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日本人に考えるを望むのは無理か?
- 日本人の考える能力には制限があり、すでに考えられた結果を追い求めるしか望めないのだろうか。
- 日本人の考える人は少数であり、他の人々の考え方や慣習に押されてしまう現状に望みは薄いのか。
- 哲学や人間の本質を考える前に、現実の問題にどう向き合うべきか悩む状況にあるのか。
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こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > ☆ この三つの道筋が 或る意味で全体をまとめてくれているのではないかとも思います。 ( b )が 恒久の方程式です。 ( a )が 現状です。 ( c )が 最悪の選択です。不作為の選択になるかと考えられます。 きわめておろかにもたかぶって言うならば ( a )の現状は この哲学カテのいまの状態ではないか。【Q:天皇に野心は・・・】でわたくしもやってしまいましたが それは《自己防衛のための戦争などの行為》という回答が多かったので そういう自己弁護は現実の直視を避けているのではないかとおそれたからです。 愚生も全面的に“自己防衛”のための戦争というのには抵抗がございました。理由は以下の通りでございます。 ・日本自体も侵略行為をしていたこと(アメリカが油の輸出を止めたのも、日本軍が南部仏印にも進駐したことに起因しております)。 ・もはや1930年代になりますと、帝国主義史観は、時代錯誤の時代になっていたこと(国連脱退時に、日本を非難したのは、アイルランド、ノルウェー等の小国でありました。列強国であった英仏は表でも裏でも日本を弁護していたのですが、これら小国に押されてしまい非難決議をせざるをえなかったこと等でございます)。 先の大戦のときもそうでございましたが、現実を直視していれば、あのような無茶なことはしなかったと考えられます。 > ★ ~~~~~ > (あ) すでに考えられた結果をおこなうことしか望めないか? ”短絡的な”思考・考え、ならば、望めるかもしれませんが、意外とこれが厄介だったりもするかと察せられます。 ~~~~~~~ ☆ この内容は 見過ごすと分かりにくいですが そうとうきびしいことを言っているはずです。《集団主義》を吟味しましたが これが当たっているところがある場合と 細かい部分をきちんと見て むしろ違っているところを大事にすべき場合とがあると思います。 はい、実を申しますと、愚生も皮肉を込めて、あえてかなり厳しく表現致しました。“当たっているところがある場合”と“違っているところ”があった場合、後者がその時折の都合から望ましいとはみなされなくなった場合、“臭いものには蓋をする”といったかたちで、まるでそれがなかったかのように振舞ってしまう傾向があるからでございます。 > 集団の力がうまくはたらくのは 一人ひとりが集団志向において力を合わせるからであって 前へならえで大合唱をするときではないと考えられます。稲作を取って考えてみても それは家族ないし世帯別に田んぼを所有してはたらくのであって ソホーズやコルホーズといった集団農場をおこなうのではないと考えられます。 はい、仰る通りかと存じます。単純に“前ならえ”といったものも多少はあるかもしれませんが、良好な結果をもたらすのは、明らかに、“一人ひとりが(集団に対する前向きな帰属意識を持ちながら)集団志向において力を合わせる”方かと考えられます。たとえ、“前ならえ”で成功したとしましても、それは、後述しております定説・通説から外れたアイデアがあったときかと考えております。 > 定説だからと言って 《すでに考えられた結果をおこなう》ことにも 厄介な結果が絡む場合があろうかと考えます。 定説を知る・学ぶ、ということ自体は問題ないかと思われますが、思考停止したまま、それに盲従するのは、危険性を孕むものかと察せられます。そもそも、定説・通説といえども、時代・場所が異なれば、変化する可能性もございます。また、「成功は復讐する」といった言葉自体も存在しないはずでございます。 > ★ バブル崩壊時の様子を記述したものがございましたため、ご紹介させていただきます。つまり、“バブル退治”は民意を反映されたものであったことが伺い知ることができます。 ☆ なお往生際の悪さをほこりますならば バブルでない部分は 退治されることはないか または一たん退治されてもまた需要は起きあがって来ると思うのですが その点は くどすぎますか? いえいえ、そんなことは全くございません。 あのバブルのとき、“本当に住居を購入したかった人たち”と、土地の転がし屋等の“投機筋”との比率は分からないので、何とも申し上げられないのですが、不動産バブルの崩壊で、“投機筋”の数は明らかに減少したものと推察しております。 “投機筋”が実需に沿ったものかどうかは断じかねますが、居住用の部屋を数室買い入れ、そこには住まず空き部屋にしておき、値上がりした際に売り払おうともくろんでいたことを鑑みますと、実需というものとは少し異なったものだったかと推察されます。 > ★ この震災復興により、顕著に結果が出てくるものと予想してございます。 ☆ にわたしも見解が落ち着くものとしてですから これからの政治経済を見てみればよいでしょうか。 愚生は、この震災の復興(政策)を見守り続けたいと思ってございます。 > しばらくのちに閉めることとします。 愚生のような経済のど素人に粘り強くお付き合いいただきまして、どうもありがとうございました。この場をお借りし、厚くお礼申し上げます。 最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > クウキ論 まだためらっています。 おそらく、(民衆による)空気論のみでは、解釈不可能かと思われます。 何故、かような空気を産み出されたのか? もっともらしいことを主張して、訳の分からない空気を産出し、日本の経済に打撃を与え続けた輩達がおります。しかも、自説の通りにしたが、失敗し,その責任を取ったものはただの一人もいないとう連中のことでございます。”芸術”もそうでございましたが、”知識人”、”評論家”の果たした役割、失敗は反省すべきかと考えております。一言で申しますと、悪鬼のごとき似非知識人の責任は重大と考えております。 「1990年代以降、日本経済の低迷とは反比例するがごとく拡大を続け、わが世の春を謳歌した市場、それが「エコノミストあるいは経済評論家」と呼ばれる人たちの市場だと著者は論じる。経済の先行きを予測して市場に示唆を与える役割とは別に、自らの声(分析・予測)に注目を集め、「声の市場」の拡大を図るべく「もっともらしい解釈を見つける」ことに奔走するのが彼らの持つ一面だと厳しく批判する。」 しかも、 「だが今だかつて,自説の通りに経済運営をしたのに失敗し,その責任を取ったエコノミストはただの一人もいないのである。」のだそうです。 東谷暁著 「エコノミストは信用できるか」(文春新書) 参考:http://www.wound-treatment.jp/next/dokusho64.htm しかしその後、アメリカ様の金融危機に伴い、 日本のエコノミスト達は、わが世の春をもはや謳歌できなくなり、”ブレまくり”を繰り返しているようでございます。 「米国発の大不況によって世界経済の局面は一変した。神様グリーンスパンの名声は地に落ち、ノーベル賞を受賞したクルーグマンは日本に謝罪した。アメリカという手本が消えたとき、日本のエコノミスト達にとっての「大恐慌」が始まった。」 東谷暁著「エコノミストを格付けする」(文藝春秋) > ★《模倣ファッション》、見栄えのみを誇示すべくブランド・ステータスばかり追いかける“猿真似ファッション”、思考するのを止めて他人のふんどしで相撲をとりたがる“似非知識人”、これらには辟易させられております。 ☆ 名の通った論客や学者の名前を出して論ぜよと言われたことがありました。 上述のような失敗を見さされ続けても、なお参考にしろ!、と言われましても・・・ ふと、以下のヴァージニア・ウルフ女史の言葉を思い出してしまいました。 "As I leant against the wall the University indeed seemed a sanctuary in which are preserved rare types which would soon be obsolete if left to fight for existence on the pavement of the Strand." Virginia Woolf 「壁にもたれたとき、大学(おそらく、オックスフォード)というのは、ストランド街(ロンドンの繁華街)の舗道で生存競争にさらされると直ちに退化してしまうような珍種を保存している聖域であるように思われた。」(ヒドッチ訳) おそらく、退化・絶滅寸前の珍種のお仲間なのでしょうか。もしくは、小難しい金融工学を用いて、格付け”BBB”のものを巧みに”AAA”とさせ、顧客に売りつけていたウォール街の連中と同じタイプの人なのかもしれません。愚生ことヒドッチ君のオツムではついては行けないようでございます。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。 ▼ (『エコノミストは信用できるか』(東谷 暁)) この本を読んでいると,経済学とは数学とか物理学と同じ「学」なのだろうか,と言う気になってくる。 ☆ あと 理論や政策論が《何々と仮定すれば》とか《条件が等しければ》といった前提があることにも触れられていますが けっきょくどうなんでしょう 《政治経済学》と言ったほうがよいのでしょうか? 政治家の顔や行政の執行のあり方によっても変わってくるかとさえ思えるほどです。ユーフォリアになれば その流れがかなり大きな推進力になる場合もあるでしょうし。 グリーンスパンは その職務の晩年には もっと早く強くバブルへの警戒を呼び掛けていたほうがよかったと思います。それは 資料としても分かっていた部分があったようなのですから。(つまり あとになって 《核に・あるいは原子力発電には ノーと言うべきだった》というような批判ではないと思います)。 でもいづれにしても 先進国における商品・製品の飽和状態と新興国における賃金の割り安さという条件は 以前の高度成長期とは明らかに違って来ている状態なのですから 堅実さを 国際競争裡において先を越されない程度のずる賢さとともに 実地にすすめていくことくらいしか道はないのかも知れません。 ★ 小難しい金融工学 ☆ もすでに経験しましたし あとはどんなあたらしい分野での試みがまだ未経験として残っているでしょうか。情報通信技術の分野は 帽子からハトを出すような離れ業を求めてはいないように思いますし。兵器の分野としても もうそれほど先進技術を応用したいということでもないのではないでしょうか。医療技術の分野にも 手品は必要ないでしょうし。 ★ ふと、以下のヴァージニア・ウルフ女史の言葉を思い出してしまいました。 ☆ こんなことも言っているのですか。評論ですか。小説の中でですか。この聖域に鎮座まします学問は 学問一般を言うのですか? それとも やはり経済学なのでしょうか? ★ おそらく、(民衆による)空気論のみでは、解釈不可能かと思われます。 ☆ エコノミストの実際の醸し出すクウキの問題 これがやり玉に挙げられたとしますと やはりマスコミが次に来ましょうか。つまり そのくわしい実際が クウキ論で問われなければならないというようなことでしょうかね。 菅降ろし狂想曲を そんなことをしている場合ではないと言いつつ しきりとそういった番組を流し続けていたようですし。やめようとか こうしようとか ぎゃくに言ったとしてもよさそうにも考えられます。せっかくワイドショーなどの枠組みがあるのなら それぞれのメディアがしっかりと自分たちの考えを明らかにして述べてもよさそうなものをと考えたい気持ちになります。 実際の事情はわたしには分からないわけですが。 もう少し 街でのインタヰ゛ューを受けたふつうの市民も 気の効いたことを言ってやればよいのに。・・・
こんばんは、ヒドッチでございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > どう実際に採り入れられるかは 試行錯誤なのでしょうか。 執行役員制度の廃止の事例が最近では増えているように察せられます。以下に、その(会社側の)理由を以下に記載してございます(”執行役員制度の廃止” でGoogle検索いたしますと、相当数ヒットしてきました)。 結局、元に戻りつつあるように見受けられました。 ・制度廃止の理由(一例):「当社は、平成○年△月□日に「意思決定と業務執行責任の分離」と「グループエリアマネジメントの強化」を目的として執行役員制度を導入いたしましたが、取締役の責任と権限の明確化ならびに業務執行に関する意思決定の迅速化を図るため、執行役員制度を廃止いたします。」 ソース: http://www.naigai.co.jp/ir/090327/090327.pdf http://www.sumiseki.co.jp/ir/shiryo/shiryo20081114-1.pdf また、 「執行役員は法定役員ではないので、取締役のように会社の代表として訴訟を起こされることがない=公にはできない汚い仕事もやる。」 (http://okwave.jp/qa/q2609936.html からです。) といった問題点もあったのかもしれません。もしかしますと、アメリカ様の単なる表層的な模倣に過ぎなかったのかもしれません。 > 後者は ファッションというカテゴリに入ると思われます。着飾るのみのイマジネーション・イミテーション。《模倣ファッション》がツナミのごとく人びとを襲う。――これぢゃ ほんとうに放射能汚染になってしまいます。 明確にその悪影響が可視化できないところが、放射能汚染と類似していると思われます。 《模倣ファッション》、見栄えのみを誇示すべくブランド・ステータスばかり追いかける“猿真似ファッション”、思考するのを止めて他人のふんどしで相撲をとりたがる“似非知識人”、これらには辟易させられております。ですが、残念ながら、本人達はそれがいいと思っているのですから、何ともしようがないと考えております。ただ、いづれか気付く時が来るとは思ってはおりますが・・・ ただ、後10年もすれば、それが分かってくる・気付いてくるものと勝手ながら予想しております。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 明確にその悪影響が可視化できないところが、放射能汚染と類似していると思われます。 ☆ なるほど。これは 困ったものです。着飾ってきれいになっていると思ってさえいるとすれば 困ったものです。 ★ 《模倣ファッション》、見栄えのみを誇示すべくブランド・ステータスばかり追いかける“猿真似ファッション”、思考するのを止めて他人のふんどしで相撲をとりたがる“似非知識人”、これらには辟易させられております。 ☆ 名の通った論客や学者の名前を出して論ぜよと言われたことがありました。 ★ ただ、後10年もすれば、それが分かってくる・気付いてくるものと勝手ながら予想しております。 ☆ 十年ですか。十年ひと昔ですが。 ★ 執行役員制度の廃止の事例が最近では増えているように察せられます。 ★ 結局、元に戻りつつあるように見受けられました。 ▼ 取締役の責任と権限の明確化ならびに業務執行に関する意思決定の迅速化を図るため、執行役員制度を廃止いたします。 ★ もしかしますと、アメリカ様の単なる表層的な模倣に過ぎなかったのかもしれません。 ☆ そうでしたか。そうしますと 日本人は 代表取締役ないし取締役会なる集団は フィードバックが効くということのようですね。創業者などのワンマン社長は このフィードバックをうまくこなせて業績を上げる場合と そして独裁でイエスマンばかりを部下にしてやり繰りしてゆく(もしくは 倒産にみちびく)場合とがありましょうか。 社長が考えて決断し みづからが陣頭指揮を執ったほうが よいでしょうか。 そうでしたか。もう試行錯誤は終わっているのですね。ありがとうございました。 クウキ論 まだためらっています。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > 地域主体の復興(北海道新聞 6月2日社説) ・だが、どんな方法を選ぶにせよ、地域ごとの生産者の意向を尊重しなければならない。 ・担い手の共同体である農村の再生こそ優先すべき目標のはずだ。 ・地元が主体的に描いた青写真の実現に向け、政府は支援に徹する方がいい。 ・東北では、地域内の農家が共同で生産する集落営農が盛んだ。 ・高齢化に対応した農業維持の知恵であると同時に、意欲的な生産者に農地を集約する仕組みにもなり得る。 ・担い手の希望をくみ、地域の実情に応じて、規模拡大、農産物加工、観光農園といった農業の多様な可能性を探るべきだ。 情報を提供いただきましてどうもありがとうございました。 実際、以下の書籍のように楽観論もあることも事実のようでございます。 三橋貴明著「日本経済、復興と成長の戦略」(朝日新聞出版) 増田悦佐著「3・11に勝つ日本経済」(PHP研究所) > (お)(あ)の見方によれば 外国人をまづ説得しその外国の人間が考えた結果であるというのなら 日本人は受け容れるのだろうか? 厳密には「外国人をまづ説得し」とは無関係なのですが、2003年の商法の大幅改正によって、業務執行にあたる「執行役」という商法上の役職が正式に設けられました(法律上規定されていますので、「必須」となります)。そして、その「執行役」の構成員として用いられております“執行役員”という用語は、そもそも、アメリカで使われていたcorporate officer 又は executive officerの訳語でございます(ソニーが初めて用いたようです)。 つまり、アメリカ型企業統治の経営形態を受け入れたといっても過言ではないと考えております。アメリカ礼賛主義が垣間見られる一例と考えられます。 >(く) あるいは あほばかヰルスが ひょっとしたら ばら撒かれているのだろうか? [コンプライアンス不況] 構造計算書偽造問題をきっかけに、建物購入者保護を目的に建築確認の厳格化を行った。その結果、建築確認申請手続が煩雑化し、建物完成までに時間がかかるようになった。法施行の2カ月後にマニュアルが発行されたこともあり、認可は滞った。その結果、資金ショートを起こした建築会社が倒産に追い込まれた。また、ショックは建築資材や家電など幅広い業界に波及し、6年間続いた景気拡大に減速をもたらした。また、2007年度の倒産件数が増加する一因となり、GDPを押し下げた(建基法不況)。 つまり、この建基法改正により税源の減少、さらには、失業者数の増加という経済的損失がもたらされました。 建築基準法改正当時の「空気」については、「法改正にかかわった元慶應義塾大学教授の村上周三・建築環境・省エネルギー機構理事長は国交省不況に対する批判に対してこう反論する。