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存在するってどういうことですか?

猫って存在するの?でもあれ元を立たせば全部素粒子であって、猫は存在しないの?? 曇って存在するの?? 光は? 音は? 変化は? 熱は? 速度は? 重力は? 命は? 自分自身は? なんだかよくわからなくなったんで、悟ってる方お願いします。 あ、悟ってなくてもオッケーです。

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  • akiraelly
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回答No.19

禅でありましたね、風にたなびく旗を見て、二人の僧侶が旗が動いているのか、風が動いているのかと議論していたら、慧能とかいう和尚がきて、旗も風も動いていない。心が動いていると。 つまり、心が存在しているのでしょうか。 しかし、そのあと無門和尚が、評釈で、旗も、風も、心も動いていないと。 とにかく「無」を悟ることが大事らしいです。 猫は生まれる前や死んでしまえば、素粒子かなんかに分解されるでしょうから、猫は猫ではないといえるかもしれませんが、それを昔の哲学者などは錯覚というらしいです。そしてそれらを否定するから不生不滅となって、そこに不死の猫というらしいです。 運動、つまり時間というものは錯覚であって、錯覚なら、本当は無時間となり、万物もまた存在しえないということらしいです。

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noname#142071
noname#142071
回答No.8

存在ですか。時間は存在していますね。時間の傷として物質も存在していますが、あくまでも傷なので、時間にくっついている、オマケの存在でしかないと思うけど。 私たちは、存在の主体として、自分の存在を認識していますが、存在の主体は、あくまでも時間のほうです。 時間の1秒を考えると1秒の中に宇宙全体が存在します。それほど時間の存在は、絶対的な権力を持っているのですから、時間の傷として存在する、あらゆるモノの存在を否定することはできません。 幽霊を見たのなら、その瞬間には幽霊が存在していたことになります。また、原子を見たのなら、その瞬間には原子が存在していたことになります。 さまざまな現象が起きる空間を、圧縮すれば、確かに認識されにくくなり、見かけ上は、無に近づきますが、存在自体が無になるわけではありませんね。だから私は、物理学者の仰られる、無とか、真空とか、絶対零度には、否定的な考えをもっているんですよ。あるモノはあるで、いいんじゃないでしょうか。 まとめてみると、ある時間には、あるモノがあって、またある時間には、無いこともあって、別のあるモノがある。有るものが無くて、無いものが有る。色即是空 空即是色。ただし、時間は、モノではないので、絶対的にある。しかも無限である。1秒の中にも無限の要素としての、時間の傷があって、無限の現象がある。そして、すべての現象は否定できない。つまり、あるがまま感じるままで良いことになりますね。

回答No.7

「存在」と一言で言っても、頭の中で空想されうるだけの「存在」もありますから、少しばかりややこしいのですけれどね。。。 でも、そういった空想の存在をも「共通認識」として存在たらしめているのは何か?と、考えるならば、自ずから答えに辿り着くのかも知れません。 http://okwave.jp/qa/q5265789.html http://okwave.jp/qa/q6212220.html http://okwave.jp/qa/q5020358.html?best_flg=true http://okwave.jp/qa/q5485803.html?best_flg=true http://okwave.jp/qa/q5578099.html?best_flg=true

回答No.6

 あなたは元をただせば全部素粒子。  だから、あなたは存在しない。

  • hanniyagi
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回答No.5

猫?雲?光?音?変化?熱?速度?重力?命?自分自身? 揚げていますが。 2種類に分類し、分類したものはまた二種類に分類出来るのではないでしょうか。 最初の分類は。あなたが、有る、と認知出来るもの。またあなたでなくとも、 有る、と認知される対象。猫とか雲とか、あなたという人間、です。 つまり、一つの纏まり、単位として、色や形、三次元体積を知ることが出来る対象です。 これを、古代中国の老子は「有」と言い。仏教では「色」と言っています。 いわゆる、「物」と言われる対象なのです。 一方 光、音、変化、熱、速度、重力、命。という対象には、色も形も、一つの纏まりとして体積も 知ることは出来ない、有る、とは認識出来ない、それ自身は何処にも、実体はないのです。 老子はこれを「無」と言い。仏教では「空」と言っています。 では何故、実体のないものを、あなたは、存在すると、思ったり、考えたり、するのか。 それは、何かが?光や音によって起こり、何かが熱や速度の変化を起こすから、その変化 差違、を認知出来るから、なのです。 何かが?とは。「有」であり「色」なのてす。 つまり「物」が変化し、物に差違が起こり。 物に変化を起こした、能力、が存在する。と考える。 虫や小動物が、自身で動き、生きよう、種族維持をしよう、とする行動をするから。そういう 能力としての「命」が付随している。と考えるのです。 そいう、自然な考え方(知識や数学という架空計算を当てはめた科学理論ではなく)が正しい? この世界の在り方、起こり方、に合致している?のです。 この世界の在り方、起こり方、は 物と物の変化が存在する。 物=変化であり。物と変化は一体である。 物×変化=一つの存在単位である。 変化とは、変化を起こす能力であり。あらゆる物には、その構造と一体の 能力が付随している。 猫は、粒子の塊ではなく、猫独自の構造を持っているから、猫の能力が 付随し。人間には、人間独自の構造による実体のない能力としての 人間の、変化、行動、に駆り立てる能力としての、心、精神、が付随している。 肉体×精神=人間 という在り方であり。 それを、肉体+精神=人間 と捉えるから。肉体を離れた霊魂、とか 肉体が滅んでも(死んでも)魂は残る。などとの妄想が起こるのです。 「無」(老子の)や「空」とは、実体としては存在しないが。 実体の有るものと一体として、存在している。とは ゼロ、の概念ではなく「×1」との認識なのです。 あなた×1=あなたという人間であり。 「×1」としてのあなたの能力、精神、は何処にも存在しない。 あなたの、行動、表現、によって。存在する、と言えるものなのです。 と

