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日本語での省略の仕組みについての愚問です。

周知の通りに、奈良・平安時代の古典文学を拝見しますと、 主語が変わっていても、主語を省略させた儘で、 連文節を綴っている事例が「地の文」でも頻繁に見られますが、 是が可能になっているのは、 様々な敬語の使い分けが可能になっているから「だけ」なのでしょうか? 拙い愚問で御忙しい中への御邪魔を致しますが、 何卒宜しく御願い申し上げます。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.1

こんにちは。貴方の質問をあちらこちらで目にします。新鮮な視点での質問で、学ぶ姿勢が仄見えて、私も頑張らなければと思います。 さて、質問内容ですが、物語は語る・話すという作業、つまり、受け手(作者)と送り手(読者)が同じ空間にいるという建前の上で作られているからだと思います。狭い空間の中で、受け手と送り手がよく知っている。話の中に出て来る人物についても、両者共に知っている前提で作られています。ですから、主語が省略されてもわかることになります。源氏物語について言えば、作者の紫式部の主人であった一条天皇の中宮彰子のサロンで成立し、そのサロンおよび周辺で読まれることを前提に書かれたとされています。彰子の父である道長が、紫式部に続きはまだできていないのか催促したり、若紫の君と呼びかけたりということがあったようです。 当時は身分の差が激しく、敏感であった時代ですから、現代以上に、言葉による身分標示である敬語で、主語の類推は簡単であったと思います。さらに、接続助詞による主語の変化も感覚的にわかっていたと思います。 *接続助詞の「て」「で」では主語が変わらないが、「ば」「ど」「を」「に」の後に主語が変化すること。 基本は、語るということにあると思います。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

http://okwave.jp/qa/q6732465.html 此方のページにも同類の質問を提出させて頂きましたので、御教授を賜れますと、幸いです。

JidousyaGaisya
質問者

補足

度々の御指導を下さいまして、有り難う御座います。 折角の貴重な機会ですので、そもそもの経緯に触れさせて頂きます。 虚構の登場人物達は作者の世界の「身内」に属していると思われますので、もし読者達が身内に含まれていなければ、その登場人物達への表敬が読者達への表敬を損ねまいか、という謎から是等の質問が出ています。つまり、身内の行為を「謙譲語」で表現する日本的な発想との齟齬が、其処には介在していないのか、という勝手な私見の見直しへの御協力を賜りたかったのです。 でも、仰る通りに、知り合い同士の間での遣り取りに留まっていたのでしたら、ブロードキャストと違いますね。だから、たとえ敬語法の効果に期待して、作者達が連文節内で主語の省略を繰り返しましても、読者達への表敬が損ねられる、という「杞憂」は必要にならないのだろう、と思いました。 こういう解釈は謬見に留まっていますでしょうか?

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