• 締切済み

実現すると言うこと

喩えば遠くの国の素晴らしい景勝地の話を聞いたとします。自分も是非行って見てみたいと思い、そしてお金をためて飛行機やバスなどの乗り物に乗って、あるいは途中人に尋ねながら歩くなどして終に着く。この場合は、そこに行きたいという気持ちと、実際に行くと言う行動が伴って初めてその景勝地を拝むことが実現します。 ここに、ある人が理想を持って歩いていても、その理想に実際に到達していることとは異なります。 目指すものと、その目指したものに到達することとの間の隔たりをいかにして人は埋めることができるのでしょうか。人が何某の理想を目指すとき、人はその目指した理想のように行動することが求められ、それを為すことが理想を実現することであると思います。 こんな人は素晴らしいなと感じるような人や言葉に会うこと、あるいは自分はこんな人生を送ってみたいと思えるような人生を実現すること、は、それぞれ、素晴らしさを吟味すること、人や言葉、邂逅について吟味すること、人生について吟味することによって、それぞれのより詳細な像を得、自身が具体的に行為することを可能にし、次第次第に自分の目標とするところに迫ってゆけるでしょう。 質問ですが、皆さんの考える素晴らしいなと感じるような人や言葉とは何でしょうか。 或いは、どのような人生を送ってみたいと思われるでしょうか。 よろしくお願いします。 ちなみに自分は、聖人に会うこと、真実の言葉を聞くこと、後悔しない人生を歩くことを目標にしています。それぞれを吟味すると、聖人とは浄らかな人であり、真実の言葉とは一つの事を言い表している言葉であり、後悔しない人生とは、晴れも曇りも雨もあったが、総じて奇跡的(全てがそれでよかった)な人生であったと言えるような人生のことです。 そして、目を澄ますこと、聡い耳を持つこと、勇気を持って歩くこと、などが、目指すところに近づくことです。

みんなの回答

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.9

私が素晴らしいなと、その人の足の爪の垢程でも良いからそのようになってみたいな、って思っている人は、南方熊楠です。日本人の書いた履歴書で最も長いとされている彼の『履歴書』は素晴らしいですよ。是非読んで自分を考えてもらいたい。 明治の中葉20才代後半に熊楠がロンドンにいた頃、たまたま彼を訪れた10才程年上の学僧土岐法竜に送った書簡のなかで、「仁者、宗教のことを知りたしという。これ仁者仏に信厚ければ到底能わざるかもしれぬ」と述べております。法竜は後に真言宗高野派の管長になった高僧です。更に、ある書簡の中で法竜に向かって曰く、 「恁麼(いんも)に来たるも棒を吃し、不恁麼にして来たるも棒を吃す。云々。小生、一体人とよれば棒を与えたくなるなり。ショウペンハウエルの譬喩に、豪猪(やまあらし)四、五、圏中にありて寒を感じ温を欲して相密著するときは、双方の刺たちまち相痛しむ。これをもって賢人は温を貪りて相刺さず、温を少なくして刺撃を受けざるを事とす、といえり。さればこそ小生は独孤にて人に求むることなし。仁者、小生に向かいて温を求められる。それその刺を畏れざるなり。願わくは小生の刺に痛むことなく、単に多少の温を得られんことを望む。」  いいですね。 熊楠は、粘菌学の科学者で日本民俗学の創始者の一人、さらに、日本で最初の環境保全運動家で牢屋に入ったりしている。現在でも世界で最も権威のある科学専門雑誌、英国のNature誌に日本人として最も多くの論文の掲載を許された方で、未だにその記録は破られておりません。 彼が、もう一人の日本民俗学の巨人柳田國男からただの一回だけ訪問を受けたときには、彼は酒にグテングテンに酔っぱらっており、曰く「初めてお会いする方にしらふで会うっちゅうわけにはいかない」って言ってたと、柳田と南方の書簡集に書いてありました。 環境保全運動で彼が東京に出て行かなかった理由は「おれが東京に出て行ったら、二三人叩き殺してしまうことは目に見えているから、俺は東京には行かんのだ」って言ってました。 戦前、昭和天皇に粘菌学の講義をしたときには、その試料を森永キャラメルの箱に詰めて持って行き、宮内庁の連中の度肝を抜いてしまった。 そして彼の辞世の句が都々逸と来ちゃあ、堪らなくいいですね。  見えぬ山路を越え往くときにゃ 鳴かぬ烏の声もする 下のは熊楠の都々逸じゃないが、  井戸の蛙(かわず)が空うち眺め 四角なものだと議論する なんて粋なのも好きですね。

