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実現すると言うこと

喩えば遠くの国の素晴らしい景勝地の話を聞いたとします。自分も是非行って見てみたいと思い、そしてお金をためて飛行機やバスなどの乗り物に乗って、あるいは途中人に尋ねながら歩くなどして終に着く。この場合は、そこに行きたいという気持ちと、実際に行くと言う行動が伴って初めてその景勝地を拝むことが実現します。 ここに、ある人が理想を持って歩いていても、その理想に実際に到達していることとは異なります。 目指すものと、その目指したものに到達することとの間の隔たりをいかにして人は埋めることができるのでしょうか。人が何某の理想を目指すとき、人はその目指した理想のように行動することが求められ、それを為すことが理想を実現することであると思います。 こんな人は素晴らしいなと感じるような人や言葉に会うこと、あるいは自分はこんな人生を送ってみたいと思えるような人生を実現すること、は、それぞれ、素晴らしさを吟味すること、人や言葉、邂逅について吟味すること、人生について吟味することによって、それぞれのより詳細な像を得、自身が具体的に行為することを可能にし、次第次第に自分の目標とするところに迫ってゆけるでしょう。 質問ですが、皆さんの考える素晴らしいなと感じるような人や言葉とは何でしょうか。 或いは、どのような人生を送ってみたいと思われるでしょうか。 よろしくお願いします。 ちなみに自分は、聖人に会うこと、真実の言葉を聞くこと、後悔しない人生を歩くことを目標にしています。それぞれを吟味すると、聖人とは浄らかな人であり、真実の言葉とは一つの事を言い表している言葉であり、後悔しない人生とは、晴れも曇りも雨もあったが、総じて奇跡的(全てがそれでよかった)な人生であったと言えるような人生のことです。 そして、目を澄ますこと、聡い耳を持つこと、勇気を持って歩くこと、などが、目指すところに近づくことです。

みんなの回答

回答No.19

 いまいちど静観すべきと判断します。そのごあいさつです。  次のご説明は 哲学のものとは思えません。  ★(No.18お礼欄) ~~~~  どうやって真贋を見分ければよいのでしょうか?  それは、彼(彼女)、修行完成者の言動を見れば判るのです。  真実を語るだろうか、これに尽きるのでは無いでしょうか。  つまり何が真実かを聞き分ける耳のある人だけが、その人が完成者であるかどうかを見分けることができるのです。  或いはまた、自らが修行完成者になることです。  自分が真実に通達したものであるならば、真贋を見分けることができるでしょう。  達人が、互いに相手の技量を推し量ることができるようなものです。  あるいは書のわかる人ならば、どの字が達人の書か一目でわかるようなものです。書のわからない人が書を見ても、その真贋は見分けられないでしょう。修行者も同じで、わかる人にはわかるといったようなものでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり今度はまた  ○ 《真実》とは 何か?  ☆ という主題があらたな課題として持ち上がります。それを解決しなければ 何の結論も出せません。出し得ません。  あるいは 書の達人と素人とのあいだに――その《差を取る》というのではなく つまりもともとその差は 基本においては五十歩百歩だと見るからには 達人に対して《完成・完全》という規定は成し得ないという考え方からですが―― 人間の存在を分ける隔たりはないと見ています。  真贋が見分けられること〔およびその差としての序列〕と その到達度合いによって人に序列をつけることとは 別のことです。後者を問題にしています。  後者をそのまま認めるということは 言わば絶対的な階層秩序としてヒエラルキアがあり得ると認めたことになりませんか? なぜなら 《完成者》が 一般的にも存在するという認定を主張しているからです。  完成者なら誰でも ヒエラルキアをつくると言っているのではありません。中にひとつの事例としてでも現われてしまえば それは重大な問題となるという物言いです。《完全人間》を認めたなら そのような人間の完全度に応じた権限関係をつくり上げる組織があり得ても間違いではないと認めたことになるからです。  軍隊のような組織でも その上司の命令に対して絶対服従という決まりは 人間の完全度によって決められたのではなく そのように職務遂行のための権限とその関係構造として仮りに取り決めたものでありましょう。  道を究めたなら ものごとの間に差を取るというよりは もともと 人間存在としての差はないという当たり前の公理を そのまま思惟や行動の基礎に置くことになる。こうは考えられませんか?