『姉歯事件の後、国会もメディアも日本中がヒステリックに建物の安全を求めていた。今になって規制が強すぎだと批判されるが、皆が規制を求めたあの空気の中でどうすればよかったのか』」。 (日経ビジネス2008年5月12日号33頁) ソース: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E8%A3%BD%E4%B8%8D%E6%B3%81 別段、村上周三氏の肩を持つつもりはないのですが、(ワイドショーに煽られた)この「思考停止ウィルス」の猛威に対処することは、極めて困難であったと考えております。 > ★ 「震災により「失われた20年」からの脱出は難しく、復興事業が財政再建にも影響―英紙」 ☆ 失われた三十年というわけには もう行かないでしょうね。 おそらく、二度と復活はしないと予想しております。 > そうしますと いまここで考えようとしていることは いま迷っている人たち あるいは 考えようとしているのに周囲の環境からそれが妨げられるという影響をこうむっている人たちに向けて書き込みをしているのかも分かりません。 その可能性は高いと考えております。少なくとも、愚生はそのつもりでございます。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 日本の国や経済についての楽観論の二著 検索ではいい情報が得られませんでしたので 保留です。 CEO 制度の問題は 計画・執行そして検証・修正から 執行の仕事を分離させたのでしたか。日本では もともと監査役もあまり機能を発揮しないようでしたから あるいはまた社外取締役もどれだけ会社の実態に即した助言や提言を出せるかもむつかしい側面があるでしょうから たぶんその執行の仕事とその執行具合いを見守る役目とが分かれるということ自体は 考え方として有益かと思いましたが どうでしょう。 どう実際に採り入れられるかは 試行錯誤なのでしょうか。 ★ [コンプライアンス不況]:建物購入者保護を目的に建築確認の厳格化を行った建築基準法改正 ▼ 『姉歯事件の後、国会もメディアも日本中がヒステリックに建物の安全を求めていた。今になって規制が強すぎだと批判されるが、皆が規制を求めたあの空気の中でどうすればよかったのか』。 ☆ なるほど。《空気》が醸し出されるということ そしてその空気に従うのはもちろんのこと その空気に振り回されることも ★ 「思考停止ウィルス」の猛威 ☆ であると考えられるようですね。これなら あほばかヰルスはミームのごとくこの社会環境に《生き続けている》かに思われます。 思考停止の状態において 極端に悪くいえばどうも人びとは その地獄から想像力をよみがえらせてのように 虚構の世界として《考える》ことをおこなうようです。例の《虚数部》における想像世界のごとく。 《考える》実数部: 安全性の保障をどこに求めるか。現行の規則のどこが足りな いか。 現行の規則を守ることを徹底させるだけで済むのかどうか。 さらに規定をきびしくするのか。 いづれにせよその結果の手続きなどにも支障の出ないように 規則全体を決める。でしょうか。 《想像する》虚数部: 世の中の湧き上がる声をどう鎮めるかについていろいろさま ざまに思案する。その場をつくろう。 規則をいじくり あとで責任を問われてもよいようにという 感覚で判断する。 その保証のためにはそれ相応の《権威》を持ち出しておけば よいという頭があるように見られる。 虚数部は モヤモヤ・ワールドと呼ぶだけでは このクウキのヰルスのごとき猛威を表わし切っていませんね。ツナミ・パワーとでも呼ぶのでしょうか。 哲学にも 考える実数部と想像する虚数部とが 残念ながら あるようです。 後者は ファッションというカテゴリに入ると思われます。着飾るのみのイマジネーション・イミテーション。《模倣ファッション》がツナミのごとく人びとを襲う。――これぢゃ ほんとうに放射能汚染になってしまいます。
- hakobulu
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#8です。 ◇ >§1 話し合いにおける食い違いについてです。 > 接し続けていても――その馴れ合い関係さえをも誠実に保っていた : こと自体が、 >相互理解などを破っているということがほとんどだった : という結果につながった、あるいは、そういった関係であることを推進、少なくとも容認してきたということが言えますよ。 ですから、 > ぢゃあ いっそのこと そういう悪友関係には入らないと : 決める以前に、相手を悪友としてしか扱ってこなかった、というそもそもの自己責任があるのではないでしょうか。 くどくなるかもしれませんが、誤解を防ぐために申し上げれば、「馴れ合い関係さえをも誠実に」保つという行為は相手に対する侮辱ではないでしょうかね。 相手がそうなら、こっちもこうだ、という低い次元のことをおっしゃっているのでなければ、この論理は通用すると思います。 少なくとも悩む必要性は全くないでしょう。 ◇ > §2 食い違いを放っておくのではなく 互いに情感において・あるいは人情として 埋めようとする気がわたしに起こらないのは その浪花節関係に入ると 自由な表現に足かせがはめられるからというのは けっきょくわたくしがいわゆる《常識》に対する批判者であるからです。 言いかえると 批判するという意味で常識破りをつねとするわたくしを けっきょくは友も知り合いも去って行った。むかしの人たちは そういう傾向だったというのも いまひとつの実情に即した見方です。 : あえて長いまま引用させていただきましたが、非常に不思議な印象を受けます。 常識に対する批判ぐらいは中学生でもできることであり、まさか、それが論点であったり、確執の原因であったとは到底思われません。 詳しい経緯はわかりませんが、問題は、その破り方にあったのかもしれないですね。 あるいは、破る意図に対する反発だったりもしたのかもしれませんが。 > つまりあるいは初見であっても これは常識破りだなと趣旨説明から分かれば その時点で拒否反応が人びとには起こるという意味ですが。 : まさか、それはないでしょう。 むしろ、そそられるのではないでしょうか。 どうせ拒否反応を起こすのだろうから、趣旨説明の細部については(前回も述べていることだし)わかっている人に対してだけ発信して、回答を得よう。 という意味に受け取ったので、「全く逆」と述べたわけです。 この点に関しては建設的意見も無いので、とくにこれ以上は言及しません。 ただ、この伝で言えば、 > つまりそれほど 常識一般の人びとからは へだたりをつけられていたといったところでしょう。 : というのはおそらく違うように思われます。 やはり、ブラジュさんのおっしゃる内容自体ではなく、その言葉表現なり、姿勢に反発された方が多かったように私は感じています。 喧嘩上等!の私としては、ブラジュさんに責任があると言うつもりは全くありませんで、お互いに間合いを測り損ねたままの状態で、剣を鞘に納めるには意地が許さん、とでもいった按配なのでしょう。 ただ、幾人かの方をブロックしてしまったことで、いかにも非を自覚しているかのような印象を与えてしまった分、損はなさっているようです。(ブロックを解くべきだと申し上げているわけではありませんが。それはあくまで個人のキャパシティの範囲内ですから) ◇ >§3 日本人のお上志向 > 天皇制に到る以前に 両勢力のせめぎ合いがあって 一方は他方に対して《道をゆづった》。こういういきさつです。 : なるほど。 さらに根源があるのだ、ということですね。 機会がございましたら、またゆっくりと教えていただくこととしましょう・・・と書いてきたところで、続けて解説していただいていましたね。^^; >そのアマテラス側は あのときの国ゆづりには 自分たちの側に咎があった。服属の要求をしたからには。と言って 自発的なアマクダリをするかと言えば なかなかそれも望めません。そういう情況ではないかと見ています。 : 難しいことはわかりませんが、いつの時代でも神格化に近い要素を持つ(人間)存在が必要とされてきた、ということが天皇制の本質に通底する要因だろうと思われます。 アマテラスというのは、言ってみれば自我の象徴であり、天皇はあくまで超自我的存在として価値づけられてきたはずです。 同じお上でもニュアンスは多少異なると思われます。 因みに、アマテラスの自我というのは、(選挙でアマテラスを選出するという作業以外には)無責任に本能的要求(欲求)が当然と考えている本能としての国民一般に対する比喩です。 自我も本能も超自我も厳密な線引きは無理なので、その点はご了承いただけると思います。 いずれにせよ、天皇制、海外であれば王室ということになるのでしょう(アメリカには当てはまりませんが、よくも悪くもキリスト教が根深く浸透しているか、あるいは、逆に神の多様性の故なのかなのでしょうか)が、「くにゆずり」というのは言ってみれば自我の駆け引きにすぎないわけで、どんな譲り方にせよ天皇制は確立されざるを得なかった、と思われます。 つまり、譲ったから云々ではなく、ただ一切の損得(=自我)を超越できる存在としての人間が必要とされたということです。 たとえ無意識的にせよ、あるいは政治的利用の意図があるにせよ、論理を超えた何かを人間は必要としているということなのでしょう。 今回も、的を外したまま、この程度のことで失礼致します。
お礼
はこぶるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。大きな主題を持ちました。なるたけ簡潔に述べてまいります。 ( A ) わたしの個人的な体験のことと そして( B ) 天皇制の《二段発射なる歴史》 このふたつが論点になります。 § A わたしが周囲から隔たってしまった経緯には ふたつのきっかけがあります。 ( A‐1) 《念力のような非言語的コミュニケーション》を嫌ったこと ~~~~~~~~~~~ まだ小学五年生にはなっていなかったと記憶している頃のことです。 腕白仲間と遊んでいてそのグループに ある日ある時 リーダーが必要だと皆が思うようになっていた。多少学力があったわたしに 視線が集まって来た。いわゆる《空気》というものです。 つまり仲間たちはその時 必ずしも口に出した言葉でわたしに問い掛けてきたのではなかった。暗黙のうちにそれとなく 分かったわけで そのわたしは どういうわけか同じように 心に念じるようにして 仲間に応じようとします。 おそらく慣習として こういうときには 暗黙のうちに指名された場合でも指名されたほうは 声に出してよいはづなのですが わたしは 声には出さずに答えようとしていました。そのとき ふと 思い留まりました。 わたしが受けた仲間からの念力のようなもの(以心伝心?)は もしそれが通ったなら わたしと仲間との関係は おかしなものになると感覚的に悟りました。 なぜ おかしなことになるのか その理由については そのときは 次のことだけを思っていました。もしこのとき 《わたしにリーダーになって欲しいということなのか》と仲間に言葉に出して尋ね返すなら 何かおかしな雰囲気になるだろうという予感がしたということ これだけです。 ずっとあとになるまで もう突っ込んでは何も考えなかったのですがけっきょく 人の意思表示のないことがらを頼りとして自分の意志行為をおこなうというその成り立ちが 問題なのだと考えるようになりました。 (これが 【Q:虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?】の問題です。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6759902.html ノン・ワ゛ーバルなコミュニケーションとは 想像の世界としての虚数部のことです。以心伝心であっても それをあとで言葉にして互いにその内容に合意したら 実数部のふつうに有効な意思疎通になると考えます)。 その後 わたしが そのグループから仲間はづれになったことは 自然の成行きでした。 ~~~~~~~~~~~~~~ ( A‐2) 十代・二十代と長ずるに及んでも 友だちとの間にへだたりが出来たのは ひとえにわたしの天皇制に対する疑問によると考えます。初めから 次の( B )に述べるように明確に捉えていたわけではありませんが 人間と人間との関係として根本的にまちがっていると思っていました。 その昔は それだけでほとんどキじるしと見なされたということです。親や身内も そのようにわたしを見なしたという意味です。(妹のひとりがひどかった。両おやは まだ 意外と脳天気なところがありました。自分は認めないが おまえの考えもそれはそれでおもしろいと腹の内で考えているところがあったようです。自分たちは《非国民》というレッテルが貼られるのを 命がけでおそれ避けたという過去がありました)。 § B 天皇制には 前身(第一次)と後身(本格的天皇制)とがあるということ 第二弾のロケットが 本格的に社会が二階建ての構造になった段階であるとして はっきりと区分されると見ます。 ☆☆(【Q:美しい国はどのようなものなのでしょうか】回答No.10)~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3384834.html われらが日本人は 歴史知性の自覚を 《イリ(世界への入り)》と表現しました。ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコト(のち崇神天皇)という命名に見られ このおほきみ(市長)は 《初国知らししミマキのスメラミコト》と呼ばれます。(ただし神話では 第十代の天皇です。《天皇》という言葉はその当時まだなかった)。 またそのときの市民は 代表としてのように オホタタネコと言い ネコ(根子≒大地の子)が市民を表わし そのつてでは ヒコ〔日子(=彦)≒精神なる光の子〕が 共同自治のために当番として任命された公僕です。(女性は ヒメ(日女=姫)です)。 イリ知性の以前は ヨリ(寄り・依り・憑り)なる言わば《前・歴史知性》であったという推測です。このヨリなる原始心性からイリなる歴史知性への移行が おおまかに 縄文時代から弥生時代への移行というわけです。(ただし イリと名乗ったのは 弥生から古墳時代へ移行する頃のことです。ミネルワ゛の梟は 夕べに飛び立つというごとく すでに弥生人としての稲作や鉄器の使用のときに イリ知性は獲得しつつあったのが その時代の終わりかけに自覚し認識し始めたというわけだと見ます)。 ちなみに 第一代とされているカムヤマトイハレヒコ神武天皇は――すでに《ヒコ》ですが―― イスケ《ヨリ》ヒメが その妃でした。ミマキイリヒコ崇神の一代前には オキナガのミヅ《ヨリ》ヒメや ミヅホのイホ《ヨリ》ヒメの名が見られますが ミマキ崇神からあとは その子らに イクメイリヒコイサチ(第十一代垂仁天皇) トヨキイリヒコ トヨスキイリヒメらのように 《イリ》が頻出します。こういったかたちでも《ヨリからイリへ》の歴史過程です。 イリ歴史知性にもとづく公民ミマキイリヒコと市民オホタタネコとの共同自治(それは ヤマト・ミワ山のふもとの地)では 医療(薬草)が発達し 鳥獣・昆虫による被害の駆除にも進歩が見られ また植林に力を注ぎ 木材の利用も進んだということのようです。 ところが これを嫉み羨む心も 人びとの中には起こりました。この歴史知性を疑う歴史知性の動きも 起こります。 新しい時代にも 実際としては 以前からの《ヨリ》なる知性にとどまる人びともいたと思われますが その人びとからの不満ではなく というよりは すでに ミマキイリヒコやオホタタネコと同じく しかも《啓蒙》の時代などをも超えて 実践知性とその相互信頼にもとづく共同自治の精神(インタスサノヲイズム=インタムライズム)を 一たん自覚し身につけたと思われた人たちのあいだから 出て来ました。 その知性は すべてを疑いすべてを知り尽くそうという科学的な精神のなせるわざでもあったようですが 他方では いかなるものの下にも立つまいという気概のあらわれであったように思われます。その知性は 類型的に 《ヨセ(寄せ)》と言います。 この《ヨセ》は 名前から取り出したのではなく 《オキナガタラシヒメのミコトは 当時(そのかみ)神を帰(よ)せたまひき》(《古事記》仲哀天皇のくだり)という記事にもとづき 名づけたものです。とにかく人の上をゆくスーパー歴史知性とでも言うとわかり易いでしょう。そして単純に言って ヨリ心性やイリ知性を押し並べて束ね寄せる超知性というかたちです。 さて これから後は 端折ります。このオキナガタラシヒメの子であるホムダワケ応神天皇のとき(400年ころ)に この新規のヨセ歴史知性は天下を取るのに着手し 数代あと オホハツセワカタケル雄略天皇を経て ヲホド継体天皇のとき(500年ころ)に これを《実現》させました。 このとき 《くにゆづり》が起きました。イリ政権は 非戦論をえらび ヨセ政権にゆづった。という歴史です。 こうして 世の中が二階建てになった。崇神イリヒコがアマテラス市長だったと言っても そのときには社会がおおよそ平屋建てだったと考えられ これが特別にあたかも社会にとっての神棚としての第二階を建て増しして 二階建ての構造になったということです。イリヒコとネコとの市民社会の上に スーパー歴史知性よろしく スーパーヤシロを築き この第二階が 統治者であることを担いました。 とは言っても ミマキイリヒコとオホタタネコとの共同自治とその歴史知性の系譜も 死んではおらず やがて天智天皇に弓を引いたその弟である大海人皇子(天武天皇)のとき そのネコ市民に かの柿本人麻呂を得て 昔のミワ市政=イリ政権の精神を取り戻しました。八色の姓でしたか 身分制の改変も行なわれました。ただしもはや 二階建ての構造は いかんともし難かったでしょうか そのまま引き継がれたいうわけでした。 ~~~~~~~~~~ ☆ ほかにも次のまとめを掲げておきます。 【Q:現代日本に必要な哲学は?】回答No.8 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html ・ 人間の神格化は ヨセなる超歴史知性からあとの問題です。(なぜなら オホモノヌシの神を三輪山に祀っていた。いる)。 ・ 《イリ知性・ヨリ心性・ヨセ超知性》の三つは 世の中が ふつうの知性人としての《本能‐自我‐超自我》なる全体人間に同感する層としての三分の一と それに共感する浮動層の三分の一と そして反感を持つ最後の三分の一とにそれぞれ対応するかに見られます。つまり 現代においてもです。 ・ 400年ころの応神ホムダワケから 雄略ワカタケルを経て 500年ころの継体ヲホドの登場と君臨までの百年は まさに百年の計としてヨセ超知性によって全国制覇大作戦が敢行され みごと達成された五世紀ということになります。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > いえ 《回答を評価する》が――近来まれに見るほどに―― 13ポイントにもなっていますので 念には念を入れておうかがいしました。