(中央演算装置)に届いてくれさえすれば、其のクライアントシステムは適切な情報処理を【無心】で済ませてくれますので、サーバがWAN側に有るという事情を知らずとも良く、寧ろ、『クライアントPC自体の内部に存在している場合との齟齬』を其のPCは殊更に認知していないのです。 そして、其の事情はクライアント側だけに留まらず、サーバ側でも起きています。 例えば、此処のページの質問文で畏れ入りますが検索を試みさせて頂きますと、下記のURLのページの通りに、複数のサーバのURLが検出されますが、同じ質疑内容ですのに画面表示方法が違いますね。 http://search.yahoo.co.jp/search?p=%22%E7%A5%9E%E3%82%92%E5%89%B5%E9%80%A0%E4%B8%BB%E3%81%A8%E5%91%BC%E3%81%B6%E3%81%AE%E3%81%AF%22&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=sb-kingbrw1&x=wrt 従いまして、其処からも窺われ得ます通りに、サーバ側でも同じ質疑応答の情報処理を『それぞれのシステムの様式』で行なっていますので、たとえ一つのサーバーシステムの部分的な機能をアウトソーシング的に外部へ委託していましても、通信規約の階層化が適切に済まされていさえすれば、外部委託の事情をサーバは無視し得るのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  もしこの質問への回答として必要な手続きであるのでしたら 次のようなことが 飲み込めていない状態です。  ★ LAN 側の各クライアント PC から WAN 側のサーバへのアクセスが必要になります  ☆ ということと そして  ★ クライアント PC が情報源のサーバの在り処を知らなくても、構いません。  ☆ ということとは どのように同じなのか? あるいは どのように違うのか? これがはっきりしません。  あるいは 同じような種類の疑問なのですが  ★ 通信規約の階層化が適切に済まされていさえすれば  ☆ ということと  ★ 外部委託の事情をサーバは無視し得るのです。  ☆ ということとの異同です。  言いかえますと こうです。  (あ) 《外部委託の事情をサーバは無視し》たとしても その以前には《通信規約の階層化が適切に済まされてい》るわけだと思われ だとすれば そういうシステム―― PC 内外にわたるシステム――なのではないかという見方です。  (い) 《クライアント PC が情報源のサーバの在り処を知らな》いと言っても その以前に《 LAN 側の各クライアント PC から WAN 側のサーバへのアクセスが》おこなわれているわけだと思われ だとすれば そういう PC 内外にわたるシステムになっているのではないか。  ☆ こういった見方をしてはいけないのか? という疑問です。  もしこの見方でよれけば こういうふうに帰結します。  つまり   (う) この PC なりインタネットの大小・広狭のシステムは すべて人間の知識と思考でつくられている。  (え) たとえ思考をおよぼさなくてもよい部分や領域があったとしても そのように・管理するといった扱いを無しで済ませると思考した結果だと考えられる。  (お) だとすれば もし《無心》という捉え方をするとしても それは人間のつくったシステムをそのシステムの言わば自動的にはたらくのにまかせているという意味での無心である。  (か) つまり 人間の作為もしくは無作為のままにしておくという計らいがある。  (き) よって この IT 技術の成果としてのシステムにかんしては あくまで経験世界におけるモノゴトだと捉えられる。  ☆ 基本的な見方として これまでにも このように受け取って来ており述べて来ています。

回答No.6

全体的な意味の【断片】を記号的に外部化させますと、自己のシステムの全体性を保ちながらネットワーク的な部分の共有が可能になり得るのでしょうけれども、『外部化された物語が共有され得る状態』が出来上がる為には、共有者達自身の内部に元から其の要素が存在していなければいけません。 但し、同じ諸問題が原初的に内部へ存在している、という事実の証明は、 蓋し同時の体験によってしか果たされ得ないのでしょう。 従いまして、たとえ共有され得ない情報の断片を雄弁に外部化させましても、 諸問題の共通性を保障してくれ得る十分条件的な根拠が揃っていない場合には、 其の演出が自分達の問題解決の手段やら理想像やらを提供してくれ難く、 興味本位の読み物へと堕落したのではないでしょうか? 因みに、私のIDの由来は下記のページの内容です。 http://buffalo.custhelp.com/app/home http://www.jtp.co.jp/

