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「部落差別」教育って必要?
塾で教えている中学生が、 「部落差別についての勉強があった。僕はそんな事知らんかったし、知りたくもなかった。知らなければ差別する事もないのに、知ってしまったら、ついそんな目で見てしまう。僕はそんな差別とかしたくないのに。知らないほうが良かった」 と言いました。 私もそう思います。私は別の県から引っ越してきて、今住んでいる県の部落地域は知りません。あることすら想像しませんでした。 知らない人が増えれば、自然となくなったりはしないのでしょうか?私のように、外部から来た人間は部落地域を知らないし、この中学生のように10何年間この県で生きてきて、それでも知らないのです。やはり、「部落差別」教育は必要なのでしょうか? 見てそれと分かるハンデを持った人を差別してはいけない、と教育するのは分かります。しかし、部落は、ここから部落地域ですという看板も何もなく、知っている人だけが分かるものですよね。 未だに差別意識を持っている人はいるでしょう。しかし、一般的な「差別はいけない」という意識を持った今の子供たちは、その差別意識を持った人に「部落差別」を言われても、はねのける事ができるのではないでしょうか。 私は、前記の中学生の発言に、どう答えれば良かったのでしょうか?また、「部落差別」教育は、必要なのでしょうか?
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- ryouma1-1
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差別教育をするべきかどうか。結論からいうとするべきだと思います。その中学生の言うこともわかります。ただ私は部落差別というのは二次的な問題で、本質は人の心の奥にある差別心ではないでしょうか。差別を定義する事は実は結構難かしいんではないでしょうか。差別、区別、優劣色々あります。まあ差別心を心理学とすると部落差別は社会学といった感じで勉強すれば、本人達にはいい勉強になるんではないでしょうか。
- taroimo_hasami
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#13です。 差別戒名もエタ系図作成事件も差別意識に基づいた事件ですし、私の聞いた話では、部落地域を指して『あの地域の人達は…』といった差別をする人達も現実にいます。 また、最近では差別発言の一人歩きが始まっていて、差別意識を持たない人達が親の世代からの差別発言をそのまま受け継いで差別発言をする、というケースもあるようですね。 部落差別の本質がケガレの思想である以上、死んだ動物の皮を剥ぐ行為や血についてブッキ観を持たない現代人には教育が有効です。事実を知れば、そんな馬鹿馬鹿しい事で差別が行われていたのか、と思うだけでしょう。が、これが重要なのです。 差別意識が根強く残っているからこそ、エタ系図なるとんでもないものが売買されるわけですし、就職差別も実在しているわけです。裏では何が行われているのか分かったものではありません。
- Asihana
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#22です。 「事件」といわれるもの自体が、ほんとうに「差別に基づいた事件」なのか?という疑問があります。 「活動家」というのは何を活動しているのか? 「みなさんがたの先祖はえたの身分で苦労された偉い人たちです、その子孫として胸を張って生きていきましょう」 「あの人たちはかわいそうな人の子孫だから尊敬してあげましょう」ってな話をしてまわってるか、同和予算の分け前で奔走しているか。 「同和地域」にアパートがあって、そこに入居して住民票を作ったら「同和住民」になるわけでもない。本籍地なんかは住んでなくても実在する地名なら全国どこにでも置ける。 地域的な偏見は、「俺は会津の出身だから、薩長の連中湯は嫌いだ」「私は早稲田の出身だから1万円札が福沢諭吉なのが納得できん」とかいうレベルの話の延長でしょう。 「佐賀県では○○…」はOKで、「父方の先祖だけをたどってえた身分」が差別として非難というアンバランス。 何を「教育」するというのか、さっぱりわかりません。 「同和住民」「同和地域」の定義をはっきりしないで、差別があるから予算(教育委員会にも「同和予算」が配当されるから、それを消化しないといけない)をつかってどうこうしようと言っているだけですね。本末転倒です。
