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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:われら日本人に《考える》を望むのは無理なのか?)

われら日本人に考えるを望むのは無理なのか?

このQ&Aのポイント
  • 日本人が考えることを望むのは難しいのか?
  • 日本人の中で考える人々は少なく、望みは薄いのか?
  • 現実の前に立つ日本人はどうすればいいのか?

質問者が選んだベストアンサー

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noname#207138
noname#207138
回答No.3

こんにちは。 私の知人にも同じ様な事を言っている人が居ます。 その人はこういうサイトは利用しないタイプなので、その人の場合はリアルに接している人々を指しての言葉です。 私もリアルの関係だと言葉選びに慎重であったり、相手への敬意(もしくはそのポーズに準ずるもの)などの表現が欠かされる事がネット上よりも大幅に減ったり、対面なのでネット上の責任感の無さが軽減される等々様々な理由により、相手の思考レベルや思考停止具合に葛藤を覚える事は減りますが、ネット上では質問者さまと似た様な事を感じます。 私も最近はその毛があるのですが、リアルでは言えない不満などをぶつける事もできますし、責任感が薄くなるので言葉も荒くなりがちだし、思考も浅はかな状態で発言しがちです。 ですから、そういう意味を含めてこのサイトにはカスが集まる率が凄まじいという認識を持っています。 つまりカスが出現したら、付き合える範囲で知性の世界を共有しようとするが、無理な場合は無視したりストレスのはけ口にしたり。 この世から消滅すれば良いのに…いやいっその事この烏合の衆の世界から解放されるのであればむしろ自分を消滅させてくれと思う事もありますね(笑) 大学まではどうして進学するとお思いですか? 本当にその学問を身につけたいからでしょうか? 大半の人は学歴と言う盾、学歴と言うパワー、学歴と言うセーフティスペース、学歴というetc…が欲しいから行くのではないでしょうか? つまり、知性を身につけたくて行く者はあまり居ないという事です。 少なくとも私の見立てでは。 ペンは剣よりも強しという言葉がありますが、その精神が同じなら質も同じ。 ただの暴力に過ぎず、強いならその分よけいたちが悪いという事になりますが、この区別すらつけずに生きている人も多いでしょう。 自らも行っている他人のその行為が形を変えて自分を襲っており、それによって悩んでいるが自省はゼロ。 「人格無き学識」は大罪の一つに数えられていますし、私も心底そう思います。 底抜けのバカで有害度合いが圧倒的に高い知性レベルの人間が自身を知的だと考えている事はこのサイトの中ではよく見る光景です。 No.2さんは教育を変えるという意見を出していらっしゃいますが、私はその効果のほどはあまり期待できません。 政治が変われば社会が変わると信じている人が居る様ですが、どこをどう受け取ればそう信じる事ができるのか解りません。 国民一人一人が変わらなければ教育や政治などの制度が変わったところで大した差は生じないのではないかと思っています。 ですが、自分を「OKな部類だ」と考えている人間にはそれは無理です。 何しろ「OKだ」と思っているのですから(笑) 地球を食い荒らしている事に対して必要量自制できていない事、自身でさえどうでも良いと思っている事に基づいて他人を傷つけ殺す性質を毎日遺憾なく発揮している事、自省心が必要量に対して圧倒的に小さく弱い事、などなど、「ともすれば自分否定」とも思える思想を排除する傾向にあります。 欠点を見た時にそれを受け入れられない性質のせいです。 これには忍耐も必要ですし、観察力も必要、自制心も必要ですし、自省心も必要、相手の正しいニーズに応えようとする親切心も必要です。 これら「人間として基本的な事」が知性を育むのであって、学校で何を教わろうが剣を与えるだけになってしまうのはもう今の経済至上主義とも言える世の中では必然です。 知よりも力が必要なのであり、その力は知を装えないといけないのですから。 自己欺瞞は多分に含まれた状態で。 つまり恐怖、不安、などの負の気持ちが今の世の中の人たちを突き動かしているモチベーションになっている事が多く、その自覚から逃げないと恐怖や不安から逃れられませんから人生が精神的な領域で台無しになってしまいます。 これを解消するのは「代替え世界の提供」しかないかな~と漠然と思います。 恐怖や不安に対する自制心の弱さを裸、それ故の世界観にどっぷり使っている状態を穴蔵に閉じこもっていると例えると、日光の下に裸で出られるほどハートが強い人間はあまり居ませんから、追いつめられるか、服を与える事によってしか穴蔵からは出てこない。 この場合の「服」は世界観、価値観、思想体系などです。 生活の質を落とさず、現状でさえ不安定な生活をよけい不安定にさせるのではないかという不安を感じさせないですーっと移行できる世界が「服」です。 質問者さまにできそうでしょうか? 私には大分ハードルが高い行為です。 穴蔵に入って行き、しばらく共に過ごし、意識がありそうならそれを育む事によって共に穴から出る。 キリストでも仏陀でも彼らが居る間だけ少しだけ変えられただけです。 彼らが居なくなったとはすぐに光を見失い、烏合の衆になってしまう。 知性による論理などの働きかけではほぼ確実に恐怖や不安に打ち勝つ精神を持ってもらうのは無理。 だってバカほど強いでしょ?人の話を聞かないのだから。 そういう輩を相手に少しでも良い生活を望んだら自分も腕力を持つしかない。 腕力と知力のバランスをとらなければならないが、根本的に社会的責任や義務よりも快楽を追求する。 こんながんじがらめ状態で服を着て外に出ろと言っても、言っている本人が日光の下で服を着て人生を価値ある物として体験している姿が見えなければ、外の世界に対する疑いは拭えません。 外の世界に出ればそこかしこに居眠り運転野郎が猛スピードで走っていますから、けがもするしピリピリもするし、腕力を振るう姿を見せる事も増える。 これは「楽しそうに見えない」のです(笑) 何が悲しくて楽しそうでない世界に足を向けなければならないのか? 