bragelonne
質問者

お礼

 IT のお仕事とうかがいました。ばっふぁろうさんとお呼びしましょうか。ご回答をありがとうございます。  ★ 共有者達自身の内部に元から其の要素が存在していなければいけません。  ☆ これは 意外なことをおっしゃると思ったのですが あるいはわたくしの勘違いでしょうか。  つまり 《内部における元からの要素》は 単純にたとえば言語能力といったものでしょう。あるいは 事実認識のほかに どういうわけか その人の気持ちや心が いわゆる志向性として(つまり志向性としてなら 一般性を持つと考えられるかたちで)あると思われ この《こころ》も 人間の内面における能力として 共通だと考えられます。  ★ ~~~~~  但し、同じ諸問題が原初的に内部へ存在している、という事実の証明は、  蓋し同時の体験によってしか果たされ得ないのでしょう。  ~~~~~~~  ☆ 諸問題ないしその分析や解決への力が 原初的に人間の内部に存在しているというのは あたかも《同時の体験》とみなすかたちで われわれにそなわっている。つまり 上に挙げた言語能力や心としての志向性が いわゆる自然本性としての三つの能力――記憶と知解と意志――の基礎の上に成り立ってはたらいていると考えます。  一人ひとりが 異時の体験であっても あたかも同時の――と言いますか 類としての共通性において捉えられるところの――体験としてその内容を共有しうる。こう考えます。  ★ 〔* 物語にほどこされている〕其の演出が自分達の問題解決の手段やら理想像やらを提供してくれ難く  ☆ ある場合には その場合でも ひとつにその情報や知識が経験世界から飛躍してしまっているなら それはその情報を共有し得ないと判断すればよく ひとつに経験合理性で分かる情報内容であれば それとして互いの理解内容を突き合わせ照らし合わせればよいと考えます。  前者のことを取り上げれば  ★ 諸問題の共通性を保障してくれ得る十分条件的な根拠が揃っていない場合には、  ☆ ということになると考えられます。そしてそのことを ここでは《神を見た》なる情報は 共有出来ないと言って問うて来ています。  ただし ややこしいかも知れませんが 間接的なあり方の情報に言い直せば つまりたとえば《人は神の後ろ姿を見る》と表現すれば 案外共有し得て 話し合いの主題としうるのではないかとも問うています。

回答No.5

神を創造主と呼ばせ得る言語的な手段でさえもが【記号】に留まっていますので、もし殊更に其の意味を読み取って貰えませんでしたら、そういう表現は唯の物語にも劣るでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  いやぁ 《記号》には罪も咎もないと思いますよ。  ★ もし殊更に其の意味を読み取って貰えませんでしたら  ☆ それはそうでしょうけれど。  ★ 神を創造主と呼ばせ得る言語的な手段でさえもが【記号】に留まっていますので、もし殊更に其の意味を読み取って貰えませんでしたら、そういう表現は唯の物語にも劣るでしょう。  ☆ すなわち こうでしょうか?  ○ 《神を創造主と呼ぶ》のは 《ただの物語である》どころか 《唯の物語にも劣る》のだと。  それは どうでしょう いろいろであるように思われますが。・・・  《読み取れない》つまり《読み取る能力がない》場合 それは 地道にその物語を伝えつづけるか それとも 放っておくしかないと思われます。  それと もし文章が《物語》として扱われないとしたら それは 科学としての《事実認識》の文章だと捉えられると思われます。言いかえると 事実の問題でないとしたら 一般に人間の主観の真実をめぐる問題であり それは大きく《物語》として扱われます。  ですから あとは この物語にかんして うまい・へたがあるだけだと思いますが どうでしょう。  うまい・へたの度合いが いろいろでしょうし 読み取れる度合いも やはりいろいろあると考えます。  取り敢えずは 科学の文章でなければ それはすべて物語であり そのようにどちらかとして取り扱いはされるものと考えます。  記号であることに罪はなく 記号にとどまっていてもかまわないと考えます。むしろ言わば中立な記号であることは 自由な解釈を必要以上に許容しつつも その自由が 物語のような《作り話》であってもそれを 主観真実として現実世界の中に正当にも位置づけ得るのだと考えます。  記号をつうじてであってよい。物語であってかまわない。こう信じます。