noname#144995
質問者

お礼

例えば全ての人が書道を志すわけではありません。武術でも同じです。料理でも同じです。一部の人が、とある道を志し、そして他の人はそれらの道に関しては素人のままです。 求道も同じです。人間とは何か、徳とは何か、真実とは何か、やさしさとは何か、そういった事柄を追及する人が全てではありません。志さない人はそれらに関しては素人のままです。もともと知っている人はよいのです。知らない者が知りたいと思うから求道になるのです。 人間は生まれながらにして平等ですが、人格を完成する人とそうでない人がいるのは本当です。人間存在として差が無くとも、徳をおさめた人とそうでない人とは差があると言わざるを得ません。できた人と不出来な人があるように、成功者と失敗者があるように、それらは厳然とした事実として認めなければならないでしょう。人間皆平等だと、それを言うことは容易いのです。しかし現実には自ら滅びるものと、自らを修して人生を全うするものとがいるのです。怠惰なものと勤勉なものがあるのです。 >もともと 人間存在としての差はないという当たり前の公理を そのまま思惟や行動の基礎に置くことになる。 それはそうでしょう。しかし立場は違うと言われます。医者と患者の立場が違うようにです。人間としては対等でも、立場が違えば振る舞いも変わるでしょう。立場を超えた立場のことを無住と言います。人々は常に何かのあり方をしています。しかし修行者はそれらを越えるよう修行するのです。 仏教においてはブッダと言うのは人間を超えた存在で人では無いと言われます。その点を思えば、私の言っていることはまだ甘い方だと言えるでしょう。 >次のご説明は 哲学のものとは思えません。 ブラジュロンさんがそれほど哲学に詳しい方だとは私も思えません。どういった理由で哲学のものとは思えなかったのでしょうか。哲学的であるかどうか、その基準は何であったのでしょうか。それにもとより、そのような厳密さにはこだわっていないのです。 >○ 《真実》とは 何か? 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。と説かれます。 真実の言葉、真実の振る舞い、真実の想いの現われ、そういうものについに行き着くことが目標だと言っても過言では無いでしょう。 >《完全人間》を認めたなら そのような人間の完全度に応じた権限関係をつくり上げる組織があり得ても間違いではないと認めたことになるからです。 よくわかりません。どうしてこのようなつながりになるのか。ヒエラルキアの問題はおそらくブラジュロンさんの問題であって私の問題では無いでしょう。 しかし、原始仏典には長老という記述があります。長老と言うのはブッダの事を指しているわけですが、ある村に長老がいれば、彼にその村の重大事の決定のアドバイスや、戒律などの指示を仰いでいたのかもしれません。しかしそれでも、ヒエラルキーというほどの構造ができるとは思えません。そしてなぜそんなにヒエラルキーを忌避するのかが良くわかりません。教会の実情は知りませんが、そこらへんに物言いたいのであるとは察します。しかし私に言われてもお門違いは否めないでしょう。修行完成者が尊敬を集めて敬われるのは容易に想像できることです。それによってヒエラルキーが仮にできたとして、だからなんだというのでしょう。何も変わらないでしょう。そんなことは気にせず、自らの道の歩みに専念すればよいのです。

回答No.18

 No.16を承けます。    いくつか論点がまた出来ましたが ひとつに絞ります。  ★ 修行完成者は、文字通り道を完成してあるのであり、強めの慣用句でも何でもなく、ただそうあるという事実言明です。  ☆ 主観において完成したと思うことは自由ですし そのことをほかの人に伝えることも自由です。  その言明が  ★ 事実   ☆ を基にしたものであるかどうかは 一般性(ないし普遍性)において定まるものではないとこちらは言い続けています。  どのように実証あるいは論証しますか?

noname#144995
質問者

お礼

例えばある修行完成者がいるとしましょう。Aさんは彼は本物だといい、Bさんは彼は偽者だと言ったとします。どうやって真贋を見分ければよいのでしょうか? それは、彼(彼女)、修行完成者の言動を見れば判るのです。 真実を語るだろうか、これに尽きるのでは無いでしょうか。 つまり何が真実かを聞き分ける耳のある人だけが、その人が完成者であるかどうかを見分けることができるのです。 或いはまた、自らが修行完成者になることです。 自分が真実に通達したものであるならば、真贋を見分けることができるでしょう。 達人が、互いに相手の技量を推し量ることができるようなものです。 あるいは書のわかる人ならば、どの字が達人の書か一目でわかるようなものです。書のわからない人が書を見ても、その真贋は見分けられないでしょう。修行者も同じで、わかる人にはわかるといったようなものでしょう。 しかしそれでは一般の人は判りにくいとおっしゃるかもしれません。仏の場合には例えば次のような特徴が現れるらしいです。 ・眉間の間に凹みができる。 ・頭に凸ができる。 ・声が響くようになる など、身体的変化がいくつか出てくるようです。一般の人はこれを見分けて仏を供養したと考えられるでしょう。 それに別に、修行完成者が、他人に認められないからといって困ることは無いでしょう。自分はなすべきことを成し遂げたのだから、晴れやかな気持ちでいることでしょう。誰に何を言われようが自分の勝利は覆らないと確信しているでしょう。自信とはそういうもので、論証によって獲得されるものでは無いからです。自ら証するのが、修行完成者であるでしょう。それを認めるか否かは他人の問題であり、彼自身の問題では無いでしょう。 釈尊のように広く認められた有名な修行完成者もいれば、無名の修行完成者もいることでしょう。 ちなみに、私の言っている道が、仏道と同じであるかどうかはわかりませんが。

