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江戸時代の大名はなぜ駕籠に乗るのですか?

幕末に桜田門外の変など事変が起こる世の中なのになぜ大名は 馬ではなくて駕籠にのるのでしょうか。 そこまでして乗る理由があったのでしょうか? 教えてください。

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回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>馬ではなくて駕籠にのるのでしょうか。そこまでして乗る理由があったのでしょうか? (1)NO3の方の言われるように、「謀反を起こすのではないか」と受け止められないこと。 (2)高貴な人は歩くべきではない、と言う考え方も古くからありました。奈良時代、平安時代の朝廷に仕える人たちも牛車で行き来したくらいですから。また、戦国時代でも、桶狭間の戦いで敗れた今川義元なども駕籠と言うよりも、台座に乗って戦に向かっていますよね。 (3)町人でも、町駕籠に乗れるのは裕福な人で、大名も一種の権威付けで駕籠が定着しました。しかし、小大名などは馬で登城する者もいました。 (よもやま話) (1)大名は格式により、大手門と内桜田門(現:桔梗門)の2つの門から城へ入りました。 (2)それぞれの門の手前の橋には「下馬所」の立て札があり、基本的には、ここで馬から降りたり、駕籠から出て徒歩で入城しました。 (3)やや格式の高い大名や老齢で幕府の許可を受けた大名は、その先の下乗橋の手前にある「下乗所」というところまで駕籠に乗ったまま入ることが許されました。 (4)加賀の前田家だけは「下乗所」でも、一番「下乗橋」に近いところが確保されていました。 (5)御三家は、さらに進んで「中雀門(ちゅうじゃくもん)」まで駕籠を乗り入れました。 千代田城(これも、江戸時代「江戸城」とは呼ばず、「舞鶴城(ぶかくじょう)または「千代田城」と呼び、町人はただ「御城」とよんでいました)の配置図。 http://www.viva-edo.com/edojou.html (6)お供の人数もある程度決まりがありました。しかし、意外と各大名家においてもお供の人数を正確に記した史料は乏しく、一例としては、伊予(現:四国の愛媛県)吉田三万石の伊達家(宇和島伊達家の分家)の記録によれば、文化13(1816)年閏(うるう)8月15日に当主の宗翰(むねとも)の登城の際の人数を見てみると、当時は伊達家も経費節減を強いられて「倹約中」とありますが、士分8人、徒(かち=徒目付を含む)6人、道具持および小者53人、「合計67人」と書かれてあります。そこから推測すると、十万石前後では、上記人数に多少加わるくらいで、多くの大名は50~100人前後だったと考えられます。 (7)広島藩主浅野長勲(ながこと、または、茂勲もちこと、とも呼ばれた。かの有名になった赤穂浅野家の本家)の逸話では、浅野家の本宅(現:霞ヶ関付近)を出た先頭が西ノ丸下馬所に到着したが、最後尾はやっと本宅の門を出たくらいだった、そして、行列を「切り」と称して1~2箇所隙間を空けてやり町人たちが通れるよう配慮した、と言われています。 (8)また、「礼式日」になると、かなりの供回りの数は増えました。 「礼式日」とは、元旦、五節句、八朔(はっさく)などの幕府にとって重要な日を指しますが、月並登城(つきなみとじょう)と言われる月例の登城日には、江戸在中の全大名が総登城します。しかし、大広間(おおひろま)詰、帝鑑間(ていかんのま)詰、柳間(やなぎのま)詰の大名たちは「表大名(おもてだいみょう)」と呼ばれ、以下の「礼式日」にしか登城しませんでした。御三家は、自分が用がある時や礼式日、そして、公方(くぼう)さま(江戸時代、「将軍さま」とは呼ばず「公方さま」または「大樹(たいじゅ)さま」と呼ばれていた)などから諮問があった時だけ登城しました。 良くテレビで「将軍さまの御成り~」などと叫びますが、これは、単なる視聴率を上げるための所業。 「控えの席」は次のサイトで・・・。 http://bakumatu.727.net/iroha/mame-hikaema.htm 「元旦」 元旦・・・これは、もちろん、正月1日。 「五節句」 人日(じんじつ)・・・正月7日 上巳(じょうし)・・・3月3日 端午(たんご)・・・・5月5日 七夕(たなばた)・・・7月7日 重陽(ちょうよう)・・9月9日 「八朔」 八朔(はっさく)・・・8月1日(この日は、家康が初めて江戸へ入府した日で、元旦とならぶ重要な日とされました)。 