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日本の老人に《考える》を望むのは無理か?
日本の老人に《考える》を望むのは無理か? (あ) すでに考えられた結果をおこなうことしか望めないか? (い) われら考える日本人は 少数であるゆえに 悪貨は良貨を駆逐するの慣わしの前に望みは薄いとあきらめねばならないか? (う) 哲学以前あるいはさらにへたをすると人間以前という実際を目の前にして どうすればよいか? (え) 足の引っ張り合いなるたたかいに まだしばらくは 対処していかねばならない情況であろうか? (お) (あ)の見方によれば 外国人をまづ説得しその外国の人間が考えた結果であるというのなら 日本人は受け容れるのだろうか? (か) なぜこれほどまでに日本の老人は あほばか状態が好きなのか? 心の奥底からそうなのか。 (き) なぞの隠れた愚民化政策が どこかその筋から ほどこされているのだろうか? (特に 神・絶対ということについての理解が あの聖徳なるぼんくら太子の水準でありつづけている。《世間虚仮 唯仏是真》なるおのれのみの観念の世界の中にくすぶりつづけるしかも高ぶり状態。タコツボ地獄)。 (く) あるいは あほばかヰルスが ひょっとしたら ばら撒かれているのだろうか? このことを 問い求めます。どうでしょう?
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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● 能 および 道真 ☆ については あまり諾とも否とも あるいは 可でしょうが 優秀とも不可とも感じませんでした。 ですから こちらでやり取りするのではなく わたくしの質問のほうへと思ったのもつかのま ご招待倒れになりますので こちらで書き込みます。 ● 紅白梅図屏風 ☆1. 構図と それが黒と金色との兼ね合いで成り立っているその全体の感覚は さすがだと思わせる堂々とした風格はありましょうね。 2. 水流は 一部の画像によると 青いものも見られるのですが それは どうなのでしょうね。 3. 闇と呼べるかどうかは別として おそらく心の暗い部分をも描いているのではないかと思わせるにもかかわらず 金色は すべてを言わば明るくささえているように感じます。 4. さてさて それでも二本の梅の木と流れのそれぞれを見てみると やはりどこかおかしい。それぞれとも 通常の気持ちや思いとは響き合わないというように どこか異様である。 5. 川の流れであるならば やはり上部を突き抜けるかたちは控えないとおかしい。右半分の上部を這わせるなら ふつうの感覚として人は受け取るはず。 6. 両岸の木の大きさからして 川は それほど広いとは思えない。(デフォルメ方式だとすれば 別であろうけれど)。しかも 流れが渦を巻いている。だとすれば谷合い〔に近いところ〕を流れる岩や石の多い浅瀬だと思われる。 7. そのときもし水が 黒く描かれているとしたら それは何故か? 地の金色とは合っていると思えるけれど 川の流れとしては どうか? (単純に 夜 なんでしょうか) 8. そしてさらには 水の流れは岸を超えて溢れ返るかに見える。それも おかしい。けちをつけるのではなく なぜか? 解せない。 9. 右側の紅梅は 枝っぷりなどが力強くりっぱな木だと感じさせる。ただ――この前控えたことだけれど―― 大地に立つその根の部分は 人が両足で立っている姿に見える。右足と左足とにはっきりと分かれているようである。なぜか? おかしい。つまり 見る人に おかしいと思わせるように描いたとまで勘ぐらせる。 10. 左側の白梅の木。根から出ている幹の部分が太いのに対して 枝が細く描かれ これは繊細さを感じさせる。と同時に その V 字型の左の斜線としての枝が 何ともやはりおかしい。ほかの枝が混ざって来ていて おかしさを感じさせているのだけれど 何となくおかしい。だから そのおかしさも 作者が仕組んだものではないかとうたがわせる。 11. ううん。やっぱし真ん中は 川には見えないですね。天から何かが吊ったようなかたちで降りて来ている感じである。 12. パッと見で きれい。一つひとつを見ると 何だか分かりにくい。しっくりと来ない。金色の地が 奥行きを感じさせるところはいい。 13. ふたたびみたび 川のかたちは わざと異様さを描いているのかなぁ。 ☆ あとは 忘れているのではなく 自己防衛の振る舞いです。 ぶらじゅろーぬさん 場をお借りしました。
No.1です。 「失礼致します」と立ち去ったのにまた戻ってくるのは格好悪いことこの上ないのですが…。 bragelonneさん、先の私の回答は「紅白梅図」の老木をも意識しながら書いたのです。 ほら、あなたが「《いきほひ》の美」のご質問中で「左の白梅は 今度もやはり何かのお化けがうらめしやぁとさぞ言っているかに見えた」と仰っていた、アレです。 もっとマシな印象批評が可能になるのではないでしょうか? 今月末より熱海のMOA美術館で特別展があるのです。 (「開館30周年記念 国宝 紅白梅図屏風 所蔵名品展「絵画・書跡」 期間:2012年1月27日~2012年3月2日) 実はあなたはこうも仰っていますよね。 「色合いだとかについて 実際に見てみるなら また違った感想を持つのかも分かりませんが」と。 何度も申し上げますが、私の母とあなたは同じ歳で、とても《老人》とは形容できません。 まだ足腰が丈夫でお元気でいらっしゃるのでしょう? たまにはご近所のカレーライスではなくて外出先か駅弁でも召し上がってみてはいかがでしょうか。 ついでながら。 子猫さんにお礼を最近忘れていらっしゃるようですので、まだ頭脳明晰でいらっしゃるのですから、どうかお忘れなく! お願いしますね!