目的が無いからです。 人間とは何か、世界とはなんで、その関係は何か、自分はこの世界(多くの場合経済社会という意味では必ずしも無く、ありのままのこの地球という世界)に何ができるか、etc。 こうした目的意識が「楽しそうでも無い世界」へ向かうモチベーションになります。 目的を持って生きるという事が「楽しそうな世界に勝る」事が解っているからです。 ではどうやって「目的」を与えるか。 ここがネックです。 目的さえあれば、知性の低さはそう時間がかからず補えます。 ですが目的がなければ知性の無さに気付く事も無理でしょう。 「経済社会の中で低く見られる→楽しくない世界になってしまう」という恐怖や不安というウィルスがばらまかれています(笑) そういう世界で既にある程度の経済力を持っている人たちが自分たちを少しでも安全で快適なところに位置させ続けるかという点にかなり偏った言動がさらに弱い人たちの恐怖や不安をあおり、ある領域を極めるとまるでそれが良い事かの様に思わせるほどまでに恐怖心や不安感に対する圧倒的な力を演じる。という愚民化政策が施されていると言えます(笑) 莫大な資産をもつ多くの人は「外国人」です(笑) 今のところは自分が自分を鍛えながら山を登るしか無い。 上ればあるところでいい景色が見られるかもしれず、それを写真に撮る事ができたなら、それを見せればあるいは。。。 位ですかね(笑) 弱いという事を悪だと思ってないカスどもには常日頃苛まれます。 お気持ちすごくよくわかります。 他人を諭しつつ抑制しつつ、他人の振り見て我が振り直しつつ、しか道はなくないですか? あったら教えてください(^^) 超長文大変失礼。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。質問者としてのわたしの見方をもろに出して ご見解に反応してまいります。  まづは ご回答をありがとうございます。  ★ 超長文大変失礼。  ☆ わたしの場合は その点 だいじょうぶです。慣れていますから。  ★ 私も最近はその毛があるのですが、リアルでは言えない不満などをぶつける事もできますし、責任感が薄くなるので言葉も荒くなりがちだし、思考も浅はかな状態で発言しがちです。  ☆ ご事情がどうであるかを別として この場合ふたつの問題に分かれるのではないかと思っています。  (あ) 言葉も荒くなりがち  (い) 思考も浅はかな状態で発言しがち  つまり (い)を問題にしています。  べらんめえ口調なら わたしがほとんど誰にも負けませんから。  荒い文体でも 中身がないわけではない。という場合がありますから。  いくらていねいに書いていても 中身がなければ それこそ《カスカス》ですよね。つまり (い)が問題です。  ★ ですから、そういう意味を含めてこのサイトにはカスが集まる率が凄まじいという認識を持っています。  ☆ わたしは しょっちゅうアホとかバカとかと言っているカスです。あるいはわたしは 哲学を専攻したわけではなく その講義にすら出ていません。(《近代日本の哲学》という講義を取ったおぼえは 中身を別として あります。それのみです。あっ 朝日カルチャー講座とかで ボボワールの紹介を8回くらい聴いたことは思い出しましたが)。   つまり 哲学について何も知らなかったカスから出発しています。それでも 考えることくらいは――知識がなくても―― おこなうはずです。  ですから:  ★ 大学まではどうして進学するとお思いですか? [・・・]つまり、知性を身につけたくて行く者はあまり居ないという事です。  ☆ でもよいと思ったりします。はじめはどうであっても そのあとどうなるかではないでしょうか。初めは だいたいカスから出発します。というくらいに受け取っていればよいのでは?  ただし 問答なり対話なりをやるとすれば それは ちょっと違ってくるはずです。  つまり 分からないところは分からないと言って さらに考えて行くこと。こうすれば 何の問題もない。と思います。  ★ 国民一人一人が変わらなければ教育や政治などの制度が変わったところで大した差は生じないのではないかと思っています。  ☆ それはそうなんですけれどね。  ★ 知よりも力が必要なのであり、  ☆ これも そのとおりですね。実際問題としては。  ★ つまり恐怖、不安、などの負の気持ちが今の世の中の人たちを突き動かしているモチベーションになっている事が多く、その自覚から逃げないと恐怖や不安から逃れられませんから人生が精神的な領域で台無しになってしまいます。  ☆ この《不安と恐れ》を 大きく問題にしておられるようですね。  お仕着せの《服》だけでは おそるおそる慣らし運転をするようになるしかないというところでしょうか。  また それは経済生活の側面なのですね。:  ★ 「経済社会の中で低く見られる→楽しくない世界になってしまう」という恐怖や不安というウィルスがばらまかれています(笑)。  ☆ 成功者の振る舞いや発言が 必ずしも恵まれていない境遇の人たちに対して やはり恐れや不安を抱かせる。のですね。それだけで《愚民化政策》としてはたらいているかに見えるとのこと。  ★ 莫大な資産をもつ多くの人は「外国人」です(笑)  ☆ かぁ。  《目的意識》を重んじてもおられます。:  ★ 目的を持って生きるという事が「楽しそうな世界に勝る」事が解っている。  ★ 目的さえあれば、知性の低さはそう時間がかからず補えます。  ☆ そして:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  今のところは自分が自分を鍛えながら山を登るしか無い。  上ればあるところでいい景色が見られるかもしれず、それを写真に撮る事ができたなら、それを見せればあるいは。。。  位ですかね(笑)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ われわれ一人ひとりの努力に俟つところ多しのようなのですね。  わたしは 何を隠そう バカ丸出しで アラシに対してはカスとして相手に発言しているのですが それが効かない・届かないと なかなかさびしいものがありますね。  さらにみなさんのご意見をお聞きしてみたいと思うようになりました。