noname#144995
質問者

お礼

ありがとうございます。 http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic32.htmlを読みました。 すごく面白い人物ですね。こういう人を個性的だというのでしょう。実際、何も知らない事柄に関してとくとくと議論するのは甚だ御しがたいものであると思います。こうではないのか、ああではないのかと憶測ばかり、めんどくさくなります。その点この熊楠の博識には皆実体があって、その博識は本物であると言えると思います。 僧侶の話が出たので一つ経典からの引用をしたいと思うのですが、犀の角のように一人歩め、という句があります。これは、犀の角がいわば、糊で固めた筆のような構造になっており、無数の繊維が集合して一本の角になっていることを、修行者の有様として喩えているものです。一本一本の真実が集合して、一つの真実の型を為しているとは、なかなか深い教えであると思います。 熊楠のように独立心が旺盛で、行動力の抜群な人が、一つ一つの採集を為して、一冊の図鑑を作り上げるような様に似ているかもしれません。知り尽くすとはそういうことを言うのだろうと思います。 四角に切り取られた空にも、把握しきれぬ奥行きが認められるように、わずかな知見しか持たない人にも、深遠を旅する夢があるのであると思います。

回答No.8

 No.4&7です。    もう少し攻めます。  ★ 初心者、未熟者のときに、朧な予感や何処かへ向かう心といったものをゴールの代わりに見立て目指すことは否定しないですが、いつまでも仮の目標に頼っていてもダメだと思うのです。  ★ 『何処かへ向かう心』『完成した姿の予感』の続きがあって、それぞれは、『終に到達したという知見』『完成したという知』に変わると思っているのです。  ☆ このあたりでしょうか さらに問い求めをつづけるべき点は。  そうですね。たとえば その最終のすがたについて 《復活》であるとか《永遠の生命(じつは 復活がこの身と心で現在時におけるそれだと見ますから じっさいにはたとえば二百歳の人生をまっとうするといったことのような)》をすでにやり取りで述べていますが ほかには 次があります。  ○ 真理がすべてにおいてすべてである。  ☆ 状態に到るというものです。《真理》は たしか実際には《神》という語だったと思います。言いかえています。  すなわち この限りでわたしの側でも  ★ 『終に到達したという知見』『完成したという知』に変わると思っているのです。  ☆ となります。なるにはなるのです。ただ問題は 神は生きている人間の神ですから この生身でいるときのことを言っています。そのときには 生身のあいだは 《完全・完成》はないとも思っていると思います。(ひとによって 違うでしょうかね。そうは思わないのですが)。  つまり ただそれだけの違いだと言えば言えそうです。  ということで あとはいぢわる心から 表現をなじります。  ★ 初心者、未熟者のときに、朧な予感や何処かへ向かう心といったものをゴールの代わりに見立て目指すことは否定しないですが、いつまでも仮の目標に頼っていてもダメだと思うのです。  ☆ 《いづこかへ向かう心》は その気持ちのことを言うのだとすれば《ゴールの代わりに見たて》たものであるでしょう。それも 表象のひとつになります。ですから この《心》が表象しうるものである限りでは それは《仮りの目標》であり いづれは捨ててしまうことになるでしょう。  でも 《おぼろな予感》はどうか? その予感のおぼろに指し示すその先は 《ゴール》そのものですよ。《仮りの》ではありません。《目標》とするには あまりにもおぼろげであるというものであり そう言うのみです。でも予感はあります。  つまり 《いづこかへ向かう心》については あらためて確認しなければなりませんが・つまり 段階ごとに違った志向性が現われるのかどうかですが それに対して《予感》は 決して変わり得ません。最初の予感が そのまま最終の姿をおぼろげに捉えているはずです。  その現実の過程が 成果も得られず遅々として進まないとしても 予感はたしかなものなのです。《頼って》もよいのです。そしてその意味では すでにいま・ここにおいて《わたし》は到達していると言える側面があるのです。つねに そう言える側面があるはずです。  ここにおいて 初心者や未熟者も 完成に近づいた人たちと まったく掛け値無しに互いに対等だと言えることになると考えます。  あとひとつ揚げ足取りを:  ★ むしろ自ら一体こっきりの原型(=完成された生き方)を編み出すものではないかと考えています。達人が自ら奥義を編み出すように。  ☆ この命題は ほんとうのところでは みづからが達人であり完全な人間になったのでなければ 言えないはずなのです。それでも言えるのは じつは《予感》においてなのです。その予感という意味での《いづこかへ向かう心》においてなのです。  どぢゃ?