なお、この「礼式日」では、登城する大名も多くなりますので、御三家や特に許されて城内近くまで駕籠で入れる大名以外は、「下馬所」より手前の城門(鍛冶橋、呉服橋、常盤橋)で下馬ないし駕籠をおりなければなりませんでした。 (9)ここからは、 侍・・・4~5人 草履取りおよび挟箱持・・・各1人 駕籠者(駕籠の乗り入れが許された大名)・・・4人 雨天傘持・・・1人 となり、その他の従者は、どんなに雨が降ろうと雪が降ろうと「下馬所」で待機させられました。 しかし、ゴザをひくことだけは許されており、腕枕で寝る者、チンチロリンの博打にふける者、唄を歌う者等々さまざまなことをして刻を潰しました。 (10)摂家や宮家は「御玄関式台」と呼ばれる玄関まで駕籠ではいれました。また、公家と芝方丈(しばほうじょう=増上寺の最高位の僧)は、「御玄関白洲」と呼ばれる「御玄関式台」よりもやや手前まで駕籠で入りました。 (11)面白いところでは、築地本願寺と浅草本願寺の高僧は、はるか手前で駕籠を降りることとなっていましたが、「旧事諮問録」という本によると、なんと「玄関番」が「そこまで、そこまで」と言いながらも、そのまま「御玄関白洲」まで、逆に、後押しをしてくれたとか。さぞかし、両本願寺からは、玄関番に「多額の?」「心付け」が渡されていたのでしょう。芝方丈並みに扱われたようです。 (12)大名たちの玄関は、と、言うと、これも格式により入り口が違っていました。 御玄関・・・・・正式な玄関で、「表大名」と「溜の間詰大名」。 中之口・・・・・奏者番、寺社奉行などの役職者、役職者ではないが「半役人(はんやくにん)」とされる「雁(がん)の間詰大名」と「菊の間縁側詰大名」。 御納戸口(別名・老中口)・・老中、所司代、大阪城代、若年寄など。 御風呂屋口・・・御三卿とその家老、中奥役職者。 (13)大名が玄関を入ると300人ともいわれる「表坊主衆」がお出迎えをし、坊主たちと懇意にしている大名を、それぞれの部屋へ案内をしました。殿中は複雑な間取りになっているため、一人では自分の詰の間まで行けなかった、と言われています。さらに、部屋を間違えて一歩でも入ってしまうと、お咎めを受けました。明暦3(1657)年に旗本であった八王子千人頭の石坂勘兵衛正俊が殿中を迷い、違う部屋へ足を入れてしまった。「まいるまじき席に入りし越度(おちど)」と処罰され、千人頭の職は一代限りで「躑躅(つつじ)の間詰」から「御納戸前廊下詰」に降格させられた事件があります。 (14)大名行列は家の格によってさまざまに異なりました。特に、道具の一つといわれる槍の飾鞘(かざりさや)は、形や虎皮、ラシャなどの材質で、その家がわかりました。つまり、先頭の槍を見ればひと目で何家の行列かがわかったというわけです。そして、大名行列で「道具」というと「槍」だけのことを指し、弓や鉄砲はそのまま弓、鉄砲といいました。また、「打物(うちもの)」というと長刀(なぎなた)のことを指しました。 (15)大名行列では、必ず、「御道具(=槍)」を持つことが決められていましたが、 三万石以下は1本で、俗に、「1本道具」と称しました。 2本は、三万石以上および十万石以上の大名の嫡子と老中の嫡子。 3本は、薩摩島津家と仙台伊達家。その後、天保6(1835)年越前松平家、嘉永6(1853)年肥後細川家と長門毛利家、安政2(1855)年出羽佐竹家、万延元(1860)年筑前黒田家と肥前鍋島家。 4本は、御三家・・・しかし、「礼式日」のみで、普段は2本でした。 (16)御道具の位置、つまり、徒の前に立つか横に立つか、後ろに立つかも各家によって違っていました。 (17)通常、町中で大名同士の駕籠がすれ違ったりする時は、御道具の数(槍の数)が同じか2本ぐらいであれば、お互いに駕籠の戸を開けて軽く会釈をする程度で、駕籠も止まったりはしませんが、相手が格式が上だったりすると、つまり、こっちが1本で相手が3本、4本だと、わざわざ駕籠から降りて腰を折らなければなりませんでした。「面倒くさい」「カッコ悪い」等々。そこで、各家では御道具の数や駕籠の形などで何々家の駕籠と判断する好事家(こうずか=物知り博士)をつくりましたし、100年後位には「武鑑」なども発刊され、それを頼りに、例えば「向こうから御三家が来た」などと叫ぶと、下級大名の駕籠は慌てて横道にそれて逃げ回りました。 まあ、まだまだ面白い話もありますが、長くなりましたので、この辺で・・・。 少しでも、あなたのお役に立てればと、思います。