その他の回答 (11)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.12

B様、こんばんは。 >「なぜ 考えないのか と問うてもよいのではないですか?」 「私は・・・と思う」は、「考える」とは違う、でしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「私は・・・と思う」  ☆ の《・・・》のところが まづ欲しいですね。  その次には その言わば結論について なぜそう思うのか。その理由や論理的な根拠を示して欲しい。  これが 《考える》ということだと思います。  《おまえのかあちゃん 出べそ!》式の発言が いまだに多く 次には 《おれは こう思う。おれが思うんだから そうなんだ》型がつづきます。つまり なぜそう思うのか? ここがミソでありキモになるはずです。

noname#207138
noname#207138
回答No.11

こんにちは。 あまり何度も私ばかり発言するのも申し訳ありませんし、既に過ぎている様に思いますのでこれを最後にしておきます。 ご説明頂いた事は予想はしていましたが、だとすると私とは受け止め方が結構違うので念のために受け止め方に慎重になってみました。 ご丁寧に説明していただきありがとうございます。 私の知り合いに韓国人が何人かいるので、「何から何まで噓で作られている」というのをなはは(^^;)という思いで拝見しました。 ※不愉快な方面に受け取ったという意味ではありませんよ?念のため。 すみません。 質問者さまの事を悪く言うつもりは全くありませんので、それを大前提にお聞き頂きたいのですが。 熟読を繰り返し、一旦離れてから改めて見たりする事によって理解できるのかもしれませんが、その時間と手間は発話者の表現の工夫で回避させるというのが世間一般のマナーと言いますか、通常行われる行為です。 まあ昨今は私も含めてそういった熟考などの「かかりきり」になる思考機会が減っていますから、相手にそういった機会を与えるという意味では良いのかもしれませんが、いかんせん私は質問者さまの着眼点と思われる点に興味がなさそうでモチベーションが上がりません。 >韓国人が何から何まで噓で~言っていいほど~絶望という見方はしない。 この割合を「何から何まで」と言うのであれば私の絶望的という表現も質問者さまと私との間に於いては言い過ぎでない感じです。 私は「確かに噓も目につくが別に言うほど大差はない」程度にしか捉えていないので。 ただ、そこから離れて「絶望的」という言葉を改めて見直すなら「強い言葉を使いすぎました。すみません」という事になります。 まあ世間ではこの程度は良くある事ですが、確かに知的な会話の中では用いるべきではないですね。 改めて軽率な単語を使いました事をお詫びしておきます。 話し合いが成立しない事もまあ広い意味ではカオスの一部と考えますが、私のいうカオスはこの世界の人々の心の有り様です。 もしかすると私の視点は社会全体に偏りがち、質問者さまの視点は1:1/少数のグループの会話という範囲に偏りがちなのでしょうか。。。 だからすれ違いもチラチラでている。 まあ良いです。 私はモチベーションがなくなった時点で能天気です(笑) 「現段階でよくわからない人」で良いです。 いつか「解る人」になるかもしれませんが、急ぐ事もありません。 これからもたまにこのサイトに訪れては質問者さまの質問に目を通す事もあろうかと思います。 その時はまたよろしくお願いします。 では。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    まづ《韓国人はウソばっかり》論についてですが もし我を張って誇張しぎましたと言わないとしたら どうするか。敢えてこう考えるなら 次のようになります。  すなわち そもそもウソが通るという常識になっている。という意味合いになるかと。  すなわち 基本的にウソをつかない人がいるかと思いますがその人も ウソが通るという常識に対して ほとんど無力であるという見方です。  息をするようにウソをつく。という見方は どうも成り立つのではないかと推し測ります。  (在日の人たちは 本国から疎外されている情況がなきにしもあらずですので そのような境遇においては ウソつき人間という像について内に省みるきっかけを持つ時間が多いと思われます。現代韓国人とは区別されるかとも考えます)。  《絶望的》の言葉の問題――こちらに非がなかったわけではないと思いますが―― 了解しました。  さて 次のくだりが 大きくふたつの主題になっているかと受け取ります。:  ( a )★ 熟読を繰り返し、一旦離れてから改めて見たりする事によって理解できるのかもしれませんが、その時間と手間は発話者の表現の工夫で回避させるというのが世間一般のマナーと言いますか、通常行われる行為です。  ( b )★ まあ昨今は私も含めてそういった熟考などの「かかりきり」になる思考機会が減っていますから、相手にそういった機会を与えるという意味では良いのかもしれませんが、いかんせん私は質問者さまの着眼点と思われる点に興味がなさそうでモチベーションが上がりません。  ☆ これら( a )( b )は あるいは 同じひとつの問題であるのかも分かりません。  ひとつ 但し書きを添えます。  それは その場や相手との関係(つまりその場のカラミ)にかかりきりになると言ったのは このように質疑応答の場でやり取りをする場合について言ったものです。基本として そうです。単純にそういう場合のこととして 言ってみれば《現場主義》としてのようなことを言おうとしたものでした。  主題は 別にあるわけです。問い求めとなっている主題であり問題は 別にあります。  その意味では 《着眼点》と言われたことについて必ずしも腑に落ちて理解するまでに到っていないかも分かりません。  《園児》論は もっと大きな主題として・かつ抽象的に表現して議論に挙げておられるようにもうかがわれますので ひょっとすると長丁場の議論になるのかなとは思われます。  またそのうち といったかたちでよいと思います。ということで またどうぞです。

