こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。
> クウキ論 まだためらっています。
おそらく、(民衆による)空気論のみでは、解釈不可能かと思われます。
何故、かような空気を産み出されたのか?
もっともらしいことを主張して、訳の分からない空気を産出し、日本の経済に打撃を与え続けた輩達がおります。しかも、自説の通りにしたが、失敗し,その責任を取ったものはただの一人もいないとう連中のことでございます。”芸術”もそうでございましたが、”知識人”、”評論家”の果たした役割、失敗は反省すべきかと考えております。一言で申しますと、悪鬼のごとき似非知識人の責任は重大と考えております。
「1990年代以降、日本経済の低迷とは反比例するがごとく拡大を続け、わが世の春を謳歌した市場、それが「エコノミストあるいは経済評論家」と呼ばれる人たちの市場だと著者は論じる。経済の先行きを予測して市場に示唆を与える役割とは別に、自らの声(分析・予測)に注目を集め、「声の市場」の拡大を図るべく「もっともらしい解釈を見つける」ことに奔走するのが彼らの持つ一面だと厳しく批判する。」
しかも、
「だが今だかつて,自説の通りに経済運営をしたのに失敗し,その責任を取ったエコノミストはただの一人もいないのである。」のだそうです。
東谷暁著 「エコノミストは信用できるか」(文春新書)
参考:http://www.wound-treatment.jp/next/dokusho64.htm
しかしその後、アメリカ様の金融危機に伴い、 日本のエコノミスト達は、わが世の春をもはや謳歌できなくなり、”ブレまくり”を繰り返しているようでございます。
「米国発の大不況によって世界経済の局面は一変した。神様グリーンスパンの名声は地に落ち、ノーベル賞を受賞したクルーグマンは日本に謝罪した。アメリカという手本が消えたとき、日本のエコノミスト達にとっての「大恐慌」が始まった。」
東谷暁著「エコノミストを格付けする」(文藝春秋)
> ★《模倣ファッション》、見栄えのみを誇示すべくブランド・ステータスばかり追いかける“猿真似ファッション”、思考するのを止めて他人のふんどしで相撲をとりたがる“似非知識人”、これらには辟易させられております。 ☆ 名の通った論客や学者の名前を出して論ぜよと言われたことがありました。
上述のような失敗を見さされ続けても、なお参考にしろ!、と言われましても・・・
ふと、以下のヴァージニア・ウルフ女史の言葉を思い出してしまいました。
"As I leant against the wall the University indeed seemed a sanctuary in which are preserved rare types which would soon be obsolete if left to fight for existence on the pavement of the Strand."
Virginia Woolf
「壁にもたれたとき、大学(おそらく、オックスフォード)というのは、ストランド街(ロンドンの繁華街)の舗道で生存競争にさらされると直ちに退化してしまうような珍種を保存している聖域であるように思われた。」(ヒドッチ訳)
おそらく、退化・絶滅寸前の珍種のお仲間なのでしょうか。もしくは、小難しい金融工学を用いて、格付け”BBB”のものを巧みに”AAA”とさせ、顧客に売りつけていたウォール街の連中と同じタイプの人なのかもしれません。愚生ことヒドッチ君のオツムではついては行けないようでございます。
最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
☆☆ 日本人に《考える》を望むのは無理か? ☆ と問うているのならば けっきょく日本の歴史全体について吟味検証することにもなります。あらゆる分野について 少なくとも基本的なことがらを取り上げ検証しておくといった作業にさえなるかと。 でも――ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。―― ここは 政治経済のこれからを見守るという一応の姿勢が出たところで 締めくくりとしましょうか。 そう言えば 衣食住のうち 住宅については もっと広い部屋の家がふつうになっていくとよいと思っております。ほかは 向上して行くと思います。 【Q:《わたし》のよみがえりを・・・】で ははんははんさんという方が投稿を寄せてくれました。その内容からわたしは ひどっちさんなら適切なお応えを返されるであろうとヒラメキました。ちょっと覗いてみていただければ さいわいです。 それでは あたらしい舞台へ。