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ある能力において人は神を超えている
人が作り出す道具、例えば車やコンピュータなどは移動能力、計算スピードにおいて人の能力をはるかに超えています。 もし、神が人の創造主であるなら恐らく私たちはある領域において神の力を超えた存在であるはずではないでしょうか。 恐らくそれは知性だろうと思われますがどうでしょうか。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.18:shift-2007さんにしても頭で作業しているとなかなかなんですね。(順不同) 1. 聖書にもありますとおり、創造とは見る。です。見ると創造になる。それは私たちもそうなんです。 2. 神(というタームを使いますが、この音オンと字に意味を持たせないで下さい)は窮極、唯一実在、私たちの本体ですね。ここに全てが根ざし、ここで見るから世界が現われる。 そしてここに価値と理念を求め、根ざす。しかしこれから先はない。 神に一切があるが、神は存在にも自分にも一切を必要としない。根本だから。という話をしたつもりでした。 これが私たちのパラマハンサ・ヨガナンダ大師のSelf-Realization Fellowship (http://www.yogananda-srf.org/)で私たちが学んでいることです。 Self-Realization Fellowshipで検索すると、東京の人たちのURLも幾つか出てきますね。 わたしはURLなどは持ちません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.16:shift-2007 【私たちはなぜここに存在するのかという問いに対する答えを神は持っていないということでしょうか。】 無論、私たちはその答えをもっていますが、それはここで私が告白的に陳述することではなく、人間各人がそれぞれ自分でその答えにいたることで始めて答えになるのだと存じます。 そして無論、神がその理由と目的を自己の中に(自己として)持っているから、私たちは自己にそういう答えを持つことができるということですよね。 ともかく窮極基盤・窮極価値であるとするならば。それはご自分で窮極基盤・価値は庭の落ち葉だとか、枝末の木の葉だとすることもできましょうから。 別に神という呼称なども観念なども不要でしょうね。 【神自身のことは神自身に任せるとして、私たちはなぜ存在するのかという問いに対する回答】 私が私の言葉で表明しても、葉をすれて行く風のようなものですので。無論、あたしには意味があっても。 ひとつの神話的表現でしか出せないので、shift-2007自身が納得できるようにまぁ、この辺で我慢するかという答えでいくこともありうると存じます。 あたし自身は、Self-Realization Fellowship(http://www.yogananda-srf.org/)のパラマハンサ・ヨガナンダの説明で100%、同意しております。 この辺で我慢ということではなく。これはその境地が大切で理論ではなく認識ですので。 山の天辺(てっぺん)はそこにいかないとみえないですね。 申し訳ありません。つまり私は神が観ているので、存在していると思っています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに【答え】には大して意味はないかもしれないですね。 それに至るプロセスが人には大切なのかもしれないと思いました。
- JoyWorld
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人間にはスピードなら光を超えられませんし、計算スピードなら宇宙のすべての粒子の位置をすべて計算することなんかできませんし、数えることもできません。 知性が神を超えたのなら、人間は人間を作れるはずですし、宇宙を作れるはずです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >人間にはスピードなら光を超えられませんし、計算スピードなら宇宙のすべての粒子の位置をすべて計算することなんかできませんし、数えることもできません。 現時点ではですね。 >知性が神を超えたのなら、人間は人間を作れるはずですし、宇宙を作れるはずです。 あくまで部分的にです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.12: shift-2007さん、余計な回答投稿をしてしまい、すみませんでした。 仰せのことですが、神の意図、目的、目指す価値や理念はないと存じます。 神からそういうものが展開してきているのだと存じます。 だから神っていうタームを出した途端に一切の意図、目的、目指す価値や理念はその中に没入してしまうのだと存じます。 なにせ窮極の基盤、根源、理由、価値ということだとするなれあば。その先はないと存じます。 神には何の必要もない、自分が目指す目的、価値や理念もない。 無論、意図もない。ただそのままに展開している。その理由等々は神だから、というだけになると存じます。 私たちが勉強しているSelf-Realization Fellowshipを私なりに理解したことにすぎませんが。 いえ尊敬景仰する先達さんも同じことを言っておられました。神の向こうはないって。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私たちはなぜここに存在するのかという問いに対する答えを神は持っていないということでしょうか。 神自身のことは神自身に任せるとして、私たちはなぜ存在するのかという問いに対する回答はなにかご存知ですか。
- JoyWorld
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神が創らなかったものを神が創れなかったのだと勝手に断定しているところがそもそもの間違いだと思います。 それと我々が作るのは、この世界の構造を理解して初めてできることなのです。 そもそも神がコンピュータなんて自分より能力の低い道具をなぜ作る必要があるんですか? というか、神が完璧な存在ならば、そもそも何かを作るまでもなく満たされているはずです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >神が創らなかったものを神が創れなかったのだと勝手に断定しているところがそもそもの間違いだと思います。 断定するつもりはありませんが、神でさえ未来を予測することはできないでしょうからコンピュータというものを宇宙誕生のタイミングで作れたとは思えないです。 >自分より能力の低い道具をなぜ作る必要があるんですか? ではなぜ神は花、虫、鳥、犬、人間を作ったのでしょう。 >神が完璧な存在ならば、そもそも何かを作るまでもなく満たされているはずです そう、完璧な存在ではないかもしれないという可能性が出てきますね。
