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柿本人麻呂氏の作品と七夕
天の川楫の音聞こゆ彦星と織女と今夜逢ふらしも 此の短歌の作者は、 自分の身近な環境への連想を託して、此の短歌を詠んだのでしょうか?
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残念ながら柿本人麻呂氏とは面識がありませんので、正確な回答は出来ませんが、憶測をたくましゅういたしますと、 1。 『万葉集』巻十の1996-2093までは七夕(しちせき)の歌だそうで、宮廷で行われたこの夕べの席で歌われたものが入れられている、と言う話です。従って中国から輸入された説話に基づく行事も日本の地に根を下ろし、一つの文化的行事として定着していたものと思われます。 天漢 梶音聞 孫星 与織女 今夕相霜 と『万葉集』 巻の十、2029のこの歌は書いてあるのだそうですが、公式行事の所産では、身近な環境への連想が託される余地は限られていたのではないかと思います。 2。それで居て、柿本人麻呂のような歌人ですと、今で言う宮内庁差し回しの牛車で参内する、となれば、今のショファーに当たる「牛引き」(=牽牛)が付いたことでしょう。 また『古事記』の上巻には、天照大御神、、座忌服屋而、令織神御衣之時(あまてらすおおみかみ、いみはたやにまして、かむみそおらしめたまひしとき)(スサノオは)その服屋(はたや)の棟に穴をあけて皮を剥いだ馬を投げ込み、天服織女見驚而(あめのはたおりめみおどろきて)云々、とあります。 したがって「織女」(はたおり)も、日常生活だけでなく、8世紀の日本での宗教にも深く関連して、手近いものであったと思われます。 はたおり>はとり>服部、と今でも多い苗字は、この職業がかつては広く存在したことを示唆しています。 こう見ますと七夕の歌は、公式の場で儀式の一部として作られた可能性がある反面、「牛引き」や「機織り」は、今に比べると遥かに身近な物であったと考えられます。 七夕にちなんで百人一首でおなじみの歌を一首。 鵲の 渡せる橋におく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける 中納言家持
補足
有り難う御座います。 カササギの文字変換は、IMEパッドでの手書きによる入力でしょうね。