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 老人に限らずあるいは日本人に限ることなく 人生や社会あるいはつまり人間という存在にかんして あまりまともにしっかりとは自分自身の内面において考える時間を持たなかったなら あほばか状態にとどまる。ということなのでしょう。 前身の質問では 《クウキ》というのが・つまりそれに流されてしまうというのが 原因ではないかとやり取りがなされました。 社会通念が共同の観念ないし共同幻想となって 《活きて》いる。社会力学上のチカラ関係が いまここでも そこでもどこでも すでにつねに はたらいている。おそらくそれらのまとめてクウキは どこにも明文化などはされていなくて しかも わが目の前をゆうれいのごとく歩き回っている。 家を一歩出れば そこは 観念の運河である。クウキという観念が行き交っている。自分もこのゴンドラに乗ってこそ・ゴンドラという通行手形を持ってこそ 世の中をわたって行ける。となってしまっている。 このような世の中では 生きて行こうとおもえば 考えても無駄である。かえって 邪魔になる。 もし通行手形の発行所のようなところが この社会にあるとすれば それは寄らば大樹の陰に限る。長いものには巻かれろである。考えるをおこなえば かえってこの運河を航行するには 邪魔なのである。 人びとは かくして あほばか状態にある振りをする。あほばか状態であることが 物分かりのよい立派な社会人なのである。とウラ日本国憲法には書いてある。 いぢわる批評の時間です。 《老い( oyi < oyu 老ゆ)》は 《歳を取る》の意で 《親( oya )》と同根の語だと言われます。 ♪ うさぎ追いしかの山の《追い( ohi )》は どうも《大(おほ oho )》という語根から出ている模様。 まづ 《大きくなる》のは 《生い立ち》などというときの《生ふ(おふ ohu )》という動詞が表わした。 この《おふ(生ふ=大きくなる)》から派生したのが 《おふ(負ふ および 追ふ)》ではないか。 なぜなら 大きくなるときには 背が高くもなれば 体が重くもなりますが 赤ちゃんが出来ておなかが大きくもなり そのつてで 子を背中に《負う》のも おなじく大きくなるという意味が共通だからです。 《おふ(追ふ)》は このような《子を背負う》ばあいのイメージで 親と子が離れている場面を想像してみてください。親と子とが 追う側と追われる側とで逆転しますが あたかも覆いかぶさるようになる図柄で 派生したのではないかと。 《おほふ(覆ふ)》が 《おほ(負ひおよび追ひ)‐ふ(経=反復相)》であるか? 上(ほ)つ枝は 天をおへり(覆へり) (古事記歌謡100番) というように おほふではなく 単に《おふ(覆ふ)》という語形もあったようです。 《おぶ>おびる(帯び)》は どうでしょう? 追い風という場合 風がうしろから追って来るというイメージですが 風を背に負うというイメージにしても かまわないと見られます。 《帯びる》というのは 《大きくなったもの もしくは すでに覆ったもの》の上にさらに何かを負うといったイメージでしょうか? (追ふのあたりから 素人語源学です)。
未だこちらは未回答なので、少し記させて下さい。 オリジナルとこちらとの違いである「日本の《老》人」=《老い》ですが、伝統芸能や和歌から汲み取られる感じとしては、 西欧のそれ以上に若さとの対極に位置するものでもなく、曖昧でかつ、時にそれらが二重写しであったり多層的だと思われます。 「老松」という世阿弥の能があります。 この松の精は、かの菅原道真を慕って根付いた梅をさらに「追い慕って」筑紫の安楽寺に移ったから「おいまつ」というのだそうですね。 www1.c3-net.ne.jp/kimeikai/explanationJ/Joimatsu.html www.harusan1925.net/1202.html 東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ 《老い》とは経験や思考、つまりは年功や生を追加し積み重ねていく《追い》であり《生い》でもあり、 時に「神木」ほどに独自の強靭性や生命力を得て映ることもありましょう。 老いとは必ずしも全面否定として捉える必要など、どこにもないのかもしれません。 また同様に、老いたからといって、一概に「(日本の老人に)考えるのを望むのが無理」だと結論付ける筋合もないと考えます。 各々の人生の坂に上りも下りの別や定義など無いのではないでしょうか。 但し、足腰や思考力が大丈夫との自覚があるうちは、いずこにおいても、出来るだけ他人に頼らず、自らの分を弁え、自助努力こそは望まれるのでしょう。 この国の現状に照らし合わせればなおのことでしょうけれども。 ──と、ここまで書いてきて、もしかしたら上述のいわゆる日本人好みの讒言による悲劇の伝説とルサンチマン云々元々の質問の主題提起だったのかしらと思ったりしたのでした。 でも、私には能楽や歌以上の興味関心が一切ありませんので、これにて失礼致します。