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存在と死
身近な者が死ぬと、突然その人の残した遺品が存在感を増すということがありませんか。くだらないゴミのようなものまで、くっきりと目前に浮上したかのように見えることがあります。 そしてその故人の生前に、もっとこうしておけばよかった、ああしておけばよかったと、後悔が湧いてくる。 どうしてその者が身近に生存している間は大事に思えず、その者が亡くなってからその存在の重さに、確かさに、本当の意味に、気がつくのでしょうか。
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>どうしてその者が身近に生存している間は大事に思えず、その者が亡くなってからその存在の重さに、確かさに、本当の意味に、気がつくのでしょうか。 それは、時計の針が逆方向に回らないことをわれわれは肝に銘じて弁えているからではないでしょうか。 さらには、「ある」は「ない」によって縁取られ、はじめて浮き彫りにされるからではないでしょうか。 そして、われわれのこういう思いは、かつて自分がより親密な感情、より深い愛情を抱いていたものが喪われたときに、ほとんど息苦しいまでにわれわれを襲ってくるのではないでしょうか。 それが、「もっとこうしておけばよかった、ああしておけばよかった」という「後悔」の源泉となるのではないでしょうか。 すでにご存じかもしれませんが、われわれが歴史(過去や思い出など)に魅了されないではいられない人間固有の事情については、下記の小林秀雄の有名な一文の中に、小林独特のやや浪花節っぽい調子が鼻につきますが、見事なまでに美しく語られています。 《子供が死んだという歴史上の一事件の掛け替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どの様な場合でも、人間の理知は、物事の掛け替えの無さというものに就いては、為すところを知らないからである。悲しみが深まれば深まるほど、子供の顔は明らかに見えて来る、恐らく生きていた時よりも明らかに。愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、この時何が起こるかを仔細に考えれば、そういう日常経験の裡に、歴史に関する僕等の根本の智慧を読み取るだろう。それは歴史史実に関する根本の認識と言うよりも寧ろ根本の技術だ。其処で、僕等は与えられた歴史事実を見ているのではなく、与えられた資料をきっかけとして、歴史事実を創っているのだから。このような智慧にとって、歴史的事実とは客観的なものでもなければ、主観的なものでもない。この様な智慧は、認識論的には曖昧だが、行為として、僕等が生きているのと同様に確実である。》(「歴史について」『ドストエフスキイの生活』)
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.15:いろいろお慰め戴き有り難う御座います。 故人が自己以外の対象存在でなくなれば、もういいときはいい時の事を、いやな時はいやな時のことが頭に浮かびますが、それも自己の中の画像、懐かしさにも為りえます。 それと関連事項: 近所に弟が家内工業の家業を継ぎ、嫁にいった姉さんというお家がいて懇意にしています。許しあっています。 老親は私の姉よりちょいと上の90に届く方です。娘も息子も優しいが、姉の方は非常に親孝行です。 それは地域的にも離れていて、一緒にいないと負担や親とのいやなこともなく、何かもっとしてやらなきゃぁって罪意識なんでしょうか。 私も妹に暫く両親と暮らし続けてもらいました。 その当時はやはり、暫くぶりで帰宅すると一生懸命両親のことをしました。申し訳ないって。 でもその当時、両親は50代後半と60そこそこですから、いまの私の年齢から見れば、若者世代です。 でも、老親って気持ちでいたわりの気持ちで接するんです。 そして妹が家庭を持つので、私が一緒にすむようになると、つまり現実に外界の対象存在となると、もういやなことがたくさん出てきて、いつも不満を持っていました。 そおんな老親を20数年前に送り、今は思いでですが、写真やその他で当時の両親たちのそれなりの苦労を思い返し、人間って何時でも、どんな環境でも苦労やあるものだなぁと実感しております。
お礼
ご回答有難うございます。 ご両親の介護でご苦労されたのでしょうか、故人については、たしかに良い思い出だけ残るのではないのかもしれませんね。しかしそれでも、時と共に思い出は美化されていくものでもあるでしょうか。。 年をとっても人の世話にはできるだけなりたくないと言うのが人の感情ですが、現実はそうも行きません。 介護が綺麗ごとではないのも事実でしょう。また、高齢者を疎ましく思ってしまうのは、肯定するべきではない本能的な衝動でもあると思います。 年をとっても変わらぬ人間性というものを考えさせられます。 実際、介護は受ける方にとっても、する方にとっても、心身の負担になるものでしょう。 難しいですね。 その点、介護ロボットなどが発達すれば、気兼ねなく身辺の清潔を保つことができてよいと思います。 ロボットに介護を任せることは、一見寂しいようですが、功利は大きいと思います。 本来ならば、何一ついやな顔をせず、いやな顔をさせず、介護ができるような人格者になるべきかもしれないのですが、それは大変難しいことであると思います。難しいことではあるけれど、介護がそういうことを考える機会になるのであるならば、介護も厳しい現実では在りますが、無意味ではないと言えるような気がします。 お礼に何を書いて良いのか分からなくなるような、シビアな問題だと思いました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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lightwave8さん、せっかくご回答戴いた質問が、私の無様で削除され、申し訳ありません。 さてご質問ですが、 1. 故人が他者という存在形式をもたず、私たちの個人の中の存在になったからと存じます。 2. そして更に、何らかで異者という対するものでなくなります。無論、対抗者でも波の起し者でもなくなり、 波を止める存在でもなくなります。 3. つまり、自己内或いは自己自身である記憶存在になっているからではないでしょうか。 そして意外な側面を気付いたり、理解の更なる深化にもつながりますね。 以上、自己と身近な他者に関する私の意識内の反省から書きました。