noname#144995
質問者

お礼

言ってる事と、ブラジュロンさんの意図はわかります。   問題は、人生の長さが200年なのか、20年なのかの違いではありません。全き人生と言うのはそういう長さを言うのではないのです。 いじわるやなじり、あげあしとりは歓迎できません。 それらについてのコメントは割愛しますが、一つ提示したいのは、イメージからの脱却と言うものがあります。いずこかへ向かう心もそうですが、朧な予感とか、明けだとか伸びだとかいうのは、それぞれイメージであるに過ぎません。あそこに行けば素晴らしいだろうな、楽しみだな、そんな予感に過ぎないのではないでしょうか。そういう予感は、モチベーションを保つためにはあっても良いとおもいます。しかしそれによって浮かれるのはよくありません。そこに行けば実際にも素晴らしいに違いないでしょうが、素晴らしいだろうと予感することと、それを実際に体験することとは根本的に違います。おいしい料理を目の前にするのと実際に食べるのとが違っているようなものです。 また、おっしゃるところの予感の不変性は、種のDNAが成木のそれにそのまま引き継がれていると言うような喩えができると思います。DNAもいわば可能態の一種です。内的に到達していたとしても、それがリアルで到達しているのとは異なります。子供と大人ほどの決定的な違いがあるでしょう。子供も大人も人としては対等ですが、その能力や外見、振る舞いはまったく異なります。子供が、俺は既に大人だと言っていても、この子は何を言っているんだとしかならないでしょう。それに対して大人は、大人を自称するまでも無く大人です。既に到達しているとは、到達しているとあえて言う必要すらないのです。 それの素晴らしさは実際に体現してこそわかるのであると思います。そうでなければ取らぬ狸の皮算用と言うことになってしまいます。 このように、イメージに頼っている間は未熟であると思います。思い浮かべているだけでは、予感しているだけでは、たいした境地には立っていないと私は見ます。実際には一歩も歩いておらずとも、想起や予感はすることができるでしょう。言ってしまえばそういう性質のものです。 そういう意味で、表象(ここではイメージ)へのこだわりを捨て去ると言うのは同意できます。漠然とそこに到達するであろうなと言う予感はあったとしても、いずこかへ向かっているなぁという感想があったとしても、それと歩みの実際とはあまり関係がありません。子供が大人になることを夢見てわくわくしようがしまいが、予感していようがしていまいが、生長がそれを大人にするからです。 同じように、予感ではなく、予想ではなく、歩みが、到達を実現するのだと言えるのでは無いでしょうか。