回答No.4

何処でそういう類似情報を御知りになったのかは分かりませんが、私自身の理解の纏めにも役立ちますので、折角の御返事に甘えさせて頂きまして、拙いながらも、前回の続きの内容を此方の枠で申し上げます。 「全体的な連携(システム)への認識」と「部品群の機能への認識」との峻別は、 PCによる情報処理の際に物凄く重要です。 そもそも、全体の連携のシステムがヴァーチャルな情報へと翻訳されて、それがPCの内部へ取り込まれている場合には、たとえ其のシステムの構成要素群が当該PCの内部へ実際に搭載されていませんでしても、それ等が周辺機器としてPCに繋がっていさえすれば、『システムの(経絡的な)纏まり』が中枢によって認識され得るのです。 そして、其の延長線上にインターネットの仕組みが横たわっています。つまり、元々には各PCの内部へ搭載されていた部品類(モデム等の諸デバイス)のアウトソーシング的な外部化が【共有】を促してくれた御蔭で、グループのネットワーク化さえもが可能になったのです。

bragelonne
質問者

お礼

 やぎゅうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 何処でそういう類似情報を御知りになったのかは分かりませんが  ☆ いちばん集中しているのは 次の質問でのやり取りにおいてです。やぎゅうさんのお仲間でしょうか。初めのほうから 徐々に始まって 延々とつづいています。ほんのふたつを抜き書きしておきます。  【Q:日本人は 論理思考をそなえている。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6604063.html  ■(回答No.84) 「全世界のネットワークの一元的な中枢が存在していない」  ■(回答No.38) ~~~~~  でも有り難い事に、間を中継してくれているネットワークが、  ユーザー PC 側への自己主張を行なわず、  『デジタル的な「無心(!)」』で"Service"を提供し得る様に、  ルータの内側(LAN)とそれの外側(WAN)との「通信」が、  別の『見えない「上位階層」の規格(Protocol)』で管理されている御蔭で、  恰も神の超越論的な視座から提供された時間軸に沿っているかの如くに、  全体の秩序が維持されています。  ~~~~~~~~~~~~  やぎゅうさんは  ★ 『システムの(経絡的な)纏まり』  ☆ に触れて 質問者からの《全体としてのシステム》についても認めていただいたと受け取りました。  ★ 元々には各PCの内部へ搭載されていた部品類(モデム等の諸デバイス)のアウトソーシング的な外部化が【共有】を促してくれた御蔭で、グループのネットワーク化さえもが可能になったのです。  ☆ この事例については もし人と人との関係に当てはめようと思えば 基本的に言って  ○ PC の一台まるごとを ひとりの人間に当てはめるとよい。  ☆ と思います。内部の部品類には必ずしも触れないで 人ひとりの存在が互いに一対一で居合わせ向かい合うというかたちだと思います。  項目ごとに分かれたひとまとまりの知識について 互いにアウトソーシングし合ってもよいでしょうが 意志疎通一般としては 人間対人間であり 人格と人格との向かい合いです。学識や積んだ経験や地位や身分の問題である部分も 表面では ありますが それをも超えて 境地と境地のいわばぶつかり合いになろうかと考えます。  その上で いろんな情報や命題の共有も出来ましょうし 共有できない事項については出来ないという了解を共有できます。そしてさらにその上で コミュニケーションのネットワーク化も それとして(あるいは とうぜんのごとく 自由な市民としての自由な連帯において) 出来てゆくものと考えます。  わたくしの質問は そのような大きく広くコミュニケーションを扱う際に わづかに《神》問題が入って来ることが まま ある。これを哲学としては 事前にと言いますか 縁の下の力持ちとしてのごとく 交通整理しておくのが役目だと考えますから この種の設問におよんでいる。こんな感じです。