たいへんありがとうございます。 何か誤解があるかもしれませんので、一言申し上げたく存じます。 まず、日本人は自ら“考える”ことをしない、つまり、潜在能力があるのにも関わらず、“考える”ことを止め、思考停止状態に陥っている。このことを申し上げたかっただけでございます(しかし、責任はちゃっかりと他人に押し付ける)。 そこで、一例を挙げさせていただきます。以下の英フィナンシャル・タイムズ紙の記事がございますように、今回の震災によりさらなる不況が訪れる可能性がございます。もちろん、これを機に復活する可能性もございます。 ですが、このバブル崩壊以降の日本(経済)を見ておりますと、ろくに「失われた20年」の反省をすることもなく(「いつか契機がよくなる」と言われ続け、知らぬ間に20年も経ってしまいました)、精神論のみで復興を成し遂げられるとは考えにくいというのが率直な意見でございます。 「震災により「失われた20年」からの脱出は難しく、復興事業が財政再建にも影響―英紙」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110313-00000008-rcdc-cn 参考: ・田中秀臣、上念司共著「震災恐慌!~経済無策で恐慌がくる!」(宝島社) http://synodos.livedoor.biz/archives/1763252.html ・堺屋 太一著「第三の敗戦」(講談社) http://sayaendo.blog.so-net.ne.jp/archive/20110513 おそらく10年経っても、以下のようないつも通りの醜聞を耳にしないことを願っております。 「政府の対応が遅く、悪かった」 「エコエネルギー利権・天下りは許されない!(下記参考をご参照くださいませ)」 「あんなところに住居を構えていた住民の“自己責任”だ!」 参考: 「風力発電補助金、5企業グループが54%独占 天下り36人…官業癒着指摘も」 http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110114/biz11011404430036-n1.htm > こんな質問を出してしまって――ひどっちさんやみなさんをも巻き込んでしまいましたし いえいえ、別段問題発言ではないと、いやむしろ至極全うなご質問かと思っているのですが・・・ 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 東北を農業先進地域にしようという動きがあるそうですね。 ▼ (東北の農業 地域主体の復興が肝心) ~~~~ http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/296475.html 〔農業〕白書は、「先進的な農業地域」を目指して被災地の復興を進めると強調した。問題は、その方法だ。 政府の復興構想会議は、土地利用などの規制を緩和する特区の設置を検討している。民間企業の参入を促したり、分散する農地を集約して規模拡大を図る案もある。 だが、どんな方法を選ぶにせよ、地域ごとの生産者の意向を尊重しなければならない。復興は単なる農業基盤整備ではなく、担い手の共同体である農村の再生こそ優先すべき目標のはずだ。 地元が主体的に描いた青写真の実現に向け、政府は支援に徹する方がいい。参加判断を先送りした環太平洋連携協定(TPP)をにらみ、やみくもに大規模化を追求するようなやり方は避けねばならない。 東北では、地域内の農家が共同で生産する集落営農が盛んだ。高齢化に対応した農業維持の知恵であると同時に、意欲的な生産者に農地を集約する仕組みにもなり得る。 担い手の希望をくみ、地域の実情に応じて、規模拡大、農産物加工、観光農園といった農業の多様な可能性を探るべきだ。 (北海道新聞 6月2日社説) ~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 「風力発電補助金、5企業グループが54%独占 天下り36人…官業癒着指摘も」 ☆ ちゃっかりですか。 ★ 「震災により「失われた20年」からの脱出は難しく、復興事業が財政再建にも影響―英紙」 ☆ 失われた三十年というわけには もう行かないでしょうね。 ★ ~~~~~~~ ですが、このバブル崩壊以降の日本(経済)を見ておりますと、ろくに「失われた20年」の反省をすることもなく(「いつか契機がよくなる」と言われ続け、知らぬ間に20年も経ってしまいました)、精神論のみで復興を成し遂げられるとは考えにくいというのが率直な意見でございます。 ★ ~~~~~~~ 日本人は自ら“考える”ことをしない、つまり、潜在能力があるのにも関わらず、“考える”ことを止め、思考停止状態に陥っている。このことを申し上げたかっただけでございます(しかし、責任はちゃっかりと他人に押し付ける)。 ~~~~~~~~~ ☆ 考えるとしたら 精神論 というのでは 困りものです。 すでに地道に考えることをおこなって来ている人びとは そのまま一歩一歩すすむでしょうし その考えるを怠って来た人たちが ではどうするか どうなるかは たぶん どこかで何かのきっかけが起こるのでしょうね。大震災もきっかけにならなかったとすれば・・・。でもそれでも 何かほかのきっかけがあるのでしょう。 そうしますと いまここで考えようとしていることは いま迷っている人たち あるいは 考えようとしているのに周囲の環境からそれが妨げられるという影響をこうむっている人たちに向けて書き込みをしているのかも分かりません。 あるいは 一人ひとりは それぞれのきっかけを持つとすれば そのそれぞれの場合を ここでのやり取りが間接的に提供していることになるかも分かりません。 尻切れトンボになってしまいましたが。
- amaguappa
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ブラジュロムンヌさんは不思議なくらい思考力が鈍くなっていると思うのですが、ご自分としてはそんなはずはないというところなのですか。一体、生活にご不自由はないのですか。 命題「魚に泳ぐのを望むのは無理か」 推論群の一つ「あっぷあっぷウィルスがひょっとしたらばら撒かれているのだろうか」 これが、どういう魚についての推論かおわかりでしょうか。泳げないお魚なのです。泳ぐのを望むのが無理な魚についてしか、あっぷあっぷウィルスがばら撒かれているのだろうかという言説が、成立しないのです。 すいすい泳いでいるお魚に、あっぷあっぷウィルスがばら撒かれているのだろうかなんて推理は結びつかないのです。 ですから、 問うなら、たとえばこうではないですか。 【日本人には《考える》のは無理か? われわれが日本人に望む《考えること》とはどのようなものか?】 (あ) 日本人にとって、おこないは、未だ成らない考えの創出であるか、すでに考えられた結果か? (い) 少数の《考える》日本人を良貨、多数の《考えない》日本人を悪貨に喩え、悪貨は良貨を駆逐するの慣わしのとおりであるといえるか? (う) 哲学以前あるいはさらにへたをすると人間以前という日本人は存在するか? 目の前にするなら どうすればよいか? ...... 例にすぎませんがこうした言説であれば、答えるとき、日本人とはどのような存在であろうか? 考えるとはどのような行為であろうか? おこないとは考えとどのような関係にあるだろうか? 考えることと考えないことは社会の流動的形態における役割の良し悪しの二律性で述べうるだろうか? 哲学と人間らしさと日本人であることの関係は何だろうか? それはコミュニケーションにどのような役割をはたすだろうか? などなど、深い洞察をともなってくるでしょう。 いまブラジュロメンヌさんが書いている質問の題と項目では、日本人はどんなものであるかが浅薄に規定されてしまっていますよ。そういう自覚はあるでしょう? しかも叩き台というよりも、すべて撤廃しないとはじまらない垣根のごとき障害物ですね。思考の地平にとっての障害物です。 それは、やめなければ哲学以前ですし、コミュニケーションに足る前提にもならないでしょう。 わたしはそう思います。
お礼
うふふ。めるし ぷーる を゛とる れぽんす。 問い直しの案にはウィを投じます。だいたいほとんどよいでしょう。なぜならそれらの内容こそこの質問が求めているところですから。 それでもこの問いの趣旨説明ないしたたき台のままでよいとする理由は こうです。 ★ 命題「魚に泳ぐのを望むのは無理か」 ☆ もし《無理ではない》と答えるならば その回答者はその理由を添えるでしょう。《一般に 泳げない魚はいない》うんぬんと。 そういう見解を持つ場合には そのように回答を寄せればよいわけです。《日本人も人間であるから 一般に人間は考え得ないものはいない》うんぬんと。 たしかにこの質問だけでは そのような回答を寄せることなどおかしすぎてあり得ないと考えてしまって 投稿しない場合もありましょうし あるいは いやおかしい そんなふざけた質問などはしないはずだ いったいこの問いはどこへ向かっているのだ? と考えて その点をたずね返してみようという投稿者も出てくるでしょう。 つまり そういうことです。そのあと 質問趣旨をさらに明らかにして じつはこれこれの問題なのですと応答してすすめる。こういう魂胆です。 でも趣旨説明は 案外親切なのであって ちょうど次の事柄も添えて問い返しがあったように・つまり: ★ 推論群の一つ「あっぷあっぷウィルスがひょっとしたらばら撒かれているのだろうか」 ☆ という切り口を用意しているように あぁ そうか 《日本人は意外と引っ込み思案で 大事なときにきちんと考えておかねばならないことがあるにもかかわらず 意外とこれが 思考停止という状態に落ち入ってしまうことがあるんだよな》 ううーん 果たしてどうしたものか?――というふうに この質問者と同じ問題意識に立つことは 割り合い容易なのではないでしょうか? 世間がかまびすしいと思ってよくその声を聞いてみると じつは 足の引っ張り合いのために声を荒げているだけであり 菅降ろしだとか大根おろしだとか よくも連日連夜そのような思考停止の中での狂気の想像力をたくましくしての議論が蔓延するものだ。となりませんか? と問うています。 あなたも 自分のためにも日本のためにも 鋭い洞察に満ちたあじわい深いご回答を考えてみてください。元高校生さんも 元気出してちょうだいませ。