回答No.17

zakky74でございます。 >差を取り去ると言う意味ですね。なるほど。了解いたしました。ありがとうございました。 悟る事は、差を取ること。その事の意味を問われてお応え致しましたが、確認の意味を込めてお尋ねしたい事がございます。 差を取る・・・という時に、例えば自分と自分以外の差を取る、と言った場合、その差を取る(或いは差を取り去る)とはどういう意味の事を指していたのか、の解釈について、よく誤解が生じます。lightwave8さんはどの様に解釈されたのでしょうか? ・「自分」と「自分以外」の差を完全になくしてしまう事、の意味だったのでしょうか?つまり、自分もなくなり、自分以外もなくなり・・・という事の意味だったのでしょうか? ・「自分」と「自分以外」の差をなくす・・・それは「自分」から「自分以外」までの架け橋を渡し、また「自分以外」から「自分」までの架け橋を渡し、「自分」と「自分以外」の両者を行ったり来たりする・・・という事の意味だったのでしょうか? こうした差を取る・・・の話ひとつを取りましても、受け取り手の判断基準によってかなり曲がって伝わったり、意図していないイメージが伝達(というよりも、元々受け取り手の意識空間の中にあったイメージが誘発)されてしまう事がございますので(その様な経験をlightwave8さんはされた事がありますでしょうか?)、確認をしてみたいなぁと思い、再投稿させて頂きました。 何だか逆質問の形で申し訳ないですが・・・宜しくお願い致します。

noname#144995
質問者

お礼

>・「自分」と「自分以外」の差を完全になくしてしまう事、の意味だったのでしょうか?つまり、自分もなくなり、自分以外もなくなり・・・という事の意味だったのでしょうか? そうではないですし、そういうことはありえないと思います。 >・「自分」と「自分以外」の差をなくす・・・それは「自分」から「自分以外」までの架け橋を渡し、また「自分以外」から「自分」までの架け橋を渡し、「自分」と「自分以外」の両者を行ったり来たりする・・・という事の意味だったのでしょうか? 差をなくすとはおよそ分別にこだわらないの意味だと取りました。両者を行ったり来たりすると言うイメージはありません。 以上のような感じですがいかがでしょうか。

回答No.16

 No.15を承けますが 次のひとつのことをお尋ねすることで あとは同じようなやり取りの繰り返しは避けたいと考えます。  ☆☆(回答No.11) わたしの考えは 初心者と熟達した人を含めたすべての人間は 互いにどんぐりの背比べだというものです。わるい意味を取り去ったかたちでの五十歩百歩ということです。  ☆ もしこのような命題に対してなら どういう見方をなさるのか? こういう切り口になります。  もしこの考えに立つなら   《道をあゆむ人たちの中で すでに実現した人がいたとしても その   ように完全なすがたの人間というものも 相対的な存在のあり方であ   るしかない》  つまり    《人間の存在なりその為すことに関するかぎりでは 道の完成者と自称   や他称しようが それは 未完成の状態にあるとしか考えられない》  となります。さて どうお考えになるでしょうか?  * ヒエラルキアなる聖職者の階層序列は 道の完成者であるというよりは 神の聖霊を 人間のあいだでは最大限にそそがれた存在として法王があるという思想と軌を一にしています。現人神ではないでしょうが 神の地上における代理と言われました。  つまり 人間のあいだでひとりの人間が 扱いとして絶対的であったわけです。   あるいはつまり ブディストのあいだで ゴータマ・ブッダは ただひとりの存在であり 絶対的な扱いを受ける場合があります。  これらを参考にしてどうお考えになるかを おおしえくださるとさいわいです。  ★ ヒエラルキーは作りたい人が作っているというのが実情でしょう。  ☆ ですから 少人数のサークルで道の完成者がいても それは《俗世間を離れたところ》で――もしくは 世間一般の仕事や生活の場においてであっても その《求道》というあり方においてはその俗世間を離れたところで――おこなわれているということで 一般性に欠けてもよいという前提があります。むしろ一般性がありません。  そうではなく ヒエラルキアが《道をあゆむ》そのことと直接にかかわってつくられたとしたら (あ)ひとつにそれは すでに道の完成者がいるという一般性を持たせた想定がなされていることを意味しており また(い)その道の完成者から見て求道の過程における到達度合いに応じて 序列配置やその結果の組織秩序がつくられていることになる。これを問うています。  そうだとすると 神聖にして侵すべからざる現人神の無謬性なる神話ないし幻想が 現実になお作り出される疑いとそのおそれがあると。  ヒエラルキアをわたしが勝手に持ち出したと言われますが 道を歩むことと密接にかかわっていると哲学なら捉えなくてはならないのではないでしょうか。  * 道の完成者という言い方が 一般に行なわれていると言ってもよいのですが それはあくまで《相対的なかたちにとどまるものであり実際は 完成に近くあるという実態》を言うのでしょう。つまり 強めの慣用句としてでしょう。

