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日本人に考えるを望むのは無理か?
- 日本人の考える能力には制限があり、すでに考えられた結果を追い求めるしか望めないのだろうか。
- 日本人の考える人は少数であり、他の人々の考え方や慣習に押されてしまう現状に望みは薄いのか。
- 哲学や人間の本質を考える前に、現実の問題にどう向き合うべきか悩む状況にあるのか。
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こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > ☆ この三つの道筋が 或る意味で全体をまとめてくれているのではないかとも思います。 ( b )が 恒久の方程式です。 ( a )が 現状です。 ( c )が 最悪の選択です。不作為の選択になるかと考えられます。 きわめておろかにもたかぶって言うならば ( a )の現状は この哲学カテのいまの状態ではないか。【Q:天皇に野心は・・・】でわたくしもやってしまいましたが それは《自己防衛のための戦争などの行為》という回答が多かったので そういう自己弁護は現実の直視を避けているのではないかとおそれたからです。 愚生も全面的に“自己防衛”のための戦争というのには抵抗がございました。理由は以下の通りでございます。 ・日本自体も侵略行為をしていたこと(アメリカが油の輸出を止めたのも、日本軍が南部仏印にも進駐したことに起因しております)。 ・もはや1930年代になりますと、帝国主義史観は、時代錯誤の時代になっていたこと(国連脱退時に、日本を非難したのは、アイルランド、ノルウェー等の小国でありました。列強国であった英仏は表でも裏でも日本を弁護していたのですが、これら小国に押されてしまい非難決議をせざるをえなかったこと等でございます)。 先の大戦のときもそうでございましたが、現実を直視していれば、あのような無茶なことはしなかったと考えられます。 > ★ ~~~~~ > (あ) すでに考えられた結果をおこなうことしか望めないか? ”短絡的な”思考・考え、ならば、望めるかもしれませんが、意外とこれが厄介だったりもするかと察せられます。 ~~~~~~~ ☆ この内容は 見過ごすと分かりにくいですが そうとうきびしいことを言っているはずです。《集団主義》を吟味しましたが これが当たっているところがある場合と 細かい部分をきちんと見て むしろ違っているところを大事にすべき場合とがあると思います。 はい、実を申しますと、愚生も皮肉を込めて、あえてかなり厳しく表現致しました。“当たっているところがある場合”と“違っているところ”があった場合、後者がその時折の都合から望ましいとはみなされなくなった場合、“臭いものには蓋をする”といったかたちで、まるでそれがなかったかのように振舞ってしまう傾向があるからでございます。 > 集団の力がうまくはたらくのは 一人ひとりが集団志向において力を合わせるからであって 前へならえで大合唱をするときではないと考えられます。稲作を取って考えてみても それは家族ないし世帯別に田んぼを所有してはたらくのであって ソホーズやコルホーズといった集団農場をおこなうのではないと考えられます。 はい、仰る通りかと存じます。単純に“前ならえ”といったものも多少はあるかもしれませんが、良好な結果をもたらすのは、明らかに、“一人ひとりが(集団に対する前向きな帰属意識を持ちながら)集団志向において力を合わせる”方かと考えられます。たとえ、“前ならえ”で成功したとしましても、それは、後述しております定説・通説から外れたアイデアがあったときかと考えております。 > 定説だからと言って 《すでに考えられた結果をおこなう》ことにも 厄介な結果が絡む場合があろうかと考えます。 定説を知る・学ぶ、ということ自体は問題ないかと思われますが、思考停止したまま、それに盲従するのは、危険性を孕むものかと察せられます。そもそも、定説・通説といえども、時代・場所が異なれば、変化する可能性もございます。また、「成功は復讐する」といった言葉自体も存在しないはずでございます。 > ★ バブル崩壊時の様子を記述したものがございましたため、ご紹介させていただきます。つまり、“バブル退治”は民意を反映されたものであったことが伺い知ることができます。 ☆ なお往生際の悪さをほこりますならば バブルでない部分は 退治されることはないか または一たん退治されてもまた需要は起きあがって来ると思うのですが その点は くどすぎますか? いえいえ、そんなことは全くございません。 あのバブルのとき、“本当に住居を購入したかった人たち”と、土地の転がし屋等の“投機筋”との比率は分からないので、何とも申し上げられないのですが、不動産バブルの崩壊で、“投機筋”の数は明らかに減少したものと推察しております。 “投機筋”が実需に沿ったものかどうかは断じかねますが、居住用の部屋を数室買い入れ、そこには住まず空き部屋にしておき、値上がりした際に売り払おうともくろんでいたことを鑑みますと、実需というものとは少し異なったものだったかと推察されます。 > ★ この震災復興により、顕著に結果が出てくるものと予想してございます。 ☆ にわたしも見解が落ち着くものとしてですから これからの政治経済を見てみればよいでしょうか。 愚生は、この震災の復興(政策)を見守り続けたいと思ってございます。 > しばらくのちに閉めることとします。 愚生のような経済のど素人に粘り強くお付き合いいただきまして、どうもありがとうございました。この場をお借りし、厚くお礼申し上げます。 最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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- hakobulu