お礼
いえいえ、質問削除の件はそのようにお気になさらないでください。私も発言できてよかったです。運営に削除されるであろう事は、分かっていた事ですし、むしろ、私の規約に対する無配慮の所為で削除されたものと言えるでしょう。申し訳ありません。削除されましたが、十分に有意義な設問であったと思います。その節は感謝いたしております。 本題ですが 個人が既に、<私>の一部になってしまったから、というのは重い説得性があります。故人はその通り、いまやもう亡いのであって、それを何処に探すかといえば、自分自身の内(思い出など)の他にはない。そんな時に遺品は変わらず存在し続けるわけですから、その存在感を増すのも当然と言えます。故人と争おうにも、仲良くしようにも、もはや不可能なことです。そんな折、もの言わぬモノ(遺品)が、消えてしまった人物の代理存在として鮮明に見えて来たとき、その遺品が補助線となって、故人の存在が中身なしに浮き上がってくるのかもしれないと思いました。 ご回答有難うございました。
- 島崎 信也(@zakky74)
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zakky74でございます。 >この質問には、どうしたら生前からその存在の大切さなどを理解して人と接することができるだろうか、という問も暗に含んでいるのですが、その答えをまだ見出すことができていません。 実はこの度の投稿には問に対する答として、かなりヒントを散りばめています。暗に含んでいる観点をも受け取っております故に、僕の方も暗に含ませてみました。 ヒントを通じて、lightwave8さんは現段階でもある程度でしたら、ご自身で問に対する答にまで迫れるかと思います。もし未だ分からない事がありましたら、補足にてご質問下さいませ。
お礼
そうでしたか。前回等を読み直して見ます。 ありがとうございました。
- 島崎 信也(@zakky74)
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zakky74でございます。 深い質問だと思っています。 人間は、五感覚脳の認識のクセが常に働いています。認識のクセは3つあります。 1.部分だけを取る 2.違いだけを取る 3.過去のイメージと繋げて取る この認識のクセだけで整理しても相当数の事が理解出来たりします。ここからお応えしてみたいと思います。ところで、 >>>・・・その存在の重さに、確かさに、本当の意味に、気がつくのでしょうか。 >と私が述べたのは、もし身近な者が死ねばと想像した結果、いろいろな気持ちや心象が現われてくるだろうなと察したからです。そして概ね、それは一般的に言えることではないかと思いました。多くの人に経験のあることだろうと。特に身近な者が死した後に悔やむことが現われるのは、よくわかる気持ちではないかと思います。 についてですが、この文章からは、lightwave8さんご自身が経験されているという可能性も未だ残されてはおりますが、一般的な経験や見解であるところからの問い掛けであったと理解する事にしました。もし、lightwave8さんご自身が経験された事であった場合、その心情や事例に重ねた話が相応しいと判断されたならば、いつでも書き足して頂ければそれに合わせてお応えしようかと思います。 宜しくお願い致します。 人間は、脳の認識が働いている以上は、全体を取る事は出来ませんし、共通を取る事は出来ませんし、今ここリアルを取る事が出来ません。 試してみると分かりますが、手と手を握り合わせてずっとそのままにしておくと、始めは手と手が触れている感覚や握っている感覚があるのですが、ある時、フッとその感覚が消えている事に気付く事があります(個人差はあります)。 目を瞑ると触れている感覚がなくなっている事はよく分かりますが、何と目を開けて見ても、目では触れている事は分かっていても触れている感覚は消えています。 もはや違いを感じれなくなったならば、脳のクセは違いだけを取るので手と手が触れ合っているという事を認識できなくなるんですね。出会ってはいても、脳の認識のクセはそれを取るとは限りません(寧ろ、取っていない情報の方が多く、取っていても切り捨てる場合もあります)。 身近な方との関係性というのは、この手と手が触れ合っているのと近い現象が起きる場合がございます。左手が自分で右手が身近な人・・・の様なですね。その場合、自分と身近な方との関係性というのはそれくらい自然な事であり、まるで自分と一体であるかの様な状態が創られているので、そんな一体感・全体感や共通感・同一感を脳は認識できません。 それが、まるで意識が無いかの様に思えてしまいます。存在が無い訳ではありませんが、特に意識が向かないんです。 ところが、身近な方が亡くなるという変化をどう理解すれば良いでしょうか?両手を合わせる状態で言えば、片方の手が離れていった時の様な状態です。 これは、それまでの状況からすると、 1.部分 2.違い が際立ちます。脳の認識のクセは、これを見逃しません。 そして、それまでに創られた自分と身近な方との関係性は、既に体の範囲を超えて隅々にまで充満し空気にまでなっているくらいに一体感・全体感・共通感・同一感でしたから、それを為しえたパートナーが欠け落ちた事を通して、その急激な変化を脳は捉えます。その変化を 3.過去のイメージと繋げて取る ので、自分と身近な方との関係性が過去のイメージと繋げて現象化してきます。つまり、失われた身近な方との間で育んだ一体感・全体感・共通感・同一感を感じていた時の様な関係性、或いは心に戻ろうとする力が働きますが、亡くなられた方の遺品(新しい右手)と出会う時に、その度に過去のイメージと繋げて取りますので、生前に出会っていた同じモノと出会っていても、まるで別物の様に認識してしまいます。 ですから、ご質問の様な事が起きます。 心は、大事に思っています。 しかし、脳の認識がそれを取っていないだけです。 >>>どうしてその者が身近に生存している間は大事に思えず、その者が亡くなってからその存在の重さに、確かさに、本当の意味に、気がつくのでしょうか。 そのバランスが崩れる時に、脳の認識のクセが働きますので、過去のイメージと繋げて取るその取り方によって、存在の重さ・確かさ・本当の意味などに気付くのではないかと思います。 如何でございましょうか?