回答No.7

 No.4です。  成木になっていない苗木のときにも  ★ 自身の歩みの根本はしなやかな『いずこかへ向かう心』であって、それは、表象における〔* 完成した状態とのあいだの隔たりとして捉えられるその〕距離とは直接には関係しないと考えます。  ☆ ということが 言えないのですか?  ★ 内的な安定を得ていると言っても、総体としてはまだ未完成であり、その目的とするところを完全には識知していないわけです。  ☆ の段階において   ★ 『いずこかへ向かう心』  ☆ をわきまえているということは ありえませんか?   ★ 完全に識知していない  ☆ 段階にあるときに   ★ 朧な予感も、〔*その段階としての〕最初期の方にはあってもよいが、歩みが成熟するためにはそれはむしろ捨て去られるべきなのではないかと  ☆ いうふうに判断するのは どこから来ますか? その判断がただしいであろうと判断するのは どこから来ますか?  その判断は  ★ 既に今、ここにおいて<わたし>は到達している、と言うのは自己欺瞞であると思います。言い過ぎと言ってもよいかもしれません。  ☆ という《最初期》においておこなっていませんか?    おそらく入門のころ初心者にあって まったくの未熟者であるがゆえにこそ おぼろな予感が ただしいものとして持たれる。『いずこかへ向かう心』として持たれる。というふうには考えられませんか?  パウロは すでに神との邂逅を果たしています。目が見えなくなるほどの衝撃を受けて イエス・キリストの声を聞いています。(自己申告ですが)。  パウロの言うことは 生涯をかけても生身の人間が完全な存在になることはあり得ないということをすでに前提としています。それでも 神の似像としてその過程において完全な道をあゆむということだと解されます。つねに『いずこかへ向かう心』あるいは 完成した姿の予感があるということだと言えるのでしょう。どうでしょう?

noname#144995
質問者

お礼

一つ目の★について おそらく完成した状態では、しなやかな心、いずこかへ向かう心はもうないのだと思います。 洪水が来たときに、苗木は流されるが立派な成木は踏ん張るように、完成していない状態、いずこかへ向かっている状態と言うのは、退転するかもしれないという危惧があります。 二つ目、三つ目の★について 勿論未完成の時にも、何処かへ向かう心であることを弁えていて、未到達の自覚があるでしょう。 四つ目、五つ目の★について それは歩みの基盤を可能態から実態へと移行した方が、自らに基づいた歩みとなるであろうからです。可能態を潜在的に宿していても、実態が伴わなければやはり自分としてはしっくりこないのです。歩みから、確かな歩みへと移行するために、朧な予感と言うものを捨て去ってもよいのではないかと言うのです。言葉にするとおかしいですが、予感しない予感、ということです。つまるところ予感を捨て去るというのです。 六つ目の★について どんな道でもある程度歩けば自然と初心者ではなくなります。自分が初心者であると思っていて、実際にも初心者である場合は、最初の動機と言うものを忘れるべきではないと思いますし、ある程度熟達しても、初心にかえると言うことはあるでしょう。しかし初心者だからといつまでも甘んじているわけにも行かないのではないでしょうか。既に、今ここにおいて<わたし>は到達しているというのは、あくまで内的にです。実際には到達していないのは、本当です。 初心者、未熟者のときに、朧な予感や何処かへ向かう心といったものをゴールの代わりに見立て目指すことは否定しないですが、いつまでも仮の目標に頼っていてもダメだと思うのです。 パウロについて パウロの神秘体験は詳しく知りませんが、パウロが神に会ったと思うならそれはそれでよいと思います。 パウロと私の違うところは、生涯をかけても生身の人間が完全な存在になることはありえないとしている前提の箇所で、私は、人は完全に生きることができるだろうとしています。この点でパウロと違います。 『何処かへ向かう心』『完成した姿の予感』の続きがあって、それぞれは、『終に到達したという知見』『完成したという知』に変わると思っているのです。 この点では、ブラジュロンさんとも異なるかもしれません。 私の目指しているのは、実際に到着できるゴールのある歩みであるのです。 人は神の写しではなく、最初から最後まで人なのであり、原型を必要としておらず、むしろ自ら一体こっきりの原型(=完成された生き方)を編み出すものではないかと考えています。達人が自ら奥義を編み出すように。 このような感じですが如何でしょうか。