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#1さんのご投稿に13件の同意チェックが入っているようで、なんと言いますか、ブラジュさんも人気者というべきか、敵が多いと言うべきか。 まあ、ひとりで複数の ID をお持ちの方も多数いらっしゃるようで、その集積と思えば特にどうということもない数値ではありますが、敵意の表明の強さを表わしていることには違いないわけで、いずれにせよご同慶の至りです。 敵とするに値すると認めてもらえるだけで、ブラジュさんの日頃の主張が、気に入るにせよ入らないにせよ、それなりの影響力を持っていることを証明していることは明白でしょうからね。 かく言う私は、頭がみなさんほど良くないのでブラジュさんのおっしゃることは理解できることもありますが、できないことも多い、と申し上げておきます。 今回もどこまで理解できているかはわかりませんが、若干の感想を述べてみたいと思います。 まず現時点における「参考になった:13件」この数は、ご質問のタイトルでもあるところの、 「日本人に《考える》を望むのは無理か? 」に対する「イエス」という答えにもなっているでしょう。 この#1さんは、最近のブラジュさんに対するこのカテでの反応を見越した上で、いわゆる尻馬に乗る形で投稿されていることは明らかだと言るように見受けられます。 そうでなければ相当稚拙な論理の持ち主なのでしょう。 いちいち取り上げるのもくだらないほどの論理ですが、端的に言えば、 ⇒「表面では、」「心の奥底では、」というような判定を、どのような視点基準で、何を見て~やっているのか : などは、それに対する見解を表明してこそ回答たる価値が生じるわけであって、それをせずとも回答足りうると考えたのは、まさしくご指摘のとおりですが、風を読んだつもりの姑息な精神性の現われにすぎません。 お若い方であるとすれば大いに反省なさるのが将来のためでしょう。 ◇ (あ) すでに考えられた結果をおこなうことしか望めないか? : そのほうが楽ですし、考えるのは頭の良い人(お上)のやること、という伝統?が強いのではないでしょうか。 国民=本能 お上=自我 というのは全く筋違いの構図でもありませんから、むしろ日本人は諦めの良い人種なのかもしれません。 超自我性の発露が抑圧されてきた歴史が、それを後押ししているわけでしょうが、ここに目覚めた人は、そう簡単に諦めるわけにはいかんぞ、ということで、ギャップが生じることもむしろ自然と言えます。 (い) われら考える日本人は 少数であるゆえに 悪貨は良貨を駆逐するの慣わしの前に望みは薄いとあきらめねばならないか? : そんなことはないでしょうし、昨今は以前に比べるとそうでもないでしょう。 あとは手法の問題でしょうね。 菅さんじゃありませんが、論理だけでは人は納得しづらいということです。 こういったネット上にまで、それが波及しているように見えるのはある意味で意外という気も多少はしますが。 (う) 哲学以前あるいはさらにへたをすると人間以前という実際を目の前にして どうすればよいか? : 手法を考えるか無視するしかないと思います。 当然、それぞれ一長一短があるでしょう。 (え) 足の引っ張り合いなるたたかいに まだしばらくは 対処していかねばならない情況であろうか? : 好き嫌い・損得・善悪。 多様な面を持つのが人ですから、致し方ないと思います。 適切、あるいは効果的な対応が求められるところではあるのでしょう。 (お) (あ)の見方によれば 外国人をまづ説得しその外国の人間が考えた結果であるというのなら 日本人は受け容れるのだろうか? : 核の傘に庇護されて良しとしている間は、それも致し方ないのでしょう。 (か) なぜこれほどまでに日本人は あほばか状態が好きなのか? 心の奥底でそうなのではないだろうに。 : あほばかかもしれない私としてはスルーしたほうが無難な問いのようです。 (き) なぞの隠れた愚民化政策が どこかその筋から ほどこされているのだろうか? (特に 神・絶対ということについての理解が あの聖徳なるぼんくら太子の水準でありつづけている。《世間虚仮 唯仏是真》なるおのれのみの観念の世界の中にくすぶりつづけるしかも高ぶり状態。タコツボ地獄)。 : 「その筋」というより愚民であることが平穏であるための良作であるという伝統がまだまだ根強いのでしょう。 半世紀ほど前は、現在の北朝鮮と大差ない状況にあったわけですからやむを得ません。 戦後復興は目覚しい勢いで為されたわけですが、精神(脳)と、その世代連鎖はそう簡単に変質できないでしょう。 (く) あるいは あほばかヰルスが ひょっとしたら ばら撒かれているのだろうか? : まあ、これも、 あほばかかもしれない私としてはスルーさせていただきましょう。 おそらくですが、表現の簡易化によって問題点を浮き彫りにすることが求められているような気もしますね。 表現が曖昧、あるいは難しくなると焦点がぼやける、あるいは多様に受け止められてしまう。 結果としてすれ違いが生じる。 こういったケースが案外多いのではないでしょうか。
お礼