お礼
なるほど、わかりやすい喩えを有難うございます。 >心は、大事に思っています。 これは慰めになるのではないかと思いました。 この質問には、どうしたら生前からその存在の大切さなどを理解して人と接することができるだろうか、という問も暗に含んでいるのですが、その答えをまだ見出すことができていません。日ごろの事にかまけている間に、共に過ごせる時はどんどん過ぎ去る。かなしいものです。居ながらにしてそれに気がつけないとは、おっしゃるところの脳の癖なのかもしれませんね。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
解答No.11は変な文章になってしまっているので訂正します。 木造さんの回答(No.7)に「嫌なやつが死んだら清々してすぐに忘れる」のではないかと言っていますが、それは“気になる存在”に「負」の要素があるからではないかと思います。 存在が自身にとって負担であれば、存在が消えることでその煩わしさから解放されます。 でも、「負」の要素でなければ、あるいは存在自体を受け入れたいと思っているのならば、“気になる存在”の消失はやはり心に空白感を覚えるのでしょう。(親しみを感じている人とか) そう思うと、気になる存在も気にならない存在も、自身がそれを必要としているかいないかで心の反応が決まってくるのかと思います。
お礼
昔、祖父と同居していた頃、理由なく祖父を嫌っていた事がありました。しかし彼が死んだ後、私は泣いて後悔したことを覚えています。それは親しい人、本当は大切にしたい人だったからでしょう。 ただ単純に嫌いな人が亡くなれば、清々するのかもしれません。私にはまだ経験がありませんから、そのようなことがあるのかどうかがわからないのですが。。 実はその人を必要としているのに日常の中でそれに気がつけないというところに、心理の顛倒を見る気がします。 ご回答有難うございます。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
木造さんがその人にとって価値があるか無いかで、気づかなかった思いが込み上げてきたり、逆に気になる存在が消えて、そのことへの囚われの心がなくなって、“清々”した気持ちになったりとあるかと思います。 質問は、負の世界を想定していないものでした。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
東北の震災に遭った人たちが、食料や水や住まいとか、有って当たり前の物事を失ったことによって、改めてそれらの存在の重要さに気づいたといったコメントがニュースでしばしば流れていましたが・・・・・
お礼
そうですか。実は私も被災経験がありまして、、その時の避難所のトイレの光景は忘れられません。維持するということのコストを考えると、木造さんのおっしゃる価値の意味もわかってくるような気がします。 流転する世の中で、失われないものなど在るのだろうかと考えたとき、しかし、やはりあるのだと思う事柄もあるのです。 ありがとうございました。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
価値の範疇に、プライサブルとプライスレスの両方があるとおもうがなぁ。
お礼
よければそこら辺りについて、もう少し解説をお願いいたします。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
やっぱり、心にぽっかりと穴が空いたから。 “欲望”は心の空白を埋めようという作用。 だから・・・・・。
お礼
なにやら詩的なご回答を有難うございます。 空しさを満たそうとするけれど・・・
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
嫌な奴が死んだら清々して、すぐに忘れるんじゃないかな。 つまり、質問を「存在と死」と定義するのではなく、「価値と喪失」と定義した方が明晰じゃあないかい。
お礼
ありがとうございます。 タイトルを価値と喪失にした方がよかったのではないかというお答えですが、身近な者、例えば親や友人が価値あるものだと言うのは、どこか文義に違和感を覚えます。ありきたりな言い方をすれば、それらはプライスレスであり、価値の範疇を超えているからです。喪失と言う意味については死と同様かなと思います。
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お礼
時間の冷酷さから身を護るための感慨であるのかもしれないと思いました。引用の文章は、納得いくものでした。せかせかと日々を過ごして行くうちに、幾度もあったはずの機会を逸してしまう。どうしてこのように悲しい有り様が現実にあるのかと思うと、生きることの難しさを改めて思い直します。 ありがとうございます。