• 締切済み

 肉体は賢い!でも心は?

 心の‘落とし穴’って自分ではなかなか気がつかないものですね。  この肉体は命を保とうとエネルギーの補給を要求します。心はそれを感知して食事します。  すると肉体は生命の維持に必要なものだけ摂取し不要なものは排泄します。この点に関して心は肉体にまかせっきりです。  排泄できなくて体調を崩したりと、肉体は完璧ではありませんが、そのことは於いといて。  我々(精神)は、この肉体の機能に匹敵するといえるような‘心の活動’を心がけているでしょうか。  感想など伺えれば幸いです。

みんなの回答

  • owlsjp
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回答No.19

> ここに同士あり、と思えたのですが。  結局、真実を極めていくと ひとり になるのです  自分が存在している世界の主導権は自分にあり、他者を操作することで成る革命や改革などは、問題を先送りしにしているだけなのでは >社会的な影響力が無くても、個人の心にこうした事柄に対して、危惧する気持ちは持ち続けてほしく思います。  真に強い 影響力 があるとすればそれは何だと思いますか? 自分の振る舞い行動のみでなく、認識力と世界観を完璧に近づけるように心がけていれば、ただ存在するだけで、働きかけることなくとも(逆に、具体的に働きかけると良くない)その雰囲気や思念の影響力が波動として周囲に伝わっていくでしょう 常に  生きている人間は、誰でも 真実のみを追究せよ この言葉が当てはまるかと

yy8yy8az
質問者

お礼

 思いは同じではないでしょうか。  回答ありがとうございました。

回答No.18

 No.6&12&15&17です。  あぁ yy8yy8az さん 微妙に行き違いがあったと感じました。言いかえると わたしの舌足らずだったようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私の質問やお礼文に、小乗的仏教観を感じられて、‘順序がぎゃく’と指摘している。  このように受け止めてよいでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは yy8yy8az さんのご文章に  ★ 小乗的仏教観   ☆ を感じたということはこれまでなかったところです。感じたのなら すぐさまずけずけと言う人間ですから。  そうではなく ふたつの事柄でお応えします。  ○ そもそもこのご質問に接して初めにそして基本的に思ったことは 微妙な違いになるはづですが    ・ こころ論として扱うよりも 行動(実践)論を立ててその過程で   のこころ論を取り上げる。  のがよいのではないか。  ☆ これがひとつです。だから いぢわる心が出たのだと思います。  もうひとつは もし上座部仏教だとかあるいは〔ここでは触れておられませんが〕宗派だとかの問題ではなく そうではなく  ○ いわゆる宗教は 組織立って行動しており社会全体の文明にまで広がる要素を持っているけれども 個人の信仰としては しかるべきまともな宗教であれば 同じものである。  ○ 基礎はすべて 信仰として同じであるか 互いに通じる内容のものである。  ☆ このことをむしろ言おうとしていました。  たしかに   ☆☆ 順序がぎゃく  ☆ という言い方をすれば 宗派の問題あるいはブッディスム内部のおしえの展開・また批判をつうじての弁証法的な発展 こういった問題だということになるかと思われます。この点で舌足らずでした。  もっと簡単に申せば  ○ いっさいの宗教としての枠をもはやとりはづそう。  ☆ という趣旨です。  ▲ 宗教の精髄は感情にあり。  ☆ とは このいま上にわたしが述べた謂いではないですか。まったくああぢゃこうぢゃ言う必要のないことだと理解します。そこに こころ論も含まれるのではないですか?

yy8yy8az
質問者

お礼

 ‘実践’  まさにここでこうした問いを発するのも‘実践’ではないでしょうか。  bragelonneさんが、ここで‘実践’していることを私もやっているのだと思っていました。  また、‘一切の宗教の枠を取り外そう’と言う訴えも、私のブログ(‘小学生レベルの訴え’のことです)からも感じていただけるのではないかと思います。  でもたぶん、目指す方向が‘微妙’に違うのかもしれません。    ―――――――――――――――――――――――――  私事ですが、明日から早朝の仕事に入るため、時間が取れなくなります。心残りですがこれで締め切りたいと思います。    感謝の気持ちをこめて、回答してくださった皆様に20ポイントを受け取っていただきたく思います。  本当にありがとうございました。