早くこの丗から消えろ。なんの役にもたたん人間の屑が。
お礼
★ 丗 ☆ って? わざわざここまで来て みづからの告白を述べるまでもないでしょうに。 ごくろうさま。 だいじょうぶです。或る日或る時 めざめるときにはめざめましょう。
- amaguappa
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、、、回答は論理的に言って不可能だな、、、 とわたしが思ったなら、まずスルーするのが筋というものですね。 でも、なぜそう思ったかを、話して聞かせたくなるんでしょう、1さんみたいな方というのは。 わたしもまた、そういう 無警戒な 気質であり、 それは裏表なしにやってこれた幸せ者ということなんでしょう。 自負に溢れているというところもあるでしょうしね。 話せば相手の役に立つとばかり、懐に入り込んで当然と。 ところが、そういうことをされるのを嫌って、懐を閉じる人もいます。 そういう閉じ方は、日本人らしいなと思います。狭い茶室の戸立てに似ていますから。 みずから差し出した流儀が尊ばれず、役立てろと道具を押し込まれるのを嫌って戸を閉じる。 呑気に押し込む野蛮さのほうについて言えば、 これは日本人の典型であるのか、ないのか、どっちかなあ。。。 呑気な野蛮さは、きわめて日本人らしい人々に備わっているようにわたしには思えますが、 まあ印象に過ぎない話ですが、 わたしには、ブラジュロンヌさんの茶室仕立てのご繊細さは、まるで上階のお人の印象であり、 呑気な野蛮さをもって懐に押し込む傾向の方々が下階に生息していると思っております。 そう思っていつも、ブラジュロンヌさんの話があべこべに思えております。 わたしは、ブラジュロンヌさんてお二階さんだな、と思い続けており、日本人らしさのひとつである四角い狭い間口の方だなと思っているのです。 そして、またひとつのおそらく日本人らしさである呑気な野蛮さによって、 わたしは、この質問がやり直しをはかるために役立つ話をせねばなるまいと思う理由を述べてしまうのですが、それは、ブラジュロンヌさんが、 【《考える》を望むのは無理】な日本人像 について、 【《考える》を望むのは無理】な日本人に《考える》を望むのは無理か? と問うているように見えるからです。 すなわち、下記の如くです。 ~~~~~~ (あ) 【《考える》を望むのは無理】な日本人に、すでに考えられた結果をおこなうことしか望めないか? (い) われら考える日本人は 少数であるゆえに 悪貨は良貨を駆逐するの慣わしの前に、【《考える》を望むのは無理】な日本人に望みは薄いとあきらめねばならないか? (う) 【《考える》を望むのは無理】な日本人の哲学以前あるいはさらにへたをすると人間以前という実際を目の前にして どうすればよいか? (え) 【《考える》を望むのは無理】な日本人の足の引っ張り合いなるたたかいに まだしばらくは 対処していかねばならない情況であろうか? (お) (あ)の見方によれば 外国人をまづ説得しその外国の人間が考えた結果であるというのなら 【《考える》を望むのは無理】な日本人は受け容れるのだろうか? (か) なぜこれほどまでに【《考える》を望むのは無理】な日本人は あほばか状態が好きなのか? 心の奥底でそうなのではないだろうに。 (き) 【《考える》を望むのは無理】な日本人には、なぞの隠れた愚民化政策が どこかその筋から ほどこされているのだろうか? (特に 神・絶対ということについての理解が あの聖徳なるぼんくら太子の水準でありつづけている。《世間虚仮 唯仏是真》なるおのれのみの観念の世界の中にくすぶりつづけるしかも高ぶり状態。タコツボ地獄)。 (く) あるいは 【《考える》を望むのは無理】な日本人には、あほばかヰルスが ひょっとしたら ばら撒かれているのだろうか? ~~~~~~ べつに問うつもりはなくて反語表現だから くらい 気楽に居直っていただくとすれば、何か几帳面な生真面目さから突如いいかげんさへ抜ける日本の政体にも重ねられ。ではまたお元気で。
お礼
★ ~~~~~ ブラジュロンヌさんが、 【《考える》を望むのは無理】な日本人像 について、 【《考える》を望むのは無理】な日本人に《考える》を望むのは無理か? と問うているように見えるからです。 ~~~~~~~ ☆ このご見解について ★ 回答は論理的に言って不可能だな / とわたしが思った ☆ とわたくし・ぶらじゅろんぬが思った。ので ★ なぜそう思ったかを、話して聞かせ ☆ てさしあげましょう。 かんたんです。最初に命題を確定させているからです。 ★ 【《考える》を望むのは無理】 ☆ と。わたしのこの質問は そのつてで言うと そうではなく ○ 【《考える》を望むのは無理】か? ☆ という問いによって成り立っています。 お分かりでしょうか? などとは言うまでもないでしょうから もうあとは端折ってしまえるほどでしょうね。 次の(直後の)ご回答(No.10)を見てください。その内容からすると わたくしも このところ自分勝手に饒舌をきわめて来ていますから わたしの言葉で表現するところの《神の佑助》がうすれて来ているだろうなとおそれていましたが そのすでに退会に成った人の投稿内容からすると わたくしの文章もまだ 人びとに対して《鏡》となっているなと思ったものです。 その目でこのあなたの回答内容を見れば 何のことはない やはりまだまだ透き通った鏡でいられたわいとなります。 なぜって 上の説明によって明らかになることは 次の文章の主体を互いに取りかえれば そのような《鏡面現象》が見て取れるからです。 ★ ~~~~~~~~~ そう思っていつも、ブラジュロンヌさんの話があべこべに思えております。 わたしは、ブラジュロンヌさんてお二階さんだな、と思い続けており、日本人らしさのひとつである四角い狭い間口の方だなと思っているのです。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ いいですか? ○ 日本人に《考える》を望むのは無理か? ☆ と問うているのであり 《(い) われら考える日本人は 少数であるゆえに》の《少数の考える日本人》に すべての人が成って欲しいと言っています。そうして この質疑応答で意を強くしたところとしては 次です。 ☆☆(No.2お礼欄) ~~~~~ ● 従いまして、〔* まだ《考える》に目覚めていない日本人たちは〕目が覚めるときが来るときには、目が覚めると。勝手ながら、そう思っておりますが・・・ ☆ 分かりました。このあたりが 落とし所でしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おそらくお二階さんなら ひとつにはなおも従来の《詰め込み教育》をつづけましょうし――たぶん ビートたけしが そういう考えだろうと推測します―― ひとつには もし諦めたのなら ええいっ かくなる上は《愚民化政策》をいっそう強化しようと思うかも知れない。つまりどっちみちけっきょく馬の首に縄をつけてでも水を飲ませどこまでもおれたちについて来いと言って引っ張って行きましょう。 はこぶるさんのご見解では こうだそうです。 ▼ (回答No.6) ~~~~~ (あ) すでに考えられた結果をおこなうことしか望めないか? : そのほうが楽ですし、考えるのは頭の良い人(お上)のやること、という伝統?が強いのではないでしょうか。 国民=本能 お上=自我 というのは全く筋違いの構図でもありませんから、むしろ日本人は諦めの良い人種なのかもしれません。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そしてこの見方に対しては 国民が例の《くにゆづり》を歴史的に経て来ているからには 自分たちがお二階さんを腕づくで引きずりおろすことは しない。一度ゆづったからには おいそれと返してくれと言ったり まして革命を起こしたりすることなどはできない相談であると思っているのだと わたしの見解を添えました。 これが 二階人の思考であるように見えるとは いやはや・・・というところでしょうね。例のつーちょとのおとっつぁんでさえ この史観を自虐的だと評したくらいですからね。お偉いさんが自虐的になるわけがありません。 こんなところでしょうか。
- hakobulu
