補足欄拝見いたしました。
> 「合意ではなく相違」の過程には、片や「結局何でもあり」のようなあまりポジティブではない相対化、片や「相違は矛盾」であると決めつけ結局の一元的な合意への希求、と危険性も孕んでいるかと考えます。
そうですね。
たとえば、こういう問題に関しては、ハバーマスの公共性の概念の方が、実効性は高そうに思えます。
ハバーマスは、あらっぽく言ってしまえば、近代というものは、生の全体性をばらばらに分解することによって、隘路にはまりこんでしまった、「認識の言説」「倫理の言説」「政治の言説」が分離されている現状に「橋をかける」、そうして経験の統合性に道を開いていこうというものです。
けれどもリオタールはハバーマスに対して、このように反論していきます。
「ぼくの問いは、一体どのような統合性をハーバーマスは夢見ているのか、ということだ。近代の計画がめざした目標とは、その内部にあっては日常生活および思考のすべての要素がちょうどひとつの有機的全体の中でのように居場所を見出すことになるような、ある社会文化的統一体の構成なのだろうか? あるいは、認識の、倫理の、政治の、といったそれぞれに異質な言語ゲームをつらぬいて切り開いてゆかねばならない通路は、それらの効果的な綜合の実現は、どのようにすれば可能になるというのだろうか?」(「「ポストモダンとは何か?」という問いに対する答え」『こどもたちに語るポストモダン』ちくま学芸文庫)
そうして、この第一の仮説(ハバーマスのいう「公共性」はこれに属するものとリオタールは解釈しているのですが)は、結局のところ「ヘーゲル的なもの」、「弁証法的に綜合をめざす「経験」という観念を問いなおしはしない」ものである。つまり、近代という大きな物語、すべてを説明しつくそうとする類の全体的世界記述そのものである、というわけです。
そうして第二の仮説を受けて、リオタールはウィトゲンシュタインの言った「言語ゲーム」を導入していくのです。
わたしたちはさまざまなタイプの言語ゲームを行っている。
「AはBである」という事実言明というタイプの言語ゲームでは、話し手は「知識のある人物」という立場、聞き手は「同意/不同意する人物」という立場に置く。
あるいは「AはBですか?」という質問の言語ゲームでは、話し手は聞き手を「知っている側」に置く。知識の属性を相手に与えることになる。
ここで注目すべきは、「権力」ということです。
話し手は権力を主張するか、相手に委譲するかしており、聞き手はその立場を受け入れるか回避するかを選択している。そうして、そこからつぎの会話が引き出され、そこでまた「権力」はありようを変えていく。
ここからリオタールは「結節点」ということを言います。
わたしたちはコミュニケーションに介入することによって、メッセージがそこに送られ、そこからまた発していく、という機能を果たすことになります。
それは、どれほど些細なレベルであっても、権力関係を変更することができる、ということです。たとえば、上からの命令を送らせることによって、あるいは、別の「数字」を発することによって。
その結果どういうことになるか、というのは、誰にもいうことはできません。言ってしまうと、またそれも「小さな物語をいう大きな物語」へと回収されてしまうから。
> 合意なき均衡とはどのような体系なのでしょうか?
という問い自体が、非ポストモダニズム的問いになってくるのはおわかりでしょうか。答えを信じることではなく、それについて考えること、というわけ。
この回答についても、質問者さんがポストモダニストかどうかはさだかではありませんが、ポストモダニスト的対応を取ってくださるようお願いします(笑)。
お礼
小さな物語とは?と「答え」を求めている時点で...。よくわかりました。 「問い」が「権力」の在り方を流動させること、そしてその連続性。なるほど。 新たな「問い」へのあしがかりとなりそうです。 ありがとうございます。