noname#144995
質問者

お礼

>☆☆(回答No.11) わたしの考えは 初心者と熟達した人を含めたすべての人間は 互いにどんぐりの背比べだというものです。わるい意味を取り去ったかたちでの五十歩百歩ということです。 どういう風かというと、ゼロ歩と一歩くらいの隔たりがあります。あるいは、∞歩と、もう歩く必要が無い、というような違いです。修行者と、修行完成者の違いと言うのはそのような違いです。どんぐりの背比べと言う表現は当てはまらないでしょう。 >あるいはつまり ブディストのあいだで ゴータマ・ブッダは ただひとりの存在であり 絶対的な扱いを受ける場合があります。 釈尊の時代にも、過去七仏と言う伝説があったようです。つまり過去に七人の仏が既に出現していたと言うことを、釈尊は聞いているのです。また、経典中にも釈尊以外に、覚り仏となった人々が出てきます。また釈尊以後、六祖慧能などは仏であると言われています。彼らを絶対視する人もいれば、何人かいる仏たちのうちの一人と見る人もおるでしょう。また、法華経には、過去現在未来において、現れる仏たちの数ははかることもできないが、と表記があります。つまり仏は(実際には稀であるが)たくさんいると言うことになります。 >☆ ですから 少人数のサークルで道の完成者がいても それは《俗世間を離れたところ》で――もしくは 世間一般の仕事や生活の場においてであっても その《求道》というあり方においてはその俗世間を離れたところで――おこなわれているということで 一般性に欠けてもよいという前提があります。むしろ一般性がありません。 一般には求道というのはマイナーでしょう。そして、少人数のサークルなども必要ありません。必要なのは自分のみです。しかし自分のみであるから、誰しもが歩めると言う普遍性はあると言えるでしょう。どこどこに属さなければならない、なにかを信奉しなければならない、などといったことがないからです。また、携えていなければならない聖典などもありません。仏教においても、経典に縁のある人はそれを授持し、という程度です。 >ヒエラルキアをわたしが勝手に持ち出したと言われますが 道を歩むことと密接にかかわっていると哲学なら捉えなくてはならないのではないでしょうか。 別にヒエラルキーは道を歩むことと密接にはかかわっていないでしょう。哲学がどうとかいう問題では無いと思います。社会学的な観点をブラジュロンさんが持つために、そういう発想になるのだと思います。 >* 道の完成者という言い方が 一般に行なわれていると言ってもよいのですが それはあくまで《相対的なかたちにとどまるものであり実際は 完成に近くあるという実態》を言うのでしょう。つまり 強めの慣用句としてでしょう。 道の完成者は道の完成者であり、それ以外の何者でもなく、完成に近いとか言うのでもないでしょう。到達したことと、もう直ぐ到達することでは、意味がまったく異なるからです。人生において為すべきことを為し遂げた人だとも言われます。 仏教では、煩悩が残り無く滅び、という表現があります。煩悩の残りがある場合とは区別されています。 修行完成者は、文字通り道を完成してあるのであり、強めの慣用句でも何でもなく、ただそうあるという事実言明です。