回答No.17

 No.6&12&15です。  yy8yy8az さんとは やり取りがつづくこともないと思っていました。yy8yy8az さんは 相手の発言を受け取り消化なさった上で その受けとめたところをのみ――だいたいは それをのみ――お答えになるので 議論ではなく 意見の言ってみれば優雅な交換をなさっている恰好だと思っていました。  ここに来て やや問答がかみ合いましたね。  ただし今回は わたしのほうからは簡単です。単純です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ダイヤモンドも元は鉱区の中。煩悩の垢を削り取ってこそ、光り輝く宝石と成る。  お互いこういうことを言おうとしているのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 順序がぎゃくとお伝えしたこと それのみです。  ○ いまだ宝石にまで磨かれていない状態において すでに――あたかもまやかしの如くにでも――われは宝石なりと何なら宣言までして 道をあゆむ。  ○ 磨きに磨かれ練りに練られ金剛石になったあかつきに われはブッダとしての実践をするという順序ではない。  ☆ と申し上げている。これのみです。ちがいはです。  * 言うなれば   ○ 煩悩丸出し 頭のてっぺんから爪先まですべて凡夫のまま すでにいまここからただちに しかも《先度他》をおこなう。  ☆ ものです。これでなければ ゴータマくんのおしえは死にます。安楽死でしょうから 気づかないでしょう。或る種のオーピアムだと考えます。ブッディスムはです。  別の見方をしている者の側から見れば ブッディスムは時間かせぎに持ってこいだという意味です。

yy8yy8az
質問者

補足

 私の質問やお礼文に、小乗的仏教観を感じられて、‘順序がぎゃく’と指摘している。  このように受け止めてよいでしょうか。  大乗的仏教観に立って、研鑽しなければ落ちない垢のあることも承知しています。  もっと早い段階で、bragelonneさんの言わんとするところを敏感に感じ取るべきでした。  ☆bragelonneさんの用意した‘土俵’に上れたでしょうか。  

  • corpus
  • ベストアンサー率12% (25/200)
回答No.16

No.4,No8,No.13です。 根拠は存在理由と考えてください。 質問者様は考えないかもしれませんが、 私は、 なぜこの世界が存在するのか、 なぜ私はここにいるのか、 なぜ社会に貢献する必要があるのか、 など、 なぜ~で始まる疑問を自他問わず、問いかけてしまうのです。 この根拠や理由を求めることが欲なのかどうかはわかりません。 多くの人は、なぜ、という疑問を考えていないようなのですが、 私は、ついつい考えてしまうのです。

yy8yy8az
質問者

お礼

 私も‘なぜ’と思うような時期がありました。  でも釈尊やキリストは、その‘なぜ’に答えてくれているのでしょうか(勉強不足です)  そこで、神や仏も答えられない‘なぜ’にこだわるよりも、どのように生きればよいのかを、考えるべきだと思いました。  この宇宙の存在は無い、と想像して見ると、それよりは‘在る’と見たほうが自然のように思えるのです。表現を変えると‘無い’があるからその反対に‘在る’が現象するのだと。こう考えるとそれは、なぜと言うよりも‘必然’であると思えるのです。理由などないと。  そして‘宇宙’が‘現象’しています。無機質の宇宙に地球が誕生しました。  ‘在る’と‘無い’(二面性)が有るように、無機質があれば有機質が有って当然かと思えます。  地球が有機質を誕生させる環境になって、生命が誕生しました。  これも必然と捉えるべきではないでしょうか。  そう考えていくと、‘私’が存在するのも‘理由’があるわけではなく、短に必然の結果であったと思えるのです。  ですから、前に戻ってしまいますが、この世に生を受けてしまったのだから、どのように生きるべきかを考えるのが、よいのではないでしょうか。  回答ありがとうございました。  