noname#207138
noname#207138
回答No.10

こんにちは。 本当にマメですね。 同じカスになって喧嘩する。 相手からは憎まれ口も聞かれるし、悪態もつかれる事もあるが、私の様にしばらく働きかけた後でもカスで変わる気配を感じなければカスをカスとしてバッサリ切り捨ててしまうよりは人情があって好かれる結果となりますか。。。 ある種見習わなければなりませんね。ある種。 やや尊敬します。 さて、私が質問者さまの文の意を捉えきれないのは、目的が違う事、それに伴う物事の受け捉え方の違い、受け捉えた後の扱い方の違いがあるからだと思うのですが、ではどういう目的を持っているのか、どういう受け捉え方をするのか、どういう扱い方をするのかなどの点で表現されていない部分がチラチラあるからのようですね。 もしかして相手が自分の言葉をどう受け取るかなどを想像する事はあまり得意ではないでしょうか。 私も集中力がないとちょっとアレですが、相手がどう受け取るか、ちゃんと理解できるかを想像しながら話す(書く)と気持ちの良い会話ができる確率があがります。釈迦に説法でしょうが一応改めて念のため。 さてさて。 漠然とこんな感じとしか捉える事ができていません。 まあ質問者さまのやり方が「カスと同じようになって喧嘩をする」のであれば私がその手段をとるのは全体の中のほんの僅か一部ですから、私と質問者さまでは重なる部分も少ないという事になりましょうか。 韓国人の例が何を指しているのか、99匹のくだりの意味は何か解りかねていますが。 >あきらめるよりほかには無いといったことになりませんか? 保育士さんを想像してください。 カオスのまっただ中で暮らす人たちです。 しかもカオスの構成要素である園児一人一人をある程度秩序的に導く役割も担っています。 同じ事です。 園児たちほどかわいくないというのが難ですが、人である以上交流は大切なものですし、交流と言えるのかどうか定かでない相手の雰囲気や言動とのふれ合いもとても大切なものです。 正直”園児”たちにそんなに高い知性は期待していません。 これをあきらめと言えばあきらめと言えると思います。 これは”園児”たちに殺される可能性を含んだ上での話です。バカなんですから殺すしか彼らには道がない時もあるんです。ほんの簡単な工夫で昇華できる事を殺すという方向にしかもっていけないほどバカなのですから。 その前までの段階のお話として。 ”園児”には恐怖をもってであっても秩序内に収まるよう強制する事も必要な時がありますし、園児にそれ以上を求めても自分が辛いだけです。 ただ、我々にはある程度「求める義務」もあり、何の期待もできない絶望的な人間を相手に期待したり、求めたりしなければならない面もあります。 その”義務”を果たしているだけに留まりましょうか。 園児と比べてかわいさが極限まで削られているとしても、依然として人間としての魅力は備えているものです。”園児”でも。 そこの部分で付き合う、感謝する、喜ぶ。 足るを知っていると言っていいのか消極的な小さく納まりヤローと言うべきかはわかりません(笑) 恐らくここまで話すと「自分もそうだよ!」と言う人はわりと居ると思うのです。 でも、実際にはできない。 真摯に真剣に話し合うという事は時に削り合いにもなりますが、少々削られただけでギャーギャー叫びだす者が多い。 これは知性レベルの問題というよりは「慣れ」の問題かと思っています。 でもその「慣れ」を身につけていない現状をさして「バカ」とは言えるかと。 私は幸か不幸か他のところから人生の喜びを得られるので、それらは私の人生を真っ暗にはしません。 結構陰は落としてくれますが(笑) 思慮に富んだ秩序ある会話。 これは私にとっては確かにこの上ない癒しであり、大きな喜びです。 質問者さまがしたいのは会話の行方に必ずしも目標があるわけではなく、単に会話がしたいということになりましょうか? 実情が壊滅的過ぎて久しくそういった望みを忘れていました(笑)