noname#155689
noname#155689
回答No.6

質問の下に貼ってある 人工的で汚らしいイラスト(青空・星空)は 何か意図があるのですか? 質問と関係なくて申し訳ないと思いつつ すごく気になったので。

noname#144995
質問者

お礼

質問の下に張っているのは彩雲という自然現象の写真です。 CUEさんはきっと疲れているのでしょう。

回答No.5

衝撃的だったセリフを共有したいです。 「悟りが目的になってはいけないよ、zakky。悟りは出発。あなた、もう悟っているんだよ。悟っているから体もって、呼吸したり出会ったり出来ているんだよ。今、SUKKIRIしてるの?今、感動してるの?それが出来るあなただよ。」 「成功が目的の人生では、成功できないよ。 幸せが目的の人生では、幸せにはなれないよ。 愛が目的の人生では、愛することも愛されることもできないよ。だって、あなたもう悟ってるんだよ。これ以上、何も要りませ~ん。全てをあなたは持っている。もう愛されているし愛しているし、幸せだし、成功しているんだよ。それが基本。出発。」 「5次元HITOTSUの動きしかないよ、zakky。あなたも無い、私も無い。あなたも出来たり、私も出来たり・・・HITOTSUだけがある世界、HITOTSUで生きる世界。」 「悟りも思い込み。だって、悟りが何であるかを他の人が確認できないんだったら、思い込みと一体なにが違うの?今までの悟りは思い込みと同じレベル。今からの悟りは違うよ、明確に。確認出来る。テスト出来る。今はね、論理とイメージで立証出来るんだよ。だから、誰もが皆、悟れる。悟りが当たり前、悟りは差を取ることだから。」 「学術の致命的な弱点。それは、認識作用を100%無視している点。認識した事によって、認識された側には何の物理的影響が無いと思っているんだ、学術は。それだったら、この宇宙自然をどうやって自分が創造していけるというの?学術は、人間の尊厳性をこの体の範囲に閉じ込めた。人間は、そんなモンじゃない!認識が100%、作用する事を分かった時に、人間の尊厳性が花開く。人間は、自分で宇宙を創っている。人間は、人間であり、神であり、神以上の存在。スゴイよ!」 「私は、日本があったから真理がグローバルスタンダード化する確信があります。この国が無かったら、私も山に篭ったかもしれない。だけど日本があったから。この国が観せてくれたから。真理そのものの国、日本がこのまま終わるハズがない。」 「明確に細胞が誕生してからは、細胞が細胞をコピーするでしょ?それと同じだよ、悟りも。一人が明確に悟ったら、隣の人も必ず悟るハズ。悟りは差を取る事だから。その時代の人、全員が悟らないとその悟りは偽物だよ。」 「乱世が英雄を創ると思いますか?英雄が乱世を創ると思いますか?」 「Final Answer(最終解答)は、ライフスタイルをもって示される。」 「自分なし観る。宇宙の外から観る。1秒を1該倍拡大して観る。」 「広島や長崎の街が、建物も戻って、人が住める様になったからといって、それで良かったと言えるのでしょうか?人間の恥、原子爆弾がもう二度と使われない様に、もう二度と争いや戦争が起きない様にするまでは、ヒロシマ、ナガサキについた傷は癒されないのではないでしょうか?どこか、人間は恒久世界平和を諦めてしまっているのではないでしょうか?人間は素晴らしい存在です。私は必ず日本から、恒久世界平和が実現出来る事を確信しています。」 「悟りにも夜と昼があるんです。今までの悟りは夜の悟り。愛・癒し・平和・・・現実世界に入らなくても良かったんです。お釈迦さまとか老子とか。私は孫子を実践したい。孫子は昼の悟り。敢えて戦いの中に入っていく。人間の現実の中、昼は闘い、その中でも完璧に勝利してしまうのが孫子。もう二度と、戦争が起こらない次元上昇した戦争。戦争の次元上昇をさせたい。それが、悟りの産業化。人が悟ったら、戦争できなくなる。戦争できない人間を大量生産する。全員が悟ったら戦争は終わるよ。」 「今までは真理が活用できなかった。日本はそれを終わりにさせますよ。」 「人類69億人が幸せで生きられる個人と社会は本当に実現可能なのか?私は、可能だ!と確信を持っている人です。」 「泣かなければならない。もう今は泣かなければならない。歴史的な反省とNew Start決断意志で、眠らずに泣かなければならない。破滅の危機に直面している地球と人類の未来のため、悲劇の歴史を終わりにさせ、希望あふれる新しい歴史の始まりを、確信するために・・・あなたとの感動的な出会いを待ちながら。」