回答No.3

質問の内容への直接的な回答とは違いますが、#1への御返事の欄で説明の追加の御依頼を賜りましたので、その内容に関する言及を此処で致します。 インターネットには管理者が存在していませんでしても、全世界のコンピューターが善悪の判断をせずに【無心】でプロトコル通りの情報処理を継続してくれますので、ネットワークが維持されてきた、とよく言われていますが、通信のプロトコルが階層化されていて別の階層が干渉しない事情が此処では重要なのです。 従いまして、コンピューターの内部の部品群の統括の場合にもそれと同じで、「諸要素の機能への認識」と「全体の連携を促せるシステムへの認識」との論理的な峻別の基準が、(コンピューターの創造の時に)それ等の電子計算機器類へ提供されているのです。

bragelonne
質問者

お礼

 やぎゅうさん ご説明をありがとうございます。  お聞きしてみると うかがったことのある内容であるようにも思います。  問題は あくまで経験世界とそれを超えたところのナゾの領域との関係にあります。  経験世界におけるネットワークやコンピュータにかんして言えば   ★ 通信のプロトコルが階層化されていて別の階層が干渉しない事情が此処では重要なのです。  ★ ~~~~~~  コンピューターの内部の部品群の統括の場合にもそれと同じで、「諸要素の機能への認識」と「全体の連携を促せるシステムへの認識」との論理的な峻別の基準が、(コンピューターの創造の時に)それ等の電子計算機器類へ提供されているのです。  ~~~~~~~~  ☆ ということで 分離――相互不干渉とでも言うのでしょうか――が特徴であるとのこと。  なお素人の見方でお伺いしてしまいますが  ○ 《階層化》によって階層それぞれが互いに干渉しないというかたちで 全体として・その意味でシステムとして まとまってはたらいている。とは言えないのですか?  ○ 諸要素のはたらきが 全体としてのシステムの動きとは区別されているというかたちで やはりそのシステムがまとまって機能していると見てはいけないのですか?  言いかえると 分離を取り立てて特徴と見立てる見方もあれば それでもやはり全体としては一つのまとまりとして機能しているという見方もありうる。こう考えてはいけませんか?  いけなくないと仮りに見なして 話をすすめますが そうだとすれば ましてや 神と経験世界とのかかわりにおいて たとえば《創造した》というとき その創造のあり方は いかようにもありうる。こう考えられるという見通しのもとに 反論しています。  ★★(回答No.1) ~~~~~  神による創造が『システム』なのか、それとも諸要素と関係性(ネットワーク的なシステム)とを別々に創造の働きが構成したのかによりまして、回答が変わってくるのかも知れませんが・・・  ~~~~~~~~~~~  ☆ この区分について わたしはよくは飲み込めていませんが どんな区分であっても 神と経験世界とのかかわりをめぐっては いかようにもありうるということかと思います。そうでない神のあり方のほうが 考えられません。  つまりは 人間が 神を自分の考えにもとづき規定しているというへんなコトになってしまいます。これは あり得ません。もしそうなら その神は 神ではありませんから。  お汲み取りくだされば さいわいです。

回答No.1

例えば、コンピュータのプログラミングに於きましても、【ネットワーク内の各要素(デバイス)の機能】と【ネットワーク全体のシステム】とが完全に分離されています。 従いまして、神による創造が『システム』なのか、それとも諸要素と関係性(ネットワーク的なシステム)とを別々に創造の働きが構成したのかによりまして、回答が変わってくるのかも知れませんが、其の考えは私の謬見に留まっているのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 やぎゅうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★(要約) 『システム』とその諸要素  ☆ とは 一体〔の状態に成る〕ということではないのですか? 諸要素は別々につくられましょうが システムつまり要するにひとつのまとまりをもったモノと成れば 一体なのではありませんか?  例示されたコンピュータのことも分かりかねているのですが  ★ 例えば、コンピュータのプログラミングに於きましても、【ネットワーク内の各要素(デバイス)の機能】と【ネットワーク全体のシステム】とが完全に分離されています。  ☆ ということ すなわち《プログラミングにおけるシステムとその諸要素との分離》とコンピュータ全体としての成り立ち(また機能など)とは 別の話になりませんか? コンピュータをその一台として捉えるなら システムとしてまとまっているのではありませんか?  よく知らないのですが PC (特にその一台としてのはたらき)とネットワークとは 同じひとつのもっと大きな全体に属しているという見方なのですか?  いづれにしましても プログラマーやメーカーとその出来上がったプログラムや器械との関係は あくまで経験世界に属しています。  そして神は この経験世界を超えたところに想定されるものと捉えています。その神とわれらの経験世界との関係について問うています。人格化して名づけていること そしてそれよりも大きく創造主だと規定すること これは あくまで言葉のあやなのではないか? こういう問いです。

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