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人麻呂「あしひきの」はどこが優れるのか?

「高校で習ったあれは,いったいなんだったんだ!」シリーズ(笑) 英語カテゴリーでは「クジラ構文」を質問しましたが,こんどは国語の古文で。 教科書に「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」(柿本人麻呂)がありました。ぼくは数十年後のいまにいたるまで,日本文学史上奈落の駄作だと思っています。けっきょく,「独り寝はさびしいぜ」というだけのためにながながと無意味な前置きを連ね,知能が低いのではないかとさえ疑います。むろん,古文の教室では,「あしひきの」が「山」にかかるとか,前置きは「ながながし」を引き出しているとか,発音すれば語呂がいいということは習ったと思います。それだけでしょう? 千年の時をへて学校教育で語り継ぐべき作品ですか。 むしろ,同趣意のものでは,草野比佐男の「村の女は眠れない」が,出稼ぎという社会問題に鋭くつっこんだ姿勢が高く評価できますし,眠れない理由を「有意味にながながと」のべたてて技巧的にもはるかに優れています。なぜ国語の教科書に採用されないのですか。 加藤登紀子の「ひとり寝の子守唄」も,夫が学生運動で留置場という背景を知れば興ざめにはなりますが(笑),曲そのものは「あしひきの」よりはるかに名作です。なぜ音楽の教科書に採用されないのですか。

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  • aghpw808
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回答No.4

『女が隣にいない「ひとり寝」をしている時の夜は本当に時間がたつのが遅くて嫌だぜ!なんとかならないかなあ・・。』と人麻呂はストレートに表現するのは自分の美学に反すると思ったのです。  いちおう和歌だから、何かこう文学的に、教養があると思われる上手い表現はないかときっと考えたに違いありません。  その結果が「あしびきのやまどりの尾のしだり尾の・・」という表現なのだと思います。  たぶん、山鳥の尾が最初に思い浮かんだのでしょう。「あれは確かに長いから歌の言葉で使えるな。」と、でもそれでは和歌の言葉が足らない。同じ言葉だけど重ねちゃえときたのが、「やまどりの尾」。あと冒頭の五文字・・・。さあどうしようかと思ったら、山にかかる枕詞はなんだっけ、そうだ、「あしびきの」だ。  こんな感じできっと人麻呂はこの歌を作ったのだろうと、1300年後の凡人は推測する次第です。  女がいたら、きっとこの歌は夜って何て短いんだろう、という趣意の 和歌になっていたはずです。

noname#111034
質問者

お礼

回答ありがとうございます。いろいろなご意見をちょうだいしたかったので,一晩水に浸けたままにしたため,お礼が遅くなりました。 これも芯打ちですね。寝床で悶々と,次第にさびしさそっちのけで作歌するおっさんを想像すると,なんともおかしいです(人麻呂が当時何歳だったのか知りません)。たしかに美学的こだわりですね。ぼくの理系的美学の限界は,そういう文系的美学がわからなかったことかもしれません。

その他の回答 (4)

  • momordica
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回答No.5

古代の短歌と近代以降の文学とを同列に並べて評価しようという発想自体が驚きです。 そういう考え方する人もいるんですね。 私は、結構好きですよ、人麻呂の歌。 このばかばかしいほどの無意味な長さ、それ自体が、無為な夜の長さを端的に感じさせてくれますし、 「の」の繰り返しのリズムもよく、三十一文字の中の言葉遊びとしては秀逸だと思います。 別に質問者様にもそう思えと言っているわけではありません。 所詮好みの問題以上のものではない気がします。

noname#111034
質問者

お礼

回答ありがとうございます。いろいろなご意見をちょうだいしたかったので,一晩水に浸けたままにしたため,お礼が遅くなりました。 ぼくにとっては,古典も現代作品も関係ないです。専門では万年単位のはなしをしますから,ホモ・サピエンス・サピエンスが出現してからはみな同じです。だから,ぼくは清少納言もそこらのアラフォー才女くらいの感覚で読んでおり,生身の人間として大好きです。人の感動や共感をよびおこすものには,古いも新しいもないと思っています。 >このばかばかしいほどの無意味な長さ、それ自体が、無為な夜の長さを端的に感じさせてくれますし なるほど,ですね。先の回答にも書きましたが,教室では名作や受験勉強として習うわけですから,「ばかばかしいほどの無意味な長さ」を楽しむゆとりがなかったと認めざるをえないです。