ふうむ。これは 考えねば――おっと はこぶるさん ご回答をありがとうございます――ならぬぞ。 もっと簡単に表現せよ。もっと分かりやすく言え。それだけぢゃわい。と。 ふうむ。 (陰の声:こんなにバカ丸出しで表現しているから分かりやすいと思ったのだが。・・・) たとえば《あほばかヰルス》が 《クウキ》のこと・もしくは《 KY 》を知らず知らずの内に そうなってはいけないよと押しつけるそのクウキのことであるとすれば それなりに理論的に打ち出していかねばならないでしょう そのヰルス退治のためには。 そう簡単には言い表わしがたいとは――ぎゃくに言うのですが――思うのですけれどねぇ。 つまりもしその見方に片寄ってしまって ものを言うとすれば: けっきょく或る程度ていねいにしっかりと《クウキ》論を明らかにしてその上で《考える人たるべし》を唱えたとしても おそらくそもそも《クウキ もしくは KY 》の議論だというその初っ端から 多くの人にとってはお呼びでないという反応を持ってしまう。のではないか? という自己弁護が あり得ますかねぇ。どうでしょう? ★ ~~~~ 半世紀ほど前は、現在の北朝鮮と大差ない状況にあったわけですからやむを得ません。 戦後復興は目覚しい勢いで為されたわけですが、精神(脳)と、その世代連鎖はそう簡単に変質できないでしょう。 ~~~~~~ ☆ これは 《お上志向・長い者には巻かれろ・寄らば大樹の陰・泣く子と地頭には勝てぬ》の刷り込みあるいは この頃は DNA とさえ言うようになっていますね の問題でしょうか? そういう側面もあるということのようですね。 ただこの説も どうもおかしい。というのも 上に自己弁護した切り口での問題点にかかわってですけれど たとえこの《あほばか愚民ヰルス》が猛威をふるっていたとしても わたしに思われることには 次の二つのことは 互いに別だと考えるからです。 すなわち 片や被災地ご訪問に見られるように随喜の涙をながして国の象徴を迎えるのと同じようにしてお上に頭が上がらないといった心性やクセと つまりあるいはそのお上やあるいはもっと具体的にその場その情況ごとにクウキが支配しているという現実に黙ってしたがうという心的現象と そして片や そのような心的現象について哲学があたかもメスを入れるかのごとく考えることをおこなうという事態に対して それはやめろ・要らんことはするなという大合唱をうたうこととは 互いに別だと考えるのです。前者から後者へ移るには 心の中に何か含むものを持つ必要がある。 前者についてさえ わたしは それは条件反射のような反応であり心的現象であると捉えていますが 後者はもっと違った――同じ筋道から出たとしても もう一段別のロケットの噴射を必要とするのであってそのようなもっと違った――心つもりが 発生している。のではないか? もっと言えば ぶらじゅろんぬよ 世界のクウキに従え。日本国のクウキを読め。数の上ではまだまだ過半数を制するクウキ読み人間であるわれら一同と同じ行動を取れ。突出してはいかん。・・・という《アドワ゛イス》を与えようとする動きは これは 多少ともへそを曲げなければ出来ないはずではないか? 平成の巡幸に涙する純心という段階からさらに 第二弾噴射のロケットに乗ってこそ――つまりわたしから言わせれば ヘソを曲げてこそ――その自己表現が出て来るのではないか? です。 クウキを読めという以上に いまここで自分から――世間のクウキに乗っかって だから決して自分はスタンドプレーをしているのではないとの確信に満ちて――ささやかにでもおのれのクウキをこしらえているし それを見せつけようとしている。そういうやはりプレーなのではないだろうか? ★ ~~~ 国民=本能 お上=自我 ~~~~~ ☆ だとは限らず 国民としてのわれも《自我》をここでこそ――つまり クウキを読めないぶらじゅろんぬなる人間のいるこの場でこそ――発揮するのだと勇みこんでいはすまいか? それもこれも お上は 勝手な保身や役得の確保に走る事例が多く見出されるというので 自分たちもそれに倣ったというところでしょう。つまり 《超自我》は もうほとんどどこにも見出されないとかれらは《さとった》のではないか? それが 第二弾ロケットの噴射となっている。 とすると 《自己愚民化政策》とでも言わなければならなくなりますが。・・・ ただし原発の事故処理に当たっている人たちには 超自我が見出されると言っておかねばなりません。 ヲ゛ランティアは 自我かあるいはやはり刷り込みの本能かで動く人はほとんどいないということであって欲しい。 回答No.1論が あらたに提出されました。あまりいじっても何ですから そう触れるのみとします。ありがとうございます。(しかし 13人の方々は読んでおられるということなのですね)。 今回は必ずしも一つひとつのご見解に即してお応えして来ませんでしたが おおよそこれでお礼に代え得るかと思います。いかがでしょう?
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > ★ 「非難・批判」することがかっこいい、もしくは、これにより自分が優位に立てる。かような(心理)状況下にあろうかと推察してございます。 ☆ 《批判》は ほんとうには していないとも 重箱の隅をつつけば思いますが 実際問題としても《優位に立つかどうか》に関心があるように思われます。それにのみ あるようにさえ思えます。 ご賛同いただきまして、厚くお礼申し上げます。 > だって きわめてかまびすしい情況なのですから。 この閉塞感が蔓延する中ででも、いやむしろ、さらに閉塞感を増長させるような状況には、辟易してございます。 > ☆ そういう情況なのですか。ということは やはり足の引っ張り合いのほうに精が出ていそがしいとか。でも研究者のあいだでは 互いの評価は落ち着くところに落ち着くのではないかとも思っていました。 どこの世界でもそうなのかもしれませんが、政治の力学はやはり働くようでございます。以下のように、(研究・開発)補助金制度が設けられておりますが、では、誰がその(補助金を受けられるかどうかの)審査をするのか、となりますと、“お友達関係”によりなされているケースが多く存在します。例えが悪いかもしれませんが、FIFAワールドカップでの日本-中国戦にて、北朝鮮人がレフリーするようなケースに似てでございます。 ・NEDO(New Energy and Industrial Technology Development Organization)の公募 http://www.nedo.go.jp/qinf/desk_index.html ・コンソーシアムの公募 http://www.kanto.meti.go.jp/chotatsu/hojyokin/20070201hojo_kobo.html#2 > 回答No.1は 回答としてあるいは質問の仕方に対する批判として何も言っていないと読んだのですが 見落としはありましょうか? ありましたら是非 よろしかったら おしえてくださいませ。 