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  自分の評価は措いておいて 参照語句をかかげるのみとします。  ★ (あ) 同じカスになって喧嘩する。  ★ (い) 韓国人の例が何を指しているのか、(う) 99匹のくだりの意味は何か解りかねていますが。  (あ)▲ (パウロ:コリント前書 9章) ~~~~~~~~~~~  19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、     すべての人の奴隷になりました。     できるだけ多くの人を得るためです。  20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。     ユダヤ人を得るためです。     律法に支配されている人に対しては、     わたし自身はそうではないのですが、     律法に支配されている人のようになりました。     律法に支配されている人を得るためです。  21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、        キリストの律法に従っているのですが、     律法を持たない人に対しては、     律法を持たない人のようになりました。     律法を持たない人を得るためです。  22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。     弱い人を得るためです。     すべての人に対してすべてのものになりました。     何とかして何人かでも救うためです。  23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。     それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。  (う)▲ (マタイ福音 18:10-14) ~~~~~~~~~~~~~~~  10: 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。  言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。  12: あなたがたはどう思うか。  ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。  13: はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。  14: そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (い) 韓国人を出したのは 話が通じない事例としてです。  (え)★ もしかして相手が自分の言葉をどう受け取るかなどを想像する事はあまり得意ではないでしょうか。  ☆ おっしゃるとおりですね。相手の反応をすでにあらかじめ予測してものを言うことは 基本的にしません。  失礼なことを言わないというのは 《予測》以前のことですから 別ですが それでもむしろわざと 失礼なこと(または アホバカといったひどい言葉)を使ったりしますから。    ★ さて、私が質問者さまの文の意を捉えきれないのは、目的が違う事、それに伴う物事の受け捉え方の違い、受け捉えた後の扱い方の違いがあるからだと思うのですが、ではどういう目的を持っているのか、どういう受け捉え方をするのか、どういう扱い方をするのかなどの点で表現されていない部分がチラチラあるからのようですね。  ☆ これら(あ)から(え)までのことを全部合わせてみていただくと分かると思います。言ってみればその場にかかりきりになるかたちだと思います。あるいは 相手〔との関係〕にかかりきりになる。でしょうか。  そのあと 少しその場から離れてあらためて見てみるということはあるでしょうけれど。  ★ 《園児》 / カオスの真っただ中 / 秩序へとみちびく / 絶望的な人間  ☆ このお話は 通りすがりに聞いたというだけでは話にならないお話であるように見受けられます。  そんなに《絶望的》なのですか? そこは・その点は わたしの経験にはないですね。  たとえば 現代韓国人は 何から何までウソでつくられています。と言っていいほどだと捉えます。  でも だからと言って 幻滅だとか絶望だとかという見方は しないですね。  もともと 幻想を持っていたわけではなく 希望について思い入れをしていたわけでもない。  相手との話が成り立たない場合 だからと言ってそれをカオスともあまり見ないですね。そして そこから秩序へあゆもうとも導こうともあまり思わない。  あぁ これぢゃお手上げだと言って 放っておきます。ときを俟つというかたちですね。もっと言えば 能天気です。  人びとよ 何とかもっと考えるようになってくれとは思いますが どうにかしてそちらの方へみちびこうとは思っていないからです。  とつづって来ましたが この《園児》論 これは むつかしいです。まだ内実を捉えたわけではありません。まだ分かりません。  このようにお伝えすべきかと考えます。

回答No.9

脳の機能には、社会で働くためのテクニカルな知識= 単発的な詰め込みの情報(量)と、統合された環境と しての認識=ネットワーク化された情報(質)がある。 助け合っている社会で生きる上で、自己の生の社会的 拡張を把握できるだけの認識の深まりが伴えば、生命 として根源的な生きる意志の延長として自律的に社会 行動がとれるが、お金や出世といった“馬車馬の目の前 のニンジン”によって他律的に生かされるなら、反射的 な行動に留まるので、詰め込み知識の応用=思考力は 育たない。

bragelonne
質問者

お礼

 《テクニカルな知識》が どうして《単発的な詰め込み》で終わると見るのか?  お金を得たいために働いていて会社におけるマチガイを知ったら つい《反射的な行動》としてこれを指摘してしまう。詰め込み知識によって・あるいはそれ以前の生まれつきそなわった自然本性のチカラによって仕事をし人間としてのつとめを果たす。ことが考えられます。  などなどといったツッコミがありますが それもこれもみな 《無に還元してしまう》なら どうなりますか?  ご回答をありがとうございます。

  • Key_A
  • ベストアンサー率9% (55/603)
回答No.8

質問者のような思考形態を持つことが考えるというならば、 人間には無理です。通常の人間は質問者のように病んでいません。 そんなに疑問に感じることがあれば、心療内科の専門医に相談し、 年単位の長期加療を考え、こんなところに落書きするしかない その矮小な性根を治療してもらいましょう。 うわごとなのでアンケートカテゴリがふさわしいでしょう。 あそこならば病人の落書きも許可されていますから。 いつまで持論を哲学と勘違いしているのですか? 恥ずかしいですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 質問者のような思考形態を持つことが考えるというならば、  ☆ これは 趣旨説明欄における文章について《思考形態》と言ったわけですね。  ★ 人間には無理です。  ☆ 理由は?  ★ 通常の人間は質問者のように病んでいません。  ☆ その思考形態が《病んでいる》と規定するなら その理由を明らかにしなければいけません。さもなければ ご自分が病んでいることになります。  あとは 同じことで応えることになります。  もしくは 言いにくいことですが ご自身のことをそのままおっしゃっている。こうなりましょう。お大事に。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.7

へえ。 >「われら日本人」 誰? >「(あ) すでに考えられた結果を受け留めることしか望めないのか?」 「われら日本人」が、という文脈ですね。 >「(い) われら考える日本人は 少数であるゆえに 悪貨は良貨を駆逐するの慣わしの前に望みは薄いとあきらめねばならないか?」 あれあれ、ここで「われら考える日本人」という、区別された存在が、現れたようです。 >「(う) 哲学以前あるいはさらにへたをすると人間以前という実際を目の前にして どうすればよいか?  (え) 足の引っ張り合いなるたたかいに まだしばらくは 対処していかねばならない情況であろうか?」 では、「B様は、人間ですか」と、問うてみましょう。

bragelonne
質問者

お礼

 意味が分かりません。  《人間》であるなら 誰もが《足の引っ張り合い》をおこなう。ということですか?  人間であるなら 《考えるわれら日本人》と《考えることをしないわれら日本人》とに分けることはない。という意味ですか?  もしそうだとしたら その同じ人間であるからには 互いに違ったありさまについて尋ね合ってもよいのではないですか?  なぜ 考えないのか と問うてもよいのではないですか?  ご回答をありがとうございます。