回答No.15

 No.6&12です。  ★ (No.12)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  心の欲望も多種多様。その欲望は理性や感情に大きく影響を与えます。  そういった点を自覚(客観視)することで、心の糧を処理する能力をつけなければならないと思っているのですが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さあて ここから bragelonne シェフの料理教室の始まりです。  yy8yy8az さん 順序がぎゃくです。  まづたとえば《自未得度 先度他》です。菩提心というのでしょうか。そういうおこない(実践)が先に来ます。  この《先に他を度する》の《他》は 九十九匹から見捨てられた一匹の状態にあるひとでしょうね。  おのれの責任にてこれを引き受けるかどうかの問題です。  何でも食べるかどうかの問題です。  一たん食べると決めたら 知恵を尽くし知識を尽くしこころを尽くして さらに食べ続けていきます。解決法がみつかるはづです。  この過程で こころはさらに鍛えられていきます。なぜなら ひとは生まれたときの自然本性においてブッダだからです。  順序がぎゃくです。  ★ 心の糧を処理する能力をつけなければならないと  ☆ ではなく 《ブッダとしての実践》が先に来ます。その過程でいよいよこの能力がついて来ます。  だまされたと思って やってみてください。  * こいつは食べられないという場合は 遠慮したほうがよいでしょう。  * 料理教室ではなく 料理の喰い方でした。

yy8yy8az
質問者

お礼

 多少のずれを感じながら。  ダイヤモンドも元は鉱区の中。煩悩の垢を削り取ってこそ、光り輝く宝石と成る。  お互いこういうことを言おうとしているのではないでしょうか。  回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 今回は(いつものことかもしれませんが)bragelonneさんと私との会話の会場(リング、あるいは土俵)が、違うように思います。  明日、ご返事をしたいので、ちょっと待ってください。

noname#100496
noname#100496
回答No.14

前回は、どんな質問に回答してたんでしょうか、覚えていません。なぜ仮の世界かというと、不調和と調和の正反対のものが同居するからです。本当の世界、宇宙の大元は、完全調和の世界です。完全調和の世界が、成長、拡大するには、回りの周辺部の、不調和を調和に変換する必要があります。そこで不調和を調和へ変換する場所として、地球が創造されました。だからシュミレーションの世界です。仏教では、諸行無常の虚像の世界といいます。仮の世界ですから、始めと終わりがあります。マヤ暦では、2012年が終わりだと言われています。この世界が終わると、また仕切り直しになりますから、人の心は解体されて、それぞれ元の世界へ帰ります。自我は脳の世界へ、人は神の子ですから、神の世界へ調和世界へ帰ります。

yy8yy8az
質問者

お礼

 脳を休めること。心を落ち着かせること。  これが、不調和から調和へ変換する鍵となるわけですね。  確かに池の水も、かき回せば泥が舞い上がって濁ってしまいますが、静かに落ち着けば、水は澄んできて水中の様子がよく見えるようになります。  同様に心も落ち着かせれば、物事の良し悪しを正しく判断できるのかもしれません。  回答ありがとうございました。

  • corpus
  • ベストアンサー率12% (25/200)
回答No.13

No.4,No.8です。 心は根拠を求めるという、私の考えは揺らぎません。 ただ、本当に心が正常に働いているのならば、 根拠を求める、ということすらしないと思います。 正常に動いているのならば、心は必要ではないのです。 だから、心の活動が活発なときは、不具合が生じているはずです。 いかがでしょう。

yy8yy8az
質問者

補足

 ‘根拠’を別の言葉で表現してみていただけないでしょうか。    心の活動が活発なときは心は正常ではないと言っているのですね。  たぶん欲望の赴くままに振舞う状態を正常ではない、と言っているのだと思えるのですが。  ちょっと分かりづらいなぁ。

