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老子のとく「道」

道とはことわりであり、道の実践とは具体的には、美食にするために腹を空かせたり、ダメなひとを反面教師にして学んだりすることだと思います。宇宙の視点で客観的に分別をもって判断すればいいだけですが何故迷うのでしょう?

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noname#142071
noname#142071
回答No.3

道教、、、きましたね。 なぜ迷うのでしょうか? 迷いは、執着から生まれます。自我への執着、他人への執着、物事への関心、愛憎など。反面教師にしても、相手の行いを見て、自分の価値観で評価をするのであれば、自分への執着から離れることができなくなります。そして、自分に対する客観性を失うことになります。ですから、観察対象となる人の行いを観るときには、その周りの人との関係が重要になりますので、注意深く、むしろ周りの人の心情を、その行いから察するしかありません。 ここで、なぜ、行いから察しなければいけないのか、との疑問が生じますが、老子は確か、”村での生活には言葉は必要ない。行いを観れば意は通じる。”と考えていたはずです。おそらく、話し好きで雄弁な人の話しには、嘘が多かったからだろうと思います。言葉の質を含む、物事の質について、老子は”上善水の如し”と表現していますね。意味は、質の高い洗練されたものは、刺激が少なく、根源的であるため、難解ではあるものの、真実として共感できる、の意味だと思います。 逆の言い方をすれば、面白くて刺激的な言葉は、まやかしである、と言うことです。 それから、空腹については、強欲を取り去れば、人はおのずと空腹でいられるのです。これがいわゆる、我ただ足るを知る、の意味です。

noname#137163
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 最後の空腹以外は面白味のない当たり前の話ですね。よって、上善ベストアンサーにします。

その他の回答 (2)

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

宇宙の視点で客観的に分別をもって判断すればいいだけですが何故迷うのでしょう? ○そりゃ、老子の説く「道」 じゃないものを考え実践しているからでしょうね。 老子の説く「道」に迷いなどないですからね。例えば、太陽は地球ができる以前から光り続けていますし、地球はできてからくるくる回り続けていますし、地球上では太陽は東から昇って西に沈みますね。これ何にも変わりませんね。太陽が毎日どちらから昇ろうか考えていないからですね。これ比喩ですよ。あなたに当てはめれば、「美食にするために腹を空かせたり、ダメなひとを反面教師にして学んだりする」ことなど考えもしないという意味です。老子の説く「道」とは無為自然の生きかたということですね。無為自然とは太陽のような生きかたですね。太陽の光で全ての生き物が成長しているわけですが、太陽は太陽のために何も要求も望みもしませんね。お百姓さんが作物を作って生きる糧としてもお百姓さんに電力会社のようにエネルギー料金を請求しないでしょ。それは考えもしないからなのですね。だから迷いなど存在しないのです。さてあなたは太陽になれますか、太陽への道、それが老子の説く「道」なんですよ。 食欲や知識欲があるうちは老子の説く「道」 じゃないということです。

noname#137163
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 反面教師の例は、老子の書に書かれており、私情から離れプラスの活用をとくものだと思います。 エッセンスとしては、それだけで十分で、いかに実現するかが難しいだけでしょう。 回答者さんは難しく考えすぎではないでしょうか。

noname#181697
noname#181697
回答No.1

その「客観的に分別をもって判断する事」を、 「迷い」と言うんですよ。 道(タオ)の実践とは、 畢竟、無為、無心、無分別で居る事です。 とりあえず「何もしない事」をしてみて下さい。 それが道(タオ)に至る為の工夫というものです。

noname#137163
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

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