noname#144995
質問者

お礼

ご回答有難うございます。一つ解からない表現があったのですが、 >悟りは差を取る事だから。 とはどういう意味でしょうか。

回答No.4

 こんにちは。  はすかいに構えて回答を寄せることをおゆるしください。  ▲ (コリント人への第一の手紙 / 13章 12節 ) ~~~  わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。  しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。  わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。  しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえばこういった《いま・ここなる〈わたし〉の動態》について 質問者さんはどうお考えなのでしょうか?  つまりこのパウロが言おうとしていることは 輝く星は見えない。いや 見ない。道を指し示すイデアも思想もあるようで ない。言ってみれば おぼろげなる予感のみである。といったことではないでしょうか?  表象はむしろ棄てる。といったあゆみ方 これについてどうお考えですか?  ぎゃくに言うと すでにこのいま・ここにおいて《わたし》は 到達している。ただし《わたし》の周りの社会環境が このおのれをも含めて まだそうなってはいない。そしてそこには 存在ということにおいて関係の絶対性がある。こういった条件のもとに人間存在はあるのだというところまで言っているとわたしは思うのですが・・・という問いです。

noname#144995
質問者

補足

ひとまずのお礼として補足欄を使用します。   表象に囚われてはいけないが、ないがしろにもできない、しかし自身の歩みの根本はしなやかな『いずこかへ向かう心』であって、それは、表象における距離とは直接には関係しないと考えます。 喩えば、武道の達人を目指す人があったとしましょう。日に日に強くなっていく様は表象であり目に見えることです。あるいはスランプに陥り上達が止まる事もあるかもしれない。それも表象であり目に見えることです。しかしながら、日に日に強くなることと、奥義を究めることは別であり、あるいはスランプに陥ったからと言って、内的な歩みが滞ったとまでは言えません。しなやかな『いずこかへ向かう心』が、表象における距離とは直接に関係しないというのは、このような意味です。 パウロの言っていることは、部分的には知っているが、全部は知らない。あるいは、枝葉は知っているがその根本を知らない、という事でしょう。喩えば私達はある程度なら、徳とは何かを知っています。それは、徳とは何か、はっきりと言葉で表せるものもあるかもしれないが、おぼろげなイメージ程度しかないものもあるでしょう。しかし徳の源についてはまだ明らかに知ってはいない。パウロの言うその時とは、自らが徳の源たる何某を体現した時の事を、言っているのだと思います。その時には、それを完全に知るであろうと。部分ではなく全てを、枝葉ではなく根本を、鏡ではなく実相を、見ているのだと。 その時とは、パウロ的には神との邂逅という事になるでしょうか。 >☆ たとえばこういった《いま・ここなる〈わたし〉の動態》について 質問者さんはどうお考えなのでしょうか? 一言で言えば甘い、でしょうか。今ここなる動体の本質とは、動いているようであってその実は静かであるのであり、ある種の安定感があります。しかし、内的な安定を得ていると言っても、総体としてはまだ未完成であり、その目的とするところを完全には識知していないわけです。パウロが神との邂逅を果たしていないのは甘いことであり、未到達であるといわざるを得ません。