回答No.15

 No.14を承けます。  ★ ( a ) 道においては、ヒエラルキーは存在しません。  ★ ( b ) 完全なる状態に達し得たり、あるいは達することによって、ヒエラルキーが現れるわけではありません。  ☆ ( b )についてわたしは  ☆☆(回答No.14) (〔序列を〕成し得ている場合は 組織として職務を遂行するためにみなで取り決め合った仮りの権限関係としてです)。  ☆ と言っています。そしてその場合が すべてです。そのほかにヒエラルキアがつくられていたなら それは (あ) 一般から見て《完全人間が成った》という場合か (い)それとも そうではなければ ただの人為的な信仰の押しつけによる似非序列であり それの欺瞞である。と言っています。  ところが そもそもヒエラルキアは 聖職者の階層序列を言うわけですが そのクリスチアニズムにおいて 教会という組織を持つのは そうすると 《道》とは別だということでしょうか? 《出世間》の場でもそのいとなみでもない。ゆえに 序列があるということでしょうか?  ★ 教会において、何がすぐれているとされるのか? 広く教えを述べ伝えることができる人なのか、それとも詳しく解説できる人なのか、それとも長年勤めた人なのか、いろいろあると思います。信仰の強度とかそういったものではきっとないでしょう。  ☆ では かのローマ法王は かつて不可謬性を帯びると言われていました。つまりいまその虚構を打ち壊したとしたなら その組織はいっさい《道》とは関係なく ただふつう一般の《世間》における団体だということでしょうか? つまりあとは 幻想が共同に持たれているだけだというご見解でしょうか?  それなら わたしが ローマ教会は欺瞞であるから 自主的に解散するのが 人間的な振る舞いだと言ったとき それに対するあなたのご回答は こうだったのですね? つまり  ○ そもそも教会は いわゆる俗世間から離れた存在では決してなく 世間一般の集団的行動であるにすぎない。もしそのように見られていないとしたら それは 幻想の共同である。その幻想を――少なくとも哲学としては―― たださなくてはいけない。  ☆ こういう趣旨だったのですね? そうなるはずです。つまり  ○ 教会は 道をたずね求め その務めに身をささげる人たちの集まりではなく 決してそうではなく ふつうに組織立って営業をしている団体である。  ☆ とはっきり言うということも大事だとおっしゃったことになる。  それから おそらくブディズム関係のことだと思われますが 次のようにも述べておられます。  ★ ~~~~   また、修行の到達度合いと言うのはなく、あるのは到達したかしないかだけです。内的には到達しているというのはあくまで方便であり、実際にはしたかしないかの二つだけです。  道を歩むのは各自の事柄、とも言います。  誰かに邪魔されたり、あるいは誰かに随順したりすることはないのです。自分のペースで歩き、死ぬよりも前に到達すればよいのです。  死ぬよりも前にと言うことですから、急いではいけないし、緩慢であってもいけません。  それに、到達した人が人の上に立ってヒエラルキーを形成するということもありません。  彼の有り様は出世間であるからです。  ~~~~~~  ☆ もしそうだとすると 《完全な状態に到達したかどうか》は ただその人だけの問題になるようですね。そばに従ういくらかの人たちが その本人の意向を認めることはあるでしょうが それだからと言って 一般性があると言えるわけではなく むしろそう言おうとはしていないということのようですから。   つまり 《完全な存在であるかどうかは 主観の内にとどまるのだが それだけではなく その到達したことをいっさい社会一般という場で主張することはない》 こうなります。  それなら ヒエラルキアがつくられることがないのはとうぜんですが そもそもこのご質問が成り立たなくなるのではないでしょうか?  ★★(趣旨説明欄) ~~~~~  ちなみに自分は、聖人に会うこと、真実の言葉を聞くこと、後悔しない人生を歩くことを目標にしています。それぞれを吟味すると、聖人とは浄らかな人であり、真実の言葉とは一つの事を言い表している言葉であり、後悔しない人生とは、晴れも曇りも雨もあったが、総じて奇跡的(全てがそれでよかった)な人生であったと言えるような人生のことです。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち――ここは 哲学カテゴリだということですから こういう物言いが出ると思っていただかないとなりませんが―― あくまですべては それぞれの主観的な情報(つまりその到達如何)を寄せてくれと言っていることになりかねません。  いえ 精確に言えば 少人数のサークルのようなかたちでその中で 《到達した人》がいるぞという情報があればおしえて欲しい。こういった意味で 質問として成り立ちますが 果たしてそういうことなのでしょうか?  でしたら 勝手に探してくれとなりますが。こんな物言いすら言うのがばかだったとなります。  要するに 道を究めるとは どういうことか。それを哲学として明らかにしたい。という問い求めだったのではないのですか?