noname#104693
noname#104693
回答No.3

文豪、夏目漱石は著書「草枕」でこう書いています。 ・「只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。」 ・「芭蕉という男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句した。」 >けっきょく,「独り寝はさびしいぜ」というだけのためにながながと無意味な前置きを連ね,知能が低いのではないかとさえ疑います 松尾芭蕉の「蚤虱馬の尿なす枕もと」も意味としては「枕元で馬がオシッコして虱がピョンピョンしている。」というだけの事なんですが、物事を達観し、ただありのままに見ることにより、このようなことまで『雅』とする力があるように感じます。 人麻呂も「独り寝のさびしさ」を『雅と見た』ことにこそ、その真髄があるように感じられます。

noname#111034
質問者

お礼

回答ありがとうございます。いろいろなご意見をちょうだいしたかったので,一晩水に浸けたままにしたため,お礼が遅くなりました。 先の方のお礼にも書きましたが,ぼくは独り寝をしても「雅」の感性は持ち合わせていませんでした 笑。この質問の議論は,どうみてもぼくの側には分がないことは最初から明白ですから,「日本の心がおまえにゃわからんのか」を持ち出されたらぼくの負けです。 ぼくの答えは,「わからん。非国民と呼ぶなら呼べ。」

  • debukuro
  • ベストアンサー率19% (3634/18947)
回答No.2

単なる言葉遊びです いわゆる駄洒落 詩歌のほとんどはそうです 駄作と見るかおもしろいと見るかその人の感性の問題です 言葉の掛け合いだけの漫才をおもしろいと受け取るかどたばた漫才をおもしろいと受け取るかの違いでしょう

noname#111034
質問者

お礼

回答ありがとうございます。いろいろなご意見をちょうだいしたかったので,一晩水に浸けたままにしたため,お礼が遅くなりました。 芯で打たれましたね。「万葉のおやぢギャグ」とみなせば,まあ,頭にくることもないのですが。 ただ,ぼくらの古文の先生は,謹厳実直ないかにも古文の先生で,「おれにゃ面白くねえぞ」といえる教室ではありませんでした。もし彼がこんなふうにいってくれたら,何十年も悩まなかったのに: 「ぶっちゃけ,しょーもないダジャレだとおれは思うよ。だけどさ,たった31文字でいろんな古文の用語を教えられるから,歴代の国語教師は重宝してきたんだな。だから教科書からも削れないってわけ。わかったか? じゃいくぞ。あしひきの・・・」

  • dogsiva
  • ベストアンサー率32% (92/279)
回答No.1

こんにちは。 おもしろそうなので意見だけでも書き込ませて下さい。 「あしひきの」に限らず古典全体がそうだと思うのですが、それそのものの趣もさることながら「原典」として覚えておくべき教養、という側面もあるのではないかと思います。 また、「コロンブスの卵」という面もあるかもしれません。いまのPCの処理能力にははるか遠く及ばずとも、昔のコンピュータに「名作」と言われたものがあり、それはやはり今でも「名作」とみなされるのと同じように。 ご参考までに。

noname#111034
質問者

お礼

回答ありがとうございます。いろいろなご意見をちょうだいしたかったので,一晩水に浸けたままにしたため,お礼が遅くなりました。 たしかに教養としては,これを習って(たとえ印象は最悪でも)50歳すぎまで覚えているということは,日本の教育システムに感謝すべきことだと思います。ちなみに,ぼくは教養主義の人間で,古典も好きです。専門は理系なんですけど。 「コロンブスの卵・・・」の比喩がいまひとつのみこめませんが,こういうネタではじめてものを作ろうとした創意工夫はあるのかもしれませんね。じつはぼくは離婚したのですが,そのときふと浮かんだのがこの歌であるのも事実です。もっとも,「さびしい」どころか「これで体をのばして寝られる,やれやれ」と思い,人麻呂もその意味で哀れだよなあと「感動」した次第であります 爆。

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