- gibson45
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No18です。 No24の方の言うとうり、差別は残っています。これは間違いないです。私自身まったくそういう気持ちを持っていないか?と言われるとわかりません。しかし、質問は「同和教育は必要か?」の点であり、「残っている=必要」ではないはずです。No13の回答で >ネット上には、部落出身者を差別する愚劣・卑劣な情報や掲示板、投稿などが溢れています。 とありますが、質問にもあるように実際は今の子供が部落差別の存在を知る機会で一番多いものは「道徳」の時間だと思います。(統計とったわけではありませんが、私の感覚的には明らかに多いと思います。)「知らない=差別しない」とは言えると思いますし、ネットで見た卑劣な言葉をまるまる信じるような人間に今の「道徳」の時間をすると逆効果な気もします。 小学時代「道徳」の時間には必ず休む子がいました。みんな何も知らなかったのに、「このクラスには、江戸時代から差別されてきた人たちがいます。ほんとひどいよね。かわいそうなんでやめましょう。」こんな授業されて、地区の子供はどんな気持ちになるか…今考えるとすごく残酷です。 もちろん教育でアピールすることは「差別の不当性」ということでしょう。しかし、いくら不当と言われようがそれによって人間の心の奥底に「優越感、劣等感」は少なからずできると思います。これは人間である以上仕方ありません。(身長、テストの点、顔、運動神経、家柄…どんなものでもそれはできてしまうのです) また、「生まれによるいわれのない差別」のみを扱っていると「根拠のある差別」すなわち「バカ、ブサイク、チビ、ビンボー」などはどうなるのですか?「差別」は「部落」だけではないのです。きちんとした人間性を持つように教育することが一番大切なことではないでしょうか? ※「根拠のある差別」という言葉はよくないですが、わかりやすくするためご了承ください。
- taroimo_hasami
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#13です。 昨日、見た時には、実際に最近起こった差別についての書き込みがあったはずなのですが、削除されてしまってますね。質問に対する回答とは直接的には関係なくても、重要なものだったと思いますので残念です。 昨日ここに書き込まれていたのは、確か、大阪かどこかで部落出身者の自宅に脅迫文が投げ込まれた、というものだったはず。差別問題の活動家以外の出身者にも配布され恐怖が広がったと記事にはありましたね。 それ以外にも、確か九十年代に長野県で差別戒名をつける事件が発生していますし、五、六年前には三重県でも事件があったはずです。 が、こんなのは氷山の一角で、調べればこの種の差別事件が日常茶飯事に起きていることや、教育により正しい知識を広めなければ予防することすら難しい状況である事は一目瞭然です。二、三年前だったと思いますが、確か、大阪の業者がエタ系図なるものを作って売りさばいていた事実が発覚し事件になったはずです。差別は西日本、東日本など地域間格差が大きいといわれていますが、まだまだなくならないし、実際に今もあらゆる形で残っているわけです。
- tydas
- ベストアンサー率0% (0/7)
日本の部落差別問題なんて世界から見れば微々たるものだと思います。アメリカのユダヤ人問題なんてチョット批判的なことを言えば、職さえも失います。米国民は正当なユダヤ批判に対しても本心とは違う反応を示し、ユダヤ擁護に保身のため躍起になっています。また韓国や中国でも日本よりもっと酷い差別があると聞きます。 差別教育は私は必要無いと思います。ひとりひとりが自分の中でこの問題に行き逢った時に考えればいいと思います。そんなことより行政面や政治面での平等を考える時ではないでしょうか?私の近くにも部落があります。子供の頃そこは家の玄関にはドアや引き戸がなくむしろが吊ってあるだけの家ばかりでした。そのころは確かに日本全体が貧しかったが、部落は数段ひどかったです。だから保護や援助が必要だったとは思います。しかしいまや逆差別なっている状態で、新たな差別が生まれている土壌となってしまっています。 教育や生活で無関心でいることが長年続けば忘れられてなくなってしまうのではないでしょうか?