noname#144995
質問者

お礼

道と言うのは何処にあっても歩みえるもので、場とは関係ありません。 教会については別にあってかまいません。寺や神宮も同じです。教会、寺、神宮によって道が阻害されることはありえないし、教会、寺、神宮での出会いをきっかけにして道を見出す人もいるかもしれないからです。教会や寺、神宮を特別視することはしません。 自分が道の完成者であるかどうか、別に公表しても構わないでしょう。自他共にそれを認めたところで別に何か変化が起きるわけではないし、他人が認めずともそれが本当ならその事態は覆りません。そのことによってヒエラルキーが生じるわけでもありません。ヒエラルキーは作りたい人が作っているというのが実情でしょう。 この質問は、道を実際に歩くとはどういうことかを尋ねたものです。それで表題が、実現するということ、になっているのです。 私の考える道が幻想であったなら、それは正されてもよいでしょう。 > いえ 精確に言えば 少人数のサークルのようなかたちでその中で 《到達した人》がいるぞという情報があればおしえて欲しい。こういった意味で 質問として成り立ちますが 果たしてそういうことなのでしょうか? そのように質問を受け取られるのは自由です。質問を曲解していますが、その曲解を訂正はいたしません。聖人を知っているならどうぞ挙げて下さい。もちろんこれは聖人に限らず、素晴らしいと思った人でも結構です。cyototuさんは南方熊楠なる人物を挙げてくれました。 >要するに 道を究めるとは どういうことか。それを哲学として明らかにしたい。という問い求めだったのではないのですか? 大体それで質問の主旨は合っていますよ。教会やヒエラルキー云々に話を流したのはブラジュロンさんの方でわたしではありません。ブラジュロンさんがご自身の問題を私の質問に持ち込んだ格好となっています。それは別に構いませんが。

回答No.14

 らいとゑーう゛さん ヒエラルキアは どうして出来たとお思いですか?  聖職者の序列から始まって 階層秩序が到るところでつくられ 要するに《差》が出来上がっているという事態です。  それもこれもみな 《完全なる状態に到達し得るし 到達し得た》と名乗ること・そしてそれを なぜか 認めること。から出たのではないですか?  そうでなければ 序列など成し得ません。(成し得ている場合は 組織として職務を遂行するためにみなで取り決め合った仮りの権限関係としてです)。信仰の度合いにしろ修行の到達度合いにしろ 同じ人間のあいだに差をみようとする心の動きからではないですか?  人間がいくら頑張っても どんぐりの背比べの域を出ません。  そういう趣旨でご見解を述べておられるところも出て来ていますね?  弁明が必要なのではないでしょうか?   いぢわるぢいさんより。

noname#144995
質問者

お礼

喩えば猿の群れでもすぐれた猿がリーダーになります。すぐれたというのが、力が強いことなのか、賢いことなのか、おもいやりがあることなのか、いずれにせよ、猿の社会ではそうなっており、NO1、NO2、NO3・・・と序列が続いて行きます。 人間社会の縦構造もそれと似たようなものではないでしょうか。すぐれた人間が上に立たないと、社会が成り立たないでしょう。 教会において、何がすぐれているとされるのか?広く教えを述べ伝えることができる人なのか、それとも詳しく解説できる人なのか、それとも長年勤めた人なのか、いろいろあると思います。信仰の強度とかそういったものではきっとないでしょう。 道においては、ヒエラルキーは存在しません。道とは海のように広大で果てしなく平らかであると言います。そのような道を(犀の角のように)独り歩くわけですから、社会のしがらみにまとわりつかれることもありません。しがらみ(仕事などに纏わる)は現実としてはあるのですが、道においてはありません。或いはそこ(道)には友がありますが、友とは対等平等なものです。ヒエラルキーにもならなければしがらみにもなりません。 また、修行の到達度合いと言うのはなく、あるのは到達したかしないかだけです。内的には到達しているというのはあくまで方便であり、実際にはしたかしないかの二つだけです。 道を歩むのは各自の事柄、とも言います。 誰かに邪魔されたり、あるいは誰かに随順したりすることはないのです。自分のペースで歩き、死ぬよりも前に到達すればよいのです。 死ぬよりも前にと言うことですから、急いではいけないし、緩慢であってもいけません。 それに、到達した人が人の上に立ってヒエラルキーを形成するということもありません。 彼の有り様は出世間であるからです。 >それもこれもみな 《完全なる状態に到達し得るし 到達し得た》と名乗ること・そしてそれを なぜか 認めること。から出たのではないですか? したがって、完全なる状態に達し得たり、あるいは達することによって、ヒエラルキーが現れるわけではありません。 地上と太陽との間に、その距離を埋めるほどのピラミッドが存在しないようなものです。太陽に到達するのは天文学です。あるいは橋は海峡に架けられるものですが、大洋にはかけられないようなものです。大洋を渡るのは船や飛行機です。同じように道は歩むものであり、ヒエラルキーが道においては何の意味もなさないので、求道者はそれを形成しません。もしヒエラルキーが役に立つというのならそれを形作るでしょう。生存のために猿が群れるように、高度な文明を維持するために人が社会を形作るように。しかし道の歩みと言うものは生存のために歩くのではないのですし、高度な文明を維持するために歩くのでもありません。ただ真摯に自らの究明せんとするところへ向かって歩くわけですから、別に先生や弟子が絶対に必要と言うわけでもないのです。   時に師弟関係と言うのもみられますが、これもヒエラルキーとは異なります。師は弟子の上に立っているわけではないでしょう。いずれ弟子も独立するという前提でその関係は成り立っています。支配構造ではありません。