まず、回答者様No.3の“空気論”には賛成致します。 なお、回答者様No.1の内容につきましては、以下のように「いかがでしょうか」という“提案”のご主張が見られます。ですが、提案なるものも、“べき論”の一種かと考えております(表現はやわらかくなりますが)。そもそも哲学を語る上で、少なくとも“○△主義”なるものを唱えますと、必然的に“べき論”が入り込むのが普通と考えております。 ・思索を深める方向に配慮してはいかがでしょうか。 ・[日本人]を使うのは止めてはいかがでしょうか。 ・また 昔は、今は、のような一括断裁することも避けてはいかがでしょうか。 ・ご自分でもお考えになったらいかがでしょうか。 ですが、以下の文章にも見られますように、“べき論”には否定的なご意見のように見受けられます。「いかがでしょうか」という“提案”を、一種の“べき論”とみなすならば、自己矛盾が見られるように思われるのですが、いかがでしょうか? 「われら考える日本人は、(邁進するべき)、(諦めるべき)、(ねばならない)」のような立言は政治的言辞では良く見かけるものですが、思索や思考が表面的で流動的であることを示しているようにも見えてしまいます。 なお、回答者No.1様に対する愚生のコメントはあくまで感想でございますので、適当にスルーしてくださいませ。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
ご回答をありがとうございます。ひどっちさん こんばんは。 ★ まず、回答者様No.3の“空気論”には賛成致します。 ☆ この主題もやりたいのですが山本七平の著書にかんして この空気の研究は なおざりにしてしまっています。ので 遠慮しています。 ● ゴースト論 あるいは アクマ論 ☆ これがなおくすぶっています。というよりは のちのちまで尾を引くでしょうね。 ★ ~~~~~~~~ なお、回答者様No.1の内容につきましては、以下のように「いかがでしょうか」という“提案”のご主張が見られます。ですが、提案なるものも、“べき論”の一種かと考えております(表現はやわらかくなりますが)。そもそも哲学を語る上で、少なくとも“○△主義”なるものを唱えますと、必然的に“べき論”が入り込むのが普通と考えております。 ・思索を深める方向に配慮してはいかがでしょうか。 ・[日本人]を使うのは止めてはいかがでしょうか。 ・また 昔は、今は、のような一括断裁することも避けてはいかがでしょうか。 ・ご自分でもお考えになったらいかがでしょうか。 ですが、以下の文章にも見られますように、“べき論”には否定的なご意見のように見受けられます。「いかがでしょうか」という“提案”を、一種の“べき論”とみなすならば、自己矛盾が見られるように思われるのですが、いかがでしょうか? 「われら考える日本人は、(邁進するべき)、(諦めるべき)、(ねばならない)」のような立言は政治的言辞では良く見かけるものですが、思索や思考が表面的で流動的であることを示しているようにも見えてしまいます。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ わたしもこの点を突けばよかった。このように引用だけとしても その引用に責任をもって ささやかながら今からでも No.1の回答に対しては 応答したいと考えます。回答者どうしが 直接の批判合戦はおこない得ませんから。 いえ 《回答を評価する》が――近来まれに見るほどに―― 13ポイントにもなっていますので 念には念を入れておうかがいしました。たいへんありがとうございます。たすかりました。 ★ どこの世界でもそうなのかもしれませんが、政治の力学はやはり働くようでございます。以下のように、(研究・開発)補助金制度が設けられておりますが、では、誰がその(補助金を受けられるかどうかの)審査をするのか、となりますと、“お友達関係”によりなされているケースが多く存在します。 ☆ 了解しました。福井さんは その力学の世界にはあまり顔を出されなかったのですね。 ★ この閉塞感が蔓延する中ででも、いやむしろ、さらに閉塞感を増長させるような状況には、辟易してございます。 ☆ 先ほどフジの BS の番組で 大塚耕平厚生労働副大臣(たしか)が こう言っていました。選挙区に帰って党員やサポーターと話をする機会があったが そのとき 税・社会保障一体改革などの政策についての質問はあったが 政局のゴタゴタについてはひと言も触れられなかったのだとか。愛知ですが なかなかしっかりしているもんです。こんな質問を出してしまって――ひどっちさんやみなさんをも巻き込んでしまいましたし―― 恥づかしい。 まだまだこの哲学カテの質疑応答も ちんたらムードです。考えなくっちゃ。
- SakuraiMisato
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厳密な契約の締結に頼らずとも集団が纏まり得るのは、 個性的な思考の内容を直接的に吐露したがり難いからなのでしょう。
お礼
ということであれば そういう事態について批判している内容を扱っているこの質問について あなたも一切何も言わず放っておくということになりませんか? それとも わづかの ★ 直接的に吐露したがり難 ☆ くない部分で発言をなさっていましょうか? ならばその同じ部分で この質問も成り立っています。 かろうじてでも成り立っているとみるのならば それとして問いに対する答えを用意するのが 《集団のまとまり》にとっては 大事なことなのでしょうね。 ご回答をありがとうございました。 つまりお考えは まづ先にもともと初めからイの一番に相手の言い分を受けつけないという感情を持つことによって すすめられている。その結果があらわれている。こう見ますが いかがでしょう? その最初の蹴飛ばし これが趣旨説明に言う《てつがく以前》という問題だと考えられませんか? ひとつの分析としては そういクウキが前提にあってそのクウキの臭いや流れに自分も乗っかって ちょっとモノを言ってみた そういう行動内容であろうかと見ます。言い過ぎましたか? もしそうだとしますと それが現在の日本の足踏み状態ではなかろうかと。 よろしく情報交換を願います。