回答No.4

最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測される事 によって生じています。 自我仮説に対する相補的な時空仮説における、他我性こそが宇宙 (無の無限の闇に対する自我の射影)。 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った) 補完なのです。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に 詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、 認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列化)を 想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光 (量子相互作用パターン)の向うに自我仮説の補完としての 時空仮説=宇宙を認識するのです。 その「存在」は、認識される階層的現象の表面的に生じるもので、 根源的に絶対化しようとすると、元の無限不確定性に発散します。 宇宙(認識)とは、無の潜在としての認識可能性の“断面”の移動 =自我仮説に対する、相補的な時空仮説として生じているのです (不完全な認識による量子的相補的不確定性の有限化)。 換言すれば、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の 相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という 無の射影として、存在は生じていると言えます。 無いとは分からない事が有なのです。

JoyWorld
質問者

補足

>有限な存在性は観測される事によって生じています。 有限って何が有限なんですか? 猫一匹とってみても、瞬間の情報量は無限にあるように思うのですが >自我仮説に対する相補的な時空仮説における、他我性こそが宇宙 >(無の無限の闇に対する自我の射影)。 もう少し平易な日本語でお願いできませんかね。 自我仮説ってあなたが勝手に作った日本語でしょ?時空仮説もそう あなたがよく使う言葉の解説サイトみたいなのご自分で作られたらいかがでしょうか 最後のほうに説明がちらっとあったけど、そういうのは文章の前のほうにもってくるべきですね >無存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。 平らになる=0になるってことじゃないでしょ?? 平均化されるって意味じゃないの? >無いとは分からない事が有なのです。 非常に狭い意味の存在しか答えてないですね。 単に自分の知識を披露したかったように見えました

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.3

ギリシア時代には、イデア論をもとに 存在するものは不変的なものだ、とする立場がありました。 しかし、現在では分子も原子もクオークも、みんなひっくるめて物質と エネルギーの同質性が解っていまして、これは説得力を 失いました。 次に、知覚できるものが存在するものだ、とする立場があります。 これは、最も解り易い説明で、物質や美、誠実さ、国家や制度なども 知覚できますから、存在すると説明できます。 しかし、これではまだ発見されていない惑星などの 存在が説明できません。 そこで、さらに進めて、知覚「可能性」があるものが 存在するものだ、とする立場があります。 未だ発見されていない惑星も、知覚の可能性はあるから 存在するという立場です。 しかし、知覚可能性てことは人間の知覚の可能性のことですから 限界があります。人間が知覚できる可能性以外に存在する ものもあるだろう、ということです。 それで存在とは充溢のことだ、と説明する立場が出てきました。 綺麗な女性において、綺麗というのは女性の属性ではなく、 「綺麗な女性」という存在だ、とするものです。 すると汚い女性もおり、綺麗でも汚くもない女性もおり、黒い女性も、 白い女性も、黄色の女性もいます。 そして、綺麗にも汚いにも、色彩にも無限の段階があります。 同じ事はあらゆるモノの対して指摘できます。 つまり存在とは無限の充溢のことだ、と説明する立場です。 これでは何がなんやら、という人が 多いのではないでしょうか。 つまり、存在というのは言葉のマジックです。 例えば、腕に傷がついた。 時間が経つと傷が治って見えなくなった。 傷はどこへ行ったのか、と問うと 答えられなくなる。 それと同じ類の疑問です。 この存在論は、キリスト教に起因しているものです。 この世には色々なモノが存在している。 存在している、ということは誰かが創ったから 存在している、ということだろう。 その誰かとは神、創造主である。 では、神は誰が創ったのか。 いや、神はただ存在するだけである。 新井白石はこれをインチキだと攻撃しました。 神がただ存在するだけなら、自然や人間だってただ 存在するとすれば済む問題ではないのか、と。

回答No.2

【己を知覚できるモノ】 【己が知覚できるモノ】 あたりは【存在】かと

JoyWorld
質問者

補足

じゃあ幽霊や神を知覚したらそれらは存在するんですか?

回答No.1

素粒子自体が存在してる物なんだから全てが存在してる物。 光りや音も重量も熱も存在してるから私たちの今がある。 速度は人間が作り出した単位。 だから存在する。 ただ人間の想像から作り出した神だとかは存在しないと思ってる。 深く考えてもしょうがない。

JoyWorld
質問者

補足

物体として存在するのと概念があるのとでは大きく違うと思います

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