noname#207138
noname#207138
回答No.6

こんにちは。 質問者さまはマメと言いますかなんと言いますか… 表現方法に独特な物があってたまにこのサイトに来て質問者さまの比較的長めのやりとりを全て見る気力には欠けている私には理解できない表現もチラチラありつつも、基本どのようなカスにも律儀に返信している様に見えます。 エラいですね(笑) >でもよいと思ったりします。はじめはどうであっても そのあとどうなるかではないでしょうか。 >初めは だいたいカスから出発します。というくらいに受け取っていればよいのでは? 学問(学識)そのものに罪は全くないと思っています。 (※面白くはあっても大した真は見受けられない事も多いかとも思いますが) ただ、「人格無き」学識が問題かと。 そして、下手に学識を身につけてしまったばかりに自らの人格の無さに気付くに非常に遠い人を見かける時、「学歴」の魔力(笑)と思わざるを得ないというだけのお話です。 こう言っている私だってある経験が無ければひとたまりも無かったと思います。 博士でも小卒より知性に欠ける人が居るのは何も不思議な事ではない事、そして実際に結構存在している事はご理解されていると思いますが。 本当に知性と呼べる知性は学校生活からは学ぶ事はできても授業では学ぶ事はできないと思っています。 授業で学べるのは知性が働く時に使う道具としての知識。 道具があってもそれをどう使えば良いのか理解している頭とそれを実際に使う体が無ければ知識など文字を覚えている程度のもの。 1. あ、い、う、え、おと書ける事 2. それぞれの文字の違いを認識している事 3. 1、2を踏まえてそれをどう並べたら相手に思いを伝えられる意味に組み立てる事ができるか の3段階があるとして、授業では1と2を、学校生活、社会生活では3を学びます。 ところが3が身に付いてないのに1と2ができる事を誇ってる、こちらがどういう顔をしていれば良いのか解らない人を目前にする事はたまにある。 特にネット上ではそれが顕著にでますでしょ? >それが効かないと、届かないと、なかなかさびしいものが~ そんなものに寂しさを覚えているようではこれからの世の中もっときつくなって行くと思われます。 バカの増殖スピードと意識ある人間との関係は自然が命を育むスピードと人間が地球環境を破壊するスピードの関係に似ています。 弱いとバカは紙一重ほどの差もない。 ほぼ同一だが同一ではない。同一ではないがほぼ同一。 弱さは過剰防衛を生み、過剰防衛の別名は無秩序ですからね。 バカとメンタル弱者の両方がこれからどんどん増えて行くでしょう。 彼らも自らを認めたい自己承認欲求はありますから、自らのバカさ、弱さを正当化し、シンプルな真実を歪め、自分たちこそ優れていると考える様になるでしょう。。。 というか既にそう考えているタイプが多数派にも。。。 この者たちは自分たちを嫌悪しているもの、認めていないものをサメが数キロ先の血の匂いを嗅ぎ付ける様にかぎつけ、「和」を造る努力を放棄して調和の道を断つ。 彼らには対話という手段は働きません。 何が正しい事なのか、どうあるべきなのか、こうした対話をする事の大切さなど、自分を嫌っている事、自分を認めていない事の前にはどうでも良い事なのです。 "何故"嫌われているのか、"何故"認められていないのかの"原因"も彼らにはどうでも良い事。 彼らにとっての問題は「嫌われている事、認められていない事/好かれている事、認められている事」が全てなのです。 彼らは自らの行いが正とか義とかに基づいていない事を十分に知っているのでしょう。潜在的には。 だから対話ができず、現状のままの自分を受け入れる者なのか否なのかしか興味どころが無い。 自身が努力して変化する事、そうして人間関係を築いて行くという側面は彼らにはなく、どれだけ受け入れるかによって築いて行く側面にしか興味も主張もない。 山は東からしか上れない事はありませんからね。 もしかしたら彼らのいう受け入れるだけでも頂上まで行けるのかもしれない。 ただ、楽に見えてとんでもなく遠回りの険しい道だと思うので、結果的に楽な道を歩くために私は自省は省けませんが。 バカと言っても弱いと言ってもどちらと読んでも差し支えない。 同一ではないが、ほぼ同一です。 弱さを弱いままで良いのだなどと言っているだけで最低限の知性を身につけようともしない連中が力を持つために必死に勉強している世の中です。 カスな世界にしかならないのはリンゴが木から落ちるのを見るのと同じ位当たり前のフローです。 聖書で言うところの「この世の神」と呼ばれる悪魔でも居るんじゃないですか?(笑) でなければこのスピードはあまりにも早過ぎます(笑) ここまでにもし同意頂いたとしたならばですが。 バカ弱者のパワーは圧倒的でしょう? バカ弱者の暴力は赦されますが、そうでない者が暴力を振るえばバカ弱者どもは恥ずかし気もなく群れてさらに大きな暴力を振るう。 最初に自分たちが暴力を振るっている事には目をつぶり、2ステップ目で暴力を振るわれた事にしか彼らの興味は無く、自分たちに暴力を振るって来た悪者を退治する正義の手段なのです。 カスさ加減が圧倒的でしょう? ガンジーの様に非暴力、不服従の姿勢でしか彼らには話が通じない気がする。 彼らに届くまで何年位サンドバックをやれば良いのか不明ですが、サンドバック対話中に不満が生じればそれを”刑期”延長のネタにするでしょうし。 彼らは根本的に「変わりたくない」し、「自非を認めたくない」し「義務を果たす努力をしたくない」し「快楽は得たい」のです。 これらがベースでぐるぐる渦巻いているのに目的意識もなければ既存の造られた世界観/価値観を持ってるだけの連中が抜け出せる筈なくないですか? これを本能的に解ってるとしたら? バカ弱者になってしまう方が楽っぽくないですか? これが政策と言えば政策。ウィルスと言えばウィルス。 まー彼らの気持ちは解らなくもないです。 私には恥ずかしくてできない事だからできないだけです。 やらないのでもあり、やりたくないのでもあり、できない事でもあるのです。 そうでなければバカ弱者は今の世界の覇者じゃないですか?(笑) そんな彼らも一人のときはとんでもなく恐怖と不安に襲われるんでしょうが自業自得ですし、近寄れませんから手を差し伸べる事もできません(´ι_` )