こんにちは。 30分間の暇人です。 あ:全世界をくまなく見ている場合、多くの人はそうかもしれませんが、自分一人が”世界にそんな人は居ない”と思える位自分の周囲に知者が居る状態を作る事位はできると思います。つまり、その人にとっては「既に考えられた~」等と言う事を考える発想自体が生じない様な。 一人一人がそれをすればいつの間にかそれが「世界」になるんですが、自分の人生にはあまり関係のない広い範囲を見ようとする人が後を絶たず、その故に「自分一人がやっても」意識がはびこり、結果誰一人として動かない。そんな状況もあるかなと思います。 い:これはその「望み」が目的としている内容と、その方法に大いによると思います。従いまして、この質問文だけでは回答不可です。 う:必要なら忍耐と知恵と寛容と誠実によって善処する。不必要なら去るなりなんなり好きにすれば良いと思います。 え:「足を引っ張る」というからには、当然そこには「向き」が存在している筈なんですが、AとB夫々が同じ方向を目指していて、その目的地に一人しか立てない(立てないと思い込んでいるを含む)のなら足の引っ張り合いなるものが生じる可能性大ですが、その足を引っ張る様な愚かな行為をする人たちと同じ目的地である場合、先ず自分の目的地が本当に正しく設定されているのかどうかを考えるのも一興かと思います。 お:一昔前なら解りませんが、最近はそこまでオバカな人は少数派だと思います。 か:好きでやっている人はあまり居ないと思います。「森」というものは実は存在せず、それは木が集まった状態を意味する言葉です。森は木が無いと存在できませんが、木は森が無くても存在できます。森ではなく、木が実在だからです。 これがしっかりと解っていないと、いとも簡単に自分の権威をゴーストに捧げてしまう。そうすると自分ではなくゴーストが自分の権利を主張するのでゴーストの思うままに動かされ、踊らされる。 これは口で言う程簡単な事ではなく、誰も完全にこのゴーストからフリーな人は居ないと思います。多かれ少なかれ誰しもがゴーストにのしかかられている。自分は10しかかかっていないがお前は100もかかっているぞと言ったところで「自由に動けない」のはお互い様なので、ある意味その言い分は滑稽です。それよりも同じ重荷を背負っている隣人を優しく親切にもてなす方が賢いと思います。 き:何かが何かを施していて、かつ既に大きな成果をあげているのだとすれば、そうとうなやり手の筈です。隣に居る数人すら味方に付けられない現状であれば、能力面でそれを罵るのは愚かの極みでしょうから、誠実などの人格や良識の面でしか責めをかける事はできなさそうです。すると自分はかなり人格を磨かなければならない。。。 く:「空気を読む」という言葉がよく使われており、その後に続くものにはあまり注意が向けられない場合が多いのですが、空気を読んだ後には当然その読んだ内容に対する解釈があり、その解釈に対する判断があり、その判断に基づく行動がある筈です。 大抵の場合「その場での支配的な力に楯突かない様、波風立てない様行動をとる」人が多いのではないでしょうか。その支配的な力がその場をどんなところへ導こうとしているのかはあまり考えず。 この場合、その「空気を読む」という行為はあたかもウィルスの様かもしれません。 け:目の前にある壁に圧倒されて、或はうんざりして、或はあきれて、或は疲れてため息をついたり心を暗くしたりすれば、それはその瞬間、その壁の思うつぼ、つまりしてやられちゃってるとも言えるかもしれません。 とはいえ、目の前に壁があればやはり心は落ち込みやすいし、ため息もつきたくなりやすいですから、そうならない様に一番先にチェックするべきは「目の前に今見えている壁は本当に壁か?」という事です。 自分の先入観や考えてばかりの経験不足などで、自分で勝手に作り出してしまった虚像ではなかろうか?という所からもう一度その壁を見直して細部までちゃんとチェックしていくと大抵の壁には穴が空いていたり、崩れたり、嘘の様にどこかに消えてなくなったりと、結構どうにかなる事多いです。 こんな感じです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 暇人 ☆ この言葉が No.1のあと つづいたので考えてみました。どうも世間(つまりこの哲学カテ)のクウキは このような質問には回答をしないものだということであるのに われは投稿してみるのだという意味合いを持っているようです。 ただし No.1の投稿者が ご自分もそのクウキに従っているという意志表示をしているのに対して あなたは ご自分がそのクウキに一概に従うとは限らない こうおっしゃろうとしている。といったところでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~ (く)・・・ 大抵の場合「その場での支配的な力に楯突かない様、波風立てない様行動をとる」人が多いのではないでしょうか。その支配的な力がその場をどんなところへ導こうとしているのかはあまり考えず。 この場合、その「空気を読む」という行為はあたかもウィルスの様かもしれません。 ~~~~~~~~~~~ ☆ でももしそのように世間の《長い者には巻かれろ》なるクウキに批判的な回答者さんがわざわざ《暇人》という言葉をお使いになるのだろうか。まづ細かいところとして 疑問を投げかけてみておきます。 でも ★ 「空気を読む」という行為はあたかもウィルスの様かもしれません。 ☆ はおもしろいですね。 たしかにおっしゃるとおりに ここで問題にしている《あほばか状態》とは 次のようなご指摘の内容だと考えられます。