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#6です。 > (陰の声:こんなにバカ丸出しで表現しているから分かりやすいと思ったのだが。・・・) : 過去の回答者の方々とのすれ違いが起きているように思えたので、それはブラジュさん(だけがとは言いませんが)の表現が難しいからという側面もあるのではないか、と思ったわけです。 すれ違いなどは起きていない、というのであれば、「簡単に~」の件はスルーしていただいて結構です。 頭の良い方たちは、案外、わからないままに論を進めて、その意味をお互いに問うということをしないような気がしたので、ちょっと述べてみただけです。 つまり、お互い、問うていることに対して直截に見解を述べ合うという態勢がどうも稀薄なように感じ、それがすれ違いの大元になっているのではないか、ということです。 ま、こんな単純なことで苦労されるはずはないでしょうから、わたしの思い過ごしだったのでしょう。 > けっきょく或る程度ていねいにしっかりと《クウキ》論を明らかにしてその上で《考える人たるべし》を唱えたとしても おそらくそもそも《クウキ もしくは KY 》の議論だというその初っ端から 多くの人にとってはお呼びでないという反応を持ってしまう。のではないか? : それは全く逆ではないか、と私には思われます。 ブラジュさんの過去の質問内容を全て把握していなければブラジュさんに回答することはできなくなってしまいませんか? そういった姿勢であるならば。 こういった点もわかりづらさの一要因になっているような気がします。 それはさておき、とりあえず本題に戻ります。 > ☆ これは 《お上志向・長い者には巻かれろ・寄らば大樹の陰・泣く子と地頭には勝てぬ》の刷り込みあるいは この頃は DNA とさえ言うようになっていますね の問題でしょうか? そういう側面もあるということのようですね。 : 側面というか、むしろ根源と私は思っています。 他の方のご質問でも回答したとおり、島国・天皇制ということです。 >そして片や そのような心的現象について哲学があたかもメスを入れるかのごとく考えることをおこなうという事態に対して それはやめろ・要らんことはするなという大合唱をうたうこととは 互いに別だと考えるのです : そういう事態に対して それはやめろ・要らんことはするなと大合唱しているわけではないのでしょう。 13の同意は、事態の中身に対する同意ではなく、単に感情的な尻馬状態になっているはずです。 つまり、#1さんの投稿内容そのものが適切な回答足り得ているか否か、に関しての検討が殆んど行なわれていないと考えるべきでしょう。 そういった意味での大合唱です。 つまり、内容より姿勢がおそらく気に入らない、ということだろうと感じます。 菅さんの立場と少し似ているかもしれません。 みんなと同じ認識なので安心だ、大いに突っ込んでやろうじゃないか、といった感覚なのでしょう。 この場合、論理で対抗しようとするのは難しいような気がします。 相手の感情に目を向ければ、堂々と対抗もできるでしょうし、堂々と無視もできるでしょうし、あるいは何らかの新しい視点を開拓なさるかもしれません。 喧嘩はむしろ良いことだと私は思っていますが、言葉遣いに関する暗黙の了解が破綻しない状態で扱わないとお互いに問答無用、一刀両断切捨てご免、的なバトルになってしまうでしょう。 さらに、表現が簡潔でなく、わかりづらければ、たとえば剣道の試合を申し込んだつもりが、相手はボクシングのグローブを手にはめてきたりする。 丁々発止の渡り合いは望むべくもなく、ずるいとか卑怯とか言った罵詈雑言合戦が始まってしまう。 どうもこういった印象があります。 違っていたら申し訳ないですが。 >突出してはいかん。・・・という《アドワ゛イス》を与えようとする動きは これは 多少ともへそを曲げなければ出来ないはずではないか? : おっしゃるとおりと思いますが、なぜへそを曲げているのかという点について感情的原因が、ある時点で生じたのではないでしょうか。 案外、実につまらない一言が要因になっているような気もするのですけどね・・・。 それに、嫉妬やら尾ひれがついて、どんどん膨らんでいった、という状況。 >つまり 《超自我》は もうほとんどどこにも見出されないとかれらは《さとった》のではないか? : つまるところは、と注釈を付けますが、単なる反射神経的な反応にすぎないでしょう。 >しかし 13人の方々は読んでおられるということなのですね : 実数は半分あるかないか、というところでしょう。 一人で5、6個以上のIDを持っている場合もあるようですから。
お礼
二点ないし三点あると思います。ご回答をありがとうございます。 §1 話し合いにおける食い違いについてです。 ★ ~~~~~~~ おっしゃるとおりと思いますが、なぜへそを曲げているのかという点について感情的原因が、ある時点で生じたのではないでしょうか。 案外、実につまらない一言が要因になっているような気もするのですけどね・・・。 それに、嫉妬やら尾ひれがついて、どんどん膨らんでいった、という状況。 ~~~~~~~~~ ☆ これは 分かっていることがひとつあります。 ○ わたくしは 相手との情感の共有あるいは相手と同じところにいるという場の共有を 意図して表明しない。 ☆ これです。理屈抜きの《おれとおまえ》のツーカーなる関係状態を わざとつくらないことにしています。ぶっきらぼうなのですが それは ひじょうにつめたいと感じられるかも知れません。でも それは おこないません。 なぜなら そのような結局は馴れあい関係になると 自己表現に枷をはめられてくるからです。多少とも そのおそれがあるからには やめています。 具体的になぜそのようなクセを身につけたかと言えば こちらが誠実に 接し続けていても――その馴れ合い関係さえをも誠実に保っていたとしても ――相手は あからさまにではなくても・ということはわたくしのいない所 ではという意味ですが そのツーカー状態において多少とも成り立ってい る相互理解などを破っているということがほとんどだったということから です。 ぢゃあ いっそのこと そういう悪友関係には入らないと決めました。 §2 食い違いを放っておくのではなく 互いに情感において・あるいは人情として 埋めようとする気がわたしに起こらないのは その浪花節関係に入ると 自由な表現に足かせがはめられるからというのは けっきょくわたくしがいわゆる《常識》に対する批判者であるからです。 言いかえると 批判するという意味で常識破りをつねとするわたくしを けっきょくは友も知り合いも去って行った。むかしの人たちは そういう傾向だったというのも いまひとつの実情に即した見方です。 あなたも天皇制や奴隷根性を言っていますが わたしは 聖徳なるぼんくら太子などと言っていますから。 ★ ~~~~~~~~ > けっきょく或る程度ていねいにしっかりと《クウキ》論を明らかにしてその上で《考える人たるべし》を唱えたとしても おそらくそもそも《クウキ もしくは KY 》の議論だというその初っ端から 多くの人にとってはお呼びでないという反応を持ってしまう。のではないか? : それは全く逆ではないか、と私には思われます。 ブラジュさんの過去の質問内容を全て把握していなければブラジュさんに回答することはできなくなってしまいませんか? ~~~~~~~~~~~ ☆ ここは よく分かりませんでした。つまりわたしの感覚としては 多少ともぶらじゅろんぬの名前を知ったあとは あぁまた《クウキと KY 》かとその表題を見ただけで嫌悪感をもよおす。という意味で言いましたが その逆ですか? つまりあるいは初見であっても これは常識破りだなと趣旨説明から分かれば その時点で拒否反応が人びとには起こるという意味ですが。 つまりもっと言えば わたくしは その言い方としては 拒否反応を起こさせるように表現をえらんで使っているとさえ言えると思います。それほど意識してはいませんでしたが たぶんそのように進んで来たものと思います。 つまりそれほど 常識一般の人びとからは へだたりをつけられていたといったところでしょう。人びとが去って行ったあと そのような距離関係がつくられて行ったという意味です。 はこぶるさんは どうもそうではないと感じられますから その意味で=一般性を持つ場におられるという意味で 正統派ではないか。批判者であると同時に 正統派として見られている。という意味です。(憶測です。事情を知っていることではないですから)。 §3 日本人のお上志向 ★ ~~~~~~ > ☆ これは 《お上志向・長い者には巻かれろ・寄らば大樹の陰・泣く子と地頭には勝てぬ》の刷り込みあるいは この頃は DNA とさえ言うようになっていますね の問題でしょうか? そういう側面もあるということのようですね。 : 側面というか、むしろ根源と私は思っています。 他の方のご質問でも回答したとおり、島国・天皇制ということです。 ~~~~~~~~ ☆ 《根源》でもよいと思いますが そのような人間類型になるに到ったさらにその以前の経緯はあると考えます。 これは いつも言っていますが 《くにゆづり》という――神話の話に過ぎないことですが 何がしかの歴史的真実を物語ると思われるところの――事情があったと見ることでありまたそこに見られる人びとの心性です。 天皇制に到る以前に 両勢力のせめぎ合いがあって 一方は他方に対して《道をゆづった》。こういういきさつです。 もっと言えば 天皇の血筋として すでにその以前に互いに 《ゆづりあい》を――つまり《和》を――自分たちの好む共同自治 のあり方として打ち建てた共同体があったとも見ています。 崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトの時代です。西暦300 年頃のことです。 あるいは神話では 天皇家のアマテラスとそして国をゆづった 側のオホクニヌシの先祖のスサノヲとは 実の姉と弟です。 ですから 《根源》でもよいのですが それは 一度くにをゆづったからには あとからおいそれと 返してくれとか ぢゃあ革命を起こすぞとかは言えない。まづ言えない。