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《カスとその克服》論等々。あぽっするさんは 《考える》を《倫理や人格形成にかかわる知性》の問題としておもに捉えておられますね。  とうぜんそうなのですが まぁ いまのところわたしとしましては まったく直截に《もっと考えよう》という単純な呼びかけをするかたちを採って行こうとは考えています。(知性の問題はそれとして別仕立てで問うかたちを採りたいといった気持ちですね)。つまりこれは どちらがいいと言うよりは 質問者としての気持ちの問題であるかとは思います。  もっとも回答者さんたちのその回答内容に即して もちろん応答してまいります。  つまり たとえば《考える知性》は学歴の問題ではないといった見方 これも とうぜんそうなのですが おそらくそういう切り口から進めると たぶん《ごもっとも》論になるおそれがあるのではないか。ごもっともですと返されておしまいになる可能性があるという意味です。  ぎゃくに 具体的な問いをめぐって互いに自分の考えを述べ合う。このような単なるやり取りの問題だけとして捉えるという道もあるかと思うのです。  たとえばここでは ひとつにわたしは ゴータマ・ブッダ論を何度も問うて来ています。  この上なき知恵のさとりを得たと宣言したのは ただのペテンであると論じたわけです。  そのさとりの中身については ついぞ死ぬまで明らかにしていない。おまけに最後のほうで例の法華経では 《大化城》だとみづからが言っている。さとりと言ったのは ただのまぼろしである。蜃気楼をみんなに見せたのだ それは 人びとが身分制などによる閉塞感にさいなまれて苦しみの中に沈んでいる だから景気のよい話をしたのだとみづからが言っている。  これなどは 《カスからの出発》であるからこそ得られるようなひとつの成果ですね。  言いかえると かんたんな一つの主題を自分の課題として捉え そのまま考える ただただ考えて行く。これだけでよい方向へすすむことが出来る場合がある。  つまり ただ考えるという狭いおこないから 広い知性が得られる場合もある。知性から考えるへという方向とはぎゃくの場合もありうるのだと。  よって こうなります。:  ☆☆ >それが効かないと、届かないと、なかなかさびしいものが~  ★ そんなものに寂しさを覚えているようではこれからの世の中もっときつくなって行くと思われます。  ☆ という見方も成り立つということですね。  それは 知性の未熟には 別のわるい要素もからまっているとも。:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  弱いとバカは紙一重ほどの差もない。  ほぼ同一だが同一ではない。同一ではないがほぼ同一。  弱さは過剰防衛を生み、過剰防衛の別名は無秩序ですからね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まぁ それに対しては 《知性のかたまり》だと思われていたゴータマ・ブッダが ペテン師であるとすれば――そう考えることが成り立つとすれば―― 話はまた違ってくるかも知れない。その《よわさ》というのは むしろ あぽっするさんご自身も認めておられるように 誰もがそもそも持ち合わせているものだという観点からのアプローチとなる。  といった話を出してみています。  ところが・ところが 話は別だとなりましょうか。:  ★ ~~~~~~~~~~~~~  この者たちは自分たちを嫌悪しているもの、認めていないものをサメが数キロ先の血の匂いを嗅ぎ付ける様にかぎつけ、「和」を造る努力を放棄して調和の道を断つ。  彼らには対話という手段は働きません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 人間が別のものになってしまったのでしょうか。  ★ ここまでにもし同意頂いたとしたならばですが。  ☆ ということですが でも同意したならば もう対話の道は断たれていると認めたことになります。あきらめるよりほかにはないと言ったことになりませんか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ガンジーの様に非暴力、不服従の姿勢でしか彼らには話が通じない気がする。  彼らに届くまで何年位サンドバックをやれば良いのか不明ですが、サンドバック対話中に不満が生じればそれを”刑期”延長のネタにするでしょうし。  彼らは根本的に「変わりたくない」し、「自非を認めたくない」し「義務を果たす努力をしたくない」し「快楽は得たい」のです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。わたしは自分の流儀をなお持ち続けますが けっきょくわたしのやり方は 《カスと同じようになってけんかをする》ことです。《非暴力 不服従の姿勢》です。  ここOKヱーヴはわたしは九年ほどになりますが 初めはほんとうにけんか――口げんかですが――をやりました。それは規約違反だという指摘を何度も受けました。《同じようになった》のでした。(コリント前書 9:19-23)。  いまは その《同じようになってのけんか》は 規約じょう出来ないようになりました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうでなければバカ弱者は今の世界の覇者じゃないですか?(笑)  そんな彼らも一人のときはとんでもなく恐怖と不安に襲われるんでしょうが自業自得ですし、近寄れませんから手を差し伸べる事もできません(´ι_` )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ むつかしいですね。というのも 韓国人の例を見ているからです。お手上げ状態になるのは分かります。  九十九匹のほうを強くするのがよいでしょうか? 一匹のほうは どうしますか? どうも出来ませんか?