クウキ問題をめぐって: ★ 大抵の場合「その場での支配的な力に楯突かない様、波風立てない様行動をとる」人が多いのではないでしょうか。その支配的な力がその場をどんなところへ導こうとしているのかはあまり考えず。 するべきコトは簡単であって《ひとは考える。その考えた内容にもとづき――これまたおっしゃるように――おのれの意志において判断する》 この単純なコトがおそらくすべてだと言ってもいいのでしょう。 ★ く:「空気を読む」という言葉がよく使われており、その後に続くものにはあまり注意が向けられない場合が多いのですが、空気を読んだ後には当然その読んだ内容に対する解釈があり、その解釈に対する判断があり、その判断に基づく行動がある筈です。 ☆ 解釈として《かんがえる》。判断するときの選択肢についての取捨選択としても《かんがえる》。あとは 意志による決定およびその意志の表明。 ひとつに日本の停滞は 《読んだクウキについて解釈しない。考えない。考えないで その場のボス(不在であってもその場を支配するボス)の意向に従う》というところにありましょうや。 いえいえ 特にはそのようにボスの逆鱗に触れることをおそれるだけではなく ボスの意向に従わない者に対していやがらせをする。その排除の論理にかんしては すこぶる人びとは《考える》。その工夫は いつまでも尽きない。かならずこの種のわたしの質問には その心優しい《連帯》の勧めがついて来ます。 ところが ふたたび掲げるならば ★ 大抵の場合「その場での支配的な力に楯突かない様、波風立てない様行動をとる」人が多いのではないでしょうか。その支配的な力がその場をどんなところへ導こうとしているのかはあまり考えず。 ☆ よってそのような場合の《考えるや工夫》は およそ哲学以前の理屈になってしまいます。どこへ向かおうとしているのか 丸っきり考えていないようです。 (き)の事項は《陰謀論》の部分が大きいですから 評言をいただきましたが いまのところこちらからは無評言にて失礼します。 (か)に関しては 先ほどの《クウキ》をさらに広げて・あるいはむしろ内面化して社会力学的な情況やあるいは内面の状態としての心的現象を捉えておられるようです。クウキは《ゴースト》に変わります。 ★ いとも簡単に自分の権威をゴーストに捧げてしまう。そうすると自分ではなくゴーストが自分の権利を主張するのでゴーストの思うままに動かされ、踊らされる。 ☆ 単なる《ボスの顔色をうかがう》問題に終わりはしないのだと。 ★ これは口で言う程簡単な事ではなく、誰も完全にこのゴーストからフリーな人は居ないと思います。多かれ少なかれ誰しもがゴーストにのしかかられている。自分は10しかかかっていないがお前は100もかかっているぞと言ったところで「自由に動けない」のはお互い様なので、ある意味その言い分は滑稽です。それよりも同じ重荷を背負っている隣人を優しく親切にもてなす方が賢いと思います。 ☆ そうですね。情報交換として 質問者もおのれの見解を述べるのがむしろ回答者に対するしかるべき振る舞いであると考えますので述べますが: ★ それよりも同じ重荷を背負っている隣人を優しく親切にもてなす方が賢いと思います。 ☆ この結論には反対します。もしそれなら 《ゴースト》によって・あるいはいま不用意に言って《アクマ》によってわたしはやられています。われわれは そのまま服従して行きましょう。と言っているにひとしいと考えるからです。 ゴーストないしアクマの正体 これを共に考えてすすみましょう。と言うのが しかるべき態度ではないでしょうか? なぜなら ★ ~~~~~~~~~ け:・・・目の前に壁があればやはり心は落ち込みやすいし、ため息もつきたくなりやすいですから、そうならない様に一番先にチェックするべきは「目の前に今見えている壁は本当に壁か?」という事です。 自分の先入観や考えてばかりの経験不足などで、自分で勝手に作り出してしまった虚像ではなかろうか? という所からもう一度その壁を見直して細部までちゃんとチェックしていくと大抵の壁には穴が空いていたり、崩れたり、嘘の様にどこかに消えてなくなったりと、結構どうにかなる事多いです。 ~~~~~~~~~~~ ★ え:「足を引っ張る」というからには、・・・ ☆ この場合質問者として考えていたことは けっきょくクウキやゴーストにすでに《かんがえる》がヤラレていた状態において いろいろ《てつがく以前》の狂気の想像力にものを言わせて工夫がなされるその戦略および戦術のことです。 《方向あるいは目的地》などあったものではない状態での謂わば虚数部での考える(想像)です。あるいは そうは言っても ボスやあるいは観念のボスとしてのアクマに従うということになるからには 一般には現在の状態をその既得権益の保守をいちばんの目的として維持していこうとする《設定》はあるでしょうね。 そのような ☆☆(趣旨説明) (う) 哲学以前あるいはさらにへたをすると人間以前という実際を目の前にして どうすればよいか? ★ う:必要なら忍耐と知恵と寛容と誠実によって善処する。不必要なら去るなりなんなり好きにすれば良いと思います。 ☆ この抽象論では 正直に言いますが 満足しません。たとえば悪魔にたとえられるゴーストへの従属状態 これの分析をしっかりと互いに哲学するということでしょうね。ひとつにこれが《善処》であるはずです。 そして確かにわたくしがNo.2でのやり取りで ☆☆(No.2お礼欄) ~~~~~ ● 従いまして、目が覚めるときが来るときには、目が覚めると。勝手ながら、そう思っておりますが・・・ ☆ 分かりました。このあたりが 落とし所でしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と述べたとき その反面では 同じように ★ 不必要なら去るなりなんなり好きにすれば良いと思います。 ☆ という対処の仕方は含まれると言わざるを得ないでしょうね。