回答No.12

 No.6です。  けっしてふざけたものではありませんが 表現が舌足らずだったかと思います。  ★ 半歩先に思え、と言う言葉の意味が分かりません。  ☆ これは 《隣り人を 自分と同じように 愛せ》のことですが 《同時に同等に》というのはむつかしいことです。それで 一歩とは言わず半歩だけ自分のことより先に 相手のことを思え。です。     ★ ‘非思考’と言うbragelonneさんの表現は‘感情’と言い替えても間違いではないように思います。検討してみてください。  ☆ たしかに《非思考=信仰》は おおむね《感情》に現われるでしょうね。  たとえば男女の愛にしても 或る程度知りあったあとで なお不安があるというとき このひとを愛してもよいかと自問してみると――そのあと愛し続けるにしても別れるにしても―― その答えは自分がいちばんよく知っているはづです。しかもこの知っている答えというのは 感情であり愛そのものの中に見出されるのだと考えます。  その答えに逆らう場合が多いというのが実際であるようにも捉えますが いづれにしても 感性は大事ですし 理性においてよりも 非思考はこの感性においてその具体的なかたちを表わすというふうに わたしも思います。  ただし yy8yy8az さん ひとこと余計なことを申しますが  ○ そのように答えが得られたという場合 それを相手や第三者にも伝える必要があるなら それは 情感や表情・仕草と同時にやはり言葉による表現である。  ☆ と思います。こころであり理性ですね。  つまりなおこの期に及んでいぢわる話ですが  ○ 肉体は 自己運動であり自己組織化の過程ですね。  ○ こころないし精神は みづからの意志で欲する方向を目指します。  ☆ 肉体だけなら 動物のほうが かしこいですし 聖なる生物だとなります。どうでしょう?

yy8yy8az
質問者

お礼

 この身体にとって、なんでも偏りなく食べる、と言うことはとても健康によいと言うことになっています。  身体はとても喜んで益々元気でいられることでしょう。  でも、心の欲するままに過食したり、身体に悪いものを食べれば、処理しきれずに病気になったりします。  肉体も完璧ではありません。  でも心はもっと不完全なのでは。  心にも‘心の病’(恋ではなく)の原因が‘悪いものを食べている’からと気づくために、肉体が持っている‘処理能力’があればラクチンなのに、その役割を理性や感情がしなければなりません。  心の欲望も多種多様。その欲望は理性や感情に大きく影響を与えます。  そういった点を自覚(客観視)することで、心の糧を処理する能力をつけなければならないと思っているのですが。  回答ありがとうございました。  

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.11

> 平和と平等と愛の名のもとに、肉体的にではなく精神的に拷問を与えている母親を見ると、どんな親子関係なのだろうと思い、本当に心が痛むことがあります。  情緒、感情重視の人間関係の欺瞞を嫌い、真の強さと優しさと厳しさに代表されるような本当の父性に助けを求めて泣き叫ぶ子供を見ると、「ああ、これも愛とか調和とかその場での人間関係のみが大切だと他者にも言って強要してた結果か、あるいは自分の都合でメチャクチャやってきて、 強く言ったもの勝ち、勝てば官軍 などという世界観をもって人にも対してきた結果だろうから、しょうがないのかもな」と最近は思うようになり、放っておくことができるようになりましたが。

yy8yy8az
質問者

お礼

 ちょっと待ってください。  この回答は、諦めではないでしょうか。  ここに同士あり、と思えたのですが。  社会的な影響力が無くても、個人の心にこうした事柄に対して、危惧する気持ちは持ち続けてほしく思います。  諦めないでください。 

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.10

>回答No.5に集約されている  結論に至るまでのプロセスをえずに結論から入ってしまい、結果としてほとんどの人にとって理解不能になってしまうのは悪い癖でしょうか。 >父親に手を引かれた子供が、嫌がって母を求めて泣き叫んでいる  具体的にはまさにそのことが言いたかったわけです  しかし、現在は母親が攻撃的になっており、子供を虐待するのはむしろ父親よりも母親のケースのほうが多いように感じます。父親は母親へ、その鬱憤が母親から子へという段階を得ているのでしょうか、路上など公の場で泣き叫んでいる子供を「躾」ているのは母親が多いと思います。私が目撃する限りは。  平和と平等と愛の名のもとに、肉体的にではなく精神的に拷問を与えている母親を見ると、どんな親子関係なのだろうと思い、本当に心が痛むことがあります。

yy8yy8az
質問者

お礼

 全く同感です。  母親の子共への躾は、私もよく目撃しています。  つい最近も、路上に飛び出した幼子を、ヒステリックにしかりつけ、頭を叩き、泣かせている母親を目撃したことがあります。  まだ言い聞かせても分からない幼子だと思えるのに。  こんな人の世になったのも、かの戦争が大きく影響しているように思います。  解答ありがとうございました。