承久の乱後の土御門上皇の土佐配流について
ある小誌を読んでいましたら、「承久の乱」の項で、「後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡に、討幕計画に消極的だった土御門上皇はみずから望んで土佐に配流された。」とありました。
この「みずから望んで」というのに、違和感を感じて、というか、「そんなバカな」という気持ちで、他の資料をいくつか調べました。たとえば、「歴代天皇総覧」では、
「倒幕運動に関与していなかったことから、乱後幕府が後鳥羽、順徳両上皇を配流したのに対して、特段の罪に問われることはなかった。しかし、土御門上皇はこれを潔しとせず、自らの意思で幕府に申し出て承久3年には土佐国へ下ることになった。」
となっており、他の資料でも、趣旨はおおむね同じでしたが、どうも納得しがたいのです。
「罪を犯してもいないのに、罰を与えてください。」というのも変だし、「みずから望んで」ということはあったにしても、土御門上皇には、「都に、このままいたらやばい」というような、あるいは「都を出たい」というような背景なり、事情があったのではないかという邪推が働いたのですが、この私の気持ちは、単なる「邪推」でしょうか???