- Asihana
- ベストアンサー率9% (8/87)
そもそも、差別のために身分をつくった、というのは、歴史を正しくみていない。 織田信長以前の戦国部将は、農民に武器を持たせて戦争をしていた。したがって、武田・上杉という宿命のライバルも、雪がなくて、さらに農作業がない時期にしか戦争ができないので、何回も戦いながら、お互い決め手がなかった。 織田信長以後、「検地・刀狩」による分業制によって、農民はひたすら年貢を納め、兵隊は戦争に専念するようになった。 生産効率を上げるために分業制が生まれてきただけのこと。 「えた」身分は、動物の解体という特殊技能を持った人達の集団であり、食肉文化が宗教的に「日陰」であったがために、「卑しい」と見られる。 明治以後、堂々と牛肉を食べるようになってそんなことを問題にするほうがおかしい。 葬式で「清めの塩」をもらいます。 そもそも、人の死を「ケガレ」と思っているから、「清め」る必要がある。 その延長で死体を扱う人たちが「ケガレた人たち」という扱い。 (「さぐり箸」や「わたし箸」などが食事のタブーとされるのも、火葬場の「骨拾い」の連想から。) 「差別教育」が必要だという人たちが、葬式で「清めの塩」についてクレームをつけた話を聞いたことがない。同和行政を進めた元市長の葬式でも「塩」を配っていた。 こんなことは、誰の利害にも関わらないから誰も問題にしない。 こういう状態をみれば、「意識の問題」だという理由がうそだとわかります。
- Asihana
- ベストアンサー率9% (8/87)
いまの子どもの5代前の先祖、(江戸時代まで遡ろうと思えば) 2^5で、32人の先祖がいることになる。 そこまでいかなくても、3代前の8人の先祖、全員知っていますか?(私は2人しか知らない) 知らない人達の身分がどうだったか、を問題にしてどうする? 以前住んでいた関西の某都市の「同和」市営住宅の入居条件。「父親が同和住民であること」 32人の先祖のうち、「父方」だけを遡って、その身分を問題にしている。 「差別はいけない」といいながら、「男女差別」が基本になっている。 結局、「同和住民が住んでいるから同和地域」なのか、「同和地域に住んでいるから同和住民」なのか、定義がない。 「同和予算」というのがあって、「同和地域」がなくなって「同和住民」がいなくなると、「予算」の行き先がなくなって困る人達(関係業界、同和団体を筆頭に)がいるから、永久に「同和地域」が存在しなくてはいけない。 それ以上の理由はないんじゃないでしょうか。
知らずに過ごす事と、知りながら乗り越えることでは、「天と地」ほどの違いがあるのではないでしょうか。 世間の目と、自分の目のどちらを信じるか、難しい時期だと思います、この頃の少年は、自分の目を過信する傾向の強いことが多いですから、少年を良く見て言葉を選ぶ必要があると思います、大変ですがご健闘をお祈りします。 以上、中学生の子を持つ親の偏見回答でした。
- gibson45
- ベストアンサー率12% (10/78)
追加です。あえて教育面からのみ言います。 「同和教育」はまず、エタ・ヒニンの話から始まります。しかし、彼らは「奴隷」ではなく、財産も所有していました。この身分差別は現代ではもちろんあってはなりません。ただ、世界史的に見ると、先進国の中では日本は身分差別・貧富の差は極めて少ないのです。搾取・豪遊イメージの平安貴族も実際はそうではありません。 あえて「同和教育」をするなら、この日本の誇れる歴史を子供たちに伝え、それをもっと良いものにするための教育をした方が、子供のためにはずっと良いと思います。特に、今の教育では、同和地区の子供が本当にかわいそうです。 同和問題だけではなく、「誇り」を持った人間を育てる教育をしてもらいたいものです。
補足
皆様、たくさんの回答ありがとうございます。今ちょっと時間がないので、お礼を書けずにいます。でも、読ませて頂いてます。もう少し待って頂けますか。申し訳ないです。