どれだけ卑屈になっても ただただ服従の道をあゆみ その中から・その過程において 相手がその人間性を取り戻すこと このひとつのコトをのみ願い祈るほかない。 民主主義の世の中になっても――スサノヲ市民の中から アマアガリを目指す者も自由に出ているわけですが―― そのアマテラス側は あのときの国ゆづりには 自分たちの側に咎があった。服属の要求をしたからには。と言って 自発的なアマクダリをするかと言えば なかなかそれも望めません。そういう情況ではないかと見ています。 §4 そのほかの主題についてです。ですから ★ ~~~~~~ >つまり 《超自我》は もうほとんどどこにも見出されないとかれらは《さとった》のではないか? : つまるところは、と注釈を付けますが、単なる反射神経的な反応にすぎないでしょう。 ~~~~~~~~~ ☆ というとき 少数でも《さとった》人間たちもいるはずです。と見ています。 ★ ~~~~~~~~~ >しかし 13人の方々は読んでおられるということなのですね : 実数は半分あるかないか、というところでしょう。 一人で5、6個以上のIDを持っている場合もあるようですから。 ~~~~~~~~~~~ ☆ 質問者からの歓迎の意としてわたくしが 一票を入れていますので 12が実数ですね。 ただこの場合だけに限って考えてみるとですが 短い時間のうちに 一気に13となっているのです。 ですから そのような新しい・複数個の ID 保持者のしわざであるか それとも12という実数がそのまま人数を表わしているかだと推し測ります。後者の可能性をまだ取り除かないでいます。
こんにちは。 お返事ありがとうございます。 実はこの書き込みの前に長々と書いたのですがあまりにも長くて申し訳ないので書き直しました。 多少の誤解も見受けられますが、基本的に先の私のコメントには失礼な点がいくつかあったのは認めます。申し訳ありません。 さて、ゴースト論とクウキ論がキーポイントならずとも重要な基点の一つになっている事は間違いないと思います。 少なくとも現時点では。 しかし、ゴーストは捕まえられないし滅ぼせないからゴーストなのであって、そんなものを相手に格闘しても虚しい結果に終わる事になるのではないでしょうか。ゴーストの属性は元から「死」ですから、長くかかるかもしれませんがいずれにしろ放っておけば死にます。大切なのはその死に巻き込まれない事。 クウキ論も仰る通り単なる力学的なものであり、それ以上でもそれ以下でもありません。 だから重力に反して空を飛べる様になる揚力を身につけて好きな国に好きな時に行ける様自由な身になっていたいですね^^ だいぶ端折ってしまったのですが、自分の頭の中では一所懸命かいた記憶がある(寝不足で頭が回っていません。ご容赦ください)のでそれを知らない他人が読むと支離滅裂かもです。何かありましたら遠慮なく仰ってください。
お礼
外交官(アポストロス)さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 実はこの書き込みの前に長々と書いたのですがあまりにも長くて申し訳ないので書き直しました。 ☆ 構いませんよ 長くても。簡潔なもののほうがいいかとは思いますが。 ★ クウキ論 ☆ はよい質問者を得て よい質疑応答がなされるとよいがと思うのですが。わたしも何かヒラメキを得れば そうしたいとも思います。 【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6117420.html という質問がすでにあります。これは 現象面から議論をすすめたかたちです。 ★ ~~~~~~~ クウキ論も仰る通り単なる力学的なものであり、それ以上でもそれ以下でもありません。 だから重力に反して空を飛べる様になる揚力を身につけて好きな国に好きな時に行ける様自由な身になっていたいですね^^ だいぶ端折ってしまったのですが、・・・ ~~~~~~~~~ ☆ これは 詩の言葉で対処していますね。つまり端折っているかも知れません。まとまれば――たとえば この質問でのほかの回答と噛み合わせて述べるかたちもあり得ますから―― 書き込んでください。 ★ ゴースト論 ☆ わたしはこれをアクマ論と捉えます。これについては すでにいくらかの質疑応答があります。ひとつを挙げておきます。 【Q:アクマとは《第二の死》へといざなうはたらきである。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6531809.html ★ ~~~~~~~ しかし、ゴーストは捕まえられないし滅ぼせないからゴーストなのであって、そんなものを相手に格闘しても虚しい結果に終わる事になるのではないでしょうか。ゴーストの属性は元から「死」ですから、長くかかるかもしれませんがいずれにしろ放っておけば死にます。大切なのはその死に巻き込まれない事。 ~~~~~~~~~ ☆ お互い これからも具体的な事例に即して捉えて行くといったことも課題であろうかと考えます。 聖書からひとくだりを引いておきます。 ▼(ヘブライ人への手紙 2:5-18) ~~~~ 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。ある個所で、次のようにはっきり証しされています。 あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。 また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。 あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、 栄光と栄誉の冠を授け、 すべてのものを、その足の下に従わせられました。 (詩編8:4-6) 「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。 事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、 わたしは、あなたの名を わたしの兄弟たちに知らせ、 集会の中であなたを賛美します。 (詩編22:22) と言い、また、 わたしは神に信頼します。 (イザヤ書8:17) と言い、更にまた、 ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます。 (イザヤ書8:18) と言われます。 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。 ~~~~~~~~ ☆ キリスト・イエスが 悪魔をすでにほろぼしたという主題について次のように捉えます。 ☆☆(【Q:麦と毒麦 またはメフィスト―フェレス】No.4お礼欄)~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6499521.html 次に述べることは アウグスティヌスのうろ覚えです。申し訳ないですが いまはそういう格好です。 悪魔は すべてを否定するけれども 自分を否定することは出来ない。自分の存在が無になるということについては あたまが回らない。永遠の存在だと思っている。百年内外を生きて死んだとしても 世界に生き続けると思っている。 ですから かのイエスというナザレの人間が 自分の無実を主張しつつも神の子だと言うその発言について死罪をうったえるユダヤ人たちの手の中に落ち入って とうとう磔になったとき 最期の最期までその死地に従順だった。 ところがかの悪魔は その死の淵までは来なかった。来ることが出来なかった。《死》は自分のあたまの中で考えられないのだと思われる。いえ 想像はするのであろうが 実際の死の淵にまでは自分の身を置いてみるということは かなわない。出来ない。 どうしてか よく分かりませんが 実地に死におもむくと ひょっとすると すでに今の状態が死んでいるのであるから ひょっとして死の淵にみづからを立たせると かえって生きるという状態に戻るのかも分かりません。 ただししかも その生きた状態に戻ったあと・つまり復活したあと もうあとはただちに死ぬ。みづからの姿はたちまち消える。ということから 死を恐れるのかも分かりません。 さらにつまりは 相手や周りの皆が死ぬことは 何ともないわけです。自分と同じ状態になったと むしろ喜んでいる。けれども自分の死にかんしては 精神錯乱になるほどおそれるのではないかと推測されます。 ~~~~~~~~~~~~~ おたがいに・そしてみなさんともども さらに充実した理論的な探究ができればよいと思っています。
お礼
☆☆ 日本人に《考える》を望むのは無理か? ☆ と問うているのならば けっきょく日本の歴史全体について吟味検証することにもなります。あらゆる分野について 少なくとも基本的なことがらを取り上げ検証しておくといった作業にさえなるかと。 でも――ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。―― ここは 政治経済のこれからを見守るという一応の姿勢が出たところで 締めくくりとしましょうか。 そう言えば 衣食住のうち 住宅については もっと広い部屋の家がふつうになっていくとよいと思っております。ほかは 向上して行くと思います。 【Q:《わたし》のよみがえりを・・・】で ははんははんさんという方が投稿を寄せてくれました。その内容からわたしは ひどっちさんなら適切なお応えを返されるであろうとヒラメキました。ちょっと覗いてみていただければ さいわいです。 それでは あたらしい舞台へ。