- 島崎 信也(@zakky74)
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zakky74でございます。 >ご回答ありがとうございます。 >神によろこんでもらえるといいですね。 そのためには、そういう人間になっている事ですね。 人間は、人間であり、神であり、神以上です。 そう言い切る為には、創造のメカニズムを明確に理解する事です。宇宙創造のメカニズムを明確に悟り知り、宇宙創造のメカニズムを自由自在に活用出来る個人になる時に、被造物感覚としての人間ではなく、創造主感覚としての人間が誕生します。 人間が、まずはその状態になる事です。 通常、人間は知の完全性のワナに、はまっています。 これでは、宇宙創造のメカニズムを明確に理解する事が出来ません。 まずは、知の完全性のワナから解放され、知の不完全性に行く事です。そして、知の不完全性から無知の完全性へ到達する事ですね。 無知の完全性にまでなりますと、全ての知の不完全性を受け入れる事が出来ますが、この状態であるからこそ、次の段階へ進みます。 つまり、知の不完全性を補うんですね。 全ての知の不完全性を補い、知を完成させます。それが、宇宙創造の仕組み・メカニズムを明々白々に理解する事の意味ですし、自由自在に活用する事です。 知の完全性のワナにはまっているから被造物感覚です。知の不完全性・無知の完全性・知の不完全性を補い知を完成させる・・・ここまで来ると創造主感覚ですね。 人間は、人間であり、神であり、神以上です。 それでこそ、神は喜びます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 一つ質問してもいいですか? 神は何をしたいのだと思いますか。 神の目的といってもいいですがそれほど明確なものではないかもしれませんが。
- heartmind
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人間の能力をはるかに超えた自然物はたくさんあると思います。 例えば、速さでいうと、チーターとか光とか 背の高さでいうと木とか山とか そのような自然物の長所をいかして人工物を作っているので 当然そのような結果になります。 たとえ人間が自然物から人工物を作ってもベースは自然物に 変わりはないので自然物を超えたことにはなりません。 また、神が人間をそのような知性の持ち主に作ったのであれば 同様のことが言えると思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >そのような自然物の長所をいかして人工物を作っているので 当然そのような結果になります。 地球上でこれが出来るのは人間だけですので、やはり人間はすごいと思います。 恐らく神にはコンピュータは作れないだろうと思います。 自然のモノマネではない科学が今後出てくるかもしれませんね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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shift-2007さんらしくないご質問かな? 私らしくない?回答書き込み。 下村湖人:次郎物語。中学にはいった乳母のお民に、次郎が考えを述べる。 お民は感心する:【でも偉い次郎さんを育てたのはわたしだから】 そんな話とは別に:人間は所詮、神の中において存在し、何事もなしている。その能力なども結局は神に由来するという定言はあまりに信仰的すぎますか? 神というタームを出した以上はそういう言い方をして神と人間をみても許されるのではないでしょうか? 人間と神が別個に存在しているという見方をする限りは、神も人間もいつまでも探求の対象でしかなく、自分という主格意識の中には取り込めないですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 いろんな見方が出来るならいろんな見方をしてみたいというのが私の考えです。 これは、神の目的はなんだろうという謎を解く過程で見つけた理屈であり思考実験です。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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8番です。追記です。 あなた方が、ただ 【自分の目から見て思慮深いもの】 とならないように・・・。 弱弱しい人間、の愛(もどき)、 を賛美する人は 弱弱しい人間のタコツボに入って、 神の愛を感じることができないか、 あるいは神の愛を 見ないようにしているのでせうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 神の愛はそこらじゅうにあるでしょうね。 それを感じ取れるかは確かにその人次第でしょう。
- hakobulu
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#7です。 >>愛は憎しみと根は同じものですが なぜそのように考えるのですか? : 愛の喪失が憎しみを生むからでしょうね。 愛がなければ憎しみも生じません。 ただ、怖れから生じる嫌悪は憎悪(憎しみ)とはまた別物です。 神は憎みもしないが愛しもしないでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >愛の喪失が憎しみを生むからでしょうね。 なるほど、愛と憎しみの大元は自我だということですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >ここに全てが根ざし、ここで見るから世界が現われる。 そしてここに価値と理念を求め、根ざす。しかしこれから先はない。 私がわからないのはここで、なぜ神の内部はこのような構造になっているのかということです。 そこに何らかの意味があるのかと思います。ないなら私たちは救われないなと思うのです。