  • cyototu
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回答No.13

あたしゃ#12さんに大反対だ。悟るって、差を理解出来るようになること。そして、個としての自分を認識できるようになることなんじゃないんかな。   五十にして天命を知り、、、 これだと思うよ。 生物の世界を見ていると、進化とは分岐のこと、即ち、あれではなくてこれになることだ。その反対に、統一化とか普遍化とは退化のことなんだね。対称性が高いほど構造が少ない。構造を手に入れると言うことは対称性を破ることだ。この宇宙の時間は熱死と呼ばれる均一で等方的な対称性の高い状態に向かって流れているのではありませんね。その反対に、分岐を繰り返しながら自発的に次々と対称性を破りながら多様性のある高度な構造が出来上がって来たことを、自然科学は教えてくれています。生物の然り、人類の歴史然り、宇宙の進化然りです。示量変数と呼ばれる物理量の存在を前提としている熱力学では、重力という長距離力が無視出来なくなって来る場合には成り立ちませんので、重力を考慮に入れて考えた場合には我々の宇宙では孤立系でのエントロピー増大の法則という言葉が意味を持ちませんからね。 分岐が進化だと言う、そんな誰も否定出来ない事実がありながら、なんで、若い人はしばしばそれを全く誤解して、その反対に差を取り除き多様性を否定する普遍化に理想郷があるのだと思い込んでしまうのか。まあ、年寄りにはその答えは解っていると思うんだが、若い人には思考の運営の良い練習問題になっていると思いますよ。ご自分で答えを見付けて下さいね。

noname#144995
質問者

お礼

ありがとうございます。 たぶん、#12さんの言いたいことは次のようなことであると思います。 人間はいろんな人がいます。いろんな人種があり、郷があり、ありとあらゆる個性のバリエーションがあります。その色彩は無限に近いでしょう。しかしどうでしょうか、同じ人間ではないか、という事なのではないでしょうか。まぁ当たり前の事ですが、差別問題に関わったりすると、当たり前の事も当たり前に認められてはいないことがままあります。そういう意味では、普遍化に理想があるというのは、誰もがうなづける当たり前の理由ではないでしょうか。個性化の中ではしばしば競走が見られます。淘汰も見られるでしょう。淘汰とは、多様性の否定です。適者生存であり、整理整頓であり、カテゴライズであり、無慈悲に行われるものです。機能不全の者は真っ先に淘汰の対象になります。運がよければ生き残ったりもするのでしょうが、それも運任せです。そのような現状を見て、人間は、自然のままにはさせじと言う意志が起きるものです。 たとえ機能不全であっても人としては対等に付き合うべきだ、こうなるのです。排斥すべきではないと。 それもある種の仲間意識だといえばそうかもしれません。しかし一方で、機能健全だとしても、弱者をおもむろに排斥したり、無慈悲な行いをする者は、非難を受けるのです。けしからん奴だと。人間の道理に反していると。その人間の道理とは多様ではなく一元的であり、こうあるべきという戒律のようなものが存在しています。若者がしばしば普遍化に理想を見出すのは、そういった人類社会の要請を満たすためであるとも見れます。なんでもありのジャングルのような世間では、人間はやっていけないのでしょう。 実存に向けて自分を確立して行くためには、個性化と並列して理想を求める普遍化が必要なのではないでしょうか。 ブルーハーツというバンドに、『青空』と言う楽曲があります。そこには、 「生まれたところや皮膚や目の色で、一体この僕の何がわかるというのだろう」という歌詞があります。 実際には結構わかるのでしょう。自分はモンゴロイドであり、現代日本人であり、年齢はいくつで、性別は何で、これまでどんな人生を歩んできて、どんな器質で、云々と。しかしブルーハーツの言いたいことはそういうことではなく、もっと青くて、基本的なことなのです。俺は俺なんだと、『一個』の人間として俺なんだと。それは、哲学的に言えば、モナド的人間といえるかもしれません。その閉じた性格が、かえって人間を安心させ、己を解放する作用を持っているという点がおもしろいのではないでしょうか。   http://www.youtube.com/watch?v=yXrj2DyJhlQ 宇宙は広大であり人の力では推し量ることができません。そのような中で、予定調和と言う幻想は海に浮かぶ流木のように頼りがないかもしれない。しかし宇宙の謎が人間に都合のよいものだとは決して思えない。ある程度閉じて、物事を限定すると、かえって外に目が開けるものではないかとも思います。 尾崎豊に、次のような歌詞もあります。「僕が僕であるために」、と言う歌の中で、 『僕が僕であるために、勝ち続けなきゃならない』とあります。 勝ち続けなければならないのは、自分が生き残るためです。しかし自分が生き残るのは何のためかと言うところに答えがありません。出世間の道では争わずして勝利をおさめる道が説かれています。そこでは淡々と道を歩いて自らの修行に専念する人がイメージされます。しかし世の人にとっては、そのような生き方は余り共感できないでしょう。むしろ尾崎豊かの歌のほうに共感が寄せられると思います。 http://www.youtube.com/watch?v=uqQ4vvTdvEk 自然界や宇宙の営みは、むしろ答えを与えてくれないと思います。人は、自分でそれを見出さなければならないのでしょう。

