• ベストアンサー

私の実体

肉体(生命体)の組織力には驚くばかりですが、 その肉体の中をどれほど探したとしても深遠なる心らしきものは見つからないと思われるところ。 いったい私という実体はどこにあるのでしょうか。 実体の場所など、どこでも良いにしても、どうして私はいつでもこの肉体とともにあるのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.18

人は、「見えている空間的広がり」を“外”だと感じ、そこに射影された 自己(感受表面)の内部を“内”だと感じる。 しかし、その見えている世界とは、「自己」の脳内の現象に過ぎない。 あるいは、その「空間的広がり(外的存在)」とは、感受表面における 五感の相関した刺激の蓄積において、光や音といった先行感覚の 刺激パターンに対して触覚や味覚といった生理的感覚が励起される 事によって生じるものに過ぎない。 全ての存在は量子的な不確定性(確率波動)に基づいており、 無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなる。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、潜在的 認識可能性の仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列化= 物体収縮=宇宙膨張)を想定すれば相対的に無の風は光になり、 認識体はその光の向うに、自我仮説の補完としての時空仮説= 宇宙を認識するのだ。

try50
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 前段は寒気がするほどエキサイティングです。 後段はこの世のものとは思えない呪文みたいですが。 さしずめ私という実体は感受表面の化学反応ということになってしまったようですねw またの機会にご教授いただければ幸いです。

その他の回答 (18)

noname#133759
noname#133759
回答No.19

私とは、まるのままの一個の全体であって、身体であるとも言えず、心であるともいえず、また「身体と心」でもない。主体の私(心)は、客体の私(身体)をもっており、これが私のあらゆる所有の原型になっいている。しかし、身体を持つのは、かばんをもつように全く外的なものでもなく全く内的でもない。「である」と「をもつ」の中間にあるような関係である。 そして私という意識は無数の質の異なる感覚の統一の中心であって、これらの感覚を秩序づける原点とも考えられる。感覚には現実的なもの、外部感覚や内部感覚、気分、運動感覚、と非現実的なもの、想像や空想、あるいは記憶といったものがあり、それぞれ、生き生きと鮮明であったり、あるいはぼんやりとしている。また私はいわゆる内部言語のちゅうしんでもあり、内部言語はこの原点において知的な整理を行ったり、目的をたてたり、思考を行ったりする。この最終的な統一が「統覚」と言われるものです。そしてここが一番重要なんですが、この「統覚」こそが私に普遍性の継起を与えるものです。

try50
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

回答No.17

 こうした疑問が起きるというのは、たぶん、  「私」という心は、肉体とは別にある、と思っているから。  あるお坊さんは、この世界、あるいは宇宙の現象を「宇宙の本体は絶対の大心霊体である」と、言ってます。  空間とか時間とか物質とかは大きな精神の“意志”という力の顕われ、というような事を言っているのかと思います。  そうした観点にたってみれば、肉体は物質と精神の共同作業によるもの、なんて受け止め方も出来るのではないでしょうか。  そう思うと、この肉体も私であると云えるのではないでしょうか。  という事は・・・・・  

try50
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >「私」という心は、肉体とは別にある、と思っているから。 そのとおりだと思います。

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.16

>その当然に疑問を感じることがときどきあるので それは、どういうわけで、そのように お感じになりますか? もしくは、 たとえば、どのような場合にでしょうか。

回答No.15

>どうして私はいつでもこの肉体とともにあるのでしょうか。 「いつも」ってことは無いですよ。 この間なんか、もうとっくに死んじまったドイツ人のニーチェって人がワシの肉体に乗り移ったしねぇ。 質問者さんの肉体も、時には過去の偉大な人にお貸しくださいね。

try50
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 そんな偉大な方ならお金を払ってでも一度乗り移って欲しいです。 しかし回答者様の肉体がご無事で何よりでした。

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.14

「この私」ですとか「自分」という意識の よってきたる原因や理由については、大昔から哲学の中心的な探求のテーマだったことでしょう。 >私はいつでもこの肉体とともにあるのでしょうか それは、やはり当然なのだということになりそうです。 目で見るとか耳で聞くとか、味覚ですとか触覚ですとか、そういった、いわゆる五官の働きというものが、「この自分」という意識を培うらしいのです。それなら、生後間もない あかちゃんの自意識が希薄なことや、自他の差異があること、ヒトと機械とでは同じようにはなり得ないという理由も、なんとか納得できそうです。 そういえば、「クオリア」という概念がありましたね。

try50
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >それは、やはり当然なのだということになりそうです。 僕も当然だと普段は思っているのですが、 その当然に疑問を感じることがときどきあるので でも結局分からずじまい

  • freulein
  • ベストアンサー率39% (94/237)
回答No.13

<<どうして私はいつでもこの肉体とともにあるのでしょうか>> 「私という人柄」「私の思い」などは「かつての私」と「今の私」とで大きく相違しているはずです。私の今昔で繋がっている気がするのは、一つのメモリアドレス(ワタシ)の上に「記憶の上書き」を継続してきた記憶方式にあるのでしょう。記憶の内容の問題ではないのでしょう。単なる肉体的な機能のせいでしょうね。多重人格者は複数通りの「私とその今昔」を持っているそうです。 この肉の中に複数の「私」が存在しうることはこの肉の記憶方式によるとして、複数の肉の中に「この私」が存在しない理由も互いの肉の記憶方式によるのでしょう。

try50
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >「かつての私」と「今の私」とで大きく相違しているはずです。 こういうことを以前に考えたことがあったので この一文に反応してしまいました。 確かにそうですが、断絶しているとも思えません。