そうしつつ あたかも《ときが満ちる》のを俟つように ブッダ状態が起きることがあるかも知れないと思ってもいるでしょうね。 (あ)についてのお考えは よく分かりません。《考える》われわれが 具体的にどう行動を起こすかを説いておられましょうか。もしそうなら でもそれは いまこうやって問い求めて来たそのそれぞれの内容のことでしょうから 何ら反対する謂われは無く このまま進めて行くということになるかと思いますが。 もっとも外国崇拝の問題(お)はふるいから 《既成の考え》をあてがってやればその考えに従って人びとは行動するという見方も あまり取らないということでしょうか。 ★ お:一昔前なら解りませんが、最近はそこまでオバカな人は少数派だと思います。 ☆ 現実の社会力学上の問題としてとらえるならば ○ クウキ論 が取り上げられるべきだと考えられましょうか。そして抽象的な理論としてなら神学にまでさかのぼれば ○ アクマ論ないしゴースト論 が依然としてコトの実態でありつづけていましょうか。 ★ け:目の前にある壁に圧倒されて、或はうんざりして、或はあきれて、或は疲れてため息をついたり心を暗くしたりすれば、それはその瞬間、その壁の思うつぼ、つまりしてやられちゃってるとも言えるかもしれません。 ☆ この壁は つい最近の質疑応答では 《垂直壁》と呼んでいます。しかもこれは その人にとっては悪魔に結びつけたくなるようなカベである。しかもこのアクマは じつは・じつに 神のゆるすところとしてその人を練り磨くためのカベなのではないかと 言い合っていました。 これもひとつの対処の仕方であろうと考えます。 そう考えるなら ひょっとして ゴーストあるいは具象的にボスというのは これも アクマに見えたとしても カミの差し伸べた指か手かだとも考えられて来ます。 すすめうる話であればすすめてまいりたい。こう思います。外交官さんは どうでしょう。
こんばんは、ひどっちでございます。 > (う) 哲学以前あるいはさらにへたをすると人間以前という実際を目の前にして どうすればよいか? 昨今の、”聞いていた。とか、聞いていなかった。” など、くだらない報道がなされていました。そもそも、日本人には、自分たちのリーダーを選ぶ資質が存在していないのではないか、とも思ってしまいました。繰り返しとなってしまいますが、政治家とは国民の鏡、なのですから。つまり、リーダーに唾をはくというのは、自分達に唾をはくことと同じことなのですが・・・ > (え) 足の引っ張り合いなるたたかいに まだしばらくは 対処していかねばならない情況であろうか? 残念ながら、そう考えてございます。 > (お) (あ)の見方によれば 外国人をまづ説得しその外国の人間が考えた結果であるというのなら 日本人は受け容れるのだろうか? 一昔前に、福井謙一という化学者がいました。ノーベル賞受賞が決まったとたん、あわてて、文化勲章の準備をしたという話を聞きましたが、やはり、かような傾向がいまだに続いているのかもしれません。 (か) なぜこれほどまでに日本人は あほばか状態が好きなのか? 心の奥底でそうなのではないだろうに。 「非難・批判」することがかっこいい、もしくは、これにより自分が優位に立てる。かような(心理)状況下にあろうかと推察してございます。従いまして、目が覚めるときが来るときには、目が覚めると。勝手ながら、そう思っておりますが・・・ (き) なぞの隠れた愚民化政策が どこかその筋から ほどこされているのだろうか? 様々な陰謀論が飛び交ってはおりますが、残念ながら、愚生のオツムではわかりません。誠に、申し訳ございません。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 従いまして、目が覚めるときが来るときには、目が覚めると。勝手ながら、そう思っておりますが・・・ ☆ 分かりました。このあたりが 落とし所でしょうか。 ★ 「非難・批判」することがかっこいい、もしくは、これにより自分が優位に立てる。かような(心理)状況下にあろうかと推察してございます。 ☆ 《批判》は ほんとうには していないとも 重箱の隅ををつつけば思いますが 実際問題としても《優位に立つかどうか》に関心があるように思われます。それにのみ あるようにさえ思えます。 考えようによっては 《心理的には》人びとも《考える》にいそしんでいて 余念がないほどであると言わなければならない情況でもあるようです。 だって きわめてかまびすしい情況なのですから。 ★ 昨今の、”聞いていた。とか、聞いていなかった。” など、くだらない報道がなされていました。そもそも、日本人には、自分たちのリーダーを選ぶ資質が存在していないのではないか、とも思ってしまいました。繰り返しとなってしまいますが、政治家とは国民の鏡、なのですから。つまり、リーダーに唾をはくというのは、自分達に唾をはくことと同じことなのですが・・・ ☆ 石原伸晃は 共同自治の能力で もう伸びが見込めないと感じてしまいました。 ★ 一昔前に、福井謙一という化学者がいました。ノーベル賞受賞が決まったとたん、あわてて、文化勲章の準備をしたという話を聞きましたが、やはり、かような傾向がいまだに続いているのかもしれません。 ☆ そういう情況なのですか。ということは やはり足の引っ張り合いのほうに精が出ていそがしいとか。でも研究者のあいだでは 互いの評価は落ち着くところに落ち着くのではないかとも思っていました。 回答No.1は 回答としてあるいは質問の仕方に対する批判として何も言っていないと読んだのですが 見落としはありましょうか? ありましたら是非 よろしかったら おしえてくださいませ。 この質問は このように軽く情況把握について情報交換が出来て 前進への踏み出しになり得ればよいでしょうし あるいは 主題をひとつ特定して学術的な尋究に伸びて行く場合もあるでしょうし。と考えます。
- moto_koukousei