noname#144995
質問者

補足

最後の文訂正です。 >自然界や宇宙の営みは、むしろ答えを与えてくれないと思います。人は、自分でそれを見出さなければならないのでしょう。 自然界や宇宙の営みといった事象を観察することによって、何か真理が見出せるかもしれません。

回答No.12

zakky74でございます。 >ご回答有難うございます。一つ解からない表現があったのですが、 >>悟りは差を取る事だから。 >とはどういう意味でしょうか。 悟りとは何でしょうか?という悟りのWhatについて、五感覚脳の認識でも理解出来る表現が、悟りとは差を取る事という表現ですね。 自分と自分以外の差を取る。 神と神以外の差を取る。 自分と神の差を取る。 有と無の差を取る。 色と空の差を取る。 N極とS極の差を取る。 生と死の差を取る。 出発とゴールの差を取る。 粒子と波動を差を取る。 男と女の差を取る。 西洋と東洋の差を取る。 物質と意識の差を取る。 シンプルと複雑の差を取る。 分離とつながりの差を取る。 瞬間と永遠の差を取る。 部分と全体の差を取る。 不変と変化の差を取る。 違いと同じの差を取る。 差を取る・・・という表現は、差を無くすという意味ですね。 お応えになっていますでしょうか?

noname#144995
質問者

お礼

差を取り去ると言う意味ですね。なるほど。了解いたしました。ありがとうございました。

回答No.11

 No.4&7&8です。  これは わたしの見積もり違いでした。  つまり らいとゑーう゛さんは すでに到達しておられるということが分かりました。明言はされていませんが そういう含みでおっしゃっているのだと。  わたしの考えは 初心者と熟達した人を含めたすべての人間は 互いにどんぐりの背比べだというものです。わるい意味を取り去ったかたちでの五十歩百歩ということです。  初心者は 一般に大人を前提しています。でも何なら 子どもを含めてもよいでしょう。やはりすべては 程度問題だという見方です。  以上のような違いだというのが わたしからの締めくくりです。  * わづかに 存在として持つ自然本性――特に自由意志とそれによる判断という能力行為――を善として見たとき この善がすっかり損傷を受け その意味でその損傷としての悪だけになっているといった心のあり方をもし出して来るとしたら その場合には 背比べをするどんぐりたちのあいだでも かなりの格差があると見なければならないでしょう。  でもそのときにも 一夜でその極悪人も ふつうの人間に戻ることがあるとも見ています。  五十歩百歩という表現には そういう意味も含まれます。

noname#144995
質問者

お礼

どうも長らくお付き合いありがとうございました。 議論が円満に収束してよかったです。また機会があればよろしくお願いします。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.10

#9です。 おっと、書き忘れたことがあります。南方熊楠は大学を出ていません。

noname#144995
質問者

お礼

すごいですよね。

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