回答No.12

とても素晴らしい質問であり追求であると思います。もし宜しければ、一体どうしてそんな事を思う様になったのかの背景を伺いたいですね。 どうして私はいつでもこの肉体とともにあるのかについて、大雑把ではありますが、お応えしたいと思います。 まず結論から言えば、心とはこの肉体だけに留まらず、宇宙の外まで行ったり来たりしている状態です。ですが、人間が行っている認識活動によって、私という意識はこの肉体とともにある様に認識している為に、この肉体とともにある様に思ってしまっています。 ですが、思ってしまっているのは人間の認識活動がその様になっているが故の錯覚の様なものですね。意識が、全てではないという事です。心は意識と無意識を行ったり来たりしていますし。 人間の認識活動についてもう少し触れます。 人間五感覚脳の認識にはクセがあります。それが、 1.部分だけを取る 2.違いだけを取る 3.過去のイメージと繋げて取る というものです。 この人間五感覚脳の認識によって、意識現象が生まれますが、意識現象の中で私意識を持ち易いのがこの肉体です。何故ならば、人間五感覚脳の認識によって情報にインプット・アウトプットが起きているのは主に五感覚ですが、その五感覚はこの肉体に張り付いているからです。特に、触覚がイメージし易いでしょうか? それと、自分が移動しても机や電気ストーブやイスは付いてきません。ですので、自分の意思に連動していない他の何かは、自分の意思に連動していない分だけ、切り離された存在であると思い込みやすいですね。 大雑把ではありますが、お応えしたつもりでございます。 いかがでございましょうか?

try50
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 質問を褒めていただきうれしく思います。 質問の背景ですが、 うまく説明できそうにありません。 多分に僕は感覚的に思考しているだけなので そのせいだと思います。

回答No.11

 ANo.8A,No.9,です。  ANo.10にて【「相対無」と「絶対無」との峻別に拘ってみましょう。】とあります。  そのことを、先にhitonomitiという方の無限という質問で回答内容の一部にしました。しかし、管理者が【自分の好きな意見だけを求める質問であるから質問を削除する】ということになりました。  もう一度、同じ事を書き込む気力は持ち合わせませんが、少しだけになりますが引っかかりだけをだしてここの質問者,try50さんの更に補足などで、浅学を投稿したいと存じます。  存在とは人の意識の客体的対象体たる事物や観念があることとその世界と領域を存在といい、その存在と世界並びに領域に時空が始めて生じる。  この世界並びに領域を含む世界並びに領域は人の意識の対象世界でも領域でもない。  人の意識の客体的対象体たる事物や観念がことと、その世界と領域を「相対無」という。  そういう“存在”と“不存在”の世界と領域を含む領域と界は「絶対無」の界である。  「絶対無」の界は「相対無」の界の存在基盤である。  「絶対無」の界は存在の【非、無、不】の観念は存立しえない。  ということの説明を少しくだけて、表明したものでした。  この提言に対して質問者,try50さんが補足などでコメントなさり、私が何かコメントできれば致します。  でも浅学ですので多分無理だと存じますが、一応何かの引っかかりのために。

try50
質問者

お礼

重ね重ねのご回答ありがとうございます。 僕の方が浅学なので、どう補足していいのやら でもこの質問にたくさんの方の関心をいただいていることを嬉しく感じています。

回答No.10

「相対無」と「絶対無」との峻別に拘ってみましょう。

try50
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

回答No.9

 ANo.8  1. 現代科学は過去四千年の間、宗教と哲学の領域であった分野に踏み込んできている。その一つとしてロスにある大学の教授が“意識がどのように物象世界を造っているか”という物理学に関する論文を出している。その中で彼はいう:以下のとおり。  2. 1982年フランスの物理学ティームが量子力学の実験をした。それから判ることが、同じソースからの2量子は異なる場所に放していても不可分に関連し続けた。  3. この2量子間には時空的関係を確認することはできないのに。変化が同時に惹起してきている。この相互に離れている量子客体間の即応的関係はどこにあるのだろうか?  4. 直截的答え:実在という超越領域にあるのだ。そしてその離れたもの同士の即応的活動の認識的命名としては、“非個別的空間性”であろう。  5. 物理学者、Henry Stappはいう:量子間の“非個別的空間性”のmessageは、自然界のfundamental processは時空の外にあり、しかも時空の中の事象を現出している、と。  なお上記は先の紹介の本の、第九章の第二節の中の、第四聖句から第六聖句までの中の脚注の一つです。  この聖句では、ある基本的なものがこの我々の知覚・経験し、行為認識する世界に遍在的に存在し、且つ、それはこの我々の知覚・経験し、行為認識する世界に超越した存在であるという、一見矛盾の哲理を説明するものです。  以上ご参考までに。

try50
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 お礼のみですがお許しください。

関連するQ&A