徳についても同じで、自らが徳の有り様を根本から体現していない限りは、内的に徳を身に着けているとしても、それは甘いのです。苗木が、安定感では成木のそれには勝らないようなものです。苗木には成長する可能性がありますが、既に成長した木であると言うわけではないのです。 それは、事実を見れば、誰の目にも明らかになることです。 ただ、朧な予感で歩いているとしても、結果的にそれがその人のモチベーションを保っていることになるなら、朧な予感はあってよいと思います。 表象についても同じで、今それが、表象に実現していようがいまいが、しつつあろうが、いずれでもかまわないというのです。目に見える成果がなければモチベーションもなえるかもしれないが、目に見える成果にこだわってもいけないと。 >表象はむしろ棄てる。といったあゆみ方 これについてどうお考えですか? 表象に囚われないという意味なら同意できます。喩えば練習の間は成果が見えにくくとも、ちゃんと練習できていれば、本番になってその効果がわかるようなものです。今は表象に現れないとしても、その時にはちゃんと練習していたかどうかは、わかることです。 >ぎゃくに言うと すでにこのいま・ここにおいて《わたし》は 到達している、云々・・・という問いです。 既に今、ここにおいて<わたし>は到達している、と言うのは自己欺瞞であると思います。言い過ぎと言ってもよいかもしれません。内的には到達点を確保していますが、それはあくまで可能態です。実際自分自身が一番よくわかっているはずです。それを完全には知ってはいないことを。到達していないことを。その未到達である自己の周りの社会環境は、つまり現実は、それをよく顕している筈です。もし到達しておれば、その到達した事柄に関して周りはくまなく見えるはずです。誰が到達しており、誰が到達していないか、あるいは何処が未開であり、何処が解放されているのか、と言う風に。しかしそれについての実相が明らかに見えない間は、到達してはいないのです。朧ではぜんぜんダメだということです。わかった気になっていることさえありえます。 だからむしろ捨て去るのは可能態の方であるかもしれないと私は思います。喩えば双葉(双葉は種子の面影ですが)が双子植物の成長のごく初期段階にのみ存在するように、可能態も、歩みのごく初期段階にのみ存在するものなのではないかと。 朧な予感も、最初期の方にはあってもよいが、歩みが成熟するためにはそれはむしろ捨て去られるべきなのではないかと。 今はそう考えています。 そういう可能態を脱して初めて、一個人間として成立するのではないかと思います。

noname#155689
noname#155689
回答No.3

> 聖人に会うこと、真実の言葉を聞くこと、後悔しない人生を歩くことを目標にしています。 キンチョールのCMで、松本人志がバスの中で 「パッとせんな~、どっかの誰かが、なんかええ感じにしてくれへんかな~」 と言っているのと一緒ですよね。 > どのような人生を送ってみたいと思われるでしょうか。 私もそんなふうに、他人に依存して無責任に楽しく生きてみたいです。

noname#144995
質問者

お礼

YOUTUBEでご指摘の宣伝を見ました。 まさにとは言いませんが、「パッとせんな~、どっかの誰かが、なんかええ感じにしてくれへんかな~」に近いものです。なんかええ感じにできる人、こういう人はすごいと思います。そういう人を探すうちに、いつの間にか自分もそういう人になってゆくのであると思います。 >私もそんなふうに、他人に依存して無責任に楽しく生きてみたいです。 他人に依存することも、無責任であることも、楽しさとは無関係でしょう。そして、誰か高貴な人を目標にして歩くことは、依存とも無責任とも異なります。 しかし、それは楽しいことであると言えます。素晴らしい人を目指す、そんな人に出会いたい、そんな人になりたい、そういう生き方は楽しいものです。希望があるからです。