porupopo
質問者

お礼

なるほど。よくわかりました。ありがとうございます。

その他の回答 (3)

  • ben1151
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回答No.4

単純に、護衛しやすいからじゃ、ないですか? 馬だったら、弓で、狙われたら、一発でしょ。 井伊直すけ(すいません、うちのパソコンじゃ、出ませんでした)は、きな臭いことに、巻き込まれているのは、当人も、承知していたでしょう。 勇猛で、知られる赤備えの井伊家家臣団は、襲われたときの防御のシュミレーションなども、していたでしょう。 井伊サイドの抜刀が遅れたのは、雪のため、刀にカバーをかけていたからとか・・・。 雪以外の天気だったら、防御できたかもです。

porupopo
質問者

お礼

井伊直弼は文武にとても優れた天才と聞いてます。 もしかしたら駕籠から降りて暗殺を防ぐこともできたかもしれませんね。ありがとうございました。

  • Pinhole-09
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回答No.2

身分を誇示する為です。 大名は格式に応じた立派な駕籠が許され、一般の武士の乗るものとちがいます。   供の人数も決まりがあります。 大名駕籠行列を見ただけで、御三家の駕籠、前田百万石の駕籠、とかわかったのです。 登城には馬でも徒歩でもよいのですが、大勢の供を連れ馬で行くのは、それ謀反だと騒がれかねません。 駕籠登城が定着しきまりになりました。 領内見廻りには、駕籠、馬、お忍びでは少数の供連れの徒歩もありました。

  • oska
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回答No.1

>そこまでして乗る理由があったのでしょうか? 先ず、登城に関して。 江戸城へは大手門、内桜田門と坂下門、西丸大手門から入ります。 が、将軍以外は乗馬のまま城内に入る事が出来ません。 御三家といえども、門前で下馬しなくてはならないのです。 ここで供の家来と別れ、数名の家臣を伴って城内に入ります。 位の低い大名は、籠に乗って城内に入る事も禁止でした。 老中・奉行・御三家並びに前田家・伊井家・保科家・讃岐松平家など位の高い大名のみが籠に乗ったまま城内に入ります。 しかし、門まで馬に乗って、門から籠に乗るのは不便ですよね。 それなら、最初から籠に乗った方が便利です。 当時の馬は、銑鉄をしていませんでした。 馬の脚のサイズに編んだ「藁ぞうり」を湿らせて銑鉄の代わりにしていたのです。 ですから、5キロも進むと馬は爪が割れ歩けなかったようです。 これでは移動手段としては使えません。 乗馬で将軍のお膝もとを走る事は、いらぬ疑いを受ける可能性もあるので遠慮したとの考え方もあります。 伊井直弼の場合ですが、当時の伊井家屋敷は桜田門から濠に沿って500メートル地点にありました。この距離だと、籠で充分です。 余談ですが、門で殿様と別れた家来は、殿様が戻って来るまで門前で待機なんですよ。雨でも雪でも、じーーーっと待つのです。 今も昔も、宮仕えは厳しいですね。