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私も暇人ですから、このようなサイトの回答欄を利用するのですが、質問者のbragelonneさんの思考には、特徴がありますね。 [日本人は]という主題限定語がつくのは何ででしょうか。 http://okwave.jp/qa/q6713001.html (ほかの国の人びととは特には比べていません)と述べたりしますが、(日本人)をどれだけ調べたのでしょう。(昔の日本人)(いまは)といいますが、何をもって限定的理解をしているのかが不明です。 http://okwave.jp/qa/q6751708.html (日本人のくせであると捉えますが) 日本人論のようなことを論じる前提を欠いていませんか。 『佐藤の家系では』という論を展開するには、佐藤の家系の範囲の限定や、佐藤の家系についてどのような調査をした結果を論じるのかを明確にしないと、単なる言い合いになるだけではないですか。 [どうでしょう][とことん自由で建設的なご批判][自由なご見解]といっても、それではアンケート的なものや読者の投書欄と同じで積み上げるのが難しくありませんか。 「われら考える日本人は、(邁進するべき)、(諦めるべき)、(ねばならない)」のような立言は政治的言辞では良く見かけるものですが、思索や思考が表面的で流動的であることを示しているようにも見えてしまいます。 各個人の思い込みの吐露やぶつけ合いをすることに高揚感を覚える方も多いですから、それも一つの[教えてgoo]の利用方法だと思います。 しかし、そうしたことにエネルギーを注ぐのではなくて、思索を深める方向に配慮してはいかがでしょうか。 客寄せのPOPコピーのつもりかもしれませんが、[日本人]を使うのは止めてはいかがでしょうか。 また 昔は、今は、のような一括断裁することも避けてはいかがでしょうか。 社会学でも、心理学でも、医学でも、教育学でも、政治学でも、人は誰でも、いつでも同じではないことが前提で研究されています。 自分自身を振り返ってみても、時々で反応や思考の傾向が変わっているし、対象とするテーマやそのときの状況ででも、発想や行動、感情も変わります。 私の知っている人も、いつも同じではないという意味において私と同様です。 「表面では、」「心の奥底では、」というような判定を、どのような視点基準で、何を見てやって、bragelonneさんはやっているのか、ご自分でもお考えになったらいかがでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★(=ぶらじゅろんぬによる憶測として述べるものです) ~~~ わたしは この質問にかんして趣旨説明に述べられた事柄をめぐっては 見解を持たない・または持つつもりはない・あるいは――多少の理由が述べられていますから――見解を持ってそれを明らかにするつもりはまったくない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういったご回答内容だと受け取りました。 つまり こうです。 ★(=同じくぶらじゅろんぬによる推測をもとにした架空の発言です)~~~ いやいや そんなことを言った覚えはない。趣旨説明を述べる際には その前提となる主題や項目やそれらの用語について 一般に通じるようにきちんと説明なり定義なりをしておかないと なかなか――雑談を目指すわけのものではないからには――話が落ち着かないだろうし すすむものも進まないであろう。 ~~~~~~~~~~~ ☆ といったところでしょうか。 ところが もしそのようであるとすれば けっきょくのところは ご投稿になった文章は ご回答を寄せるのではなく 質問の仕方について批判っぽい雑談をしている。ということになります。 そして むろん そういったお考えを明らかになさることに何の問題もありません。 ということは そうではなくたとえばいまの状態における質問の仕方をわたしが取ることも おそらくあなたにとっても何の問題もない。こういうことになるはずです。 つまり 《わたしなら こう問うであろう》というお考え これを述べたかたちだと受け取りました。そうですか。というお返しです。 つまりわたしの考えは 決まっています。いまのままで質問をする。これです。 いいですか。 ★ 自分自身を振り返ってみても、時々で反応や思考の傾向が変わっているし、対象とするテーマやそのときの状況ででも、発想や行動、感情も変わります。 私の知っている人も、いつも同じではないという意味において私と同様です。 ☆ この文章もへたに活用すると思わぬ事故を起こしそうですが――つまりわたしの場合は 相手に応じて表現を変えこそすれ 見解を変えることはまづないのですが その主題は取り上げないので措いておいて―― ここでは基本的な考え方として 《人は互いに異なった考えを持つ》と言っています。つまり良心の自由あるいは表現の自由を公理として前提にせよという訴えが見て取れます。 この訴えをそっくりそのまま わたしもあなたにお返ししましょう。 ということにて。
お礼
☆☆ 日本人に《考える》を望むのは無理か? ☆ と問うているのならば けっきょく日本の歴史全体について吟味検証することにもなります。あらゆる分野について 少なくとも基本的なことがらを取り上げ検証しておくといった作業にさえなるかと。 でも――ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。―― ここは 政治経済のこれからを見守るという一応の姿勢が出たところで 締めくくりとしましょうか。 そう言えば 衣食住のうち 住宅については もっと広い部屋の家がふつうになっていくとよいと思っております。ほかは 向上して行くと思います。 【Q:《わたし》のよみがえりを・・・】で ははんははんさんという方が投稿を寄せてくれました。その内容からわたしは ひどっちさんなら適切なお応えを返されるであろうとヒラメキました。ちょっと覗いてみていただければ さいわいです。 それでは あたらしい舞台へ。