回答No.5

お礼読んだよ。 悪を名乗る私の驚いたようだが、気にしないでくれ。いつもの事だ。 ファンレターはうれしかったよ。 日本人の思考は、思慮であり配慮だ。 それは他者に対して向けられている。 この習慣がアマテラスの善しでもある。 自分について考えないとは言えるな。 現代人にはそれは少ないだろうが、美徳とは今も価値評価されるだろう。 あんたの批判点は、 自分のことばっかり考えようとしているが、所詮誰それの教えを題材に自己をいやらしく値踏みするだけだ。 こういう心情について言っているのだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あんたの批判点は、  自分のことばっかり考えようとしているが、所詮誰それの教えを題材に自己をいやらしく値踏みするだけだ。  こういう心情について言っているのだろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん《自分を値踏みする》こともしていないのではないか?   ただただ《教科書》に書いてあるとおりにおぼえる。だけ。どこかのサイトに書かれていることを暗記するだけ。ではないかと問うています。

回答No.4

ところで、私がどのようにその悪の陰謀に加担しているか批判してくれないか。 ファンレターとして、今後の励みにしよう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  なんですって?  ★ 私がどのようにその悪の陰謀に加担しているか  ☆ 《考える良貨を駆逐している悪貨》であるという自覚があるのですか?  ないけれど そのようにわたしが規定しているし批判していると思ったのですか?  あなたは 愚民化政策の片棒を担いでいるとわたしが批判しているということですか?  聖徳ぼんくら太子と同じく観念の世界の中に閉じ籠って高尚なる高ぶり状態にあるという批判が ご自身に当たっていると思ったのですか?  そう思ったとしたら 当たっているかも知れませんね。って わたしはよく分かりません。  あほばかヰルスと言ったなら 《陰謀》論になると言えばなるでしょうね。  ただし 《悪》とかそうでないとかは あまり考えていません。《善》がどうだとかも考えていません。  一般にどの主題どの問題についても もっと考えろとは思っています。  ということは この《もっと考えろ》と言わねばならない情況のその背後に何ものかによるヰルスばら撒きの陰謀論もあるかも知れず 観念世界における籠城作戦のような習性がやはり背後にあって人びとの日常生活のあり方にかかわっているかも知れない。とは思えて来ますね。そういう憶測は自然とするようになりますね。    でも推測です。推測したことが 主要な論点ではないです。そんなことをも趣旨説明の中に出しておこうかというくらいのことです。  あなたの《考える》については:  (あ) 分かりにくい。わたしにはある程度分かるところもありますが かんたんに分かるようには書かれていない場合がしばしばある。  (い) 仮面ライダーを初めとしていろんなキャラクターなりアニメのことなりが出て来て それはわたしの個人的にはなお知らないし分からない。  (う) あなたの議論は――そしてたぶん理論は―― われわれがこれこれの出発点に立ってあれそれの問題を考え対処するというとき その出発点にそれぞれの人が立つまでの段階を問題にしている。そのあとの段階は なおざりになっている。と思われます。

  • okappasan
  • ベストアンサー率60% (66/109)
回答No.2

ご質問の内容から、「日頃考えていない人種から大変な迷惑を被っている」というような印象をうけましたので、 「嫌なことでもありましたか?」とお訊きした所存です。 何とかならないか?と思っていらっしゃることからしても、実際に考えていない人への憤りを感じるエピソードがあったのだろうとお見受けしたのです。 考えている人を増やすために、何とかするとしたら…やはり教育から変えなければいけない、と思います。 例えば若い時は、尖っていたり、悪い方向で人と違うことをするのが格好がいいと思うことが多かったです。 しかしある程度歳を重ねると、知性が最も魅力的な要素の一つであるように感じます。 ロジカルに物を考えられるようになれば、(え)足の引っ張り合い のようなものは不必要であると理解できますし、(お)外国人の言っていることを推奨する ことも意味がないとわかりますね。 知性を伸ばすことがスマートなのだと、若い時から認識されること、それによって思考のレベルは底上げされるのではと考えます。 今度は答えになったでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。  ★ 今度は答えになったでしょうか?  ☆ 総論としてそして長期展望としてお答えいただいたかと思います。  そうですね。もっと身近なところで身近なこととして これこれの主題について日頃から考えていてあれそれの問いにかくかくしかじかと回答を寄せる。――このコトだけに集中して問うています。(ということになるかと思います)。  そして最近の事態としては:  ☆☆ (趣旨説明欄)  (き-1) 特に 神・信じるということについての理解が あの聖徳なるぼんくら太子の水準でありつづけている。《世間虚仮 唯仏是真》なるおのれのみの観念の世界の中にくすぶりつづけるところのしかも高ぶり状態。高尚なるタコツボ地獄。  ☆ というふうに見たところの情況が わたしの気にかかっている問題です。  《世間虚仮 唯仏是真》と聖徳ウマヤドのミコが言うならば この世間から遅かれ早かれわれわれは出て行かねばならないと言っていることになります。おそらく《虚仮》の中にこそ 仏性が宿り息づくのだと逆転させて言っていなければならないとは考えます。  つまりは ほとんど既成の概念や思想を鵜呑みにしているのではないか? こういう物言いになるかと考えます。  おっしゃるように小学校の教育から始める必要があるでしょうが・それを否定するのではなく そうではなく ひるがえって今ただちに 《考えよう。とにかく何が何でも自分で考えよう》ということを言って行くのも よいのではないか。こう思います。

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