回答No.2

貴方はとても純粋な心を持った若者ですね、人生に目標、目的、そして努力、しかし世に有名な聖人は大半が疑わしいと思って間違い無いです、ほんの一握りの人は貴方が言うところの本当の全ったき方なのかも知れませんね!私のおふくろが、言った一言をワタシは心に刻んでいます、=人生の高みも要らないし、どん底も欲しくない、とどん底のときに、まだ中学生のワタシに言いました、今現在ワタシは二児の親になり、ある程度理解し合える妻とおふくろが言った平々凡々より幸せに生きています、経済面はいつも苦しいですが、おふくろは本当に良い考えに行き着いたんだ、そして息子のワタシにその言葉を残して、その意味が40過ぎて理解できました、本当に貴方にとって良い影響あるヒントをくれるのは極身近にすでに居られるのでは無いでしょうか?若いうちに、見聞を広めまがい物に惑わされる事の少ないことをお祈りいたします!

noname#144995
質問者

お礼

ありがとうございます。 私も、伝説の聖人というよりは、その人は、身近なところにポンと居うるのではないかと思います。 幸せに生きているとおっしゃられる回答者参は、素晴らしいと思います。よくあるのは、何処か疑念を抱えて、これでいいのだろうか、これでしあわせなのだろうかと自問する場合だと思うからです。 自分も、沢山ある人生よりも、足りないものがない人生に行き着いてみたいと思います。その方が身軽だと思うからです。

回答No.1

人が生きる目的が、即物的な充足であるか、精神的な 充足であるかによって異なるでしょう。 前者の場合、マラソンで言えばゴールが目的で、走るのは その過程ですが、後者の場合は、走る(感受)が目的で、 ゴールはその経過に過ぎなくなります。 量子論的世界像において、認識される世界の存在性は、 認識される事によって生じているものであり、換言すれば、 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源に まで遡った)必要に他ならないのです。 何か他のものに期待するのは、幻想の類いです。 そんな自己の補完であるはずの存在が、あなたの意志に “ぶつかる”のは、あなたの「意志」の方が、不完全な自己 認識に基づいているための、「自己」矛盾としてです。 (「自由自在」=自らに由(よ)りて自ら在る)

noname#144995
質問者

お礼

ご回答を読んで、目標に縛られないというのも良いなと思いました。 自分が素晴らしいと思っているイメージが、所詮はイメージにすぎないのだとしたら、それはひとまずのかりの目標にはなるが、本物の到達点ではないとも考えられます。それらは幻想であると見て、かりの目標から自由になることは、本当の歩みをなす上で大切なことかもしれないと思いました。

noname#144995
質問者

補足

ありがとうございます。 全ての存在が、自己が存在するための補完であるならば、例えばいまだ見たり聞いたりしたことの無い事柄については、どのように自己を補完しているのでしょうか?或いはそれを認識する術はあるのでしょうか? >何か他のものに期待するのは、幻想の類いです。 自分自身に期待せよと言うことでしょうか。 >そんな自己の補完であるはずの存在が、あなたの意志に “ぶつかる”のは、あなたの「意志」の方が、不完全な自己 認識に基づいているための、「自己」矛盾としてです。 つまり、他人やそのほかの何某の事象に出会って、それらと衝突するのは、それらが自分のニーズを満たしてくれるものであることを知らないためで、本来、自と他があって成立する存在世界なのだから、衝突することなどありえない。何処にいても、何とであったとしても、水を得た魚のように自由自在であるはずだ、と言う感じでしょうか。 文意が巧く汲み取れていなければすいません。

関連するQ&A