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差別用語「ヨツ」のより古い由来について
デリケートなテーマなので慎重に書くよう気をつけます。 いくつかの質問サイトでも、この言葉の由来を聞く質問がありました。 答えは大半が「牛馬を屠畜し生業としていた人々を、ある時代から特に差別の対象として区別し、ヨツと呼ぶようになった」というものでした。 私も学生時代からそのように理解していましたが、「橋のない川」という本を読んでいて、もっと古く深い歴史背景をもっているのかなと思うようになりました。すなわち、その屠畜し生業としていた人々がなぜそれを生業とするようになったのか、ということです。 この小説の作者の創作かもしれませんが、ある登場人物に、ヨツという部落民にさせられたのは、大昔(いつなのか分かりませんが)、時の権力者に反逆した罪がもとだったのではないかと語らせています。そうした、権力を握った側からすれば「反逆者」の一族は、罪人のしるしとして指を切られ、殺されないまでも、人非人として一般社会から切り離されることになった。穢れているとされた職業を押し付けられ、住まいも限定されて子々孫々にいたるまで、一般社会と交わることがないように仕立て上げられた―というのです。 そうすると、ヨツのもともとの意味は、指が一本欠けて4本しかないことを示していたのではないかとも考えられます。さらに、屠畜を生業として押し付けられたことで、二重の意味を持つようになったのではないかと… こうした話の真の起こりは何だったかと突き止めようとしても、それこそ大昔に端を発しているかもしれず不可能にも思えます。また、突き止めることに意味があるのかと問われると答えられませんが、何か文献なりに上記の推測を裏付けるような歴史が残っているのをご存知の方がいらしたら、教えてください。 よろしくお願いします。
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私が聞いた話だと仏教思想の中の「六道輪廻」が関わっているらしいです。 「地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天上」というものが存在し、私たちは現在「人間界」にいるわけですが、この世で修業をして(良い行いをすると言う意味でいいと思います)心を磨き上げると、死後は天上界へと上がれると。 逆に悪い行いをすれば、死後は「畜生界」に落ち、人に使役されることになる。 そういう考え方から「屠畜」に関わる人々は忌み嫌われた、というようなことでした。 「ヨツ」は「四足」のよつだと思いますが、人間が家畜を屠り、それを食すると言うことは、仏教上の観点から言うならば「下位界との混交」になります。 「交わる」と言う意味で言えば、それはSEXと同義であり「動物との性交」も意味するのではないかと。 「楢山節考」という映画でも、いわゆる「獣姦」の描写があり、当時あまり特別なものではなかったのではないか、という節があります。 もちろん、そういった行為が世間的に認められるわけも無かったわけですが。 仏教は「世俗」というものを忌み嫌う部分があります(宗派・時代でも大きく違いますが)。 世俗のものを認めてしまうということは、自分たちの信じる「よりどころ」が崩壊してしまうわけです。 実際にあるものを、無い!と言い張るとき…そして、そういった事実を「パッケージング化」して、世論から隔絶させようとするときに「差別」は生まれるのです。 「雌伏」と言いますが、元来人間は男と女しかいないわけで、どちらかを虐げ、屈服させることこそが、究極の差別なのでしょう。 「雌伏雄飛」の意味は「今はザンネンだけど、必ず見てろよ!」の意味ではありますが、言葉から連想される情景には、何とも言いがたい差別感を感じます。 「四足」「伏せる」「獣姦」…連想されるものは「圧倒的な弱者」です。 嫌な話ではありますが、昔の差別感はダイレクトなものだったんですね。 いわゆる「推測」ですが、こういうことも無いのかな?ということで。
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- nishikasai
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歴史に詳しくありませんが、高校時代の日本史の授業で 奈良時代の奴婢が 江戸時代の非人になって 現在の部落民になったと聞いた記憶があります。
お礼
奴婢についてはまったく知識がありませんでした。ありがとうございました。
お礼
お礼がおそくなりすみません。「楢山節考」は最近また映画化されましたよね?みてみたいと思っています。 仏教が特定の人たちを締め出す根拠に使われた、という推測も、「橋のない川」に出てきました。 これも一つの要因なんでしょうね。 たくさんありがとうございました。